10 エピローグ

 有給をとって釧路湿原に行こう、というのは檜佐の誘いだった。人が少ない時に行きたいから有給なのだそうだ。一人で行って来ればと思ったけど、どうしても私と行きたいのだと彼女は答えた。

 賀西は思いのほか簡単に有給を出してくれた。ソーカーが二人もいなくなって大丈夫なのかと思ったけど、栃木と漆原に代役が務まらないわけじゃない。本人たちも全然寂しがっていなかった。なんだかな。

 交通手段は迷ったけど、檜佐は汽車を推した。鉄道の方が道路より眺めがいいらしい。どうせ天気が悪くなって動けなくなるのは車も汽車も同じだ。

 幸い二日ともよく晴れていた。日曜のうちに釧路まで行って、月曜は目一杯湿原を見て回ろうという計画だった。

 確かに車窓から眺める雪原は壮観だった。あまりに平らなので汽車が走り続けても全然景色が変わらないのだ。空は着色料のように水色で、舞い上がった雪の粉がきらきらと鋭く点滅していた。私たちはボックス席で荷物の上に足を投げ出して景色を眺めていた。これからあの上を歩くのだと思うと少し心が楽しくなった。

 駅に降りる。ジャンパーの前を閉め、リュックサックを背負う。駅前にはまだ小さな人だかりがあったけど、歩き始めるとすぐ二人きりになった。前にも後ろにも轍が伸びているだけだ。痕跡のない雪原を歩くのはさすがに危ないし体力も削られる。だから轍の上を歩く。ちょっと新雪の感触を確かめればそれで十分だ。川辺に近づくとタンチョウたちが白い息を吐きながら踊っていた。実際見ると本当に大きな鳥だ。

「私ね、ずっと言えずにいたんだけど」檜佐は左側の轍を歩きながら言った。

「何?」私は右の轍を歩いていた。

「碧に謝らなくちゃいけないの」

「何を」

「大垣事件のこと」

「なんで。一緒に出かけて私だけ連れ去られたから?」

「それはもう謝ったでしょ?」

「じゃあ、何?」

「私は碧がフィリスを叩きのめしてくれてよかったと思ってるの」

「ふうん」私は少し考えた。「だから、テレビとか、私の注文を聞いてくれたわけね」

「私の名前ね、もともと長浜エリカっていうの」

「長浜?」私はなぜこのタイミングで檜佐が本名を言ったのかピンと来なかった。

「長浜教。フィリスは長浜教の残党」

「あ……」

「長浜は信者の子供を囲って、学校に行かせないで勝手な教育をしてたの。九木崎はちゃんと文科省の承認受けてるでしょ。でもそんなんじゃなくて、一日中読経とかお祈りとか、そんな感じのヤバいやつ」

「確か解体される時に――」

「そう。長浜が解体される時に子供たちは保護されて、その中の一部、特に手に余る一部は九木崎に流れた。私はその中の一人」

「檜佐、手に余るかな」

「教祖の娘って、余るでしょ」

「そういうことか」

「長浜姓って、そういう意味だよ。別に信者がみんなして長浜を名乗るわけじゃないし」

「檜佐は長浜もフィリスも嫌いだったわけだね。娑婆に出てからはね。あ、この娑婆って仏教的な娑婆のことね」

「それが原義でしょ。あれ、でも檜佐、母親と仲いいよね?」

「母さん信者じゃないからね。結婚したの父が教祖になる前だったから。それで解体の時も観察処分ってことになって、でも親戚一同から散々にいびられて、とても鬱屈して、一番口の悪かったおばさんを刺し殺しちゃったの。こう、グサグサっと。全然長浜と無関係の人を殺しちゃったの。それでお縄。私はそれは母の方が全然正しかったって思う。親戚なんかみんな舌を切られて死ねばいいのにって思う。でも一人でとどまってよかったとも言える。二人だったら死刑囚だよ」

「だから私が母親を殺そうとしたところで出てきたんだ。告げ口するタイミングを計ってたね?」

「うん。それに、その時私、碧がフィリスの信者をみんな始末してくれればいいって、思ったの。碧に託してたの。自分ではやりたくないってそんなふうに思ってたんだよ。それが謝らなきゃいけない理由」

「檜佐でも誰かを殺したいなんて思うんだね」

「違うの。死んでほしい、消えてほしいとは思うの――」

「でも自分で殺したいとは思わない。手は汚したくない」

「そう」

「それって卑怯だ。そしてすごく人間的だ。いいよ、檜佐は人間的なままでいなよ。檜佐はきれいなままでいなよ。そして正しいことを人に説きなよ。檜佐と私は違う。それでいいんだ」

「でも、……ごめんなさい」

「別に怒ってない。それに、いまさらだけど、できることならフィリスはもっと徹底的に叩いておくべきだったって、私だってそう思う。子供を親元に返すとか言ってたけど、本当はあの拷問とか手術でほとんど死んでたんだ裏山を掘り返したら百人分近い骨が出てきたんだ。火葬してない、子供の骨だよ」

 それはタリスでリリウムの記録を漁った時に見つけた樺電情報部のレポートに書いてあった。

「鳥葬でしょ。野生動物に食べさせる。長浜もそうだった」

「だと思う。それを末端の信者まで知ってたかどうかわからない。どちらかというと知らなかったんじゃないか、そんな感触だった。でも加担するっていうのは、だいたいにおいて、そういうことだ。やれと言われたことだけやってその意味を知らずにいるってことはそれだけで罪なんだ」

「かわいそうな子供たち」檜佐が呟く。

「でもだからってこれからどうしようとは思わないよ。もう私の出る幕じゃない。情報部がだいぶ絞り上げただろ」

 空気が沈んでしまった。気分転換にもう一度タンチョウの踊りを眺める。私たちは歩きながら話していたけど、視界が広すぎてなかなか見えなくならないのだ。タンチョウの方も飽きずに踊っていた。

「タイミングよく、か」と檜佐。

「ん?」私は振り向いた。

「碧、そう言ったでしょ。私がチューリップで割って入ったこと」

「ああ」

「あれでも少し待ったの。碧が本当にためらわずにやれるならそれでもいいって思ってた。でもそうはならなかった。碧は躊躇った。ためらいがあるなら、その場でそれを超えられるのは勢いだけだよ」

「勢いだけで人を殺すなら、それは止めなければならないってことか」

「そう。それで、どうだったの? 生かしておくべき理由がきちんとあったの?」

「あったよ」

「じゃあ、よかったね」

「むりくり捻り出したこじつけかもしれない」

「殺してたって、きっと殺すべきだった理由をこじつけてたよ。同じ。だから、よかったんだよ」

「腑に落ちないな」

 檜佐はそれ以上何も言わなかった。

 私たちはまたしばらく歩いて森の縁にあるロッジに辿り着いた。

 外で白い息を吐きながら女が一人待っていた。白いジャンパーだった。

 私はリリウムの中で見た女を思い出した。

 待っているのは私の母親だった。

 私は足を止めた。檜佐は私を追い抜いていく。

「檜佐、呼んだね?」

 檜佐は振り返る。彼女が私の母親を呼び寄せたに違いない。

「だって、これ見よがしに住所と連絡先書いた手紙、全部私に押し付けたのは碧だ」

「ああ、最悪の気分だよ」

「会っておきなよ。互いに生きてることを認め合うなりにさ。私は逃げるとか避けるっていうのがすごく碧らしくないと思うんだよ。話したくないとか、どう接していいかわからないとか、そういうふうに思ってるんだとしたら、碧はすごく意気地なしだよ」

「お節介だな」

「わかってる」

「檜佐が勝手に抱いてる私のイメージのために嫌なことをやれって言うんだな?」

「ほら、嫌なんだ」

「嫌じゃない。いいよ。会ってやるよ」

 私は檜佐の横をずんずん通ってずんずん歩いていった。

 面と向かって悪口を言ってやろうという気持ちもなかった。殴ってやろうという気もしなかった。ただ正当なやり方で、私が母親を嫌っているということ、母親が罪を負っていることを意識させたかった。でもどうすればいいのかは見当がつかなかった。

 母親は上機嫌に手を振った。まったく、後ろめたさの一つくらいないのだろうか。

「久しぶりだね」私は数メートル距離を取ったまま無表情に言った。十年ぶりの会話だった。

 母親は私に飛びついて抱きしめた。それは全然予想外の行動だった。ちょっと振りほどきそうになったけどじっと堪えた。

 抱きしめるっていうのは誰にされてもこういう感じのするものなんだろうか。

「大きくなったわね」母親は私の耳元で言った。妙に聞き覚えのある声だった。それがたくさん針のついた釣り糸のように私の古い記憶をいくつも釣り上げた。記憶たちはその時の私の複雑で激しい感情まで一緒に蘇らせた。

 私は急にじめじめした気持ちに押し寄せられて涙を堪えることができなかった。

 瞼の端や鼻先から水滴がぽたぽた落ちていった。

 なぜそんなことになるのか自分でも全然理解できなかった。

 人肌恋しさじゃない。寂しさでもない。

 相手が母親だからこそなのだ。

 恨んでいるのに素直に嫌うことができないから、そういう自分がもどかしくて、かといってそれを怒りに変えることもできないから、きっと涙なのだろう。

「仲直りなんかしたくない。それは変わらない」私は小声で言った。

「うん」母親は頷いた。私の言葉に耐えたのはわかった。

 それでも私は母親を恨み続けるだろう。

 嫌い続けるだろう。

 私が歳をとれば、その分歳をとった母親を。

 私と同い歳だった母親を。

 それは変わらない。

 いつまでも変わらないだろう。

 私が今の自分を肯定するために。

 私が私であり続けるために。

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心水体器:リリウム 前河涼介 @R-Maekawa

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