5.3 押入れ倉庫

 その夜、月夜、世界はほとんど薄明のような明るさを保っている。しかし人も機械も静かに眠っている。容易に目を覚ますことはない。空気はしんと冷めきってあらゆる振動を拒絶している。丸い月の回りに白くぼんやりした輪が浮かんでいる。雲はかすかな破片のようになって漂い、縁を虹色に染められている。私は携帯型の投影器をジャンパーのポケットに入れて押し入れ倉庫へ歩いていく。カセットプレーヤーくらいの箱に投影器とUSBケーブルのリールを仕込んだだけのものだ。間に自作の基盤が挟んであるけど決して複雑なものじゃない。扉のセキュリティコードを打ち込む。これは事前に調べておいた。ピッキングは手でやる。月の光は一連の作業に十分な明かりを提供してくれた。色がわかるほどではなかったが手元にあるものの輪郭ははっきりしていた。しかし倉庫の中は暗かった。まるで内壁に炭を塗ったみたいだった。頭上遠くに天井の梁が見えた。屋根は軒に向かって緩くランセット状に窄まり、その曲面の中間くらいに等間隔に窓が並んでいる。煤や苔で汚れた窓だ。それでも浅く月の光がまっすぐに差し込んで反対側の壁に窓の影を落としていた。窓が変色しているのか差し込んだ光の筋は外で見た月の青白さとは違って真鍮色に見えた。蜂蜜を薄く溶き込んだような色合いだった。その光の筋の中に無数の埃が見えた。空気の対流に任せてふわふわと渦を描いて浮かび、飛び回り、角度によって反射してきらきらと光った。あまりに静かなのでその細い反射光がちりちりと空気を引っ掻く音まで聞こえてきそうだった。

 天井が高いせいでしばらく見上げていると足元がぐらついてだんだん地面が沈み込んでいくような感覚に囚われた。頭を振って視界を水平に戻す。この空間の天井の高さと空気の冷たさはタリスの中にある聖堂に似ている。タリスはここをモデルにあの聖堂を造り上げたのだろうか。それともタリスの聖堂の方が先で、そのイメージを基にこの倉庫が建てられたのだろうか。あるいは聖堂を建てようとしたのに予算不足で大枠しか組み立てられなかったか、もっときちんとしたものを立てる前の習作のような建築ということもありうるかもしれない。色々な可能性を想像した。けれどタリスの方が先だという仮説はどれも現実味に欠けていた。この倉庫はそんなに新しいものではないのだ。タリスなんて影も形もない頃からここに建っていたはずだ。外壁や基礎の朽ち方からして明らかだ。

 私は倉庫の奥へ進んだ。地面はコンクリートの四角いタイルだった。表面の肌理はどちらかというと細かく、水を撒いたら足を滑らせそうな感じがした。下の土が緩いのか一枚一枚のタイルの角度が微妙に異なっていて水平ではなかった。そのせいでタイルの目地や割れ目が広がって、そこにこんもりした苔が窮屈そうに生えていた。

 三十メートルほど奥へ入ったところから神殿の参道の両側に控える甲冑の石像のように肢機が並んでいる。姿は一機一機違っている。頭のあるもの、ないもの、腕のあるもの、上体が固定されているもの、背の低いもの。ヒト型、トリ型、イヌ型。ただ共通しているのは脚があるということ。肢闘はベースが歩行プラットフォームだから車輪や履帯がメインのものは九木崎の研究対象ではない。どの機体もその脚をぴたりと折って地面につけ、やや前に傾いで俯くように静止している。そこには動的なものは何もない。見かけの質感は床のタイルや壁板と全く変わらない。倉庫の冷たい雰囲気に完全に溶け込んでいる。建物の一部になっている。だから石像のように見えるのだろう。そういった石像というのは王の資格に満たない人間が参道を通ろうとすると体中から煤をこぼしながら立ち上がって槍を取り、のしのしと歩いてきて次々にその人間を串刺しにするのだ。彼らは圧倒的な力と速さを兼ね備えている。そこには抵抗する暇もない。そんな感じだった。どうやら私は大丈夫なようだ。

 参道が終わり山積みの目の前まで来た。古い機械が折り重なってできた山だった。ここにあるものはほぼスクラップだ。車で言えばプレス機でぺしゃんこに潰されるのを待っている状態だった。そういった車の死骸が窓ガラスやタイヤや座席を外されているのと同じように、ここにある肢機の死骸も一部は再利用のために操縦席やセンサー類を外され、また一部は脚部と上体に分割されて積まれていた。けれどそれは陵墓や墓石というよりも鉱山を思わせた。山といってもきちんと円錐形に整えられているわけではない。下から見るとシルエットはどちらかというと台形で、その天辺にいくつか飛び出た部分があってピークを成していた。まずはその山の回りを左回りに一周した。山の形を確かめるように、麓の長さを測るように。かなり高く積み上げられているはずだが、窓から入った光はその一部が頂上の機体に掠っているだけだった。この倉庫はそれだけ大きい。

 そして私は目当ての機体を見つける。倉庫の入り口側よりも奥の壁の方に近かった。最下層から二段目、やや内側に脚部の形が見えた。私は立ち止まってその脚をしばらくじっくりと眺めた。口の中が渇いていた。舌で歯の回りを舐める。唾を飲み込むのに喉がくっついて上手くいかなかった。それから土台になっている機体を下から上に向かって眺め、もう一度考えてから登ることにした。

 身軽になるためにジャンパーを脱いで地面のタイルが綺麗か確認してから下に置く。機械油が黒い斑点になってそこらじゅうに滴っていた。手や服を汚さないように気をつける。下になった機体のアルミニウムの躯体は産毛のように埃を纏って、それでいて掴むと妙にしっとりとして冷たかった。油でも浸みているのかと思ったけど指を擦り合わせてもべたついたりしない。手の中で塊になった埃がぱらぱら落ちた。

 ようやく見えていた爪先のところまで来る。たかだか三四メートルの高さまで登るのに体感だが一分以上かかっていた。とにかく登っては来たもののその先に進むのは難しそうだった。手前に積まれた機体の脚部が檻の柱ように目の前に立ち塞がっていて、無理やり通ろうとしても頭か腰が引っ掛かりそうだった。目当ての機体はその内側に埋もれているのだ。それに積み方の安定次第では私の力でも山が崩れる恐れがある。ここで下敷きになったらたとえ奇跡的にガラクタの隙間で一命を取り留めたとしても助けに来てくれる人間がいないだろう。

 私は手前の足の隙間に顔を近づけて内側の様子を観察するのに留めた。懐中電灯を点けて手の届く範囲で色々な角度を照らしてみる。

 何分古い機体だ。何という名前だったか、上ってくる間にしばらく考えていたけれど思い出せなかった。何かしら花の名前から取ったものだ。それは憶えている。でも具体的なところが出てこない。綺麗な見た目によくマッチした気品のある名前だったと思うんだけど……。

 目の届く範囲は一通り確認した。その機体は比較的完全に近い状態で埋もれているようだった。見たところ細かい部品は外されていないし、外板も綺麗に残っている。へこみや亀裂はない。点々と垂れたオイルが懐中電灯の光を反射した。

 体を引き抜いて顔を上げると真っ暗な天井の手前に光の筋が斜めに刺さって、相変わらずその中で埃の粒子が光っていた。

 帰ろう。ふとそう思った。長居してはいけないという感覚が砂場の底に溜まった水のように溢れ出てきた。私は表面の乾いた砂を掘り返してしまったのだ。それは焦りだった。何かから逃げる夢を見ている時の感じに似ていた。追いつかれたところで酷いことをされるとも限らないけれど、とにかく逃げなければならないのだ。早く離れよう。懐中電灯を咥えて手がかりを確かめる。足の置き場を悩んでいる時間が惜しくて、ほとんど腕の力でぶら下がるようにして飛び降りてしまった。ぶら下がった状態の爪先から地面まで二メートルはなかっただろうけど、それでも着地の時にくるぶしがちょっと脛の方へめり込むような感じがした。挫くのとは少し違う。

 確かに痛かったけれど下りてしまうと焦りは忽然と姿を消していた。機体を見上げたところで何の恐怖も感じなかった。ほっと息をついて、何のためにほっとしたのか、その原因が何だったのか考えなければいけないくらいだった。

 懐中電灯を捻って灯りを消す。倉庫の奥の壁まで下がってもう一度山を見上げる。ピークの一つが窓から入った光に少しだけ差し込んでいた。呼吸を抑えて耳を澄ます。遠くに飛行機のエンジン音が聞こえる。戦闘機の編隊だろう。空気の唸りが天井全体から降ってくるようだった。けれどそれは外から来る音だ。エンジン音が消えると倉庫の中は完全に無音になった。無音だ。九木崎の古い肢機はカーベラと同じ蓄電池と電気駆動だから非常に静音性が高い。それでも動いていれば関節モーターの励磁音やラジエータの音くらいはするものだ。

 山を半周して参道に戻る。自分の足音がいやに大きく聞こえる。石像たちはいかにも忠誠心たっぷりに不動を保っていた。煙草を吸いたくなるのを抑えてゆっくり歩く。

 扉を開ける。雪の白さが目に飛び込んできた。眩しいくらいだった。空気の密度がずっと小さいみたいな感じがした。倉庫の内部よりも空気を掻き分ける抵抗が少ないのだ。息も吸いやすかった。木々のざわめきや遠い道路の喧騒も届いた。そうだ、これが外の世界だ。

 目の前の林の中で何かが動く。茂みから茂みへ、幹の陰へ。

 キツネか。

 みっしりと冬毛の生えた大きなキツネだった。三十メートルほど離れている。私の前でまっすぐ立ち止まるとしばらくこちらに顔の正面を向けて、それからまた物陰に入って見えなくなった。それは全体で十秒にも満たないくらいの短い出来事だった。けれどキツネのトウモロコシ色の毛並みやまっすぐこちらを見つめる瞳の赤銅色は私の記憶に焼き付いていた。瞼を瞑るとその暗闇の中にキツネの姿や顔立ちをしっかりと描き出すことができた。

 通用扉の上に半畳くらいの庇が張り出していて、それを支えるワイヤーのような細い柱が倉庫の壁面より外側に立っていた。私はそこに寄りかかって煙草を吸った。急ぐでも引き延ばすでもなく呼吸に合わせて吸った。そしてその一本がなくなったところで寮へ戻ることにした。

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