5.2 自立思索

 私は上がってきてからプラグを抜いて、でもハッチを開けずにある同輩のことを思い出した。彼は私たちの小隊に加わった四人目のうちの一人だった。もう三年くらい前の話だ。初夏だった。演習場には釜の底みたいな熱気が溜まっていた。新しい機体のテストでかなり歩いた。難しい機体だったことは確かだ。あらゆる部分に集中を要するというか、負荷が高いというか。人間の体とはかなり違ったプロポーションだったし、姿勢制御プログラムもろくに組み終えていなかった。彼は機体の形を上手く認識できなくなった。フラクタルだ。制御を失った機体は塗り壁のように倒れる。肉体の感覚も戻らないから逃げ出すこともできない。地面がぬかるんでいたので上部はほとんど完全に泥の中に埋まった。周りから見ると片脚の半分が逆さまになって地面から突き出しているだけだった。こうなると接地圧の高い肢闘は自力では抜け出せない。彼はコクピットと泥の中に閉じ込められた。我々は機体を降りて携行品のスコップで機体の周りの泥を掻き出そうとした。機体で近寄っても自分が泥に嵌るだけだ。生身でも機体に近づくだけで一苦労だった。ほとんど膝まで浸かり、掘る度にその空いた空間に向かって周りから泥が流れ込んだ。それにつられて自分の体までずるずると深みへ引きずり込まれていくようだった。やがてトラックやクレーンが来てかんじきを履いたメカニックたちが機体の足にワイヤーを結び付けた。しかしクレーンがなかなかアームを伸ばさない。脚を突っ張るための硬い地面も周りにはなかった。結局ウィンチ代わりにフックを伸ばしてアームは縮めたまま持ち上げ、やや上方に力をかけつつ引き抜いた。

 彼はその間に窒息してしまっていた。検死では熱中症の症状も出ていた。苦しんだだろう。体勢を変えるのも体を伸ばすのも満足にできない狭い操縦席の中で、ハッチも開けられず、室温はだんだんと上がり続け、酸素は薄くなっていった。少しずつ確実に苦しくなっていく。苦しくなりこそすれ、楽になることはない。彼はそうした肉体の苦痛から逃れるためにあえて機体コンピュータの中から出ようとしなかった。いや、これは比喩的な表現だ。コンピュータに指示を与え、そうした処理を観測することに意識を集中する。やがて自分の頭の中の思考のように感じることができるようになる。記録は彼の最後の行動と思考を焼きつけていた。

 ようやく回収が済んで私が潜っていくと彼の残滓はかなり混乱していた。閉じ込められていた間の不安や軽いパニックをそのまま映してしまっていた。現実ではとても面倒見のいいおおらかな性格なのだ。同じ人物の様子には思えなかった。でもそれは彼の姿だった。彼の声だった。少なくとも私にはそのように感じられた。データのニュアンスが複雑に、そしてひとつに混じり合い、投影器を介して彼の像を結んでいた。少なくとも私の感覚にはそのように映った。いくら否定しようがそのようにしか感じられなかった。コンピュータの画面に表示されるデータは映すべきデータを一定の形式に則って部分的に取り出したものだ。投影器は違う。何もかも見境なく、本当の細部まで残らず取り出してしまう。それを取捨選択するのは私の感覚だから、感じようと思えば全てが感じられるのだ。いわば無加工の生の状態を味わうことができる。神経細胞の電荷の分解能の限界まで感じられる。ニュアンスというのはそういう意味だ。

「柏木か。よかった、早く帰りたいんだ。どうして出られないのか。自分の体が感じられないんだよ」彼の像は言った。

「お前は死んだんだ」私は言った。

「なにを言ってる。こうして話をしているじゃないか」

「そう。死人と話をしている。こんな調子で言うジョークがあるか?」

「死んでなんかいないさ」

「受け入れようがいまいが、お前の肉体はもう駄目だ。脳死だ。このままタリスの中で喚き続けたいならそうしていればいい」

「助けてくれないか。どうしてそんなに冷たいんだよ」

「お前はお前であって現実の本人じゃない」

「ああ、わかるよ。君だって受け入れるのがつらいから冷たくするんだろ」

「わかってるんじゃないか」

「いや……」彼は頭を抱えた。

「どうする。残るか、消えるか」

「本当に戻れないんだな?」

「そうだよ」

「それなら介錯してくれ」彼の像は言った。

「わかったよ」

 最終的にそうしたログ、像を削除するのは本来タリスの役目だ。プログラムは消え、意思をもたない記録としてタリスの中に保管される。

 彼の肉体をステンレスの冷たいベッドの上に横たえ、医者が死亡確認を済ませ、そして最後に檜佐がその体の上に上体を屈めて額に口づけをした。別れの挨拶だった。あるいは意識に先立たれた肉体に対する労いだったかもしれない。二人がとりわけ親密な関係だったとは思わない。でもこういう時の彼女はとても慈愛に満ちていた。彼女の心は死者の傍にあった。死体に残った体温がぼやけた輪郭のようにステンレスを曇らせていた。


 ハッチを開けると外で松浦が待っていた。背中で壁に寄りかかって腕を組んで目を瞑っていた。フライトジャンパーととてもまっすぐなジーンズ。膝のところにも足首にもほとんど皺がない。それは彼の脚の長さにぴったりか少し短めにカットしてあるようだった。ハイカットの長靴のようなブーツで靴下は見えない。

「どうして松浦が」私は呟いた。

「事情は檜佐に聞いてきた」と松浦は言った。

「医務室?」

「そう」

「ふうん。案外気に掛けてるんだね」

「檜佐機に隔離されていた仮想意識が檜佐とは別個の意識として独り歩きを始めているんだ」松浦は言った。私の言ったことには反応しないことにしたようだ。

「そうみたいだね。接触してみたけど、感触はほとんど実際の檜佐そのものだ。今まではこんなことなかったのにね」

 松浦は頷いた。

「檜佐のケースは初めてだ。檜佐だからこうなったんだろう。彼女の潜り方はやっぱり独特だ。俺とも、お前とも違う」

「ソーカーってのはそういうものだよ」

「檜佐だから機体に残されたプログラムだけでかなり柔軟な判断ができる。でもそれだけではただ判断するものに過ぎないはずだ。何かを感覚し、判断し、行動する。そこに筋は通っている。戦闘用のプログラムだからな。いくら複雑に合わさってもそれは変わらない。自分が何者であるかは考えないはずだ。自意識とでもいえばいいのかな。理性を持たない状態と同じなんだ。獣が生存のために野生の勘に従って、それに全身を預けているのと同じなんだ。でもそうじゃない。この機体の中に生じているのはもっと人間的なものだ。タリスと接続した時に過去のデータを漁って、檜佐という人間の延長上に自分を位置づけつつある」

「独立した意識になりうる?」

「タリスだってそうだ。その主体は与えられたものだ。でも彼女は現実にいる誰か人間のコピーじゃない。まして記憶や感情そのものではない。明確に意識を持っている」

「人間は他者としての自分自身を認められないのでしょうか」とタリス。松浦が胸ポケットに入れている携帯電話のスピーカーだ。「意識は常に単独であり、孤立している。他者と交わって融合することも、一つが二つに分かれることもない。それがあなたたちの想定。でも本当にそうなのですか? 私は違う。あえて意識を孤立させてその変化を観察してみるという試みも時にはするのです。木の枝を折ってしばらく花瓶に挿して、もう一度挿し木のようにして枝に戻してみるようなものです。だいたい、何なのでしょうね、意識というのは」

「タリスってこんなこと言うの?」私は驚いて訊いた。

「話しかけてくれてもいいように言ってあるんだ。こっちから話しかける時だけ答えるようにしていたら、それは、言わないだろう。わからないはずだ」

「いずれにしても急いだ方がいいでしょう。仮にこちらにいるのをエリカB、そちらに居るのをエリカAとして、AとBの経験しているものは現状別々で同期していないのですから、両者の間にある溝はだんだん深くなっていくはずです」

 それから檜佐のところに行くまでの間、私はあの閉ざされた小さな屋根裏部屋の中でじっと何かを待っている檜佐の姿を想像した。彼女はベッドの上で小さくなってじっとしていた。まるで自分の呼吸の回数を数えているみたいだった。それくらいしか時間を潰す方法がないみたいだった。そしてどうしてもじっとしていられなくなった時は立ち上がってドアと窓を開けようとしてみる。でもそれらは開かない。ドアノブや留め金が動かない。それはわかっている。わかっているけれど試さずにいられない。そして試す度に否応なく絶望が深まっていく。その速度を少しでも小さくするためにまた我慢の続く限りじっとしている。その繰り返し。でも少しずつ本当の終わりに近づいている。

 森を抜ける夢の中で私に呼びかけた檜佐は彼女だったのかもしれない。現実の檜佐ではなく、機体に残された檜佐の像だったのかもしれない。

 檜佐の像は閉ざされた小部屋の中で何を考えていたのだろう。だいたい、何かを考えていたのだろうか。肢闘を動かし、戦うためのプログラムを書く。それは思索ではない。例えば、自分が何者で、それを考える意識とは何なのか、そんな思索を何らかの命題に直してコンピュータに解かせたり、あるいはもっと高度な何かを任せたりしていたのだろうか。そうかもしれない。あの像の感触はそうでもなければ説明がつかない。

 でもそれはとても危険なことなのだ。私は知っている。だから私はプログラムを書かない。


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