フリーになれない 後編

 ——頭が割れそうだ。

 まぶたを開けるどころか、考えることすら面倒くさい。胃と喉奥を丸洗いしたくなるほどの深酒をしてしまったことは想像に難くないのに、記憶がない。

 糸を辿る。

 放送を終えて週末、茉里に気持ちよく褒められたあと、最悪な上層部の判断を耳にした。神谷結衣の一件だ。

 あの女がフリーになる。そのせいで局が混乱して、後任に挙がらないことに腹が立ってたら本人とばったり出会ってしまって。

 その後はたしか、居酒屋に誘われて飲んでいるうちに。


 ——あの飲み会で酔い潰れてしまった?


 ぴくりと閉ざしていたまぶたが動いた。

 何度記憶を辿っても、そこから先のことは覚えていない。


 ——じゃあ、私はいまどこに?


 ようやく皮膚感覚に意識が向かう。何も身につけていない。冷房対策のサマーカーディガンもジル・スチュアートも、胸と腰を締め付けていたものすらも。

 肌に伝うのはノリの効いたシーツ。クッション性に飛んだベッド。自宅じゃここまで沈み込まないし、そもそもベッドシーツ派じゃない。


 ——まさか。


 恐る恐る手探りする。シーツの果てに手を伸ばして指先は止まった。滑らかでそれでいて温かく柔らかいもの。まるで人肌のような。

 人肌のような? 人肌以外に何がある。

 嫌な予感が、わずかに残る下半身の違和感を強烈にする。痛くて、かゆい。恐ろしい想像は風船のようにむくむくと膨らむばかりで。


「いっ……!?」


 咄嗟に変な声を発してしまったのは、開けたくもないまぶたを開けて、知りたくもない現実を知ってしまったからだった。

 神谷結衣が、隣で寝息を立てている。

 シーツからはみ出たデコルテは、暖色の照明の中でくっきりした陰影を見せている。

 実はオフショルを着ているのかもしれない。だから肩口があらわになっているのでは。そんな淡い期待は、シーツをめくった瞬間ぶち壊された。


「ちょっと待ってよ……。何してんの? よりによって相手がこれ!?」


 茉里がよく見せてくる、ヤフーニュースの見出しが脳裏をよぎった。


 ——瑞テレ神谷・柏木、社内恋愛か


 ベッドサイドに脱ぎ散らかされたふたり分の衣服が、いかにもガッついて互いにむさぼりあった証のようで、自分で自分が信じられない。

 なかったことにするしかない。衣類の山から下着を探り当てたところで手首を掴まれた。


「可愛かったよ、柏木さん」


 顔の半分を枕に埋めたまま、結衣はわずかに微笑んでいる。まるで行為があったかのように満足げに、スマホを見せてきた。

 二十数年間、毎朝鏡の前で出会う女のあられもない姿。こんな撮られ方をして——しかもカメラに目線までくれて——いるのに、数時間前の記憶はおぼろげだ。証拠は身体に残る違和感だけだし、聞き慣れない吐息混じりの声が自分のものだとは到底思えない。


「……フェイクムービーですよね? 顔だけすげ替える、趣味の悪い冗談」

「違うよ。私と、柏木さん」


 事もなげに結衣は返してきた。

 仮にフェイクだったとしても流出してしまえばスキャンダルだ。清楚で固めてきたイメージは瞬時に瓦解する。


「消して。今すぐ」

「可愛いのに。覚えてない?」


 何ひとつ悪いことはしていない。さも友達にでも話すような態度で結衣は身体を起こした。

 あの画角——結衣を見上げるような体勢。屈辱的だが——で撮られていれば嫌というほど目にしたはずのセミロングも、首筋から肩への細さも、腰へかけての肉付きにも覚えはない。


「……やってない。フェイクでしょ」

「無理もないかも。すごく酔ってたもんね」


 続いて見せてきた動画は顔面のアップだ。

 結衣の指を、綾乃としか思えない女が従順に舐めている。


「柏木さん、甘えんぼで可愛かったな」


 勝ち誇ったように微笑む結衣に返す言葉はなかった。

 指を舐める。そういう悪癖があることは綾乃自身よく分かっていた。充分すぎる証拠だ。

 隠していた癖がバレた。その恥ずかしさなんかよりも、酩酊した人間の痴態を撮影する、結衣の悪趣味さに鳥肌が立つ。


「ドン引き」

「あ、もしかして私は好みじゃない?」


 大嫌いに決まっているけれど、今さらどうでもいいことだ。撮られてしまった以上、女とヤった女という事実が残るだけだ。

 そしてその事実は、綾乃を脅すために使われる。


「そんなに私が憎い? 発つ鳥なら後を濁さないで」

「だからフリーは誤報なんだよ。あと、憎いとかでもなくて」

「意味わかんないこと言わないで!」


 スマホをひったくろうとした途端、結衣に抱きしめられる。

 他人の温もり、そして匂い。起こったことなんて何も覚えていないのに、匂いにだけは覚えがあった。シャンプーか香水か柔軟剤かわからないそれが、妙に脳裏にこびりつく。


「この動画があれば、フリーにならずに済むんだよ……」

「だったら私を潰して局に残ろうってハラ!?」

「そうじゃなくてね、ええっと……」


 抱きしめられて胸元が苦しかった。脱出しようと身をよじっても、アラサーにしては艶やかな肌が糊でもついているのかと疑うほど密着してくる。

 生温かい吐息が耳元を撫ぜた。声が震えている。


「潰したいのは、スキャンダルなの。スキャンダルにはスキャンダルをぶつければ、なかったことにできないかな……?」


 意味がわからない。この女はアホなのか?


「できるワケねーだろ!?」

「できるよっ!」


 耳元だというのに結衣は思いきり叫んだ。キーンと、鼓膜が痺れた後に、逃げられないよういっそう強く抱きしめて結衣が続ける。


「あのフリーのニュースはね? 私がフリーって言ったのは、恋人とか結婚の予定がないフリーって意味なの。フリーアナのフリーじゃないの……!」

「なんなのよ、それ! 分かるように説明して!」


 しどろもどろで行ったり来たりする結衣の説明は、まるで要領を得なかった。

 分かったのは、結衣は記者の取材を受けたこと。《女性の働き方》に関する特集だったようで「セカンドキャリアは考えていらっしゃいますか?」と質問されたらしい。要するに仕事を続けていくか、アナウンサーを辞めて別業種に挑むかという話だ。

 だが、結衣はどういう訳だか質問の意図を勘違いしてしまった。


「セカンドキャリアとか考えてないからね、言ったの。フリーです、って」

「バカじゃないの!? そんなの独立するって取られるに決まってんじゃない!」

「訂正したんだよ? したんだけどね?」


 今こうしてわたわた慌てているように、神谷結衣はアドリブに弱い。バラエティや看板番組で活躍できるのは、アドリブでテンパった姿をイジってもらえるからだ。芸人しかり、アリスにしかり。

 だが結果、記者の早合点なのか悪意からなのか、フリー報道だけが先に世に出てしまった。そのつもりなどまるでないにも関わらず。


「……というワケなの。だから協力——」

「するワケねーだろがァッ!?」


 誤報の件は——理解しようとすると頭が痛むが——綾乃にも理解はできた。問題は、その後の行動だ。納得してはいそうですかと協力なんてできるワケもない。そもそも協力したくない。

 結衣を引き剥がしてベッドに押さえつけた。


「分かってんの? こんなモン流せばアナウンサー生命終わりよ、アンタも私も!」

「でも、フリー報道はなかったことにできるよね、インパクトで……」


 開いた口が塞がらなかった。

 アドリブ以上に、神谷結衣は頭も弱かった。


「名案だよね? 不倫じゃないし、クビにはならないよ?」

「局に居づらくなるんだからおんなじよ! だいたいなんで私!? アリスでいいでしょ!?」

「えー、柏木さんがいい……」

「なんでよ!?」

「好きだから」


 頭に血が昇って、毛先から吹き出すような気分だった。


「ふざッけんじゃないわ!」

「ホントだよ? ホントに柏木さんのこと好きだし……」

「意味不明!」


 納得なんてできるはずもないが、どうやらこの女は本気で、フリー報道を動画で潰そうと思っている。

 ちょっと考えれば逆効果どころか自殺行為だと簡単に分かりそうなものなのにだ。それも意味不明な告白つき。

 頭の弱さとアドリブの弱さが致命的だ。このバカを捨て置く訳にはいかない。


「動画は消す。タレコミも許さない」

「そ、それじゃ私はどうなるの……?」

「局辞めて、セントフォースにでも行け」

「やだ〜! フリーになりたくないよぉ〜!」


 子どもみたいに泣き叫ぶ結衣を蹴っ飛ばして、カメラロールに残る写真も動画もすべてを削除した。身の毛もよだつサムネだらけで辟易するが、証拠と思しきものは隠滅する。まだ油断はできない。今の世の中、ボタンひとつでアップロードができる時代だ。


「他には? どこにも送ってない?」

「お、送ってないよ?」


 結衣の目が泳いでいた。目は口ほどにモノを言う。


「記者に送ったとか言ったらどうなるか分かってる……?」


 そうなれば万事休すだ。できることなど他人の空似と言い張るか、このバカを始末する他ない。

 首を絞め、結衣を見下ろす。目には涙、苦悶の表情を浮かべる結衣の顔面はどこまでも綺麗で腹が立つ。

 結局、嫉妬しているのは綾乃の方だ。人気では上かもしれないが、実力や天運、周囲からの期待。そして容姿で敵わない。

 結衣の顔色が悪くなっていた。殺してしまったらアナウンサー生命どころか人生が終わる。絞め落とそうとしていた両手を離し、荒い呼吸を整えて結衣が何か言い出すのを待つ。


「……私の、パソコンに送った」


 やっぱり。徹底的に始末しなければいけない。データのみならずパソコンごと、処分業者に頼んで——いや、なんならこの手で物理的にぶっ壊さないと気が済まない。


「どこ。持ってきて。ぶっ壊す」

「待って、じゃあ提案」

「聞かない」

「言うこと聞かないと、記者に送るよ……?」


 立場が逆転した。元より弱味を握った結衣のほうが有利なのだ。当然ながら綾乃は、動画が流出したって構わない常軌を逸した結衣とは違う。


「送ったら殺す」

「なら、送らない代わりに、言うこと聞いて?」


 局や警察に訴えれば結衣を社会的に抹殺できるだろうけれど、運の悪いことにこの女は頭が弱いのだ。無視したら何をしでかすか分からない。

 綾乃に打てる手立てはなかった。フェイクだろうが動画が世に出たら一巻の終わりだ。

 諦めて、ベッドに横たわった。不安げな顔で覗き込んでくる結衣を睨みつけて指示らしきものを待つ。


「何させる気?」

「動画の代わりになるようなスキャンダルを起こしてほしいの。私のフリー報道をなかったことにできるような……」

「そんなモンじゃ潰せないって言ってんでしょ!」

「大丈夫、簡単だから。ね?」


 何が「ね?」だ。甘えてみせたって立派な恐喝なのに、当の本人はけろりと微笑んでいる。

 もはや綾乃に逃げ場はない。完全に捕まってしまった。神谷結衣という名の不思議ちゃんサイコパスに。


「……一応聞く。何?」

「それはね……」


 *


 綾乃の一週間は、大多数のサラリーマン同様月曜から始まる。

 数日後の放送で使うVのロケに始まり、別社屋でのレギュラー番組のバラエティ収録。汐留本社に出社するのは夕方の生放送が始まる1時間前だ。その辺の芸能人より立て込んでいるが、忙しさは人気のバロメーター。この日も肩で風を切って歩き、報道セットの中でお堅いニュースを読み、大きなミスなく放送を終えた。

 ここまでは普段通り。


「お疲れさまです、先輩! 今日もバッチリでしたねー!」

「ありがと、茉里ちゃん」


 そして普段通り、茉里とともに休憩スペースへ向かいながらどうでもいいことを口にしあう。茉里の推しアイドルのアルバム発売が決まったとか、彼女に会える音楽チームがうらやましいだとか、綾乃の番組にも宣伝で出演しないかなとか、他愛もない話ばかり。


「先輩、聞いてます?」

「ん、ああ。聞いてる。何?」

「いやいや聞いてないやつですよ、それー。推しの話してたんです! 布教!」

「《ピアニッシモ》でしょ? 聞いてる聞いてる」


 普段なら茉里の話くらい簡単に聞き流せるのに、今の綾乃はそれどころではなかった。スタジオ、廊下、エレベーターホール。あらゆる場所で、とある女を探している。


「今日の先輩、そわそわしてません? 誰かと待ち合わせですか?」


 軽薄なくせに、茉里は妙なところで鋭かった。一方的に憧れられるのは気持ちがいいけれど、監視されるのもそれはそれで困る。

 もちろん、真相など誰にも話せない。

 とある女とした約束があるなんて。


「お疲れさま、


 背後からの声に背筋が凍った。

 局内で綾乃を呼び捨てにする者など、彼氏面した男性社員たちだけだ。牽制目的だか征服欲だかに必死なしょうもない連中など、相手にするだけアホらしくて無視している。

 だけど、この女から呼ばれたら無視はできない。


「ああ、ありがとう……。……」


 振り向いて、神谷結衣と微笑み合う。120%真っ赤なフェイク、カメラの前なんて比じゃないくらいの営業スマイルで。


「お疲れさまです、神谷さん」

「椎名さんもお疲れさま」


 茉里はそれ以上、口を挟んでこなかった。

 続く言葉を手繰っていると、結衣は距離を詰めてきた。そして薬指を——あの夜、舐めてしまったときのように——視線の先でくるくる回して、唇に触れ合わせる。


「綾乃。今日のリップ、何?」

「……シャネルの」

「ココフラッシュね。何番?」

「84」

「正解。ちゃんと覚えてたね。それ、似合ってるよ」


 これが、神谷結衣が柏木綾乃に注文したこと。


「私好みにしてあげるからね、綾乃」


 結衣はさも天使のように柔らかく微笑む一方で、視界の端では茉里が硬直していた。

 茉里はご主人様に尻尾を振り乱す小型犬のようでいて、ゴシップ大好きかつ賢い。ただならぬ気配を察知するくらいはワケなくやってしまう。

 たとえそれが、くだらない男たちの牽制や征服欲なんて子どものお遊びに思えるほどのスキャンダルで、正真正銘の真っ赤なフェイクでも。


「結衣の好み、ね」

「私、気に入った人は自分色に染めたい方なの。そういう女はいや?」


 リップは綾乃が自分で買ったものだ。なのに結衣はそれとなく会話を誘導してくる。まるで自分が今の綾乃を作り上げたと観客にアピールするように。


「私に似合えばね」

「なら安心だね。綾乃は美人だもの」


 くすりとはにかみながら、結衣は続ける。


「もっと近くで見せて?」

「もう充分でしょ」

「まだ」


 顔が近い。どう考えても同僚の距離感でないことは、隣に立つ茉里はもちろん、周囲で様子を見守っている社員たちにだって分かる。


「……綺麗」


 結衣のは、真に迫りすぎていた。大嫌いな女に至近距離でそんなウソをつかれたって湧いてくるのは恐怖と憎悪だけ。

 だけど観客は、これをウソとは受け取らない。


「あっ、すみません先輩! 私収録あるんで失礼しまっすー!」


 あまりのただならぬ空気に我慢ができなかったのか、茉里は脱兎のごとく駆け抜けていった。ゴシップ大好きな茉里を逃がすことは、局内にここだけのナイショ話を広めてしまうことを意味する。

 それこそが、神谷結衣の狙いだった。


 ——神谷結衣と柏木綾乃は、どうやら付き合ってるらしい。


 そんな根も葉もない噂を広めて、例の動画に代わるスキャンダルとする。結衣が目くらましのために放つ真っ赤なフェイクだ。


「……ふ、ふう。緊張したね、恋人のお芝居。でもホントみたいで嬉しい、かも」


 もはや休憩スペースには誰も居なかった。あの芝居のせいで、遠巻きに見ていた人々はみんな茉里のように出て行ってしまった。

 本人たちは気を遣ったつもりなのだろう。人気局アナ同士のただならぬ関係を邪魔はすまいと行動した結果がこれだ。気を遣うなら根掘り葉掘り聞いて、アドリブに弱いこのアホを吊るし上げてほしいのに。


「これでアンタの言うところの百合営業はおしまい。茉里の耳に入ったら翌日には他局にまで広まってる。動画消して」

「ううん、まだダメ」

「なんでよ!?」

「柏木さんから、私を好きな気持ち感じないもん」

「感じるワケないでしょ!? 私はアンタなんて——」

「だからまだダメ」


 再び薬指を唇に触れ合わせてきて、結衣が見つめてくる。

 こんな嘘の芝居を演るハメになっているのに、結衣には恐ろしいほど迷いがない。アナウンサーを辞めて女優にでもなればいいのに。


「私を好きになって、綾乃」


 恥ずかしげもなく、よくそんなことが言えるものだ。あんな動画を人質にして脅してくるような不思議ちゃんを好きになどなるはずがない。

 アホの極みか、この女は。


「好き好き大好きー。結衣のこと愛してるー」

「私も愛してるよ。きゃー、言っちゃった……!」


 わたわたと慌てて、休憩スペースのスタンディングデスクを手のひらでバンバン叩きながら結衣は騒いでいた。

 腹が立つ。この女にも、弱味を握られてどうしようもない自分にもだ。

 結衣を好きになどならない。

 適当に騙くらかして愛を囁き、証拠を消したら突き放す。それが綾乃にできる復讐だ。

 絶対に、この女を堕とす。

 ウソの愛で溺れさせて、局から追い出してやる。


「……二度と他の人間を愛せないようにしてあげる」

「もう愛せないよ。なーんて。えへー……」


 しょうもない芝居を続ける結衣を殺したかったが、そうもいかない。ほぞを噛みながら、綾乃は真っ赤なフェイクを囁き続ける。

 このアホ女が本気で愛されていると勘違いするその日まで。

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短編集:百合マルシェ パラダイス農家 @paradice_nouka

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