俺、凡人。異世界で世界大戦の仕掛け人になる

風間 秋

序章:大逆の胎動

第1話 異世界に生まれ落ちた異物

 目を覚ますと、俺は死にかけていた。

 尋常ならざる息苦しさ。

 いったいどれほどの時間、息をすることを忘れていたらこうなるのか。


 慌てて呼吸を再開しようとして、気づく。

 息が吸えない。

 圧迫感はないのに、まるで喉を押さえつけられているかのように息が吸えないのだ。


 俺は必死になって首をまさぐり掻き毟った。

 スッと、喉のつかえが幻かなにかのように消え失せる。そして咽たように激しく咳き込んだ。

 咳の合間になんとか息を吸い込む。


 酷い悪臭がした。鉄錆と汚物を混ぜたような、酸っぱいような焦げたような。

 脂汗が吹き出し、口内に嫌な唾液が溢れる。

 襲いくる猛烈な吐き気をじっと耐えた。酸素を求める身体を理性で捻じ伏せ、慎重に、口だけで浅く息をする。

 ここで吐いたら、本気で窒息しかねない。


 これほど死に恐怖したのは、俺の人生で初めてのことではなかろうか。

 長いことそうしていたように思えたが、実際は大した時間ではなかったのだろう。

 生命の危機から脱し、脳に酸素が行き渡ったことでようやく頭が回り始める。


 それにしてもいったい――。

 なんなんだ、どこなんだ。そんな思考は、視界に映ったそれを前に消し飛んだ。


 涙に滲む世界は、やけに赤かった。

 夕陽に彩られているわけではない。すでに陽は落ち、闇の帳を月明かりがぼんやりと照らし出しているだけ。

 だというのに、その峻烈な赤が俺の眼を縫い止めた。


 その赤は、すぐ傍に転がる人間から溢れ出たものだった。

 人間だった、と言うべきか。

 死んでいる。死体だ。下半身がなくなって生きていられる人間なんて、いない。

 強引に引き千切られたような断面からは、臓物がこぼれていて――。


 蹲っていた俺は、半ば無意識に逃げようと立ち上がった。しかし思うように体が動かず無様に転倒する。

 頬を打つ感触は硬く冷たい。


 下敷きにしたのは鎧だった。鎧を着込んだ人間だった。

 だった。

 今はもう、死体である。


 呼吸が乱れ、あの悪臭が鼻腔を満たす。

 俺は、たぶん、もうその正体に気づいている。

 思うように動かない体を両手で支え、辺りを見渡す。


 ひゅうと喉が音を立てる。


 周囲には先の死体に劣らぬ、見るも無残な骸が、数えるのも嫌になるくらい散らばっていた。

 骸の近くには剣や槍、盾が転がっている。

 まるで、戦の後のようである。


 戦、だがそれはいつの時代のものだ。

 鉄製の鎧兜に身を包み剣や槍を打ち交わすなど、この時代、秘境を虱潰しにしたところで見つかるばずもない。


 吐き気が酷い。


 ネットで転がっているグロ画像なら鼻で笑えるくらいに、その手のものには耐性がある。学生時代に散々悪友にハメられたからな。

 だがこれは、無理かもしれない。嗅覚の刺激は胃を直接掻き回す。


 三十年生きてきて、こんな悪夢は記憶にない。

 ここで吐いたら、目覚めた時に布団は反吐塗れになっているに違いない。

 それくらい、感覚がリアルだった。


 ……本当にこれは夢なのか?


 血の気が引くのが分かった。脂汗が冷汗に変わる。

 俺の意識はこれ以上ないほどに明瞭だった。

 手足は泥中にあるかのように感覚が鈍い。だが、五感は常にも増して鋭敏であるように思えた。

 まるで安心が出来ない。この皮膚に滲む汗の感覚が仮初のものだと?

 むしろ危機感すら感じる。


 心臓の鼓動が喧しい。

 もし、これが夢でないとしたら。目の前にあるのは。


 ――本物の、人間の死体――


 胃が悲鳴を上げた。



 ◇◇◇



 両の手を地面に着いたまま、俺は動けずにいた。

 顔色は滑稽なほど青ざめていることだろう。

 これが夢だったとしたら、俺には自虐嗜好でもあるのかもしれない。


 吐き出した吐瀉物は実にいい赤色をしていた。ぶよぶよした得体の知れない肉片まで浮いている。

 明らかに腹から出てきていいものではなかった。


 実は内蔵がやられていて、もう手遅れなのでは。

 手足がやたら重く感じられるのも、血が足りていないからではないか。


 痛みはまるで感じないが、それが逆に恐怖を掻き立てた。

 夢ではないかもと考えた途端にこの仕打ち。神サマとやらがもし本当に居るのだとしたら、そいつは相当なサディストだろう。

 おっと、古今東西の神サマというやつは、大概にしてサディストだったか。


 嗤おうとしたが、喉からはひゅうと気の抜けた音しか出ない。

 小さく声を出そうとするが、引き攣った感じがして上手く言葉にならない。


 唖然とする。

 喉が潰れているというわけではなさそうだが、試すほど耄碌してはいない。

 ここを戦場だと思ったのは誰だ。もし兵士に見つかりでもしたら事である。どんな扱いを受けるか想像もつかない。


 いや、実際のところ、俺はどうなるんだ?

 考えたくもなかった。

 本当に、夢なら早く覚めて欲しい。


 絶望に打ちひしがれていると、肩に軽い衝撃を感じた。


「そこの。生きているなら、返事くらいしてはどうですか」


 自分が呼びかけられていることに気づく。

 魂が抜けかけていた。

 いっそ抜け落ちてしまえばいいと、愚にもつかぬ思いが過る。

 いかん。そんなことを考えている場合ではなかった。


 見つかった。焦燥感が心臓を炙る。

 どうする、どうすればいい。

 いやどうするにせよ、いつまでも黙っているのは心証が悪い。


 顔を上げると、奇妙な出で立ちをした小柄な女が俺を見下ろしていた。

 小柄と言うより、これは子供なのではないか?

 身長からすると、小学生くらいの年ごろの娘っ子である。


 兵士とはどうも少し違うような気がする。

 洋風な僧衣に身を包み、フードを目深に被っている。どことなく寺の小坊主を思わせる身なりだが、手に握られているのは背丈の倍ほどもある槍。

 ああ。子供なら、声から性別を判断するのは早計かもしれない。


 石突が地を叩く。

 先の衝撃はその石突によるものだろうか。


「怪我でもしているのですか?」


 問われ、思わず視線が落ちる。

 映るのは赤黒い吐瀉物。加えて声も出ないときた。

 視線を戻し、どう応えたものか悩む。


 ほんのひと呼吸ほどの間の後、子供はふらりと傍らまで近づいてきた。

 懐から取り出した、鎖のついた小さな金属板を一瞥し、再び懐に戻す。

 そしてフードを払った子供――童女は、腕に巻いていたペンダントのような飾りを、俺に突き出すようにして見せる。


「私は闇の月女神が十戒のしもべです。見ての通り鬼族で奴隷の身ですが、十戒のしもべである証はこの聖章せいしょうが示しています。あなたが黒の民であることは確認しました。魂位こんいでは鬼族が下ですが、身分は奴隷である私が上です。黒の民としての誇り、黒の徒としての信条があるとは思います。ですが私を闇月十戒の僕、あるいはより身分が上の者の使いとして考え、従ってもらえると幸いです」


 よく分からないが従えばよいのだろう。

 そんなことはどうでもいい。いやどうでもよくはないのだが、どうでもいい。

 それよりも、である。


 童女の頭には2本の太い角が生えていた。

 蜷局とぐろを巻くように捩じれた角は、黒く艶やかで、まるで悪魔を思わせる。

 飾りではなかろう。

 赤みを帯びた闇色の髪を割るようにして、その角は伸びている。

 日本人とは異なる顔立ちだとか整った容姿だとかは、この角を前にしては、もはや些事に過ぎない。


 なんぞこれ。


 角っ娘が怪我の確認をする旨を俺に伝える。

 両手を頭の脇に上げて動かないようにと言い含めてくるが、もう言われるがままよ。俺は座り込んだ体勢そのままに、素直に両手を上げる。


「戦闘は正統派の勝利として、半日も前に終結しました。追撃は未だ行われていますけど、この戦場での戦闘はもうないはずです。負傷者の回収はほとんど終わっていて、今は還魂の儀が行われている最中です。敗軍の黒の民は原則として正統派に所有権が移ることになります。ただ、闇の教派にもある程度の裁量が認められているので、あなたの所有権は闇の教派に帰するものと思っておいてください」


 外傷はないらしい。

 聞き漏らすまいとしたが、話の半分も理解できていない。

 愉快な話ではないことだけは十分に伝わったが。


 やはり夢ではないのか。

 その思考が頭の中を埋め尽くしていた。


 この外見、10歳にもならない童女の理知的な言動。

 そして、未知の言語を理解できるという不可解な状況。

 そうなのだ。童女が話しているのは日本語ではない。また英語を筆頭に、聞き覚えのある外国語のどれでもない。


 途方に暮れて視線を彷徨わせれば、満天の星空を背景に、3つの月が明々と地上を照らしている。

 なるほど。どうもここは地球ではないらしい。


 夢であると考えるのが妥当だ。

 けれど、夢かもしれないという認識は捨てるべきだろう。

 夢であれば重畳、最悪反吐塗れで目を覚ますだけ。


 万が一これ現実だとしたら。

 迂闊な行動は自らの首を絞めることになる。

 それこそ物理的に。

 落ちる方が早いかもしれないな。


 注意しなければいけないのは、ここは地球ではないということ。

 日本人と外国人の間ですら、価値観には大きな隔たりがある。

 相手は地球人ですらない。

 同じような姿形をしているからといって、同じように思考し行動するとも限らない。

 未知の文化文明にたったひとりで放り出された。


 それは、途方もなく、恐ろしいことだ。


「顔色が悪いですね」


 不意に童女が囁いた。

 冷汗が背を伝う。

 顔色が悪いのなんて最初からだ。なぜこのタイミングでそれを言う。


 鼓動がいやに大きく響く。すぐ傍で膝を着く童女に、聞こえやしないかと不安になる。

 呼吸が乱れ、吐き気がぶり返す。


「親しい間柄の者でも居りましたか」


 なんの話だ?

 僅かな時間、振られた言葉のその意味を考える。

 童女から視線を逸らすと、辺りの惨状が否応なく目に映る。死体のことを指しているのだと、間もなく理解した。


「そうではない、と」


 だが俺が意思を示すより先に童女が口を開いた。

 そして続く言葉に、俺は間違いを悟る。


「これは奇矯な。見るのは初めてではないでしょう、このご時世、子供でも死人には慣れているもの」


 まして黒の民なら。まるで舐めるように、そう付け加えた。

 俺は不覚にも、そう語る童女の眼を見てしまった。

 弱った獲物を前にどう嬲るか思案する猫のような、実験動物を観察する学者のような、好奇と残虐に濡れた黄金色の眼を。


「幸いでしたね。居合わせたのが私だけで」


 悪魔が囁いた。

 瞬間的に脳裏をよぎった行為に震える。

 俺はいま、こいつを殺してしまいたいと思った。殺せば、先の俺の言動はなかったことになる、と。


 なんと愚かしい。短慮の極みだ。それこそ思考を放棄している。

 だがなぜ俺はそんなことを思った。

 そう、思わされたからだ。

 この年端もいかぬ娘に。


 見透かされている。


 あまりの恐怖と不安から一瞬、上体を支えていた力が抜ける。

 槍を手放した童女が、剣の柄頭で倒れ込む俺の肩を押さえた。


 支えを得て無様に倒れ伏すことを免れた俺だったが、安堵に息を吐くことすらできなかった。

 触れそうなほどに、童女との距離が近くなっていた。

 体は強張り、まるで思うように動かない。そんな俺を、2つの黄金が映していた。


 もう無理。


 大の男が情けないと、笑いたければ笑うがいい。

 俺は、僅か30分ほどの間に2度も吐くはめになった。


 童女の口もとが緩んでいるように見えたのは、おそらく気のせいであろう。



 ◇◇◇



 金属の触れ合う音が、ゆっくりと俺のいる場所に近づいてきた。

 それが人の形を取ったのは、俺が胃の内容物を吐き終え、荒れた呼吸を整えている時のことだった。


 やってきたのは、まだ幼さの残る1人の少年だった。

 童女の身に着けているものとよく似た僧衣を纏っている。

 ただし、その手にあるのは槍ではなく錫杖。施された銀輪の装飾が、少年の動きに合わせ、涼しげな音を辺りに散らしている。

 少年の視線は俺を素通りして、傍らの童女へと向けられる。


「なにがあった」


 未だ声変わりをしていない高い声が、大人びた語調で童女に問う。

 童女はと言えば、俺の血反吐に汚れた袖を眺めて思案の表情を作る。


「ああ、困りましたね」


 どこか笑いを含んだ呟きと共に、俺を支えていた剣が引かれる。

 崩れそうになる体を左手だけで支える。俺の右手は、立ち上がろうとする童女の腕を掴んでいた。


 考えての行動ではなかった。

 おそらくは、懇願のための咄嗟の反応。話されては困る、その思いに端を発する命乞い。


 それからなにがどうなったのか。俺が正しく把握できているかは怪しい。

 気づけば血だまりに尻もちをついていた。


 瞬きほどのわずかな時間の出来事である。

 腕を引かれ、銀閃が視界の隅に光り、突き飛ばされ、そして今の有様。

 まるで理解できない。


「迂闊な行動は控えるように」


「斯様な言葉は、行動を起こすより先に掛けるのがよろしいかと」


 喉に走る鋭い痛み。恐々と指先で触れると、ぬるりとした感触がまとわりつく。

 殺されかけた?


「それに元より心得ております。突き放したのはそのため」


「なにを言っているのか分からぬ」


 少年も渋面を作っている。

 至極ごもっとも。俺も教えてほしい。

 けれど、童女は少年の疑問には答える気がないようだった。


「若様。この子供は先の戦闘により大層心を乱しております。他の兵と同じ扱いは得策でないかと」


「それは下婢としての言か。それとも僕としての言か」


「兄を敬愛する妹からの忠言と」


 兄と呼ばれた少年の渋面が、いよいよ深くなる。

 兄妹、なのか?

 少年には角が無いようだが。


「御屋形様が知れば、捨て置きはせぬだろう」


「すべては我らが月の導きのままに」


 小さく顎を引き頭を下げる童女。

 少年はしばしの間天を仰ぐと、険しい眼を俺に向けた。


「印検めを行う。見届け人にはラクハサを」


「は」


 いつの間に拾っていたのか、童女は手に槍を握っていた。

 そうして流麗な槍捌きで以て、穂先を俺の喉元に突きつける。

 体が後退りしそうになった。


 そんな俺に少年の声が飛ぶ。


「動くなよ。抵抗すればラクハサがお前を殺す」


 体が固まった。自然と顎が上がり、俺の眼は童女を見返すことしかできない。


 少年が俺の前に膝を着く。俺に見せるためだろう、小刀を高く掲げ引き抜くと、上衣の襟を掴み、首から腹辺りまで切り裂いた。

 その視線が俺の胸を凝視しているのが分かる。

 それがどういった意味を持つのか。俺はただ、黙って答えが出るのを待つしかできない。


「印なし、ではないのか」


 少年が困惑したように首を傾げる。

 それから、答えを求めるように童女を振り返った。


「申したではありませぬか。心を乱しておるゆえ、と」


 童女は槍を少しだけ引き戻すと、言葉にため息を乗せ、少年の思い違いを正す。


「これが、であるか?」


「先程、私が少し脅しましたからな。大人しくもなりましょう」


「あれは脅しであったのか?」


 心外だとでも言うように、童女は不満を表情に乗せる。

 少年はそんな童女を見てやれやれと言わんばかりに首を振り。


「あいわかった。そういう事にしておく」


 大きくため息を吐いた。


 そんな和やかに語り合う2人をよそに、俺は決死の覚悟で表情を殺す。


 俺は知っていた。

 俺の上衣が引き裂かれた時、童女のその眼がかすかに見開かれたことを。

 少年が振り返るまでのわずかな時間、その双眸が俺をねめつけ思案に沈んでいたことを。

 今もなお、その黄金の瞳が俺を映し続けていることを。


 槍の穂先は、未だ俺の喉に向けられている。


 俺は今一度願わずにはいられない。

 もしこれが夢ならば、1秒でも早く覚めてくれ、と。

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