第3話 本降り

 マグカップを持つと、程よく暖められた熱が伝わってきた。両手で抱え込み、その熱で暖をとる。ほのかな温もりは身体の奥までじんわりと広がる。

 雷斗が、私と視線を合わせる形で厨房のほうにある椅子に腰を掛けた。猫のみたいに丸く不思議な光彩を放つ瞳が目の前に来る。

 すかさず、茶色の液体のコップに視線を移した。


「ごめんね、風斗ふうと今出てるんだ」


 追いかけてきた言葉に、私は首を横にする。


「うんん。私こそ、急に来て」


 雷斗がすまなさそうに、笑う。風斗。彼の名前を口にされた途端、私の心臓が大きく跳ねる。

 こんな状態で、彼に会えないくせに。

 曖昧に笑って、心の中の動揺を噛み砕く。


「今日も撮影?」


カウンターの右側にある小窓の向こうで、本降りになった雨は、視界を白く染めていた。


「雨ひどくなっちゃったし、そろそろ帰ってくると思うけどね」


「あいかわらず、なんだ」


「相変わらずだよ。我が兄ながら写真でぼちぼち食ってけれてるのはホントすげぇと思う」


「そっか。無理しないようにだけは、きつく言っといてね」


「会ってかないの? 朝出てったし、そろそろ帰ってくると思うけど……」


「あー。うん」


 こんな形で帰って来てしまったのを、彼に知られたくない。彼は間違いなく気にしないし、雷斗にバレているなら隠しようもないけど。


 私が嫌なのだ。


 今もあの綺麗な世界の中で生きている彼に、こんな姿を見せてしまう事が。

 そして、普通に受け入れてくれるであろう事が。


 自分の姿を見直して、改めてため息が出る。平日の昼間でしかも雨に濡れたこんな状態、部屋に鏡は置かれていないし、手持ちの鏡はバックの奥底で良く分からないが、この世の終わりを仰ぎ見た顔になっているはずだ。

 そんな私の表情を読み取ったのか、彼は曖昧な笑みを浮かべる。


「じゃ、せめて画廊よってく? もう少しここにいるなら服も貸すし」


 彼の厚意に、軽く頷いて返す。それからようやく渡されたマグに注がれているアップルシナモンを口に含んだ。シナモンの香りが強くなる。飲み下したそばから身体の芯が温まる気がする。

 深い檜皮ひわだ色のマグに注がれた茶色い光沢のある液体を見つめ、いつからアップルシナモンを飲んでいなかったのかと思い返す。

 故郷を出て、都会に移り住み、がむしゃらに働いて三、いや四年か。

 こういうほっとする時間があること自体忘れていた。必死になって周りに遅れないように置いて行かれないように、目まぐるしく変わる風景と同化して毎日を過ごしていた。


 だからきっと、あんなことになってしまったんだろう。


 悲しみにとらわれる前に、マグの中身を半分ほど飲んで、席を立つ。

 雷斗はいなくなっていたが、画廊に行っていても大丈夫だろう。

 昔を辿る気持ちで、喫茶の奥にあるストーブの横にある階段の手すりに手をかけた。豪華な木彫りに発色のいいニスが塗ってある手すりを支えに、半らせん状の階段を上る。


 一階より少し涼しい廊下は、中庭側に等間隔で窓がついていて、外観以上に庭や建物が広いことが分かる造りになっている。

 雨は一向に止みそうもなく、窓ガラスを叩いていた。

 階段から一番近いドアのプレート部分には、『member′s』その次の扉には、『memory』。廊下の突き当り、最後の扉には『huuto』と、金属板の上にシンプルな文字が綴られていた。

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