アモールとプシュケ(2012年作版)エピソード1

 プシュケを葬り去りたいという念願を果たすため、アフロディーテは息子のアモールに手助けを頼んだ。


「仕方がないな。分かったよ。醜い怪物に恋をさせた上で、その怪物に殺させればいいんだろ?」


 アフロディーテの願いを承諾するアモール。アフロディーテは喜び飛び跳ねた。


「ありがとう、アモール! あの生意気な女をあんな気持ち悪いのに恋させられるなんて、いい気味だわ」


 これでずっと機嫌が悪かった母が、やっと機嫌を直したようだ。アモールはやれやれと首を横に振った。不機嫌の母の相手は正直疲れるからだ。


 僕の母親は、一体いつになったらもっと落ち着きのある神になれるんだ。


 アモールは長い溜息を吐いた。


 アモールが背負う矢筒。それはオリンポス山のすべての住人の災いのもとであり、神々ですら、彼の矢の力から逃れられない。あのアポロンですら、アモールの弓矢を馬鹿にしたせいで、アモールの矢により、酷い目に合わされたという。(※アポロンとダフネの話です)


 金の矢は恋心を抱く矢。

 鉛の矢は恋を拒む矢。


 アポロンは金の矢を撃たれ、アポロンに一目ぼれされたダフネは鉛の矢を撃たれた。アポロンほどの美しい神にアプローチされたならば、変わり者でない限り彼に落ちるであろうが、鉛の矢が刺さったダフネにとってのアポロンはただのストーカーにしか映らず、あまりのしつこさに自らを月桂樹の木に変身させてしまったのであった。


 以来、アポロンは月桂樹の冠を被るようになったが、月桂樹に変身してまでアポロンから逃れようとしたダフネにとっては、きっと気持ちの悪いだけことだろう……。


 この矢のお蔭で、アモールに逆らえる者はそういない。しかし、この矢を利用したがる者も少なくない。現に母であるアフロディーテも例外ではない。


 あらやる災いもとを背負っている。いつか、自らをも災厄に巻き込まれかねない危険がある。それでも、自分はこれを背負い続けなければならない。それが神としての自分の役割だから。


「さて、行くか」


 アモールは、母が指定した岩角へと飛び発った。純白の翼が羽ばたく。夜まではまだ時間に余裕があるが、万が一アフロディーテが差し遣わした怪物が自分よりも早くダーゲットと接触されてはならない。それに、あまり暗くなると狙いを外してしまう可能性もある。失敗してしまえば、また不機嫌なアフロディーテの相手をしなければならない。それはできるだけ避けたがった。


 目的地に到着したアモール。風の流れや射程距離などを考え、狙撃に適した場所へと身を隠した。


「彼女か?」


 薄暗いが、狙いを定めるには充分の明るさ。岩角に佇む人影を見つける。早速、矢を構える。しかし、ダーゲットに矢先を向けた途端、アモールは息を呑んだ。


「美しい……」


 思わず声に出てしまった。心の底からそう思ったのだ。彼女の美貌を目の当たりにし、放心してしまうアモール。


 彼女はこれまで見てきた女性で最も美しかった。もちろん、母であり、美の女神でもあるアフロディーテよりも美しく、本当に彼女が人間なのか疑ってしまうほどであった。名前も知らない人間の女性に、アモールは心を奪われてしまった。


 しかし、彼女はもうすぐ殺されてしまう。世にも醜い怪物によって。


 その事実が、夢見心地になってしまっていたアモールを現実に引き戻した。


 そうだ、僕はアフロディーテの命令で、彼女をアフロディーテの理想とする結末で亡き者とする手伝いにここまで来たんだ。


 僕は彼女を見殺しにできるのか? 彼女を気味の悪い恐ろしい怪物に無理矢理恋させられ、食い殺される姿を、僕は――


「見たくない……っ!!」


 悪趣味だ。人間でありながら、これほどの美貌を持って生まれてしまったというだけで、どうしてそんな目に遭わされなければならないのだ。


「できない……できない……」


 矢を掴む手が震えた。不思議と涙が溢れてきた。どうしてか分からない。どうしたらいいのか分からない。だが、早くしないと怪物が到着してしまう。


 手が滑った。左の指に痛み。金の矢がアモールの指に刺さったのだ。


「――!!」


 しまった!


 時は既に遅し。金の矢が刺さると、その後一番最初に見た者に恋をする。アモールの視線はターゲットである美女に奪われたままであった。しかし、アモールにとってはそんなことはどうでもよくなっていた。


「こんなこと、間違っている!」


 空はもう夜になりかけていた。時間がない。こうしている間にも、彼女のもとに醜い死神が近づいてきている。


「ゼピュロス。すぐに来て、僕の願いを聞いてくれ」


 アモールは友である西風の神ゼピュロスを呼んだ。西風が吹き、風の中からすぐさま表れるゼピュロス。


「どうした親友。なんて血相だ。パンツを穿き忘れて登校してきた女子高生より酷い顔だぞ」


 ゼピュロスはアモールの尋常じゃない様子に目を丸くした。だが、アモールには事情を話している暇などなかった。


「僕は今から彼女を眠らせる。君は眠った彼女を僕の宮殿へと運んでくれ。できるだけ速く」


 アモールは口早に言った。


「いきなり呼び出しておいて、なんて注文だ。神遣いの荒いやつだ。急いでるようだし、すぐにやるけど!」


 文句を言いながらも、ゼピュロスは風の姿に戻った。アモールはホッとし、微笑む。


「ありがとう」


 アモールは礼を言い、早速美女を眠らせる。眠りに落ちた彼女が倒れるタイミングを見計らい、ゼピュロスは素早く彼女を運んでいった。


「さて。あとは化け物退治か」


 とはいえ、真っ向から立ち向かったところで、どうにかできる相手ではないだろう。そこで、アモールは岩をターゲットの美女ソックリの人間に変え、美女が立っていた岩角に立たせた。その頃には、辺りは真っ暗になっていた。


 奇妙なうめき声が近づいてくる。アフロディーテが差し遣わした怪物だ。怪物が偽者の美女に牙を立てる。アモールは、偽者の美女から鮮血が飛び散ったのを確認すると、偽物美女を岩に戻した。岩を噛み砕き、飲み込む怪物。怪物は岩を喉につまらせ、苦しみながらどこかへ行ってしまった。


 アフロディーテのもとに戻ったアモールは、血が飛び散った現場を見せ、すべてが上手くいったと報告した。アフロディーテもその報告を信じて、大喜びをした。怪物はあのあと、天界に戻ったのちに息絶えてしまったのだか、そのことについては、女を食い殺すときに誤って岩も一緒に食ったせいだ、と説明しておいた。



 アモールは自分の宮殿へと急いだ。宮殿には、つれてきた美女が望むものがすべて揃うように仕掛けをほどこしておいたが、どうしているか気になった。それ以上に彼女に会いたかった。


 宮殿に到着し、中を覗くと、宮殿にはゼピュロスが運んでくれた彼女が、ここはどこだろうと戸惑った様子で周囲をキョロキョロ見渡していた。まさか、自分が神に誘拐されたとは思わないだろう。


 早速、彼女に声をかけようとしたが、すぐに躊躇した。


 限りある命しか持たぬ人間が、その肉眼で神を見ることは禁忌なのだ。


 ならば、見れないようにすればいい。


 そう思い立ったアモールは美女の背後に舞い降り、彼女に白い布で目隠しをした。突然のことで悲鳴をあげる美女。


「なっ、なに!?」


 こちらを振り返るが、手がアモールの体に当たり、怯えたように後ずさりをする。


「誰……っ?」


 彼女は目隠しを取ろうとするが、取れない。神が人間にした目隠し、人間の手では取ることができない。


「僕は――」


 自分の名を名乗ろうとしたが、馬鹿正直に名乗ると神だとバレてしまうことに気付いた。なんと名乗ればいいのかを考えていると、先に彼女が口を開いた。


「もしかして……あなたが私の旦那様ですか?」


 思わぬ発言に、アモールは驚いた。しかし、彼女にとって、それが自然な解釈だとすぐに悟った。彼女は神託により、死の怪物の花嫁になるために、あんなところに立っていたのだから。


「そうなんだ。僕のことは、旦那様と呼んでくれ」


 なんだか嬉しかった。おままごとのようだが、それでも彼女の主人になれたことが、アモールには嬉しかった。


「そうですか……。私はまだ生きているのですね。それとも、もう死んでしまっているのでしょうか?」


 美女は自分の胸に手を当てた。心臓の鼓動を確かめているのだろう。その表情は哀しそうで、胸が締め付けられた。アモールは首を横に振る。


「君は生きている。そして、僕は君を殺す気もない」


 アモールはまた名を知らぬ美女を抱き締めた。最初は腕の中で硬直していた彼女の体だが、しだいに力が抜け、和らいだ。


「僕はまだ君の名前を知らない。教えてくれるかな?」


「プシュケ……プシュケです、旦那様」


 プシュケは、一回目は聞き取れないほど小さな声で、二回目はハッキリと答えた。


「そうか。では、プシュケ」


 アモールはプシュケを腕の中から解放し、向き合う。


「ここの宮殿には、姿の見えない召使いたちがいる。彼女達は君に、それは素晴らしく行き届いた世話をしてくれるだろう。僕も君を悪いようにはしない。だが、一つだけでいい。約束してくれないか?」


「なんでしょう?」


 プシュケは首を傾げた。


「僕のことは一切詮索しないでくれ。名前は勿論、教えられない。姿も見せられない。だけど、この約束を守ってくれさえいれば、君はこの楽園に居続けられる。僕は君を殺さないで済む」


「わかりました。一切詮索しません」


 プシュケは強張った声で返事をした。約束を守っていれば「殺さないで済む」ということは、約束を破れば「殺す」ということを意味する。しかも、姿も名前も分からない者にだ。見えないが、すぐ傍にいる者にそういわれるのは流石に怖いだろう。しかし、こう言っておかないと、彼女をこの場所に留めておくことはできない。


 もし、正体がバレたら……。


 アモールはその先を考えることが恐ろしかった。


 この約束を守り続けてくれさえいれば、何も問題はない。約束を破ったら殺されると思っているのだから、大丈夫だ。


 アモールは、そう自分に言い聞かせた。



 気がつけば、楽園にいた。


 豪華な、とても人の手でつくられたとは思えない宮殿。望めばすべてが揃う。あらゆることを、姿の見えない召使が行ってくれる。そんな、「楽園」という言葉が相応しい空間であった。


 最初は、欲しいと思っていた服がふわふわと落ちてきたり、飲みたいと思っていた飲み物が用意されていたりと、とても奇妙に思っていたが、最近はそんな光景にも慣れてきた。宮殿に出入り口がないこと以外は、特に疑問も何も思わなくなってしまった。


 そして、名前も姿も知らない夫ができた。明るいところでは、どこからともなく背後に現れ、目隠しをされてしまう。しかも、不思議なことに目隠しは旦那様にしか外せない。暗いところでは、目隠しはされないが、お互いの顔が見えないほどに暗くて、その姿を確認することができない。


 何故、見ることを許されないのか。


 それを訊いたら、私は殺されてしまうのだろうか?


 怪物に命を奪われることは、恐くなかったはずだった……。それは一瞬で終わることだと思っていたからだろう。今は死ぬのがとても恐い。姿は見せてくれないが、旦那様は私を大事にしてくれる。とても優しくしてくれる。それが、何か……そう、例えるならばシャボン玉が何かの拍子に割れてしまうような、そんなひと時の儚さを感じてしまって、この楽園での生活が終わることが恐ろしい。


 違う。楽園を失うことが恐いんじゃない。殺されることが恐いんじゃない。


 私は旦那様のことを――


「どうかしたの? プシュケ」


 考え込んでいると、暗室から彼の声がした。いつの間にか帰ってきていたようだ。いつも、何処からともなく帰ってきては、しばらくプシュケの相手をして、また何処かへ出かけていってしまう。


「そこにいらっしゃるのですか?」


 プシュケは暗室へと足を向ける。


 逢いにきてくれた。


 そう思うと、とても嬉しかった。時々、旦那様が何処かへ行ってしまって独りになったとき、このまま帰ってこないのではないかと不安になった。


「そうだよ、おいで」


 招かれるように、暗室へと入る。真っ暗な部屋で、うっすら人影を確認できる。プシュケはその人影へと近づいた。体を触れられる距離になると、相手の息遣いを感じ取ることができた。駆け足になっている心臓が、その息遣いをくすぐったく感じさせた。


 微かに見える輪郭を頼りに、怖々と彼の顔に右手を伸ばす。拒まれるかと思ったが、彼はされるがままになっていた。プシュケの手の平が彼の頬を撫でる。


「怒らないのですか?」


「何故?」


 彼は首をかしげ、旦那様の頬を撫でるプシュケの右手を軽く握った。プシュケの心臓が跳ねた。


「だって、お顔に触れたりなんかして……」


 暗闇で顔が見えているわけじゃないが、なんとなく恥ずかしくて、プシュケは顔を背けた。旦那様はプシュケの右手に頬ずりをする。


「僕は君に触れることが好きだし、それと同じくらい君に触れられるのは好きだよ」


 そう言い、プシュケの左手を手に取り、空いている自分の右側の頬にプシュケの左手を当てた。プシュケは驚いて、顔を向けなおす。彼は続けて、


「それに、こうして触れても、君が僕の正体を知ることはできないだろうからね。これはボディータッチで、詮索にはならない。約束を破ることにもならない。だから、僕はまだここにいるんだ。……どこにも行かないよ」


 プシュケが心のどこかでいつも心配していたことを、旦那様には見透かされていたようだ。


 私が最も恐れているのは、約束を破り、彼を失うことだ。


 あの時――初めて出会って抱き締められたときに肌から何かを感じとったような気がした。言葉にはできないが、とても……神聖な者に触れられたような気分になった。そして、いつも旦那様が私をあまりに愛おしそうに触れるものだから、


 だけど……だからこそ、彼のことを知りたいと思う。


 彼の顔をなぞるように、手を滑らせる。手の平から伝わる感触。彼の顔に触れて分かったことは、彼は怪物と呼称されることが不適当なほど綺麗な顔をしていることであった。


「この綺麗な顔を見ることは叶わないのですね……」


 最後に指で唇をなぞり、彼の顔から手を離した。手に残った感触をかみ締めるかのように、手を強く握り合わせる。


「この約束は一体どうして……? 私はもっと貴方のことを知りたいのに」


「……世の中には、知らないほうが幸せなことがあるんだよ。そのひとつが、僕の正体。それだけのことだよ」


「分からないわ……」


「僕は君を愛している。僕が君の傍に、君が僕の傍にいることを赦されているのは、君が僕の約束をしっかり守ってくれているからだ。儚いモノを手元に残し続けることは、辛さを伴う。失ったモノを取り戻すのは、安易ではない。そういうものだよ」


 私が約束を破れば、あっけなく壊れてしまう。それが今の生活の本当の姿。


「その辛さを私だけに強いるのね」


 旦那様が全く辛くないわけじゃないことは分かっている。でも苦しかった。愛する人の顔を、この目で見ることも、この唇でその名を呼ぶことすらも叶わぬことが。彼は私の顔も名も知っているというのに……。こんなことを言いたくはなかったが、言わずにはいられなかった。


「そうだね……。僕の我儘のせいで、君に辛い思いをさせている……」


 表情は分からないが、彼がとても哀しそうなのが声で分かった。胸が締め付けられた。とても切ない気持ちで一杯になって苦しい。


「ごめんなさい……ごめんなさい、馬鹿なことを言って」


 罪悪感。吐いた唾は戻せない。どうして黙っていられなかったのか、と数秒前の自分を責める。


 たった数秒。これだけで誰かを傷つけることができてしまう言葉がとても嫌いだ。


「――君は、君の命と引き換えとした結婚に躊躇いもしなかった。きっと諦めが早いんだろうね。だけど、君はこれ以上、自分を損なう生き方をしてはいけない。それは、自分のことだけを考えろ、という意味ではない。自分にとって何が大事で、自分の人生でそれを選んで本当にいいのかをよく考えることだよ。人間は命に限りがある。諦めていいことを安直に決めると、自分を損ない続ける一生となってしまうよ? 本当に欲しいモノも手に入れられないだろう」


「どういうこと?」


「もし、君が約束を破ってしまったときに、話の意味が分かるよ。君が約束を破ると思っているわけじゃないけれど、故意でなくても事故は起こりうるものだから、今のうちにと思ってね。人は『あの時にこうしていれば』『もっと頑張ってれば』と後悔してしまう生き物。真の意味を理解するときは大抵、失ったとき、過ぎ去ってしまったとき。だから、万が一のことがあっても、君が凛々しく生きていけるように。君の本当に欲しいモノが手に入るように。そして、その本当に欲しいモノが──」


 言いかけた何かを飲み込む彼。


「いや、やめておこう。これ以上は僕の慾でしかない。過ぎた願いだよ。行き過ぎた慾心を誰かに満たしてもらおうなんて考えは、よくないね」


 彼はいつものように私に目隠しをする。いつもと違うのは、正面から目隠しされたという点。布が視界を妨げた。これで、彼の輪郭すら見えなくなってしまった。今日も私は、彼のことを何も知らないまま。さっきの話も分からないまま。


「君と出会ってからの僕は、どうやら随分と諦めが悪いようだ。でも、そういうものだろう? 誰かを愛するという事は」


 愛しているから、大事だからこそ……。それは私も同じなのに。だから知りたいのに……。



 ここに来てから何十日が経過しただろう。両親や姉たちは心配していないだろうか。


 このごろのプシュケは家族のことが気がかりで仕方がなかった。最後に見た家族の顔は、皆泣いていた。


 プシュケは椅子に腰掛けた。とても上品なデザインな上に、使っている材料も上質である。王族ですら持てないような家具達が、ここが人間の世界ではないことを匂わせている。


 家族はあのまま、今も私が死んだと思って泣き続けていないだろうか……。


 そうこう思っていたら、旦那様の声がしてきた。どうやら帰ってきたらしい。しかし、旦那様だけでなく、知らない者の声もする。知らない声の主が誰か確認しようと、立ち上がろうとしたが、やめた。一緒にいる旦那様の姿も見てしまわないかと思うと、体がそれ以上動かなかった。


「ただいま。僕が変なものを連れてきてしまったから、驚かせてしまったね」


 彼の声が聴こえる位置がプシュケの背後に移動した。目隠しをされるプシュケ。


「それ以上に、気付かぬうちに私の背後に回られるのが、いつも驚きですよ」


 嘘ではない。いつもどうやって移動しているのか不思議である。わざとタイミングを見計らって振り向いてやろうと考えたこともないが、いつも実行には及ばない。それをすると、今日まで私を大事に何かから匿ってくれている彼を裏切ってしまう。


 何かから匿っている、ということを彼から聞いたわけではない。だが、なんとなくそんな感じがした。彼の顔に触れた時、これまで気付かなかったある疑問が浮かんだ。


 神託によって互いが巡り逢ったのならば、私は遅かれ早かれ必ず殺されるべきであり、殺す気がない、と言われるはずもないのだ。


 怪物というにはあまりに美しい顔。不可解な約束。出入り口のない宮殿……。


 もしかすると、彼は神託の怪物ではなく、神託の怪物に見つからぬように匿ってくれているのではないだろうか?


 そう思うようになった。


 現在は私が彼の正体を知らないでいるから、主観的にみて、神託どおり「怪物」に攫われた形になっているはずだ。私は攫った者を、「旦那様」と呼び、そして、「今はまだ」生かされている状態になっている。今のところ神託通り。何も間違いはない。


 正体を秘密にしているのは、そのため?


 すべては推測にすぎないが、それ以外に何か納得できる理由を見つけられない。


「久しぶり、お嬢さん。――って、寝てたし分かんないか」


 知らない声がプシュケの右手の方からした。


「誰?」


 久しぶり、ということは、この人は自分と会ったことがあるのだろうが、寝ていた、とはどういうことだろう。


「君をあの岩角からここまで運んでくれた僕の友人だよ」


 旦那様の説明に、プシュケは納得した。


「寝てたってそういうことだったのですね」


「そういうこと~。特別に西風きゅんって呼んでもいいぞ!」


 茶目っけのある口調から、ニコニコして言っている様子が浮かんだ。にしても、西風とは変な名前だ。


「今日は遠くまで出かけたからね。西風に送ってもらったんだ。ついでに君が元気にしているのか見たいって言い出して」


 西風が来た経緯を話す彼。西風はハハッと笑う。


「困ったやつだってか? 元気にしてるか見に来ただけだから、もう御暇(おいとま)するし、安心しろって親友。じゃあね、お嬢さん」


 風が吹き抜けた。その瞬間、西風の気配が消えてしまった。足音は一切していない。もしかすると、西風も旦那様も人間ではないのだろうか……?


 少なくとも旦那様は怪物から匿えるほどなのだ。人間であっても常人ではないだろう。


 プシュケの座る椅子のテーブルを挟んで向かい側の椅子に彼が座る音。


「最近、なんだか元気がないね。何か気がかりなことでも?」


 図星だ。彼は私のことをよく見ている。ときどき、何もかもを見透かされているような気分になる。


「実は――」


 プシュケは、涙で頬を濡らしたまま別れた家族が心配だということを話した。彼はプシュケの話を終わるまで静かに聴いていた。


「そうか……。でも、たとえ家族であっても君の無事を知らせることはできないな」


「私が生きていることが外部に漏れると危険なのですか?」


 もしそうならば、彼は神託の怪物ではない可能性が高い。怪物であるならば、まだ私が生きていることが外部に漏れてまずいわけがない。きまぐれで生かしているだけなのだから。


「……」


 ゆっくり深く溜息を吐く彼。


「そうだけど、何故危険なのか、その理由は教えられない。君は何も教えてくれない僕をいつか恨むだろう。だけど、隠されてきたことを知れば、それがたとえ断片であっても君は今以上に辛い思いをする。生きている限り、辛いことからは逃れられないものだよ。そう考えると、どうするのが賢明か分かるね?」


「問いただしてはいけないのですね」


「そう。僕は君に足枷をつける代わりに、君の身の安全を確保している。それを忘れないで」


 彼が椅子から立ち上がる音。足音がこちらに近づいてきて、プシュケの背後で止まった。目隠しが外される。だが、彼はまだここにいる。しかも、すぐ後ろ。手を伸ばせは届く距離。振り返れば見ることができる距離。


 ドクドクドクドクドク。


 自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。緊張で乾く喉。流れる汗。背後からは彼の声。


「今、君がこちらを振り向けば、僕の正体を知ることができるだろう。でも、それが何を意味するか分かるね?」


 ゴクリ。


 生唾を飲み込む。振り返ることはおろか、体がピクリとも動かなかった。


 知りたいと思うことは簡単だった。振り返るだけでいいのに、今はそれができない。


「恐い思いをさせてしまったね」


 彼は再びプシュケに目隠しをする。心臓はまだ五月蝿く鼓動していた。流れた汗を指で掬う。


 知ることはできなかったが、知らずに済んでホッとしている自分がいた。


 彼が目隠しをしてくれる意味が身にしみて分かったような気がした。

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