5駅目 夢の底 発車 − 1

 さて、係員が去って幾許か。

 目付きの悪い係員、海堂瞬東には声をかけまいと決めた彼女は、座席に深く腰掛けてその座り心地を味わっていた。

 よくある長椅子ロングシートタイプの座席だったことと、古めかしい雰囲気の漂う車両だったこととであまり期待を持たずに座っていたが、これが思いの外に柔らかい。最初に抱いた印象に反して、身体が沈み込むような包容力だった。

 座っていれば座っているほど、身体にフィットしていくような気がする。きっと、つい先程まであの係員がいて緊張していたからだろう。

 目付きの鋭い男性係員。

「やめ、やめ。考えない、考えない」

 タブレット端末を件の係員の画像からホーム画面に戻した彼女は、ぐーっと伸びをして座席に全体重を預けた。乗車人員が少ないおかげで、コンパートメント一つ貸切状態なのが嬉しい。人の目を憚らずに思い切り伸びができるし、靴を脱いで寝転がっても誰にも迷惑を掛けることがない。

 一人になった開放感からか、そうしていると、昼間歩き回った疲れがじんわりと足元から広がっていく。これだけでも、この列車に乗る事を選んで良かったという気になった。

 手渡されたタブレット端末の中を読みたい気持ちもあったが、身体の至る所から感じるクッションの感触が生む満足感と疲労感が、僅かながらにそれを上回る。

「後でもいいよね」

 柔らかい感触に包まれていると、それだけで満たされてしまうものである。落ち着いた室内の雰囲気や照明に加え、殆ど揺れの来ない列車の走行が相まって、見る間にそれは勢いを失っていく。

 そうこうしている内に、彼女は靴も脱いでくつろぎたくなってきた。

 視線を滑らせれば、コンパートメント出入り口のすぐ脇に、ご丁寧に靴箱とスリッパが置かれていた。何と素晴らしい。この魅力的な誘いに、乗らない手はないだろう。

「よっ……と」

 彼女は意を決して身を起こすと––––––クッションに身を預けている最中と言うのは、何をするにも幾らかの気力が必要になるものなのだ––––––靴箱の所まで移動する。

 スリッパはコンパートメント番号と一緒に背の部分に帯状に着色が施されていて、なるほど、何かの拍子に履き違えたり取り違えたりしにくいようにされているようだ。

 本来想定されている利用者分置いてある辺り、気配りサービスの多さに感激する。

 彼女は赤い帯の入ったスリッパを選んで履き替えると、靴を脱ぐ。

「……あれ?」

 それから靴を持ち上げて箱を覗き込んだ彼女は、まさに自分がそれを収めようとしている場所に何かがある事に気付いた。

 手を伸ばして拾い上げてみると、それはストラップだった。

 背側が黒で腹側が白の地に紺色の横縞模様と帆のような巨大な背ビレを持った魚と、ヒラヒラと広がる様々な緑色のヒレと突起を持った奇妙な形の生き物。

 それぞれの根付けに、一緒になってネームプレートと思しき付属品が付いている。前者には「ヘロープス・シミラ=ピッシューム」、後者には「ヴェストヴィリティ・マレイクイトゥム」の小さな文字が。

 つい先程まで水族館、オーシャンズ・シンフォニアを満喫していた彼女には分かる。

 これはそこのミュージアムショップで売られている土産品だ。展示エリアでも彼らの情報は確認できて、確か、ヘロープスはカジキによく似た特徴を有するカマスの仲間、ヴェストヴィリティはヒレの様相から別名グリーンドレスとも呼ばれるタツノオトシゴの仲間だったはず。

「……でも、どうしてこんなものが?」

 まさか、乗車を感謝する贈答品と言う訳ではないだろう。それにしては数が合わないし、そもそもこんな所に置かないだろうし、 それに何より––––––言葉は悪いが––––––ストラップなんて選択が謎だ。乗客へ利用の感謝を示すなら、飲料とか一口で食べられる菓子などを提供するのが常だろう。履物をわざわざ個別に用意する気の遣い方をする会社が、そんな事をするだろうか。

 となると、誰かの忘れ物と見た方が良いだろう。

 これがあった場所や物を見る分には、恐らくその線が最も濃厚に違いない。

 しかしながら、靴箱に忘れるとは奇妙で少々間の抜けた話だと思う。

(後で車掌さんに渡せばいいかな。最悪、降りる時にでも)

 もちろん、以外の車掌にだが。

 そう決めると、彼女はカマスとタツノオトシゴを服のポケットに放り込んだ。

 それから靴を靴箱へ収納すると、ちょうど膝を伸ばした所で、ドアが鳴った。

 否、違う。ノックされたのだ。

 その証拠に、コンコンと連続した音の直後に「すみません、係員です」と声がした。先程まで聞いていたような、低く凪いだ声ではない。ほんの僅かに間延びした、明るいそれだ。

 そしてその相手は、彼女が返事をする間も無くコンパートメントの戸を開けた。

「失礼します……わ、失礼。こちらにいたんですね」

「いえ……あ!」

 出入口すぐ近くの位置に立っていた彼女に少し驚いた様子を見せた相手だったが、その姿を見た彼女が、今度は驚いた。

 見覚えのある人物だったからである。

「あ、僕のこと、覚えてました?」

「駅で切符を」

「そうです、そうです! わぁ、覚えていてもらえたなんて!」

 彼女の言葉に、彼は嬉しそうな笑みを浮かべて目をきらめかせた。

 そう。再び彼女のコンパートメントを訪問したのは、駅で『海百合』の乗車券を融通してくれた係員、ジロイだった。

「でも、どうして、ここに?」

「それはですね、お嬢さん。僕、実は乗務員でもありまして。この列車の担当なんですよ」

 頭の上に疑問符を浮かべる彼女に、ジロイは嬉しそうに胸を張る。ふふん、と聞こえてきそうな得意げな様子に微笑ましくなるが、彼女が尋ねたのには、それとは別にもう一つあった。

「えーと、そうじゃなくて」

 すなわち、つい先程、既に瞬東がコンパートメントを訪れて乗車券の確認は済ませてあるのに、わざわざ訪ねてくる理由があるのかという事だ。

 それを尋ねると、ジロイは「あぁ!」と手を鳴らして合点がいったとばかりに頷く。

「一つ、確認しておきたいことがあったんです」

「確認したいこと?」

「はい! お嬢さん、さっきの係員、窓のことについて教えてくれました?」

「窓のこと……?」

 瞬東とのやり取りを思い出してみる。

 入室してきた時から、乗車券を手渡して、タブレット端末を受け取り、相手が一礼して退室するまで。低い声と共に脳内で映像が再生される。

 が、窓のことを話していた記憶はない。

「あ、その様子だと、まだっぽい感じですね」

 彼女が首を傾げる様子を見たジロイが、察して言う。

「すみません、お嬢さん。ここに来た係員ね、あいつ、優秀なんですけど、業務外の事は全然気が回らないんです。僕が言うのもおかしな話ですが、許してあげて下さい」

「それは別に、構いませんけど……」

 ぺこりと頭を下げるジロイに、彼女は言い淀む。何となく、この少年のような係員に謝られるのは、居心地が悪い。幼めの顔立ちと人懐っこい表情の所為だろうか。

 それよりも、窓のことについて教えてもらいたくなっていた。

 彼女がそれを伝えると、ジロイはコホンと一つ咳払いをしてから、スモークガラスの下辺りを指差した。

「そこに、スイッチがあると思います」

「スイッチ?」

 示された通りの場所に視線を移してみると、冊子の置いてある近くに、レバータイプのスイッチが設置されているのが見つけられた。

 更によく見ると、スイッチの両端に「起」と「解」の文字。

「『解』の方に切り替えてみて下さい。きっと、びっくりしますから」

「開」「閉」でも「入」「切」でもない辺りに珍しさを感じつつ、彼女は黒いレバーを「起」から「解」の方へ弾いた。

 一拍の間。

「……わっ!」

 その後に、彼女は小さく声をあげて驚いた。

 スモークガラスの曇りスモークが取り払われ、見えていた景色が変わる。

 そこに広がっていたのは––––––

「え、魚……!?」

 彼女の口から言葉が零れるよりも早く、金や銀の小さな塊が複数舞い散った。

 ぶわりと穴が開くように窓の周囲から遠ざかったそれらは、すぐ様元の位置に戻ってきて、微かに向きを変えたり動いたりする度にキラリと光りを跳ね返す。

「これ、魚……だよね」

 窓に顔を寄せると、それらはやっぱりどこからどう見ても小さな魚だった。光沢のある透明な身体と、身体の割に大きな金色の目をした小魚の大群が泳いでいる。キラキラと光っているのは、鱗や目が光りを反射しているからのようだ。

 その魚体の隙間から、薄藍色の向こう側が見えた。

「どうです、凄いでしょう?」

「……すごい」

「驚きました?」

「……とても。……あの、これ、本物?」

「もちろん本物ですよ!」

 素直に頷き、かつ食い入るように魚の群れを見つめる彼女に、ジロイの得意げな声が答える。

「『海百合』は比喩アレゴリーでも仮想現実バーチャルでもなく、正真正銘海の中を走る、『海中展望列車』なんです!」

 窓の向こう側は––––––紛う事なき、海の世界だった。





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終着駅の向こう側短編シリーズ 鮫と名の付く鱏 @Pumpkin_Shark

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