宝珠



「……ン、シュエファ?」


 珠樹の声。穏やかで楽しそうに話す声が好きだったのに、最近聞いてない。『もう、帰ろう』といった珠樹の願いを、かなえてあげたい。穏やかな暮らしを取り戻したい。ゆっくりと開いた私の目に映ったのは、今にも泣き出しそうな珠樹。


「珠樹、大丈夫だよ。もうすぐ帰れるから、ね」


 珠樹の手に触れたいのに、腕が痛くて動かすことも出来ない。


「大丈夫、には、見えない」


 心配そうに恐る恐る私の手に触れる大きな手。ごめんね、心配かけて。あれ、そういえば。


「黒龍様、は?」


「ああ、そこ」


 珠樹の視線の先にいたのは、少年。風鬼さんと同じような衣を身にまとい、幼さを残した細い腕は日に焼けている。真っ黒な髪から覗く金色の瞳は、闇夜に浮かぶ月のようだ。彫りの深い顔立ちは、どことなく朝チャオ陽ヤンに似ている。

 この少年が、黒龍様?


「黒龍、様?」


「そうだ」


 珠樹よりも随分と高い声だけど、威厳がある。さすが、龍神様。

 見た目は、私よりも年下。十にならないぐらいの少年なのに落ち着き払ったこの雰囲気、迫力。なんだか、風鬼さんに似ている。


「緑龍は、どこにいる?」


 ええと、朝陽はどこにいるのだろう。『別に進む』って言っていたのだから、ここに向かっているんだろう。でもどうやって進む予定なのか、とか、どこで会う予定になっているのか、とか私まるでわからない。珠樹に視線を投げるが、『知らない』と首を振られてしまった。


「風鬼さんと一緒に、河北に向かっているはずです。人ならざる者が近づくことで紅河に気付かれるからと、私達とは別に動いています」


「それで、其方が一人でか。まさか緑龍が其方の元を離れるとは思わず、無理をさせた。すまなかった」


 まっすぐに私を見ていた瞳が一瞬さまよい、腰を折って頭を下げた。黒龍様?何を?


「いえ、約束をしましたから。結界を出てからは、ずっと黒龍様がお助けくださいましたよね。私こそ、その、助かりました」


 礼を言ったらいいのか、謝罪したらいいのかもわからずに思いつく限りの言葉を紡いだ私に、黒龍様はクツクツと笑ってくれた。

 あ、この笑い方、朝陽に似ている。


「我を縛っていた結界は壊れた。次は、宝珠を取り戻す」


 そうだ、黒龍様を結界から解放することはできたけど、宝珠はまだだった。

 黒龍様の宝珠を取り戻し、龍庭に春を呼ぶ。この村の、理に反した夏を終わらせる。河北の村長の娘が笑った顔が頭をかすめたけど、今は考えない。

 後の事は、後で考える。


「紫陽さんから伝言だ。紅河を引きつけている間に、宝珠を探せ、と」


 紅河を引きつける?紅河は、紫陽さんを捕らえると言っていた。自分が狙われることを知っていて、一人で出ていったというの?対峙して思い知った。紅河の神力は人ならざる者と同じ。思い出すだけで、足が震える。


「紫陽は、全てを其方に託した。宝珠が我に戻れば、必ず助ける。我が其方を守れるうちに宝珠を探せ」


 わかっています。私は私のできることを。せめて、少しでも早く宝珠を。


 ゆっくり、ゆっくりと黒龍様の気配を探す。集中することで、頭にも腕にも痛みが走り、息が上がる。ほんの少し結界の中に入っただけなのに、動かそうとするだけでも鋭い痛みが走る。黒龍様はもっとずっと長く結界の中にいたというのに、情けない。

 宝珠を取り戻したところで終わりではない。紫陽さんを捕らえたのなら、紅河はきっと離さない。紅河から逃れ、紫陽さんを助け出す方法なんてあるのだろうか。ずっと結界にいた黒龍様に紫陽さんをたすけてもらう。これで、約束を違えぬことになるのだろうか。


「龍の身体は其方らとは異なる。案ぜずともよい」


 龍の身体とはいえ、痛みを感じないわけがないと思うのに、弱い自分が情けない。


 紅みを残した鉛色の雲の間から、上弦の月が見え隠れする。すぐに鉛色の空は闇に変わるだろう。

 焦りが、神力を乱していくのが、自分でもわかる。


「我の気配ではわからぬか?なれば、緑龍の気配は探せぬか?」


 朝陽の?朝陽は、まだ河北には来ていないんじゃ。あまり遠くまで、気配を探る事は出来ないんです。そう伝えようと顔を上げたけど、黒龍様の金の瞳に射抜かれとてもそんな情けないことは言えなくなった。ええと、はい。朝陽の、気配。


 初めて神力を使う事を教わった日、朝陽に集中することで気配を探る事を覚えた。あの時と同じように、朝陽に集中する。朝陽、朝陽、と口の中で呟くと、少しだけ身体の痛みが和らいだ気がした。

 今、朝陽がどこにいるのか本当に知りたい。あんなに黒龍様の身を案じていた朝陽に、無事だったことを伝えたい。

 ゆっくり、ゆっくりと朝陽の穏やかで優しい気配を探る。少しずつ、私の神力が広がっていき、呼吸が整っていくのがわかる。


 当たり前だけど、朝陽は居ない。でも、何か似た気配を感じる。似ている、と言っていいものかもわからないけど、その気配の側に神力をおくと安心する。これ……。


「これ、かもしれない」


 うん。きっと、これが黒龍様の宝珠。正確な位置はわからないけど、方角はわかった。

 きっと、宝珠まで進むことはできる。でも、これ……。


「誰かが、宝珠の側にいます」


 守っている。そうだよね、宝珠がなくなれば、河北はまた貧しい寒村に逆戻り。飢えにおびえ、娘たちを売る。そんな暮らしに戻りたいなんて、誰が思うものか。手に入れた夏を必死で守るだろう。


「風鬼の血縁のものだろう。一人、神力の高い娘がいるはずだ」


 そういえば、風鬼さんが一度宝珠を取り戻しに来た時に、兄の孫娘が宝珠を守っていたって。たった一人で龍の宝珠を守っていると言うことは、紅河の信頼を得るほどに高い神力を持っているのだろう。そんな人から宝珠を取り戻す。私に、出来る?  


「結界の中にいるのはおそらく一人。宝珠の力を使った結界には龍は入れないが、外にいる者達は引き受けよう。月が沈むまでの時間、其方達を守ろう」


 『月が沈むまでは守る』つまりそれ以上は約束できないという事。今夜は上弦の月、夜半には月が沈んでしまう。それまでに、宝珠を取り戻さないと。


 呼吸が整ったせいか、痛みに慣れたせいか、私の身体は何とか動くようになってきた。珠樹に支えられながら、ゆっくりと立ち上がる。


「行きましょう」


 宝珠の場所は、私しかわからない。宝珠を取り戻して、珠樹と一緒に、龍庭に帰る。絶対に、帰るんだ。

 歩きだした私に、黒龍様がクツリと低く笑う。ああ、この笑い方も朝陽に似ている。


 歩みの遅い私のせいで、村の明かりが見える頃には月はかなり西に傾いていた。心なしか、黒龍様の呼吸も乱れている。それでも、ここで休むわけにはいかない。


 宝珠の気配をたどった先は、さっきまでお世話になっていた村長の家。確かに、ここから気配を感じる。やっぱり、村の宝は長が守っているのですね。

 では、宝珠を守る娘と言うのは……。


「人の気配は多いが、紅河はおらぬ。紫陽が、引きつけてくれているようだ」


 助かった、と言わんばかりに軽くため息の漏れる黒龍様は、きっと私以上に不安なのだろう。

 紫陽さんは、どうしているのだろう。朝陽の神力を少し分けてもらっているとはいえ、紅河は人が対峙できる相手にはどうしても思えない。大丈夫なのだろうか。


「雪花は、雪花のすることをすればいい。紫陽さんは紅河の力をわかったうえで向かったんだ」


 わかっている。紫陽さんは、河北から黒龍様を取り戻すために来た。その為なら、自分を気づかうことなどしない。そこまでの強い意志に、私の心配なんて邪魔でしかないだろう。


「宝珠を手にしたら、急ぎ我を探せ。長く宝珠を持つことは、ならん」


 もちろん、さっさと宝珠を取って黒龍様に渡したいですよ。わかっています。でもねぇ、風鬼さんでもできなかったことですよね?そんなに手早くは、出来ないと思いますよ?


「相手は、十にもならぬ娘が一人。情けない顔をするな」


 それが、その。彼女、さらに強くなっちゃっているかもしれないのです。

 朝陽の神力を移した紙を渡したって言ったら、黒龍様、怒るかな? 


「実は……」


「……そうか」


 呆れて言葉が見つからない、といった様子の黒龍様に顔を上げることができない。


「緑龍の加護は、想った相手にしか働かぬ。たとえ敵対する者が持っていたとしても、側にさえあれば其方に加護があるだろう」


 そう、なんだ。すごい。それなら、朝陽の加護は手放したことにはならない。良かった。


「早く、行け。紅河の私兵がここに来る」


 私兵。神官が、私兵を持ってまで守っている宝珠。


「黒龍様、ご武運を」


「ああ」


 月は、まだ空にある。どうか、沈まないで。



 闇に包まれた広い敷地。虫の声が響き、強い風が草を撫でる。縁側で月見でもしていたのか、座布団が二つ。宝珠を守る少女の姿はない。


「気持ち悪いな」


 珠樹がこらえきれないように舌打ちをした。宝珠がすぐそこにあるのに、誰も守っていないなんて確かに気持ち悪い。でも、いる。


「縁側から、入ろう」


 ここからお入り下さい、というように開け放たれた雨戸に襖。

 この村を守る宝珠を奪うのだから、せめて、堂々と招かれた場所からと思うのは、私が浅はかだからだろうか。


 月明かりが少し差し込む程度の縁側、部屋の中に入ってしまえば、闇が広がる。

 龍の気配が強くなり、守る者の敵意が強く刺さる。仕方ないよね、私は、敵だから。


「聞こえる?ねぇ、宝珠を返して。戦う気なんて無いの。黒龍様に宝珠を返して」


 無駄だろう、と思いながらも声を上げる。本当に、戦う意思なんてない事を少しでもわかって欲しい。静まり返った部屋の中、『宝珠を返して』に反応したのか敵意の刃が大きく鋭くなっていくのがわかる。

 仕方ない、よね。勝手にさせてもらおう。


「珠樹、こっち」


 宝珠の場所は、わかる。一歩近づくごとに身体が重くなる。結界の中に入ったのだろう、身体に刺すような痛みが走る。これだけの憎しみが私に向かっている。


 襖を開けた瞬間、生臭い匂いが鼻をついた。闇の中から空を裂く音がしたのと同時に、私の肩に鋭い痛みが走る。肩に触れた手に伝わる、ぬるりとした感触。着物は見事なぐらいに裂けていた。

 私の肩を裂いた相手が、部屋から出ていった気配はない。物音ひとつさせないで、私を狙っているのがわかる。冷静に、残酷に、獲物である私たちを見据えているのがわかる。

 背筋に、冷たいものが下りていく。


「雪花、宝珠はまだ先か?」


 珠樹の声が低く響いた。宝珠はまだ先。おそらく、すぐには手にできない。


「うん、もう少し先。少し時間がかかりそう」


 朝陽が角を土の中に埋めたように、おそらく宝珠も土の中。土の中から、河北に夏を呼んだ。すぐに宝珠を持って逃げるってわけには、いかない。


「宝珠のある場所まで走れ。こいつは、俺が何とかする」


「何言っているの?珠樹にどうにかできる相手じゃないの、わからない?」 


 この世に存在しない者の気配がする。紫陽さんが教えてくれた神官の使う呪術。この世にはいないはずの者を使って憎い相手を襲わせるのだとか。おそらく、今私を狙っているのはこの世の者ではない。 

 黒龍様は、『結界の中には、おそらく一人』と言っていたが、それは人の数。まさか、十やそこらの娘がこの世におらぬ者を操るなど思いもしなかった。


「朝陽が神力を分けた紙を、持っている。扱い方も聞いた。お前は早く宝珠を」


 いつの間に?私でも扱えないと言われたのに、珠樹が扱えるの?大丈夫なの?

 聞きたいことは山ほどあるのに、背中に添えられた手が早く行けと訴える。そうだよね、心配だけど、今は何とかここを切り抜けないと。

 私は私にできること、珠樹ができることは、珠樹にお願いする。


「珠樹、一緒に帰ろうね」


「ん」


 背中から珠樹の手が離れ、私の手に一枚の紙を握らせる。これ、朝陽の?


「行け」


 珠樹の言葉に押され、走り出した。空を裂く音が私に迫ろうとするが、何かに阻まれて届かない。何が起こっているのか、振り向くこともしないで先へ走り出した私は、自分でもひどいと思う。

 それでも、一緒に帰ろうといった約束を、信じている。

 違えるときは、命無き時。それは、珠樹との約束だって同じ。

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