望み

「明日は出立となる。今日はこれで終わろう」


 日が昇る前から始まった鍛錬に息を切らせていれば、紫陽さんがいつもよりも穏やかに笑い、水を飲ませてくれた。休憩なんて、私が倒れそうにならないとくれない人が、なんで?なんか、明日からの事がさらに不安になってきた。


「充分だ。たった七日で、其方はよくやった」


 初めて会った時と同じようににっこりとほほ笑む紫陽さんに、私は見捨てられたような感覚に陥った。私、やっぱり駄目だった?結構頑張ったつもりだったのですが……。


「そう不安がらずともよい。言葉通りだ。正直たった七日でここまでなるとは思わなかった。やはり、緑龍の加護は大したものだな」


 ……誉めてくれたのだろうけど、誉められたのが私ではないことはわかります。私の努力ではなく、朝陽の加護。もちろん、わかっていますけど。


「もちろん、其方の努力と才があってこその、加護だ」


 豪快に笑いながら、頭を撫でてくれた。思いきりつけたし感満載だけど、紫陽さんの手は心強い。もっと私の出来がよければよかったのに。

 ごめんなさい。


「明日のために、今日はしっかりと疲れを取るといい」


 私には薬湯を入れてくれ休むように促したのに、自分はまだ休む様子はない。

 墨をすり、朝陽に渡す。朝陽は、なにか呟きながら墨の上に手をかざしている。何をしているんだろう。


「毎日やっていたぞ。風鬼さんも」


 不思議そうに見つめる私に、珠樹が呟いた。毎日?全く気付かなかった。一体、何をしているのだろう。


「何をしているのかまでは知らない。あの墨を使って何か書いているだけに見えるけど、違うんだろうな」


 紙に書く?もしかして、神力を写している? 

 図々しいのは承知だけれど、朝陽や風鬼さんの神力を使う事ができればそれほど心強いものはない。結界の中、人ならざる者の力がもし村の民の命を削ることになっても、私が使いこなせる程度であれば、問題ない、はず。

 背筋を伸ばし、真剣な表情で何かを書き込む紫陽さんを、期待を込めて黙って見つめる。集中、してくれなくちゃ困るから、くれるかどうかはもう少し待ってから聞こう。


「悪いが、これは其方には扱えぬ。扱うには、自由に神力を使えねば」


 見つめていた意味が分かっていたのだろう、申し訳なさそうに紫陽さんが笑う。まぁ、そうだよね。朝陽の力を、私が扱えるわけはない。言われてみれば、確かにそうなんだけど。


「では、それは、何をするものなのですか?」


 何か、役割があるのだろう。そういえば私、明日出立ってこと以外何も聞いていない。朝陽も風鬼さんも河北には入れないと言ったが、珠樹と二人でどうしたらいいのか、どこから河北に向かうのか、河北に入ったら、どこに向かったらいいのか。

 何より驚いたのは、今初めて自分がどうするのか知らないことに気付いた事。もう、明日には出立だというのに。


 一人で反省し、落ち込み始めた私を不安がっていると思ったのだろう。紫陽さんは困ったように笑ってくれた。


「河北で、紅河と対峙したときには、私がこれを使う」


 え?紫陽さんが使う?ってことは……。


「紫陽、さん、も?」


「私にも、責があることだからな。本来であれば私がやらなくてはならぬこと。たいして役には立てぬが、道案内ぐらいはできよう」


 そんなこと、ないです。とっても心強いです。そう叫びたいぐらいなのに、何もかも頼って、助けてもらうことでしか、前に進めない自分の不甲斐なさが情けなくて、あふれる感謝はうまく言葉にならなかった。


「お前なら、大丈夫だ。みんな信じている。お前も、信じろ」


 言葉に詰まった私の手をとり、珠樹がつぶやく。自分の事で手いっぱいだった私は、珠樹の気持ちなんて考える余裕もなく、素直に頷いた。風鬼さんが困ったような顔をしていたことすら、気づかなかった。



「ここから河北までは五日程度だ。だが、人ならざる者が近づけば紅河はすぐに勘づくであろう。緑龍と風鬼は、これからは別に進む。其方たちは、私と一緒だ」


 紫陽さんの言葉に不安を感じた私と、思い切り不満をあらわにした風鬼さん。そういえば、風鬼さんは朝陽のこと嫌っていたなぁ。二人で行動するのは、嫌なんだろうな。


「紫陽、雪花と間男を頼む」


 笑っているのに少し苦しそうな顔をしている朝陽に、紫陽さんが笑う。


「間男、か。お前も素直じゃないなぁ」


 紫陽さんの声が小さく聞こえたが、意味を考える間もなく風鬼さんに手を取られた。


「雪花、黒龍様を頼む。紫陽は、国を守る事を第一としている。黒龍様は、河北の民を第一としている。其方だけは、黒龍様を第一としてほしい」


 痛みを伴うような心からの言葉。風鬼さんは、村よりも国よりも、兄の孫たちよりも、たった一人の主を守ることを願っている。黒龍様にとって河北の民がどれだけ大切かはわからないが、私は風鬼さんの願いを叶えてあげたい。


「必ず、黒龍様が風鬼さんの元に帰れるように、します」


 言い切った私に、紫陽さんと朝陽が溜息をもらす。


「人ならざる者との約束は、違えることは許されぬ。違えるときは命無き時、と知らぬか?」


 クスクスと笑いながら、私の手を自分の額に当てる。『約束を違えるときは命無き時』それで、以前私が黒龍様と約束したとき、朝陽の顔色が変わったのか。でも、約束って守るつもりでするものでしょう?

 


「違えません。もう、黒龍様とも約束をしているのです」


 黒龍様の宝珠が戻らなければ、朝陽に守られていた龍庭は滅ぶだろう。そうなったら、どのみち私は生きてはいない。この約束、違えるのなら私の命なんていらない。


「ならば、私は其方を守ろう。黒龍様との約束を違えるわけにはいかぬが、其方の力になることはできる」


 そういって、自分の数珠を私にくれた。私の手首には少し細いと思ったそれは、ぴたりと手首に回り、違和感なく肌になじむ。これも『人ならざる者』の持つ物だから、かな。


「武運を、祈っている」


「私も、祈ります。願います」


 風鬼さんの願いが叶うように。黒龍様の宝珠を取り戻せるように。

 誰よりも強く、心より願う。



「これ以上河北に近付くと、紅河は我らの存在を感じるだろう。夜に気配を悟られるのはまずい。いったんここで休み、夜が明ける前に発とう」


 紫陽さんの言葉と同時に座り込む珠樹。紫陽さんの家を出てから、珠樹の疲れ方が普通ではない。なにか、おかしい。でも、何度聞いても、答えはいつも『大丈夫』

 『大丈夫』ではないことは誰が見てもわかるのに。


「珠樹、これは其方が使え」


「……はい」


 眠りに落ちる前に、耳に響いた小さな言葉。必死に開いた視界の隅で、珠樹が何かを懐にしまい込んでいる。珠樹の苦しそうなため息が、闇の中に溶けていく。


「…ファ。雪花」


「ん」


 闇が濃い。出立は夜が明ける前と言っていたはず。まだ夜が明けるどころではない。すぐそばから珠樹の寝息が聞こえる。疲れ切っている寝息。珠樹は、龍庭を出てから一度だって疲れたなんて言っていない。だけど、私の代わりに荷を持ち、食べ物を探し、土の上に横になる。疲れていないはずが、ない。


「雪花、聞こえているか」


 少し覚めた頭に響くのは、紫陽さんの低い声。はい、起きています。


「起きたなら、少し歩くぞ」


 珠樹を、置いて? 


「ここは、紅河の神力は及ばない。それに、その坊主にも、緑龍の加護はある」


 心を読んだかのような、柔らかな声。出立してからの紫陽さんの声は、優しい。


 葉の広い草が月の光を反射し、闇夜に慣れた目は歩くことに不便はない。見通しの良い草原とはいえ、珠樹からはずいぶん離れてしまった。これ以上離れると、異変に気づけない。紫陽さんを疑うわけではないが、今の珠樹からはあまり離れたくはない。


「紫陽さん、どこまで行くのですか?」


「そうだな、坊主を起こさない程度、ここらでもよかろう」


 立ち止まり向き直ったときには、柔らかかった声は固く厳しいものに変わっている。緊張からか、自然と腕に力が入った。


「明日には、紅河の神力が届く中へと入る。紅河の神力は、人の命を削る。弱者は、特に」


「はい」


 弱者、とは私の事だろう。でも、削られるからといって、近づかなければ黒龍様も宝珠も探すことなどできはしない。いまさら、何を?

 おそらく不満な顔をしていたのであろう私に、紫陽さんは無表情のまま続ける。


「其方は、大丈夫だ」


 では、弱者とは。嫌な予感が胃をせりあがり、口の中に、苦いものが広がる。


「危ないのはあの坊主はだ。坊主の体力はもう相当に削られている。この状態では、安静にしていても十日も持たぬ。明日より、紅河の手中に入ればさらに命を縮めるであろう。それは、坊主にも伝えてある」


 え?え?何を?珠樹が、十日も持たない?持たないって、どうなるの?珠樹は、それを知っている?紫陽さんの言葉に、私の頭は思考を止めた。


「明日より、紅河の手中に入る。そうなれば、紅河の神力の影響は坊主一人が受けることになる。雪花、其方の分もな」


 は?私の分も?何それ?どういうこと?

 思考を嫌がる頭のせいで言葉は出てこないが、耳は紫陽さんの言葉を一つ残らず拾っていく。


「坊主は、これより先自分が役に立たぬことをよく知っている。それでも、其方のためにできることを、と考えたのであろう。風鬼に自ら頼み込み、其方の盾になることを望んだ。風鬼の風を操り、紅河の神力をすべて自分にと」


「……盾など、要りません」


「其方がそう言うことも、坊主は知っている。だから、其方に黙って盾となる事を選んだ」


 考える力を取り戻した私の頭に、急激に血が上っていくのがわかる。『盾』だなんて、それも、黙って。


「そう怒るな。本当は、其方には黙っているとの約束だ。だが、違えた。坊主は『人』だから、な」


 それも、どうかと思うけど。でも、そこには触れない。教えてくれたことには感謝している。『怒るな』と言って困った顔をする紫陽さんに、また怒りがわいてくる。勝手に盾になって、命を縮めて、それで私が喜ぶとでも思っているの?私は、そんなに弱くない。


「珠樹を盾にしてまで、我が身を守ろうとは、思いません」


 どうして、それがわからない? 


「だが、其方は坊主の盾となったのではないか?」


「……」


 それは、でも。


「其方は、坊主の平穏を守ろうと自ら供物になった。龍神の妻などと、信じていたわけでは無かろう?」


「珠樹のためだけでは、ありません」


 そう、あの時は、美羽も供物とされるところだった。村長でも叶わなかった飢えへの恐怖。それを取り去るためなら、仕方なかった。


「後悔がないのは結構なことだが、男にとって、女を盾に得た平穏など何の価値もない。其方は、坊主が自分のために盾になることを良しとしていない。だが、坊主にも理由はある。其方と同じように、家族と村を守るため、という理由が」


 確かに、そう。私がここで黒龍様の宝珠を取り戻せなければ、村には次の春はこない。村長も、姉様も、美羽も助からない。それでも、珠樹は村から離れている。私が、黒龍様との約束を違えるときには、珠樹は、珠樹だけは、このままどこか別の村で暮らしてほしい。それが、私の願い。


「其方はこれまで何を見てきた?あの坊主は、女を盾に得た平穏を喜ぶような男か?」


 わかって、います。それでも……。


「とにかく、伝えた。明日より紅河の手中だ。焦れば本懐を遂げることは出来ぬが、坊主の無事を思うならあまり時間もかけられぬ。言いたいことは、そこだ」


「はい」


「そして、もう一つ。私の望みはこの地をあるべき姿に戻すこと。河北を無くしたとしても、黒龍が望まなくとも、たとえ坊主が死んだとしても、私は紅河から黒龍を解放する。この偽りの夏を終わらせるのだ。私が坊主を気にかけてやれるのは、今日までだ」


 すまぬ、と頭を下げられた。きっと、本当に私に伝えたかったのは、それなんだろう。紫陽さんは、自分の望みだけをかなえれば、いい。


 私の望みは、私が叶える。

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