出立


雪花シュエファ、雪花」


 闇から引き上げるような、優しい声。どこかで聞いたことのある、この声。


「起きろ、雪花。もう陽が昇る」


 乱暴にはがされた布団を追いかけるように慌てて起き上がった。陽が昇るって、まだ暗いけど?出かけるの、朝じゃなかったの?

 まだ開ききれない目を無理にこじ開けて恨みがましい視線を投げた相手は、全く気にするそぶりも見せない。


「行くぞ」


 有無を言わせない朝陽チャオヤンの背中は、龍神様としての威厳にあふれている。


 誰にも見送られることなく、家を出る。もう、この門を『行ってきます』『ただいま』といいながらくぐる事はないと思うとすごく寂しい。これからのことを思うと、すごく怖い。私の身体よりもはるかに大きな不安に潰れそうになりながらも、朝陽の背中を必死で追う。

 そんな私に、わざとらしいくらいの溜息をついた朝陽が立ち止まる。


「心残りは、あれか?」


 先に門をくぐった朝陽が顎で指した先には、珠樹チュシュ。なぜか荷物を持って立っている。


「珠樹?」


「俺も、行きます」


「は?」


 あまりにも突然の珠樹の発言に、私の口から出たのは甲高い間抜けな声だった。


「何言っているの?あんたが一緒に行っても、役になんて立たないって!」


 私は朝陽の妻だから神力を手にしている、はず。黒龍の宝珠を探し取り返すのは私の役目。朝陽に無理を言って春を呼んでもらった私の責。珠樹は、一緒に行く必要なんてない。


「役に、立ちます。必ず」


 まっすぐに朝陽に向かう瞳。朝陽は、喉の奥で小さく笑った。


「間男、神力のないお前にしてもらうことは無い。それでも、そうだな。荷物持ちぐらいならできるのか?」


「……はい!」


「我らに着いてこれぬ時は、置いていく。それでも?」


「はい!」


 嫌だ。珠樹も一緒なんて、嫌だよ。黒龍の宝珠を取り戻すの、危ないんでしょう?私に傷を負わせるかもしれない、なんて言っていなかった?珠樹のことも、一緒に守ってくれるの?朝陽、今そんな力あるの?


 言いたいことがたくさんありすぎて、何一つ言葉にならない。餌をねだる金魚のように口をパクパクと開ける私に、朝陽が不思議そうな顔をしている。珠樹は、私が何を言いたいのかわかっているみたいで不機嫌そうな顔をしている。そんな顔しても、嫌だからね。


 私、嫌だから。


「では、行くか」


 私の意志なんて気にすることもなく、朝陽は歩みを進める。ちょっと、待って。夫婦なら、お互い話を聞くものじゃないの?何とか言葉にしようと必死に朝陽の袂をつかんだが、止まってくれる気配はない。


「雪花よ。間男は、覚悟を決めて我らの供を願い出た。男の覚悟を、無にするべきではない」


 にこやかな笑顔と静かな声が、私の言葉を止めた。

 わかって、います。珠樹は、何も考えずにこんなことする人じゃない。朝だって弱いし、荷物持ちなんて絶対やりたくないはず。それでも、行くって言った。こんな時間にここで待っていてくれた。村のためか、私のためか、自分のためか、わからないけど。


 本当は、珠樹が来てくれてすごく嬉しい。でも、それは珠樹の危険を望むってことで。珠樹は、お世話になった村長の子供。次の村長は珠樹なんだから、怪我なんてさせちゃいけない。それなのに、私、恩知らずだ。

 私の胸の中で、整理できない思いがぐちゃぐちゃと回っている。


「雪花は、村のために黒龍の宝珠を取り返す。なら、村長の息子である俺が、黙って家で待っているわけにはいかない」


 余計な事は考えなくていいから、と笑うその顔は小さいころと何一つ変わらない。

 ああ、もう、ありがとう……。

 お礼すら声にならない。歪んだ世界、先を行く2つの背中を必死に追いかける。




 龍庭を出てから、七日目の夕暮れ。毎日山の中を歩き続けているせいで、ここがどこなのか全くわからない。あれだけ悩まされた長い冬は龍庭周辺だけだったようで、山を二つ越えたあたりから真夏のような暑さだ。夏にはまだ少し早いのでは、と嘆いた私に、朝陽が憂いた表情で答えた。


「季節を無理に変えれば、どこかに歪みが生じる。龍庭の長い冬に代わり、この辺りは早すぎる夏だ」

 

 冬が長いのだから、別の場所で夏を長くしたら季節のバランスはとれるという所か。そんな単純なものなの?季節って。

 それにしても、暑い。黙って立っているだけでも汗が出るほどの暑さなのに、急な山道を登り続けるっていうのは相当にきつい。荷物も持たずにいる私がこれだけきついのだから、珠樹はもっときついのだろう。着物が汗で濡れているのがわかる。朝陽だけは涼しい顔をしてどんどん進んでいく。時折私たちを振り返り、早くしろと言わんばかりに深く嘆息する。遅くて、すみません。


「今夜は、ここで休むか」


 朝陽が立ち止まったのは、川の側。大きな木の根が盛り上がり、腰を下ろすには調度よさそう。水浴び、したい。

 川に手を浸して、うずうずとしている私に朝陽が笑う。


「間男、何か食べられそうなものを探しに行くか。雪花は、その間に水に入っているといい」


 嬉しい、けど一人で?ちょっと、不安。


「ここは空気が澄んでいる。獣も我の神力を受け継ぐ妻を、襲うことはない。よって来るのは、間男ぐらいのものだ」


「なっ、なんで、俺が?」


 急に自分に話を振られて慌てふためく珠樹に、それを楽しそうに眺める朝陽。家を出てから、何度かこんなやり取りがある。朝陽、口では『間男』なんて言っているけど、実は結構珠樹のこと気に入っているみたい。


「冷たい」


 二人がいなくなってから、着物ごと川に入った。息が止まりそうなぐらいに冷たいけど、流れは緩やかで澄んだ水が心地いい。汗だくの着物を一枚ずつ洗い、脱いでいく。着物を洗い終わってから、頭まで水につかり髪も洗った。暑さでのぼせていた頭を、冷たい水が冷やしてくれる。緩やかな水音、風が木々を撫で、葉が揺れる。穏やかで、澄んだ時間。


「雪花、終わった?」


 暑い~、と言いながら茂みの向こうで動く気配。ああ、私の癒しの時間は終わった。


「もう終わるから、ちょっと、待ってて」


 慌てて手ぬぐいで身体を拭き、代わりの着物を身に着ける。


「はい、いいよ。珠樹も水浴び、したら?着物も汗だくだし。あれ、朝陽は?」


「……もう少し、木の実を探すって」


 言いながらさっさと水につかって着物を脱ごうとする。珠樹って、隠し事するときは逃げるんだよね。


「そう、ちょっと探してくるね」


「……迷うと、危ないぞ。待っていた方がいい」


「ん」


 迷っても、朝陽が見つけてくれる。わかっているくせに、そんなこと言うのは、朝陽の側に行かせたくないから。わかっているけど、行かなきゃいけない気がする。



「朝陽?どこ?」


 朝陽は、私が迷うといつもあっさりと見つけてくれる。神力の気配をたどるのだとか。私にはそんな芸当はできないので、朝陽を探すときはいつも声をあげ迎えに来てくれるのをひたすら待つ。今も、とりあえず珠樹が来た方向に向かい、声をかけながら歩き続けるだけ、という他力本願な探し方。二、三回声をかければ朝陽がすぐに来てくれる、はず。それなのに、どうしてか今日は来ない……。もう、十回以上声を上げているのに、来てくれない。見つけられたくないってことなんだろうか。心配だけど、隠したい事なら黙って隠されている方がいいのかもしれない。


 ……戻るか。


 来た道を戻ろうとして、迷った……。

 もともと土地勘のない場所。周和国に向かっているというのも、自分で方角がわかっているわけではなく、朝陽が決めた目的地に向かい、珠樹が私たちでも行けそうな道を決める。友好的な国に行くわけではないので必然的に人の来ない道を選ぶ為、今進んでいる場所は『ここ、人通ったことあるの?』っていうぐらいの山の中。珠樹に言われたこと、いまさらながら身に染みる。

 『山で道に迷ったら、川の流れに沿って下りなさい』小さいころ、村長に言われたことを思い出す。でも、川から離れてしまいました。『迷ったら、その場を動かない。迎えに行くから待っていて』姉様に言われたことも、思い出す。うん、こっちだな。珠樹は私が朝陽を探しに行った事を知っているし、朝陽なら、すぐに迎えに来てくれる。私が動くよりいいよね。あきらめの早い私は、さっさと近場の木の根に腰を下ろす。お腹、すいたなぁ。珠樹、何をとってきたんだろう。一つもって来ればよかった。だんだん、陽が落ちてきた。

 

「チャオヤァン……」


 思わず出たのは、自分でも情けないぐらいの弱い声。どうして今日は来てくれないのだろう。そんなに具合が悪いのだろうか。もしかして、倒れているとか。

 朝陽は、龍庭を出てから、一度も体調不良を訴えたことはない。『少ない神力で身体を動かすこと』に慣れたんだなぁ、と勝手に思っていた。もちろん、『半年も持たない』といった言葉を忘れたわけではない。でも、涼しい顔で先を行く朝陽に安心して、頼り切っていた。


「我慢、していたのかな。ごめんねぇ」 


 誰も居ないのに、懺悔の言葉が口をつく。後で、ちゃんと朝陽に伝えなくちゃ。


 不意に、私を包む空気が変わったのがわかった。顔を上げると、自分の指先すらも見えない闇が広がっている。さっきまで確かに陽は落ちきっていなかったのに、どうして……。

 怖い。今更ながら、今の自分が置かれている状況を自覚した。

 私は龍の宝珠を奪いに行くのだ。きっと、『周和国の帝に仕える神官』はもう気づいてる。朝陽から、離れるべきではなかったのだ。



「……」


 闇の中から小さな声がする。私に話しかけているのはわかるけど、聞き取れない。


「だれ?」


「……者」


「え? なに?」


 答えるたびに、相手の声が少しずつ大きくなる気がする。不思議なことに、敵意は感じられない。


「緑龍の加護を受ける者よ、我が声を聴け」


 緑龍。朝陽のことだ。この声の主は、朝陽を知っている。


「貴方は、だれ?」


「我は、黒龍。神官が忌々しい結界を築き、我の力を抑え込んでいる」


 神官が結界を?黒龍様、宝珠と一緒に捕らえられちゃったってこと?神官って言っても人間でしょう?龍神様を捕らえるなんて、そんなことできるの?そもそもどうして結界に捕らえられているのに、話ができるの?

 私、騙されていない?


 聞きたいことが山ほど出てくるけど、頭がいっぱいになりすぎて何も聞けない。そんな私を気にかける事もなく、黒龍様が話を続ける。


「其方は、緑龍の加護を受けてこの結界を破くことができるのか?」


 ……できる、とは断言できません。朝陽は何も教えてくれないし、どうやったらいいのかもわからない。それでも……。


「返答を」 


「必ず、貴方と貴方の宝珠を周和国の神官から取り戻す。約束、します」


 そう、出来るかどうかなんて言っていられない。やらなきゃ、本当の春は来ないし朝陽の身体も持たない。必ず、周和国から黒龍を取り戻す。


「では、緑龍に伝えよ。風鬼ふうきに供を許す。風鬼への言伝は、其方に託した」


「言伝?なんと伝えれば?」


 返事はなく、瞬きの間に闇は消えていた。陽は落ちたのだろうが、空にはまだ紅い色が残っている。

 言伝。なんて伝えるのか、聞いていないんだけど……。



「……ファ。雪花!」


 朝陽が、こちらに向かってくるのがわかる。具合、よくなったのかな。


「朝陽。こっち!」


 朝陽の声は位置をつかみにくい。動くことなく精一杯の大声で返事をして、迷子の子供のように朝陽が来てくれるのをじっと待つ。

 茂みをかき分けて目の前に現れたのは、なぜか珠樹。


「あれ?朝陽は?」


「すぐに、来る」


 珠樹、なんか不機嫌?あ、もしかして、水浴び中に私を探すの手伝わされた? それは、ごめんなさいだ。


「珠樹、ごめんね。戻ったら、もう一度、水浴びしていいから」


「……そうする」


「雪花、大丈夫か?」


 慌てて茂みから姿を現した朝陽。普段から白い顔は蒼く、頬に触れた手はひどく冷たい。


「大丈夫だよ?どうしたの?そんなに慌てて」


「黒龍が其方に声を届けただろう。何を言われた?龍の結界を張られ其方の元に行けなかった。許せ」


 ああ、あの暗闇はやっぱり黒龍様だったんだ。龍の結界で、朝陽を遠ざけた?聞かれたくなかった話なのかな?大した話じゃなかった気がするけど……。

 考え込んでいれば、珠樹までもが不安そうな顔で私の顔を覗き込む。ああ、いけない!返事をしなくちゃ!


「少し、話をしましたけど、あれ?何か、朝陽に伝えることがあったような」


 不思議なことに、ついさっきの事なのに上手く思い出せない。確かに話したのに。あれ?あれ?と繰り返す私の頭に朝陽がそっと両手を置いた。


「落ち着け。大丈夫、其方はすぐに思い出せる」


 朝陽の言葉が、ゆっくりと優しく私の頭の中に広がっていく。広がった言葉が、黒龍様の言葉を拾い集めてくれたようで、さっきのやり取りが頭の中に戻ってきた。


「あ、伝言。えっと、風鬼に供を許す、と。風鬼への伝言もあるみたいなんだけど、私聞いていなくって」


「風鬼に、供を……」


 朝陽の眉間にしわが寄り、口元が歪む。なんだろう。風鬼さん、苦手なのかなぁ。他には、と聞かれて、黒龍様を必ず取り戻すと約束をしたと伝えると、頭を抱えられた。何?何?だって、そのために周和国に行くんでしょう?決意表明ぐらいしてもいいんじゃないの?


「……よい。ともかく、戻ろう」


「はぁい……」


 先を行く細い背中が、いつもよりも丸くなっている気がする。なんだろう、そんなに悪いことした?



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