5 終章

ドォーンという轟音に、栄一はハッとした。

 デスクに突っ伏していた体を起こすと、資料の山を抱えた年下の先輩である山崎が目に入った。

「いったい何事だ。礼砲でも撃っているのか?」

 目をこすりながら尋ねると、山崎は呆れた様子で答えた。

「なに寝ぼけてるんですか、ただの午砲ですよ」

 午砲が丸の内のドンと呼ばれるようになって久しい。

 栄一は掛け時計に目をやった。時刻は午前十一時五十分をさしている。

「まいったな、もう昼か……」

 夜通し調べ物していて、気がつけば眠っていたようだ。むかしはこんなことはなかったが、と自嘲の笑みを浮かべた。

 明治十年二月。東京警視本署の一室。栄一はふたたびここにいた。

 むろんすんなり戻ったわけではない。あれから家族と共に畑を耕す生活を五年ちかく送った。

 それは苦労の連続だったと言っていい。なんせ政府に追われる身だ。身から出た錆とはいえ、精神的にも休まるときはなかった。

 ただ栄一にとって幸運だったのは、警察の組織自体が変遷を続ける過程で、広沢実臣暗殺事件そのものが歴史の彼方へと忘れられていったことであった。結局犯人も見つからないままだ。

 慣れない畑仕事に体は毎日悲鳴をあげたし、村にはもと幕臣もいて、なかには新政府に仕えていた栄一に対し、嫉妬を含んだ軽蔑の目を向ける者もいた。

 それでも突然やってきた栄一を、家族はあたたかく迎え入れてくれたし、大半の近所の人々は親切にしてくれた。

 それにいいこともあった。

 妹は良縁にめぐまれ、元気なふたりの子どもたちの母となった。両親もいまだ健在で、第二の人生をたくましく生きている。

 栄一も昨年には妻をもつことができた。名前はフミ。気丈で明るく聡明な女だ。

 フミの父親は村のなかでは裕福な百姓で、徳川時代このあたりの庄屋を務めていたせいもあってか、栄一の事情を理解したうえで気に入ってくれたようだった。

 夏には第一子も生まれる予定だ。

 みな生活は楽ではなかったが、平穏な日々を過ごしていた。そんな日々がずっと続けばいいと、こころから思い始めたころ、一通の手紙が栄一のもとに来た。差出人は勝安芳。

 手紙は、巡査の募集に蔵之介が応募し、採用されたという話から始まっていた。

 それを読んだとき、栄一は蔵之介が無事でいたことに喜ぶよりも先に、吹き出してしまった。

 栄一にはその魂胆が手に取るようにわかった。蔵之介の考えていることは、つまりこうだ。

 西郷隆盛の征韓論に始まり、六百人もの辞職者を出した一大政変。それに端を発して起こり始めた不平士族の反乱、廃刀令、秩禄処分などなど……。ことここに至って、薩摩の巨頭西郷隆盛が武装蜂起するのは時間の問題であり、それを想定しての巡査募集―――。蔵之介はそう踏んだのだ。そしてその読みは見事に当たった。

 採用された九千五百名のうち、実に半数近くが東北出身の元士族だという。これはつまり不平士族予備軍であり、蔵之介もまた政府にそうみなされているのだ。むろん、偽名を使っての応募だったのだろうが、政府は馬鹿ではない。実際、勝がこうして栄一に手紙を寄越したことからも、正体がばれているのは間違いない。

 その予備軍を飼い慣らすことで不平不満を抑え、かつ、憎き薩摩への恨みを戦争で晴らさせる、というのが政府の思惑だろう。彼らが奮戦することは間違いない。

 蔵之介は見事に仇敵薩摩、そして西郷隆盛へ恨みを晴らす機会を手に入れたのだ。

 そんな蔵之介に栄一は半ば呆れ、半ばうれしくもあった。

 勝は、最後にこう書いていた。

 東京警視本署につとめる気はあるか、と。

 栄一は悩んだ。本心を言えば、自分にはその仕事のほうが向いているという気持ちがあった。だがその本心を言葉にすることはためらわれた。ここで生きようと決めてから五年。さんざん迷惑をかけながら、個人的な理由でまた家族を捨てるなどできない。そう思っていた。

 だが、フミはちがった。

 勝からの手紙を栄一の両親に読ませ、説得するように勧めたのだ。両親も最初は戸惑ったようだが、フミの熱意にほだされ、結局そのとおりにしたのだった。

 礼の言葉を口にすると、フミはこう言った。

「生まれてくるこの子のために、この国を少しでもいい国にしてください」

 及ばずながら少しでもその力になれるなら、この身をささげようと栄一は思った。

 そういえば子どもの頃、同心というお役目に人生をかけると誓ったのは、将軍のためでも家禄のためでもなく、ただ自分の住む町と人を守りたかったからだ。支配者が変わっても、そこに住む人々が日本人であるということに違いはない。そんなことを思ったりした。

 手紙が届いてから約ひと月後、栄一は身重の妻を残し、あわただしく東京へとたった。落ち着けば呼び寄せるつもりだ。

 それからさらに半月が経ち、栄一は書類整理に追われる日々を送っていた。そのことに不満はない。そもそもいきなり本署に配属されただけでも恵まれているのだ。

 十も年下の先輩である山崎のことも気に入っているし、山崎も年長の栄一を立ててくれていた。

 その山崎が遠慮がちに言った。

「見送りに行かなくていいんですか。いまならまだ間に合うかもしれませんよ」

 今日九州へ出兵する警視隊のことであった。徴募された巡査たちは警視隊として征討軍別働第三旅団に編成されていた。

 さっき栄一は、この第三旅団に向け、近衛砲兵が礼砲でも撃ったのかと勘違いしたのだ。よく考えれば、そんな紛らわしいことをするはずはないが。

 この警視隊のなかにいる蔵之介を見送りに行かなくてもいいのかと、山崎は言っているのだ。

 寛八や蔵之介との再会は数日前にすでに果たしていた。

 ふたりとも相変わらずだったが、蔵之介はとうとう髷を切りおとし、ザンギリ頭になっていた。反面、寛八はちょん髷を頭に乗せたまま、上野で始めた床屋で横浜仕込みの散髪の腕を振るっていた。

 今日あらためて見送りにいくこともないだろうと、栄一は考えていた。どうせまたひょっこりと顔を出すだろう。二度あることは三度ある、だ。それに警視隊は後方支援だとも聞いている。今生の別れということはあるまい。

 栄一は、「ああ」と腑抜けた返事を返しながら席を立った。掛け時計に歩み寄って、文字盤のふたを開く。

 それを見ていた山崎が言った。

「そんなこと自分がします。帰って休んだらどうですか」

「好きでやっているんだ」

「はあ、そうですか……」

 ふしぎそうな顔を、文字盤と自分に交互に向ける山崎に、栄一は思わず笑みをこぼしながら言った。

「ドンに合わせてこうやって針を頂点に合わせると、これまでの二十四時間が終わって、それが動き出す瞬間、新しい二十四時間が始まる。わかるか?」

「はい……」

 山崎は答えたが、それは口だけのことで、まったく理解してはいないようだった。この若者にこの感覚をどう伝えればいいのか。

「つまり午砲はな―――」

 そう言いながら栄一が絞りだしたのは、

「……礼砲のようなものだ」

 という言葉だった。

 山崎はあからさまにぽかんとした表情を浮かべたが、栄一はちがった。

ふいに出た自分の言葉に妙に納得した。あのとき黒門前で蔵之介が言った言葉の意味を見つけた気がしたのだ。

 終わりゆく時代に対し、敬意をこめて撃つ砲弾―――。

 それが、当たらないアームストロング砲の、自分なりの答えだ。

「午砲はな、終わっていく一日に対する敬意と、これから始まる一日に希望を託して撃つ空砲なんだ」

 諭すような口調で言い直したが、無駄だった。

「いや、だからさっきのは礼砲ではなく……」

 と、ますます困惑の表情を浮かべる山崎が、だんだん不憫になってきた。この真正直な若者を、これ以上混乱させることもない。

「つまりそう思ったほうがいいだろう、ってことだ」

 話を締めくくるようにそう言うと、栄一は窓の外を見上げた。

 耳には、まっさらな時間の始まりを告げる午砲の残響がまだ残っている。

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維新の残響 植木田亜子 @ccb43601

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