ユダの裏切り

三津凛

第1話

「ユダの裏切りがなければ、キリストは神になりえなかった」


同じ絵を見てそんな感想を呟く晴海にその時は何ほども思うことはなかった。銀貨30枚に目が眩んで師を売り渡したユダは醜い顔で接吻を迫る。

不遜な裏切り者にしか見えないユダと達観した横顔のキリストの対比は鮮やかでジョットの「ユダの裏切り」は私の好きな絵の1つだった。

「こうやって見ると、ユダは随分ブサイクに描かれてるのねえ」

晴海が複製されたジョットの絵を見上げて呟く。

「あぁ、うん」

私が生返事をすると、晴海は面白くなさそうに顔をしかめる。

「なあに、今日はご機嫌ななめじゃない?」

はぁ、と息と共に声にならない怒りを込めて 晴海の作った台本を筒のように丸める。

刺激しない方が得策だと思ったのか、

「缶コーヒーでも買ってこようか」

少し卑屈にも見える笑顔を張り付けて晴海は外に出て行った。

自分を押し通す時と、相手を押させる時をよく分かっている彼女はこの劇団には間違いなく必要な人材だったと思う。気が利いて勉強 熱心で人好きのする彼女の人柄で一癖も二癖もある女優や男優たちをまとめてこれたとこも大きいだろう。

そんな彼女にこうも腹が立つようになったのは最近長く劇団に所属していた女優の綱川睦美が突然今月いっぱいで退団すると言いだした頃からだった。

今年に入ってから、ベテランのスタッフや女優が櫛の歯のように抜けていくことが相次いでいた。

理由を聞いても一様に歯切れが悪く、かといって完全にこの世界から足を洗うというわけでもなさそうなのが気持ち悪かった。しつこく詮索することもできなくはなかったが、その分穴の空いた役を埋めたりすることに忙しく、いつのまにか忘れてしまうのが常だった。いなくなった人間について、あれこれ嗅ぎ回る時間があれば良い芝居をするための練習に当てたかった。

晴海に何かと文句を言ったり八つ当たりするたびに、

「もっと良いものを作ればいいじゃない?あなたならできるわよ」

と言われることに気を良くしていたのも事実だった。

今ではそんなおめでたい自分を殴ってやりたい気持ちだった。

晴海の書いた台本を読む気にもならず床に寝転がる。誰もいないせせこましい舞台と迫るような客席が安っぽさをより一層際立たせる。バックには引き伸ばされたジョットの絵がかかる。

自分をキリストに例えるほど傲慢にはなれないが、自分を死に追いやるユダを彼はどんな思いで見つめたのだろう。

「甘いのしかなかった、はい」

戻ってきた晴海は缶を投げて寄越す。

それを受け取りながら、その裏切りがなかったなら彼はユダヤ人が望んだような王にでもなったのかなと思ってみる。

「疲れてるんじゃない?」

まるで恋人のような手つきで目にかかる私の髪の毛を書き上げて、晴海が微笑む。

キリストが誰かを知らせるために接吻したユダもこんな風に甘い顔で迫っていったのだろうか。

邪気のない手つきで寝首をかくような真似をする女を私は一生許せないだろうと思った。

「あと2週間で公演ね。頑張らないと」

明るく言う晴海の言葉に私は無言で頷きながら、ぬるい缶コーヒーを啜った。


晴海の裏切りを知ったのは偶然暇潰しに見た売出し中のある劇団の芝居を見た時だった。

パンフレットの真ん中に「檸檬ライラ」というふざけた名前が目を引いて、なんとなく嫌な予感がした。

スポットライトを浴びた女優が紛れもなくこの間急に抜けていった綱川睦美で私はその後の芝居の筋も頭に入らないほど呆気に取られた。

檸檬ライラとふざけた名前でぬるい芝居をしている睦美に刺すような視線を終始投げかけてやったが、気づくはずもなく私ははらわたの煮え繰り返る思いだった。

濃い人工的な化粧をした睦美がはねていく客に頭を下げながら一言二言何か言うのを私は長い間柱の影から見ていた。どう見てもあの綱川睦美に間違いなさそうだった。

大手の劇団に欠片も興味がない、なんて嘯いていたのが冗談のように彼女は看板女優然としていて私は余計に腹が立った。あらかた客足が片付いた後で、獲物を見定めた殺し屋のような足取りで私は睦美に突進していった。

視線が合った途端、睦美は氷漬けになったように硬い笑顔になった。

「こんなところで何してるの」

少し背の高い睦美を睨みつけながら言った。

「見ての通り、芝居よ」

嫌味なほど背筋を伸ばして睦美が応えた。

「誰からスカウトされたの。誰があなたをこんなところに引っ張りこんだの」

これではまるで間男に女を取られた男の言い草だ、と自分で思ったがどうにもならなかった。

苦いものを食べたように睦美は唇を歪めて、しばらく押し黙った。それすらも隠微な芝居に見えた。一体これは誰の差し金なのだろうか。

睦美の整った顔を台無しにしてやりたくて、思わず右手が動きかけた。

だが女優の顔に傷をつけるわけにはいかない。

私は代わりにパンフレットを取り出すと、睦美の目の前でそれを引き裂いてやった。檸檬とライラの文字がちょうど真っ二つになるように計算までして。それを見ると睦美は火が落ちたように激昂してひと息に叫んだのだった。

「そんなに知りたいなら教えてあげるわ!晴海さんよ!彼女がここの劇団を紹介してくれたのよ!」

思いがけない言葉に私は力が抜けた。指から紙片が滑り落ちてパラパラと雪のように床に落ちる。

「もうあんたの劇団は終わりよ。他のスタッフも他の場所に移るでしょうね」

冷えた声で睦美は言うと、私を押しやって去って行った。

その後どんな風に家路についたのか、よく憶えていない。


私の中で晴海に対する不信感はその時から芽生えた。相変わらずスタッフや女優の退団は続いていたが、もはや他の人間などどうでも良いと思った。

飼犬に手を噛まれるなど生易しいものではない。

晴海の甲斐甲斐しいまでの献身を見るたびに、この女の考えていることが分からず私はヒステリーを起こした。

その度に私と周りの間に薄い膜のようなものができ、段々と厚くなっていくのを感じた。 舞台の陰であからさまに悪口をスタッフ同士が叩き合っているのも何度も聞いた。

だが晴海はその輪に加わるどころか、たしなめるような真似までしてみせて1人懸命に私が膜の中に閉じこもるのを阻止しようとしていた。


「もう2度と会うことはない、って人は思うとどんな人間にでも優しくできるものよね」

私が晴海の背中に向かって言い放つと、要領を得ない顔で振り向く。

私は意地悪な気持ちで続ける。この嫌味なほどの甲斐甲斐しさと、優しさは何かを諦めて割り切った人間特有のものだと確信した。

「例えば、もうすぐ死ぬと分かっている人間にはそれがどんな嫌な奴でも優しくできるでしょ。でも生きてこの先何度も会い続ける人間にはそうはいかないものじゃない」

「…そうかな」

「そんなものだよ」

晴海は少し不機嫌そうにため息をつく。

「何が言いたいの?」

「別に、ただ思ったことを口にしただけ」

台本に目を落とし、活字を追う振りをする。

新約聖書に材を取ったというが、私にはよく分からなかった。いや、分からないなど軽々しく思うものではない。

分かろうとしないから、分からないのだろう。

目の前に丸い指先が降りてきて髪の毛をかきあげられる。

「少し休んだら?疲れてるのよ」

同じ指先で私は首を切り落とされるだろうと思った。

視線の先に醜いユダの姿が見えた。


ようやく公演が終わった後で、私は正式に劇団の解散を発表した。

晴海の目論見通りかは知らないが、これ以上続けることは精神的にも無理だと思ったのだ。

複製されたジョットの絵を畳みながら、晴海が静かに言った。

「最後の講演になってしまったのね」

私はふん、と鼻を鳴らして床に降ろされたジョットの絵を踏んだ。

見れば見るほど、黄色い服を纏った裏切り者は不遜な顔をしている。

「何をいまさら。末恐ろしい女だ」

驚いて顔を上げた晴海と視線がぶつかる。

「あんたがコソコソと裏でやってることはこの前睦美に聞いて知ってるんだよ。大体…」

「そのことなんだけど」

思いがけず強い口調で遮られる。

「あなたに来てくれないかって言ってる劇団の方たちが何人かいるの」

合点のいかない私をよそに、晴海はいくつか劇団の名前を挙げた。かなり有名な劇団の名前もあった。

「あなたからすると、私は裏切り者に見えるかもしれないけど。私はあなたにこんな所で終わって欲しくないの」

晴海の目を見ながら、こんな眼差しをどこかで見たことがあると思った。

キリストだ。

「睦美さん達も、他のスタッフもそうよ。今は皆バラバラになってしまったけれど何年かしたらもう一度集まってあなたのために劇団を作り直そうと話してるの。あなたは絶対に納得しないだろうから、こんな裏切るような真似をしてしまったけれど」

晴海の長い独り語りを聞いていても、私はもう何ほども思うことはなかった。これと同じような感覚を以前どこかで感じたことがある。


「ユダの裏切りがなければ、キリストは神になりえなかった」


彼女は進んでユダになろうというのか。汚れ役を進んで引き受け、私の怨みまでも一身に背負おうとしている。私の足元のユダは相変わらず醜く、視線の先のキリストは美しかった。

何も感じないということは鈍い痛みに似ている、と書いたのは三島由紀夫だっただろうか。

「私はもう2度と芝居はしない。あなたとも他の誰とも2度と会うことはないし、会いたくない」

私はその後背中に投げられるどんな言葉にも反応せず、今まで起きたことに蓋をするように外に駆け出して行った。



晴海の言っていたことが本当であった確証はどこにもない。だが嘘であった確証もまたどこにもなかった。

もし本当であったなら、私こそが醜いユダであったのだ。


それから本当に誰とも会うことはなかった。




ジョット『ユダの裏切り』1304-1306年 スクロヴェーニ礼拝堂

http://www.salvastyle.com/menu_gothic/giotto_giuda.html




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