第5話

 真紅の海に浮かぶ緑の巨影。

 目測でも五〇〇メートルはくだらないが、それはあくまでも海上に露出している部分のみ。海の底に沈む体積を含めればそれ以上のものになるだろう。生物学的にありえない巨体である。普通の生物ならば海上に五〇〇メートル超の体積を露出すれば、自重に耐え切れず崩れ落ちるもの。しかし、それが起こらないということは、その肉体がどれほど強靭かを暗に示唆している。


 悠雅自身、そのような見地は全く介していないものの、立ちはだかる怪物がどれほど埒外な存在か、肌で感じていた。いわゆる、動物的感というやつだ。


 軽くおののきつつも、退くわけにはいかない。彼は頬を叩いて改めて巨影に臨む。そこにじわじわと機関音が聞こえて来て、影が指す。

 戦艦・三笠。皇国海軍の象徴とも言うべき戦艦が二人の乙女を乗せて現れたのだ。


「悠雅さん、乗ってください。走るよりもこちらの方が早いです」


 船縁ふなべりから瑞乃の声と共に縄梯子が落ちてきた。悠雅は急ぎ梯子を駆け登る。


「お嬢、ご無事で何よりです」

「そちらも」


 言いながら瑞乃はちろりと、悠雅が走っていた緋火色金の橋に視線を落とす。


「第二階梯、国津神ですか。妬けますね、本当に」


 機嫌悪そうに今度はアナスタシアに目を向ける。


「な、何よ?」

「いえ、別に。それはそれとして、甘粕とは決着を着けられたようですね。彼は何と?」

「俺に全てを押し付けて逝きました。勝手なもんです」

「……そうですか」


 悪態を吐きながらも、以前にも増して鬼気迫る様子の悠雅に瑞乃は胸が痛む。彼と甘粕の間でどのような会話があったのか、彼女はは知らない。問うつもりもない。ただ、確信めいたものが胸に過ぎる。きっと、悠雅はまた、要らぬ何かを背負ったのだろうと。


 瑞乃は思う。男というものはどうしてこうも愚かなのだろうか? 馬鹿なのだろうか? 自分が苦しくなるはずなのに、どうして遺志や意地といったものを尊ぶのだろう?


 女にはわからない男の矜恃というものが、悠雅への理解を阻む。


『上空より敵影感知』


 そこに三笠の声が響き渡る。

 緑色の鱗に、柘榴ざくろの瞳。頬まで裂けた大きな口がばかりと開き、巨大な牙が馬鹿に鮮明に見える。そんな危機的状況に三笠の機銃、副砲、主砲が火を噴いた。


 全弾直撃。だが、結果は惨敗。頭は止まる様子無く、三笠に突っ込んでくる。


「まずい」そう、瑞乃が言うよりも早く、緋火色金の塊が迫り来る頭部に叩き込まれた。悠雅の祈祷いのりだ。


「今のは、頭? ってことは、あれ全部頭だって言うのか?」


 彼は空へと伸びる九つの首を見上げる。空を仰ぎ、今に凶相大十字グランドクロスに喰らいつかんとしていた首が一斉に視線を下に降ろした。


「九頭龍か」

「伝承では関東一帯を壊滅させたそうです。その通りの力を有するなら、最早帝都どころの話ではありませんね」

「なおさら負けられなくなった。爺さんが東條を抑え込んでる今のうちに、あれを鎮めなければ」


 計十八にもなる柘榴ざくろの瞳と、紅蓮の独眼が火花を散らした直後、九つの頭が一斉に牙を剥いて襲ってきた。

 九つの頭の内四つが三笠に牙を立てるが、瑞乃の祈祷いのりと三笠自身の防御能力の高さ故か、流石の堅牢さ。傷一つ付きはしない。

 だが、兵器群では攻撃力が足りず。食らいついた九頭龍の頭を引きはがすことが出来ない。そこに残りの五つの頭が襲いくる。が、悠雅が再度緋火色金を精製し、迎撃してみせた。


「あの鱗……やはり厄介です」


 歯噛みする瑞乃の胸中には堕権ダゴンを降した鳴火神・電磁加速投射砲E・M・Lが過ぎるが、一瞬の大火力と継戦能力を天秤にかけるとなると些か迷いが生じる。


 そうしている間に第二撃がやってきた。それも此度はただの突貫攻撃では無い。


「何あれ……?」


 アナスタシアの呻き声と共に悠雅、瑞乃両名の喉が一瞬にして干上がる。

 空気が揺らめくほどの霊力。――否、揺らめいているのではない。爛れているのだ。余りにも濃厚過ぎる猛毒の霊力によって。


「出し惜しみしてる場合ではありませんね」


 瑞乃は三笠に鳴火神・電磁加速投射砲E・M・Lの発射を命じ、その横で悠雅が天之尾羽張を天に掲げ、甲板を覆うように緋火色金の天球を作り始める。


 直後、鳴火神・電磁加速投射砲E・M・Lの発射され、同時に三笠の船体を揺るがす衝撃が走った。

 三人の頭上で緋火色金の盾と九頭龍の猛毒の牙が激突したのだ。


 悠雅は霊力を振り絞り、猛毒の牙が盾を砕き、溶かしていく側から緋火色金を継ぎ足していく。

 瑞乃も、今に燃え尽きてしまいそうな霊力を振り絞り、不沈の祈祷いのりを絶えず行使し続ける。


 しかし、緋火色金の盾に亀裂が入ってしまう。やがてその亀裂の奥から猛毒の神威を宿す牙が顔を覗かせた。それも、アナスタシアの頭上から。

 だが、彼女の身体は次の瞬間、投げ飛ばされていた。三笠の甲板を転がる彼女が顔をあげると、そこには左腕を犠牲に牙を受け止める隻眼の青年の姿があった。彼は受け止めた牙を天之尾羽張で切り払い、同時に盾ごと九頭龍の頭部のうち一つを切り裂いた。


 視界を塞いでいた盾の向こうには頭部を二つ失った九頭龍が悶える様子。一つは鋭利な刃物で切り裂いた断面。もう一つは強引に引きちぎったような断面である。

 鳴火神・電磁投射砲E・M・Lが命中した証でもあるのだが、誰一人として喜ぶものはいない。


「――ごめんなさい!! 今、治すから!!」


 真っ先に駆け寄ってきたアナスタシアが祈祷いのりを行使して、治癒を開始する。だが、牙が貫通し、毒に犯された左腕は青紫に腫れ上がり、みるみる壊死し始めていた。


「どうして? なんで治らないの!?」

「悠雅さんが死んだら一生恨みますからね、アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ!!」


 三笠を九頭龍から退避させながら、瑞乃は怒鳴る。

 毒の進行は止まらない。アナスタシアの祈祷いのりで進行事態は抑えられるものの、完全に毒の回っている部分に関してはどうしようもなかった。


「ちょっと離れてくれ」


 呻くように悠雅が懇願する。すると何を考えたか天之尾羽張の刃を左肩にあてがった。


「アンタ、まさか!?」

「俺はまだ死ねない。俺はまだ、誰にも、何ひとつとして返せてない。だから、アマ公、一思いにやってくれ」

『それがお前の望みなら、応えよう』


 左腕が甲板に落ちる無機質な音が馬鹿に大きく聞こえた。

 アナスタシアは悲鳴をあげそうになって、涙を零しそうになった。しかし、それを無理やり捩じ込んで抑える。

 声を上げるな。泣き出すな。そう思い、唇を噛みちぎりかねないほど噛み締めて、彼女は両の手を彼の左肩に宛てがう。


 酷く無様だ。酷く滑稽だ。見捨てた男に帰ってこいと言われて、その男に守ってもらって、腕まで犠牲にさせて、どうしようもなく死にたくなって、でも、それを彼女は必死で抑え込む。


(それは、命を懸けて迎えに来てくれた彼を冒涜する行為だから)


 蜂蜜色に輝く光が彼の傷を塞いでいく。止血が終わると、悠雅は颯爽と立ち上がり、天之尾羽張を握り直す。


「ありがとう、助かった」

「それは、こっちの科白セリフよ。それより、ごめんなさい。私のせいで……貴方の腕が」

「腕一本犠牲にお前を守れるんなら安いもんだ。おまけに、やつの首一つ、取れた。世が世なら大将首とって侍大将に出世してるところだ」

「茶化さないで」

「茶化してるつもりは無いぞ」

「――腕を切り落したのですか」


 からからと笑う彼の元に、覚束無い足取りの瑞乃が近寄ってきた。霊力が擦り切れる寸前で、今に倒れてしまいそうな彼女はアナスタシアの襟首を掴んで、


「この落とし前、どうつけてやりましょうか」

「お嬢、やめてください」

「いいえ、やめません。貴方の手はこれから、多くの人々を救うはずだったんです。なのに、この女は……!!」

「それなら、私が悠雅の左腕になる。悠雅の左腕の代わりに私が人々を救う。これから一生ずっと」


 大真面目な顔をして、その決意を瑞乃に叩き込む。対する瑞乃は顔をしかめてはいるものの、どこか呆けたよう。


「貴女、本気で言ってるんですか」

「本気に決まってる。それが私を迎えに来てくれた貴女たちへの誠意。私を助けてくれた彼への誠意よ」


 瑠璃色の瞳。真っ直ぐ。翠緑の瞳。貫いて。


「……好きにしなさい」


 少し大袈裟に溜め息を吐いた瑞乃は三笠に方向転換を指示する。


「お嬢、もう霊力が切れてるんじゃ?」

「私に言えた義理じゃないでしょう。おまけに第二階梯に至ったばかりで、負担が大きいのは悠雅さんの方でしょうに」

「俺は引きません」

「わかっていますよ。それで? 何かあれを倒す糸口は見つかりましたか?」

「正面からぶった斬る」

「悠雅さんに聞いた私が馬鹿でした。アナスタシアさんは何かありますか? できるだけ建設的な意見をお願いします」

「そのことなんだけど――良いアイデアがあるわ」

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