第3話

 扉をくぐれば、喧騒にもまれる。耳鳴りがしそうな騒音と、熱。今の今まで居たところが静かな店内だというのだから、その差は尚更だ。

 銀色のビルの前に、次々と三人現れて並ぶ。銀とガラスの反射が眩しい。

 肌に張り付くような湿り気と、照りつける太陽。アスファルトの照り返しも激しく、焼け付くよう。今さっきまでの涼しさはとっくに消えて、汗が滲んでTシャツを引っ張った。休日の人通りは激しく、人であふれかえった道路。

 ともあれ、仕事の都合上日々街中を歩き回る杜若かきつばたにとっては、これくらいの暑さはどうって事無い。涼しい顔とまではいかないが、これくらいでバテているようでは、とても仕事をこなせない。鳩羽はとば褪衣さえにとっても、それは同じことらしい。

 このままじゃ蒸し焼きかステーキになりそうだ。人のミディアムレア。不味そう。

 店の前に立って、鳩羽に当然のように奢られてしまった杜若は、微妙に不本意だった。反論する隙も財布を出す暇も無く、これからの仕事の景気付けだと一蹴された。

「んーんんー。ほんじゃ行こうぜー」

 ぐぐぅと伸びをして、褪衣が言う。「ああ」とそれに応じる鳩羽。褪衣も鳩羽も、それこそ何にも感じていないみたいに涼しい顔つきだった。褪衣の場合はにやにや笑いで目立たないが、鳩羽は元の顔つきのせいもあるのか、表情が暑さに対してまるで変わらないので、よくわかる。この暑さの中、二人とも、汗一つかいていない。

 汗一つかいていない。

 それもまた、彼らがの世の者とは少しずれている証。

「行くぞ、杜若」

 何故だろうと思ったところで、考える暇も与えられず号令が下る。

「ちゃんとついて来なければ、置いていくことになる。これから、

まじない?」

「そうだ。解き方にコツがある。後ろにぴたりとついて来い」

「でねぇと道に迷うか、俺らぁ見失うぜ」

 何しろ、俺様達ってば、足はえぇから。そう褪衣が笑って、少しずれた道端に二人が立つ。

 二、三歩前に出て、杜若は何かが始まる様子に、渋い顔を切り替え、帽子を被りなおすと、その上からヘッドホンをはめた。スイッチをオンにする。小さな機械の唸り。コードをしかるべき所へはめ、鞄を肩に掛けなおして体制を整える。

 お仕事は切り替えが大事。仕事モード、って事だ。

「行くぞ」

「よっしゃ」

 たん

 耳を打ったのは鋭い足音だった。二人の姿が、それぞれまるで別の方向に消えていく! 休日の人込みに紛れて、あっという間に姿が消えた。こういう意味かよ―――。舌打ちする時間すら惜しんで、杜若はかろうじて目の端に捕らえた鳩羽の金髪を追いかける。光の反射に煌く髪が、助けになった。人人人の人の渦。抱えられた赤ん坊から年寄りまで。しかしその間の年齢が圧倒的に多い街の人込み。

 その合間合間を、すりぬける。風のようにとは言いすぎかもしれない。でも鳩羽の動きは、さっきの言葉通り見失いそうなほど、素早い動作だった。青年から壮年まで、男女限らず。ただし、杜若の目は捉えていった。鳩羽は、人のつくったグループの、その境(さかい)だけを通る。

 話し合う人々だけじゃない、隣り合っているだけの人も居る。しかしそれでも、確実に、関わる人の無い位置を。そこだけが道だと知っているかのように。すり抜け、通り抜け、見出して。杜若もそれを真似しつつ後を追うのだが、何しろ人の通り。一瞬きごとには姿が変わる。そこを鞄を抱えて必死についていく。

 火花が散るような音がした。前を行く、鳩羽からだ。杜若は見上げた。見えない膜を通過するみたいに、今までと、鳩羽の姿が変わる。そのすらりとした体から、乾いた絵の具が剥がれ落ちるみたいに、

 

 色の、欠片。

 

 色とりどりのガラスの欠片か、あるいは雪片に見えるものが、舞い落ち、その端から掻き消える。アスファルトにぶつかって、火花のような音を立てて、幾千にも散っていく。それに、誰も気付かない。

 眼にしているのは、杜若だけだった。

 そうしながら、進み続ける鳩羽を見失わないために、杜若も進まざるを得ない。足を止めたら――止めるまでも無い、速度を少し落とすだけで、鳩羽の姿は見失われ、それがお仕事終了の合図。だから、足は止められない。驚き、眼を見張ったままで。自分の足元で消えていく、飴玉の包み紙か、色とりどりの落ち葉のような欠片。輝いて消えるそれが、夢みたいだ。

 そんな中で意識を保ち続けるのはキツかった。だが杜若は、首や背中を流れる汗もそのままに、歯を食いしばってボケたミスを犯さないよう進み続けた。すると、次第に二人の距離が縮まっていく。鳩羽の歩調が緩まる。

 杜若の目の前を遮る人の体が、いつの間にか消えていた。

 爆ぜるような音が連続し、鳩羽の体から紙吹雪のように色が舞い落ちる。そして、最後の一枚が足元に落ちて、掻き消えた時。

 目の前に立つ、人影。

死神織しにがみしき色彩しきさい術隠身じゅついんみ成人ナルヒト〟―――解呪」

 呟いて何も無い空間から、手を差し伸べて嵐の色をした長衣を取り出し、身に纏う。体から一切の色を失ったその姿。

 死神 その位嵐灰らんかいの、鳩羽。

 名乗って、鳩羽は杜若の姿を見、眼を眇める。息を弾ませて立つ、少年。髪はくしゃくしゃ、服には大きな汗染み。抱えた鞄が肩からずり落ちそうだった。ヘッドホンを外して首に掛け、けれども、何も喋れない。

「良くついて来れたな、杜若」

 その言葉に引き戻され、二度三度、瞬きをして、目の前の事実を確かめた。鳩羽は、さっきまでの姿から変わらず、昔の白黒映画の中に取り込まれてしまったみたいだ。ざらつきも無くその姿が滑らかで、しっかりとした存在感を持ってそこにいる事は別として、全身から色彩が消えている。濃淡だけを残して、無彩の、白と黒と中間になる灰色だけの、鳩羽。

 唇の上の微笑も変わらない。

 その時、とぅっ! と掛け声が聞こえて、目の前に鼠色が広がった。

 褪衣が飛び降りてきたのだ。膝を折り曲げ着地して、一拍遅れて同じく纏った長衣が落ちる。

「どうよ。これが、俺らの本当の姿だぜ」

 じゃらん。立ち上がって、褪衣の頭を飾った玉が鳴る。にやりと笑ったその顔にも、色は乗っていなかった。

 死神、その位灰鼠はいねずの、褪衣。

 名乗りを上げた二人の姿を、見比べる。

 得意げに腕組みをして斜に構えた褪衣と、その横で呆れたみたいに腰に手を当てる鳩羽。髪と瞳と揃いで、服だけが少しだけ薄いその濃度。こうして二人並ぶと、その濃淡の差がよく分かる。鳩羽の黒に近い暗さと並べば、褪衣は随分と明るい。

 鳩羽は嵐の空のよう。長い髪も黒に近い灰色にまで染まり、瞳も深さを湛えている。

 褪衣は柔らかそうな鼠色。結った髪も艶のある鼠色で、鳩羽よりも薄い瞳はいつも通り、どこかからかうような笑みを含んで。

「どうした、杜若」

 一向に喋らない杜若に尋ねて、答える声にはまだ荒い呼吸が混じっていた。

「……………速い」

「おーいおい、しっかりしろよ。まだ始まってもいねぇんだぜー」

「あ……ああ、分かってる、よ」

 だけど、と顔を上げて言う。

「初めてなんだ………度肝を抜かれちゃ、悪いかな」

 それを聞いて二人ともきょとんとした。そんなこと考えてもみなかったと顔が語っている。思わず杜若は笑い出し、鳩羽と褪衣は気まずい感じで顔を見合わせ、笑いが収まるまで待った。

「もう、いいっすか?」

「あー、あー……。ごめ。ごめん。くくっ、ぶ。あはは。これでも駆け出しなんだ。悪いけど、宜しくご指導頼むよ。先輩」

「そりゃーあ、いいけどさぁ」

 何か気が抜けるな。な。そう言ってくる褪衣に、うっとおしげに鳩羽は眉根を寄せて。

「わかった。それは私が責任を持とう。ただし、お前にもしっかりしてもらわないと困る。私達は依頼人だ。仕事を請け負った以上」

 どん、と肩を拳で叩く。

「それを言い訳にするなよ。情報屋」

「……了承しました」

 余りの強さによろめきかけた足を踏ん張り、杜若は肩を抑えた。褪衣がよっしゃ、と声をかける。

「それじゃ、お仕事開始とすっか。若っちは用意はいいかい?」

「おっけーだよ。依頼人を待たす訳にはいかないだろ」

「では、これが今回の仕事の内容だ」

 鳩羽が懐から一枚の紙を取り出した。

 上からの指令。鳩羽たちのこなす仕事。

 そして杜若が今回手助けを依頼された仕事だった。


  ※


「壱、弐、参」

「おっとっと。死ぃ、5ぉ、ろーくっ、と」

 回転する棒。その後を追う、何やら不思議な模様の書かれた紙で出来た。動く度がさがさ鳴るそれの後を追うのが、忙しく手帳の上を動き回るペン。数はカウントされる。

「ジュウィチ、十二、十三、十四ーぃ、」

「拾五、拾六、拾七、拾八、拾九」

「待った待った待った、速い速いって! 今、いく……うわ、二十、二十一、二十二っ?」

「と、と、と。これで二十三、だ。きちっと書き留めてるかぁ?」

 とても手が追いつかない、と悲鳴をあげる杜若を尻目に、褪衣は手にした網を振り回した。手元に戻した中には、何物なのかもわからない、が暴れている。褪衣は手を突っ込んでそいつをずるんと引きずり出すと、杜若が首から提げた、どう見たっての籠にしか見えない、プラスチックでできた籠に押し込む。

 蓋を開けるまでもなく、褪衣の手は籠に溶ける。

 先頭を行く鳩羽は立ち止まり、手にした長い棒を突いて待っていた。

「捕らえた悪念あくねんの大きさ、色、数値、段階。これが終わったらそのリストは提出しなければならないからな。お前の速記が頼りだぞ」

「分かってるけど! ちょっと待った、それでもおっつかない、一旦整理させてくれ!」

 焦って叫ぶ杜若が首から提げた籠では、普通入っているはずの、セミだの、カブトムシだの、蝶々だの、バッタだのの代わりに、さっき褪衣が捕まえたような、薄曇った――――霧とも影ともつかないものが、これで合計二十三、うようよ蠢いている。

 籠の中はすでにぎゅう詰め状態で、は折り重なりぶつかり合い、窮屈そうにしきりに動き回っている。籠の隙間からはまるで尾っぽみたいに飛び出して、今にも全部はみ出てきそうで、正直気持ち悪くって仕方が無いのだが、そこは死神の術で補強してあると言う事だった。一度入ったら手順を踏まない限り絶対に出られない。二人が二人とも頷いて保証するので、仕方なしに首から提げていた。

 仕事を始めて三十分。杜若は請け負った以上文句は言わないが、―――やっぱり受けなけりゃよかったかな、と後悔し始めていた。

「えーと、これがこうであれでこれでこうなってぇっ」

 いつもの手帳とペンをフル稼働で書きまくる。感心するように褪衣が見つめた。

「大したもんだね」

 くるりとたも網を手の中で回転させて―――褪衣の手には、長い長い柄が握られている。鋼にも似た鈍色の、長さ身の丈程の棒。杖と言うには飾り気の無いそれには、何やら護符のような紙がべたべた貼っつけられていた。その一部が、どうやら網の部分を作っているようだった。同じ物を持った鳩羽の方には、先端と石突に一つずつ丸い黒い珠が埋め込まれている。

 杜若はようやくペンを止めて、はぁっと一息ついた。

「ったく……きっつい!」

「もう弱音か?」

「違うけどっ!」

 適当な石段に腰掛けて、杜若は虫籠の中を覗き込んだ。

 蠢く、何やら分からない黒い物。影なのか、霧なのか、それとも別の物なのか。目の前を通り過ぎる男の肩の辺りを鳩羽の棒が掠める。すると、べろりと古い皮が剥がれるように肩から浮いた。

 〝悪念〟と呼ばれるそれの駆除。それが今回の二人の任務だそうだ。

 杜若の目には見えないのだが、一度鳩羽に肩に触らせてもらうと、道行く人の肩の辺りに乗っかるようにして、生き物のようながかかっているのがよくわかった。大抵は細い襟巻きみたいに大人しく乗っているのだけれど、大きい物だと背中にべったり張り付いていたり、漬物石みたいに乗っかっていたりして、二人ともそういうあからさまにやばそうなのを取っていくようだった。

 肩の辺りから随分べたべたした感じの悪念を取り除かれた男は、一瞬だけ不思議そうな顔をして、それから雲が晴れたような顔つきで歩き去った。その場に浮いていた悪念が、自分が剥がされた事を自覚したみたいに急に慌てて逃げ出すのを、褪衣が「おっと」と棒を差し出す。棒に貼り付けられた護符が動いて編まれ、網が勝手に形を変えて、悪念を捕まえる。全く、虫取り籠にたも網と来たら、本当に夏休みの昆虫採集じゃないか。まだ、夏休みには早いって言うのに。掬い上げればその中に、暴れる悪念の姿がある。

「ナーイス俺。はいよっと」

「ああ」

 パス、と差し出した網に鳩羽が手を入れて、網に絡まってじたばたしている悪念を端から引き剥がし、虫籠に突っ込む。籠は鳩羽手ごと悪念を飲み込む。杜若はちょっと顔をしかめた。見ていて楽しいものではない。

「大変だよな……。普段は二人きりでやってるんだろ?」

「そだなー。大抵やるときゃ二人から三人のチーム組だ。必ずしも鳩羽と一緒って訳じゃねぇけど」

「こんなの、毎日おっかけて……」

「それが仕事だからな」

 宿命と言うべきか。鳩羽はそう言って腕組みをする。

「悪念とは、そのもの、人の悪しき念。魂の淀みが身体の外に現れたもので、放っておくと魂全体を包み込み、魂自体を暴走させる。しかしそれ自体は常に誰もが持つもので、気にする必要も無いのだが」

「だが、ね」

「最近は、人による抑えが極端に効かなくなっている場合がある。その場合、悪念は際限なく膨れ上がり、人自身を蝕み、飲み込んで、飲み下して、そして暴れ出す」

 鳩羽は片手に棒を携えて、答える。

「だから、ある一定以上の値を超えた悪念の駆除を行うよう、上で話し合いが持たれ、決定された。わかったか?」

「ああ、うん……」

 杜若の生返事に、鳩羽はそれきり何も言わなかった。彼女自身も眉根を寄せた迷うような、惑うような横顔を見せていた。杜若も何も言う事無く黙り、ふと目の前を行く人々の姿に目を走らせた。

 ん。気になるものを見つけた。

 真正面の、細い路地。そこで、小さい人影が、しゃがみ込んでいる。

「ん? あれ」

「どうかしたかー?」

「いや、ちっさい子がいて……一人なんだ」

「はぁ、ホントだなあ」

 額の辺りに手をかざして、向こう側を見る褪衣。

「親とでもはぐれたのかね? 迷子ってやつだ」

「どっちにしても、危ねえよな」

 何かと物騒な世の中である。

 杜若は戸惑う事無くケータイを取り出す。手帳とは接続済みだ。ペンを向ける。目の色が変わる。

 白い線が走った。ペンの先から走り出て、誰にも気付かれること無く一直線に子供の元まで届く。杜若が手帳に書き付けると同時に、ひゅおっと空気を唸らせて線が元に戻ってくる。戻った線が形を作り、それは手帳の紙の上で、一列の数字を成した。最後の数字が現れると、手帳が震えてケータイの画面が光る。そのまま指先で素早く操作して、耳に当てる。

 とぅるるるるるるる

 コール音が鳴り響いた。路地では、子供が顔を上げたところだった。二つに結わえた、お下げが揺れる。

 がちゃん

『……なあに? なあに、これ……』

 幼い、高い声だった。視線の先で少女がくるくると辺りを見回している。

「もしもし」

 杜若は冷静に、なるたけ柔らかい声を気をつけて出す。

「どうしたかな? 道に迷ったの?」

『わっ、だれ?』

「君が、困ってるみたいだからさ。どうしたのかな? 言ってみな」

『えっと……』

 少女はためらう。迷っている気配がした。

『おかあさんが、知らないひとには気をつけなさいって……』

 返事を聞いて、杜若は感心した。きちんとしつけられているではないか。まあそこで素直に言ってしまう辺りが、危ないと思わなくもないが。

「大丈夫だよ、君以外には、俺の声は聞こえないし、助けてあげられたらと思ったんだ」

 優しい声、優しい声と気をつけながら、自分で言ってて嘘くせぇよなあとついつい思ってしまう。でも他にどう言ったらいいんだ。どういうキャラがこの年齢にはうけるんだ。

 もう日曜アニメとかわっかんねぇしなー。杜若は悩みつつ、やはりその辺もリサーチしとくべきだろうかと考える。すると、電話の向こう側から、あ、と何かに気付いたような声がした。

『ねぇ! お兄ちゃん!』

「な、何かな?」

『お兄ちゃんは、妖精さんでしょう?』

 杜若は停止した。傍で聞き耳を立てている褪衣がぶっと吹く。随分クラシックな発想である。そう来たか。古きよき、とか。王道、というか。

 鳩羽も空気的に笑っているようである。迷った時間は一秒。電話の向こうからの期待の沈黙に、ままよとばかりに、杜若は意を決して鼻を摘んだ。

「そうだヨ! オイラ妖精なのさ!」

『わあやっぱり!』

 鳩羽と褪衣、大爆笑。褪衣は寝転がってげらげら笑い出し、鳩羽も懸命に口元を袖で隠していたが、肩が笑いに揺れている。杜若は頬が死ぬほど熱くなり、頭の中を後で使う言い訳が駆け巡った。が、もう後には引けない。念仏のように心の中で仕事仕事仕事仕事、と唱えながら、すっかり元気な声になった少女と話を続ける。

『おかあさんが、困った時に助けてくれる妖精さんのお話、してくれたもの!』

「……そ、そうサ! ねぇ君、名前を教えてくれるカイ?」

『るかですっ。相楽さがら 瑠果るかっ』

「さがら、るかちゃんね」

 杜若はケータイを肩に挟んで、手帳に〝さがら るか〟と書いた。あっという間に漢字に変換される。それを見て瑠果にちょっと待ってて、と声をかけてから、通話状態のままケータイを操作する。この辺りの地図を引き出し、電話番号から瑠果の位置を転送。画面上に点が表示される。 

 再び鼻を摘むのを忘れかけて、慌てて押さえる。

「瑠果ちゃん、結局、君はどうしたんダイ?」

『おかあさんと、瑠果のおようふくを買いに来てたの。だけど、おもちゃを見てたら、一人になっちゃった……』

「そうかァ、お母さんとばらばらになっちゃったんだネ。でも大丈夫ダヨ!」

 褪衣はまだひぃひぃ言っている。後で覚えてろ。近くにいる血縁関係の人間をリストアップ、と書き込む。ずらりと手帳に名前が並んで、ちらりと画面を見る。これで、リストの中でこの辺りにいる人間がいれば―――相楽さがら 実花みか

 母親の点が画面に表示された。

「瑠果ちゃん、いいカイ。これから、お兄ちゃんが十、数えるからね。そうしたら、右手、わかるかな? そっちの方にまあっすぐ、走って行きな。そうしたら、そこにお母さんがいるヨ」

『ほんとう? わかった。ありがとう、妖精のお兄ちゃん!』

「いいのさ、気にするナイ」

 いーち、にーい、と勘定する。じゅーう、と伸ばして「そら行けっ!」と声をかけてやる。少女は真っ直ぐに路地から走り出て、ゴムまりのように駆けて行く。杜若からみて左の方向に折れ曲がり、真っ直ぐ、真っ直ぐ。

「ふう、やれやれ」

「やーさしー。妖精のお兄ちゃん♪」

「うっせ」

「褪衣にもー、何かちょうだあい」

「ふざけんなよっ! うるせえなっ、こっちだってすっげ恥ずかしかったんだからな!」

「ははは、良くやったな」

「鳩羽まで、笑うなよっ!」

 普段無表情な鳩羽も、こればっかりは声を立てて笑っていた。褪衣は杜若に付きまとっては、お兄ちゃーんと繰り返している。杜若が本気でへきえきしている所で、鳩羽の視線が唐突に鋭くなった。

「杜若ッ!」

「え、な、何?」

「お前、あの男を良く見てろ!」

 そう叫んだ瞬間、隣から鳩羽の姿が消えた。目の前の道路を猛烈な速さで駆け出している。後を追って視線を走らせると、丁度交差点の角の信号の下で、俯いている男がいた。中肉中背。皮の鞄を持って、冴えないシャツとズボン姿の―――。

「やべえ」横で褪衣が呟いた。

 真顔で目を見開いて、褪衣が腕を引っつかむ。

「来い若っち! こりゃあ洒落になんねぇぞ!」

 口を挟む間も無く褪衣も棒を摑み直して、アスファルトを蹴って突っ走った。

 ぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつ。男が何事か呟いている。

 聞こえない。まるで平坦な声。

 雑踏に紛れて、聞こえない。

 杜若の目にも見えた。褪衣の目にも映っているだろう。今までとは比べ物にならない。煮詰めた闇の様に真っ黒の、泥のように淀んだその影は黒々と伸び上がり、男の身体を包み込み、背中にまるで一本の塔のように―――高く高く、立ち上っている。

 その目の前を、小さな少女が走っていく。満面の笑みで、その視線の先に、母親の姿を映して―――。

 男の手の動きと鳩羽が飛び掛ってその棒で殴り倒したのとは同時だった。

 姿は見えなくとも、衝撃はある。男はもんどりうって倒れ、その手からは、鞄と、握り締めていた包丁が零れ落ちた。間を置かず鳩羽は動き出そうとする男に馬乗りになる。その場に辿り着いた褪衣も駆け寄り、杜若はアスファルトに滑り込んで、びっくりして口も利けない瑠果の体を抱きかかえて、もう一本のコードを取り出した。片端を手帳に接続、包丁の刃にもう一方の端を押し付ける。

情報展開じょうほうてんかい〟―――伝達、『腐食』! 杜若の手の下で、包丁とケータイと手帳が光る。

 手の下で包丁が朽ちていく感触を感じ取り、二人は、と視線を上げた途端、身体が動かない。


 褪衣の棒が、男の顔の横を押さえつける。その下で、蠢く黒影が湧き上がり、立ち上がってこようとして暴れるのだ。

「お、と、なしくしてろっ、つうのっ!」

 褪衣が、がたがた揺れる棒を押し付けて動きを封じている隙に、鳩羽は手の中の棒を両手で握り締める。足の下でもがき、逃れようとする男を逃がさないよう押さえつけて、棒のその先端に、徐々に形作られていくものがある。霧か霞が形を持って、意思を持ったかのように、鳩羽の腕から伝わって、嵐色の、深い灰色の、三日月が描かれ作り出される。

 巨大な刃が、鈍く輝く。

「……終わらせてやるッ!」

 しっかと鎌を握り締め、鳩羽は振り下ろした。が、まさにその時男の体が持ち上がり、下から鳩羽に向かっていたのとは別の頭が飛び出した。それは褪衣が止める間も無く一直線に、

 杜若の元へと向かう。


 体が動くようになった。

 一体何が起こったのだろう。その瞬間、背中に視線を感じた。

 え? 

 何。何だこれ。

 三百六十度全体を隅から隅まで飲み干すように見下され、今にも手が伸ばされて首筋を摑まれそうなこの視線。そのくせどこに居るのか分からない。いくら集中しても端からかき乱されていくような、幾ら積み上げても端から壊されていくような。寒気がするような冷えた視線に思わず振り向いて、「杜若ぁっ!」叫び声を背中で聞いた。

「え?」

 向き直る前に肩口に衝撃を受けて吹っ飛ぶ。腕の中の瑠果の体を案じて、がばっと体を跳ね上げた。顔を上げた。 

 前を見た。

 目の前で、褪衣が悪念の牙を受けていた。

 二人のすぐ前に膝立ちになって、肩には深々と――牙が。

 突き刺さっている。身動きするたび、食い込んだ傷口からは血が滲む。血に染められ不気味にてかる牙。そこは、言うまでも無くさっきまで杜若が居た場所だった。

 様々な護符を貼りつけた―――鈍色の鎌が、蛇の様な姿の悪念の体を受けている。ぎぎぎぎぎ、と悪念が鳴く。

「こんの、やろォ……」

「……褪衣っ!」

 がたがたがたがたがたがたがた。褪衣の鎌は揺れている。

 傷口から染み出した血は長衣を濡らして、真っ赤になる。

 杜若の体は凍りついたように動けない。

 何故だかわからない。腕も緩められず、抱きしめた瑠果も逆に拘束する結果になって。こんなはずじゃない。どうして動けないんだよ。必死に動けと体に念じる。けれども、褪衣の傷に目が行く。じわじわと、褪衣の長衣が赤く染まる。それでも足が竦んで立てないのは、これが完璧な自分のミスだからなのか―――。杜若は真っ二つに割れて牙をむき出した凶暴な頭が、往生際悪く喰らいかからんとして鳴くのを見た。

「鳩羽ァ!」

 褪衣が声を張り上げた。


 ―――一刀両断。

 嵐のような風が巻き起こり、黒い影が散らされる。刃の残像も鋭く、後に残ったのは、闇夜の如く黒い珠が一つ。

 かあんと硬い音を立てて、アスファルトに落ちた。

 男は意識を失っている。

 鳩羽が、鎌を振り下ろしたままの姿勢で、そこにいた。

 褪衣は、足元の珠を拾って、ふらつきながら立ち上がる。膝を払って、

「頼むぜ」

 鳩羽の手の上に、ぽんと珠を乗せた。

「お前はもう二度と蘇らない」

 鳩羽が微かに荒い呼吸で、白く細い指先を珠に押し付ける。石が焼けるような音がして、珠の表面に文字が浮かび上がる。それを再び褪衣が受け取り手のひらに乗せると、長衣の袖から呪の書かれた白い紙が現れ、籠のように珠を包み込んだ。

 一度だけきつい光を放って、静まる。

「封印完了、ってか」

 どさり。

 アスファルトに褪衣が倒れ込んだ音だった。乱暴に鎌をついて、鳩羽もずるずるとそれにすがったまま、座り込む。

 辺りは騒然としていた。小さい少女に襲い掛かろうとしていた男が、急に倒れて、狂ったようにもがいていた。そして突然気を失った。人だかりの大きな輪が出来ている、杜若は腕を緩めて、瑠果に言った。

「母さんとこへ走れ」

「瑠果ァ!」

 図ったように聞こえた声に、少女は振り向いて走り出し、もう振り向かなかった。母親と思しき女性にしっかと抱きしめられる。杜若はそれを確認して、自分の手の下から出てきた錆びてぼろぼろになった包丁を見た。ケータイと手帳を取り出し、ペンを取った。手に力が入らなかった。一瞬霞んだ目で、歪んだ文字を作る。『杜若を中心に、半径一km以内で杜若及び死神の動作を認識不可能にする』

「………実行!」

 ケータイから光が一筋現れて、杜若と鳩羽、褪衣に巻きつく。ケータイを畳んで、手帳をしまい、そこでようやく、褪衣の元へと駆け寄った。

「褪衣っ!」

「あ、おう………へへぇ、カッコいいだろ。あのかわいいチビに怪我は無かったか」

「何言ってんだよ。ああ、瑠果は大丈夫だ。怪我してない。今母親が連れて……それよりお前!」

「はぁん、怪我には、お前よか断然慣れてらあ」

 肩口を押さえてにやっとするが、額には汗も滲んでいる。鮮やかな色に杜若はぞっとした。

「ああ、ちっくしょー。それにしたって、久し振りだ」

 袖口から一枚の護符を抜き出し、傷口にあてがう。あてがった所から丸く白い円が描かれ、ぴたりと傷口に張り付いた護符が、血止めの役割を果たしたようだ。

「問題、ねぇだろ」

 強がって汗をだらだら流しながら、にやりとひきつった笑いを浮かべる。あからさまな嘘だった。

「何をやってる」

 鳩羽が傍らに座り込み、褪衣の傷口に指先が触れる。途端に褪衣の体がずるんと脱力し、道路の上に落ちた。

「うわあ……やっぱ無理だわ。カッコつける余裕もねー」

「それだけ喋れれば上等だ。無理しなくていい」

 それより。鳩羽はそう言ってから、名を呼んだ。

「杜若」

 体が震える。無力感、脱力感が体を襲う。握り締めた端から何かを取り落とすみたいに力が抜ける。気力は萎える。心は、揺らぐ。

「分かるな?」

「……………」

 言い訳の仕様も無い。鳩羽は、呟くように言葉を紡ぐ。

「褪衣は怪我を負った」

 お前の不注意のせいだ。

「っ……わかってる。……ごめ」

「謝らなくていい」

 遮った。鳩羽は目を合わせなかった。向けられた背中だけがそこにはあった。拒絶を示す。喉で言葉が詰まる。平坦な声だった。意識して、何の感情も出していないようだった。

「ただ私は少しばかり失望した」

 ただ私は少しばかり絶望した。一瞬そう聞こえた。聞き間違いだろう。聞き間違いだ。疲れた耳が、おかしくなっているのかもしれない。だが、と鳩羽は言葉を区切る。

「褪衣の怪我は、どうしたって褪衣の怪我だ。褪衣が負った怪我なのだから、それは褪衣が取った行動のせいでついた物だ。お前のせいじゃない」

 お前のせいじゃない。鳩羽自身、事務的に自分にすら説明しているような口調だった。体の脇に置いた手を、握り締めている。きっと、それは杜若が思っている以上に、きつく硬く。ただ。そう言って、鳩羽の握り締めた手が、何かを搾り出すみたいに硬くなる。

「もっと、意識を高めろ」

 たんたんと言われたせりふ。それだけが、唯一怒りをはらんでいた。鳩羽は口をつぐんだ。


 褪衣の方に目を移す。褪衣は目を閉じて、浅い呼吸を繰り返していた。まるで眠っているような姿だったが、きっと体力の回復を図っているのだろう。この分では、どちらにしても今日の仕事は終わりのようだった。

 ここでお開き、お別れ。サヨナラ。

 そう言う事だと判断した。

 杜若は力の入らない足を動かし、嫌になるほど遅い動作でその辺に転がっていた鞄を拾い上げ、探った。鳩羽の脇に、取り出した小さな袋を置く。口を紐で結われた袋は、鳩羽の足の横に置かれて音を立てた。

「これ、返す。……後で、薬も送るから」

 返事は無い。

 それ以上、杜若も喋らなかった。

 何を言っても、意味が無いから。


 杜若は、駅に向かう途中立ち止まる。

 立ち止まって、考えた。

 きちんと声になっているか自分でもわからないような声で、なんでもないだろと呟いた。

 こんな自分の馬鹿なミス、もう二度と犯さないようにすればいいだけだ。

 言うほど簡単ではないと、わかっているけれど。


 ただ、あの時感じた視線を思い出していた。

 割れたガラスの破片のような、鋭い視線を。


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