★3-3:あくる日の朝

 早朝。


 大雨が叩きつける小屋に、意気消沈した隻眼の男と、その隣で満足そうに眠る獣人の女がいた。二人は共にベッドに寝転がっていて、獣人のパロンはヴェニタスの体にすりすりと寄り添い、抱き枕よろしく彼の腕をしっかりと抱きかかえている。


「ふわぁ……」


 まだ眠たげに欠伸をすると、寝ぼけ眼のまま、彼女はヴェニタスの頬に手のひらで触れた。


「おはようございます」


 にへらと口角を緩め、反応を待ち遠しそうに目を輝かせた。


「おきました?」


 こてりと小首を傾げ、ヴェニタスの反応を待っている。彼からは嫌悪の顔を向けられているというのに、嬉しそうに、相も変わらず甘ったるい笑みを浮かべて。

 そんな彼女を、ヴェニタスはしばらく睨み返して、不機嫌に呟いた。


「……見れば分かるだろ。いちいち聞くな」

「ふふっ、そうですわね」


 気恥ずかしそうに言うと、パロンは頬を染め、小さく肩を揺らした。


「ええと……」


 そして、彼の表情をチラリチラリと横目に伺いながら、うすら笑う。

 そこにあったのは、真顔を作って外面を取り繕おうとしたものの、興奮を抑えきれずに失敗したような、歪んだにやけ面であった。


「……昨日は良かったですわ」


 右手の甲で口元を軽く押さえつつ、彼の表情の機敏を一瞬たりとも見逃すまいと、熱い視線を送ったままだ。


「ふん、そんなに人形遊びが楽しかったか」


 我慢しきれずにやけ顔の彼女に、ヴェニタスは冷たく言い放つが、そんな皮肉すらも、パロンは嬉々として受け入れたようだった。笑みは強まり、上がった口端から涎が一筋たれていく。


「ええ。あれだけの醜態を見せてもらえましたもの。……とても可愛かったですよ?」


 ゆっくりと舌なめずり彼女には、ずいぶんと余裕があった。

 一晩なすがままにした方と、された方。

 二人の間には、明確な上下関係ができあがっていた。


「お前……」


 身動きの取れないヴェニタスは、デリカシーの欠片もなく返された言葉に、羞恥と怒りで眉間を寄せている。

 しかしそんな嫌悪感を示されて何が嬉しいのか、パロンはまたもや一層、口角を吊り上げるのだった。


「ふふふ、そんなに恥ずかしかったですか? そんな顔もされるんですね、もっと見せてくださいな」


 両の手で彼の頬を挟み込むと、吐息がかかるほど顔を近づけて、興味深そうに眺める。

 ひとしきり見つめてから満足げにほほ笑むと、気の向くままに唇を合わせた。小さく何度も、触れ合わせる。


「あぁ……今日もいっぱい、楽しみましょうね、貴方」

「なに言っているんだ。俺達には……やるべきことがあるはずだ」


 彼女に好きにされるまま、若干放心状態で語るヴェニタス。

 その言葉にパロンはひょいと顔を上げて彼の顔をしばらく見つめると、唇を薄く開いて笑い声をあげた。

 甘えるように獣耳の生えた頭を彼の肩あたりに預け、彼の言葉を適当に聞き流しながら、すんすんと幸せそうに匂いを嗅ぐ。


「ええ? なんでしょうか。うーん、両親への挨拶とかでしょうか? ずいぶんと気が早いですね」

「違う! 聖域から回収した悪魔像をレイス帝に届けるんだ! 城に戻って任務達成の報告をするべきだ! こんな馬鹿みたいなことをしている暇はない! 俺達はまだ、任務中なんだぞ!?」

「きゃっ」


 傍でとつぜん荒げられた声に驚いたのか、三角耳を両手で塞ぎながら、彼女は目を瞑った。


「もう、そんなに声を大きくしないでほしいですわ……」

「ここでのんびりしている間にも、きっと帝王は今も首を長くして待っているはずだ。悪魔像を届けなければ」


 パロンは耳をぺたんと倒れさせ、おそるおそる瞼をあけた。困ったように視線を泳がせている。


「無理ですわ。だ、だって貴方の体を治してしまわないと、一緒に帰れませんもの、仕方ありませんわ」

「先に一人で届けに行ってくれて構わない。俺は俺でなんとかする」

「馬鹿言わないでください! ここから城まで、どれくらいの日数がかかると思っていますの!? わたくしがいないと貴方、自分の身を守るどころか食事もとれずに死んでしまいますわ!」


 彼女は起き上がり、勢いよく馬乗りになってヴェニタスの肩を掴んだ。

 そうされても、彼の顔は変わらず落ち着いていた。


「だとしたら、それは仕方のないことだ。帝王の目的達成が最優先であって、俺の命は二の次で構わない」

「そ……そんなの……」


 パロンは一時うろたえた。何かを振り払う様に、首を振っている。訂正を求めるように、彼の方を潤んだ瞳で見つ続けた。

 やがて、ヴェニタスが態度を変えるつもりがないと気づくと、彼女はキッと目を細めた。見下すように、あまりに冷たい視線を想い人に落とす。


「いやです」

「なに?」

「嫌だと言ったんです。随分と帝王にご執心ですのね? そんなに大事するのは、なんでなのでしょうか? ……命を投げ出せるほど」


 その声は存分に嫉妬を含んでいた。

 彼の胸に爪をたて、赤い血を滲ませている。

 起き掛けの態度とは打って変わって、ひどく苛立った様子で罵り始めた。


「……なんで、なんでなんでなんで、なんでなんでなんでなんで!」


 よほどイラついているのか、狐の尻尾はうねり、鬱憤を晴らすかのように度々彼の太もも辺りに叩きつけられる。


「なんであの人のために、そこまでするんですか!」


 部屋が軋むほど大きな声で叫ぶと、上に乗ったまま彼の頬を強くはたいた。


「……命の恩人だからだ。まだ俺がガキだったころ、帰るところの無かった死にかけの俺を拾ってくれた。だから、この命はもとより、帝王のためにある」

「わたくしだって貴方を助けましたわ!」

「それは確かにそうだが……もう既に俺はこの命を帝王に捧げることを誓っている身だ。いまさら生き方を変えられない」

「っ!」


 言い切るやいなや、彼は頬を思い切りはたかれた。彼の腹上で息を荒げた獣人が牙を剥き、湧き上がる衝動でいまにも襲い掛かりそうになっていた。


「すまな――」

「いいえ、お謝りにならないで」


 即答と共に笑う彼女。濁りきった瞳が、歪む。彼の口を、片手で隙間なく塞いだ。


「はぁ……ロクに身動きも取れない怪我人の分際で逆らうなんて、馬鹿な人」

「む、むぐ……!?」


 口を開けてべろりと舌を出し、喉奥から湿り気のある吐息を当てながら、そのままゆっくりと、抵抗する彼の顔に近づいていく。

 そして、先ほど彼女がはたいて腫れあがった男の頬を、ざらついた舌が舐めあげた。


「でも残念でしたわね」


 舌先は頬から、ぽっかりと空虚な穴の開いたヴェニタスの眼窩を目指して、ゆっくりと辿るように肌の上を移動していく。


「貴方が何を考えようが、意見しようが、わたくしのモノになる未来しか残っていませんもの。だって貴方の体は、これから先もずっとわたくしの腕の中なんですよ?」


 その道程には唾液が残り、彼の肌をてらつかせていた。

 その間、パロンは彼の残っている目玉を深く覗き込み、逃げ場の無い彼の心が、どの言葉で、どの行動で、どのタイミングで揺らぐのかを、じっと綿密に観察していた。


「ああ、とっても気になりますわ……。貴方の心は、どうやって崩れていくんでしょうか、どんな表情を見せてくれるんでしょうね? 楽しみで楽しみで、想像するだけで嬉しくって……たまりませんの」


 そう言って彼女は突如、ヴェニタスの鼻を、はむ、と口に含んだ。


「………………!」


 彼は呼吸ができずにパニックに陥る。

 パロンは彼の口を手で塞いだまま彼の鼻も自らの口で覆い、しばらく動きを止めた。その間ヴェニタスが目を白黒させて苦しむさまを、頬を染め恍惚の笑みで間近から眺めている。ベッドの中で彼の大腿を跨ぐように片足をかけ、痙攣する彼の体をぎゅっと挟み込んで更に密着していく。

 酸欠で意識が飛ぶか否かという限界、ヴェニタスの目が虚ろになり始めたと同時、パロンは彼の鼻と口をいちどに解放した。けらけらと楽しげに笑う。


「ぷっ! あはは、慌てちゃって、可愛いですわ。もしかして、わたくしが貴方を殺すとでも思ったんですの? ……とんでもない、わたくしこそが世界で一番貴方を愛し、大切にしているのに」

「げほっ、げほっ、新入りお前っ、ふざけ、ごほっ!」


 ヴェニタスは息も荒く急いで空気を取り込み、必死に意識の平穏を取り戻そうとする。


「何をしているのか分かっているのか、こんなこと――むぐっ!?」


 ある程度落ち着き、顔をしかめて文句を言おうとすると、またパロンの手で彼の口は塞がれた。


「はーい、静かにしてくださいね。ふふふ、素直に言うことを聞かないから、さっきみたいな目に合わされるんですよ? 学習してくださいね? お馬鹿なのもいい加減にしないといけませんわ。そうじゃないと、もっと酷い目に遭いますよ?」


 この場に誰も彼女を止められるものは居らず、パロンは言いたい放題で、有頂天であった。

 そんな彼女の諭すような、煽るような言い方に、ヴェニタスは凄まじい怒りを感じていた。射殺すように、睨みつけている。

 パロンは視線にびくりと震え、また熱っぽく頬を上気させた。尻尾の毛がびんびんに逆立っている。


「うふふ、睨んだってダメです。少しずついい子になりましょうね。ご心配なく。貴方が反抗する度に、わたくしがその生意気な心を潰してあげますから。ええ、いくらでも時間はありますもの。気色の悪い帝王も、あの頭の幼稚な北方の死神のことも、全部ぜーんぶ、忘れさせてあげますから、一緒に頑張りましょうね」


 彼の失われた片目の穴を、縁にそって舐める。それが終わると、眼窩に舌を差し込んでいく。掃除をするかのように、内壁はとくに丁寧に。捕獲し、これから食べる獲物の味を、丹念に確かめるように。


「――今日からは、優しくしませんから」


 ぬらりとした透明な液体が穴の中へと、ゆっくり流れ落ちていく。

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