2-9:偽物皇女

 司祭は祈祷の仕事を終えると、壇上の傍に隠された休憩室に入った。扉を閉めると、すぐさまに重たいマントと司祭服を床に放り捨てる。


「ふぅー……。毎度のことながら、歩きにくくて仕方がないわい。どうして祈祷の度にこのように動きにくいものを着なくてはならんのだ」


 彼はだるだるの楽な下着だけになると、本棚前の座椅子にドカリとよりかかり、大きく息を吐く。


「今日は午後まで本でも読んで、ゆっくりしていよう……」


 目を閉じて彼がようやく休み始めた時、ノックの音がした。

 司祭は慌てて飛び上がる。


「ふぉっ!? ちょ、ちょっと待ちなさい、すぐに開けよう」


 椅子からズデンと転がり落ち、あたふたと床の司祭服を着なおす。ぶかぶかのマントを羽織ると、軽く“おほん”と咳ばらいをしてから扉を開けた。


「なっ!?」


 司祭は驚きに目を見開く。そこに立っていたのは、黒いローブを着た、あまりにも見覚えのある一人の少女だったのだ。


「こ、こ、皇女殿下ぁあ!?」


 司祭は混乱しつつも、権力に従ってきた人間としての習性か、慌てて自分の襟元が曲がっていないか確認し始めた。

 彼はまさか突然、王族が訪れるとは思いもしていなかった。そんな慌てふためく彼の様子をおかしそうに笑うと、目の前に立つ皇女は、自らの薄い唇の前に人差し指を置いた。


「しーっ……ジェイマンさん、お静かに。ひとまず、お部屋に入れてくださる?」

「お、お待ちください、少しばかり落ち着いてよいですかな、余りにも急で何が何だか――」

「お邪魔しますわ」


 司祭が躊躇っている間に彼女は室内に押し入る。司祭は上手く思考が整わないまま、条件反射的にその場をどいてしまった。後悔して立ち尽くすうち、続いてもう一人、影から見知らぬ背の高い男がするりと入ってきたのも通してしまった。


「邪魔をする」

「うぉ!? だ、誰ですか急に、貴方は!?」

「大丈夫。わたくしが全て、説明しますわ」


 その男が自分の隣で立ち止まったのを見てとると、彼女はにっこりと司祭の方へと笑みを浮かべた。

 その一方で、その美貌に微笑みかけられた方の司祭は、呆気にとられていた。

 彼女はどこからどうみても、あの皇女であった。教国で1、2を争う地位にいると言われる皇女殿下ともあろうお方が、なぜ。

 この方に直接会ったことはないが、見間違えることはない。遠くから、何度も姿を見たことがある。さらに言えば、彼女が産まれた頃から年を追ってのプロマイド写真だって何枚も持っている。

 その皇女殿下がどうして、このタイミングで、こんな場所に。司祭は開いた口が塞がらなかった。思うままに、疑問を言葉にしていた。


「あの……失礼ですが、皇女殿下は城内からどうやってこちらに?」

「隠れて抜け出してきましたの」


 いかにも後で面倒ごとになりそうなことを、彼女は余りに堂々と言ってのけた。黒いフードをめくり上げ、金色の後ろ髪をかき上げる。


「ぬ、抜け出して……? そ、それは一体どういう……」

「わたくし、ここでしたいことがありましたの。ですから、今日は彼に手伝ってもらって城を抜け出してきましたわ」

「は、はあ……この方に……」


 司祭はひとまずそう言って、皇女の隣でじっと立ち尽くしている先ほどの男を不安げに眺めた。彼は皇女と同様に黒いローブを羽織っており、やや長めの黒い髪を後ろでまとめている。その目は片方が隻眼で痛々しく、もう一方の瞳は手負いの鷹のようにギラついていた。どう考えたって、普通の人間ではない。一体全体、誰なんだこの男は。司祭は考え込んでしまう。


 皇女は司祭の視線の行き先に気づくと、椅子に座りながら男の方を手で指し示した。


「そうね……この人は、わたくしの想い人ですわ」

「えっ!?」


 驚愕に口をあんぐりと開けたまま、紹介された澄まし顔の男を、もう一度眺める。次に皇女の顔を見て、そして次に男の顔をまた確認した。首を一往復し終えると、彼は思い出した。町の噂では、皇女殿下は自分の近衛兵と良い仲になっているんだとかなんとか。

 司祭は男の隻眼を訝しげに睨む。少なくともデスクワークでつきそうな傷ではなさそうだった。

 視線に気づくと、皇女は腕を伸ばし、その男の目元を優しく撫でた。


「彼はわたくしの近衛兵だったの。そしてこれは……彼がわたくしを守った時についた、名誉の傷……」

「お、お待ちください。皇女殿下にはヴェルニュア国のドレイン王子という、既に婚約されているお方がおられますよね?」

「ええ。わたくし、そのドレイン王子と式を挙げて結ばれるのが、本当に嫌なの。いつも愚痴をこぼしているつもりだったのですけれど、その話が耳に入ったことはなくて?」

「あ……はい。聞き及んではいましたが、まさか本当でしたとは……」


 司祭は確かに聞いていた。皇女殿下は近々、歳の大きく離れた異国の王子と政略結婚させられることが決まっているが、彼女本人はそれを相当に嫌がっているとの噂を。


「しかし、そのようなことを言われましても、王子と結婚なされないと、御父上である教皇殿下が納得されないのでは?」

「……分かっておりますわ。ですから今日、このように隠れて訪れさせてもらいましたの」

「は、はぁ……」


 司祭はいまいち話の要領が掴めなかった。しかも自分よりも相当立場の高い存在が近くにいることがどうにも落ち着かず、襟元を再び確認しては、皇女の様子を横目でチラチラと盗み見する。司祭がそうしているうち、皇女は隣に佇む男を見やった。


「わたくしは王子と結婚する前に、この人と式を挙げておきたいのですわ」

「えっ!? そ、それはその男と、隠れてご結婚なさりたいということですか!? ……と、とんでもない! そのようなこと、私のようなものが手助けをするわけにはいきませぬ! だいいち、教皇様にばれたら大変なことになりますよ!」

「そんなの、知られなければ大丈夫ですわ。ええ、わたくし、誰にも知られないように配慮してここまで来ましたの。もちろん、お父様にだって!」


 司祭の否定的な言葉に皇女は声を荒げ、うろたえる彼の前までずんずんと歩いていく。その迫力ある優雅な歩みには、息を呑ませる力があった。


「御心配なさらないで、司祭様。ここで式の真似事をしたことを、わたくし達だって誰にも伝えるつもりはありませんわ。むしろ協力して頂けたら、私が個人的に払える限りの報奨金と、さらなる地位を貴方にお約束いたしますわ」


 司祭の手をとり、瞳を涙で潤ませながら懇願する。その姿は、彼がこれまで一度もみたことが無い姿だった。


「ですから……どうか、どうかお願いします。政略結婚はお国のために、我慢します。ですがその前に、たとえ誰にも祝福されなくても、ままごとに過ぎなくてもいいですから、わたくしは、せめて形だけでも愛している人と式を挙げておきたいのです……」

「むむぅ……皇女殿下の幸せのため、私としても何とかして差し上げたいのですが……し、しかし、残念ながらしばらく教会は式の予約がいっぱいでして……」


 目を泳がせながら、司祭は徐々に後ずさる。しかし、すぐに扉まで背が当たってしまう。彼女はずいと更に距離を寄せてくる。


「でしたら深夜にもう一度、彼と二人でここまで抜け出してきますわ。そんな時間になら、誰も予約なんてしていないでしょう? ね?」

「そ、それは……そうなのですが……」

「じゃあ決まりですわね! 深夜にもう一度、こちらへ伺うようにしますわ! ありがとうございます、司祭様!」


 彼女は司祭の声を遮るように喜びの声を上げると、狼狽した彼の手を掴んだまま大きく上下に振り回した。有無を言わせず、押しきる心づもりだ。

 司祭は観念したように項垂れる。


「絶対に、誰にも口外してはいけませんよ?」

「ええ、もちろんですわ!」


 意気揚々と答える彼女に、司祭はついに苦笑してしまった。


「分かりました。そこまでおっしゃるのでしたら……特別に式を執り行わせてもらいます。私とて皇女殿下の幸せを、祈っておりますから」

「ああ……嬉しいですわ。それじゃあ、わたくし達が今晩の結婚式でどういう風に動けばよいか、正式な手順を教えてくださります? わたくし、絶対にこの式を良い物にしたいの」


 彼女は満足そうに、にっこり笑った。

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