――あの莫迦。

それから週末まで晴天が続いた。強い日差しにより空は濯がれ、新緑みどりの若葉は銀色に輝いた。しかし気温はあまり高くはない。春の気温をそのままに、景色だけ先に夏が来たかのような季節であった。


土曜日の正午のことである。司は店の厨房に立っていた。和服にたすきがけをし、いつもは下ろしている髪も一本に束ねていた。


もちろん、司は板前ではない。それでも店の手伝いをすることは稀にあったし、料理は得意なほうだ。簡単なものであれば、商品として申し分のないものを作ることができる。


鯛の切り身に、まるで若葉の図柄を描くように木の芽を載せてゆく。続いて酢飯を十五個、小さな玉のように握る。鯛の切り身で酢飯を包んで握り、三枚の皿へと盛り付ける。白みがかった珊瑚さんご色の毬が、それぞれ五つずつ竝んだような風景ができた。


司はそれを、カウンターの向かい側にいる熾子へと差し出す。


「お待たせしました! 鯛の手毬寿司です!」


「あら、可愛いじゃない!」


熾子の顔がぱっと明るくなる。


「ほら、玉子と代美も。」


そう言い、熾子の隣にいる二人にも同じように皿を差し出す。


ありがとう、と二人は異口同音に言った。


「じゃあ、さっそくいただこっか。」


熾子のその言葉に、そうですねと玉子は同意する。


箸を取り、三人は手毬寿司に醤油をつけ、口の中に放り込む。


司は少し不安となる。特に熾子の反応が気にかかった。自分が作ったものが美味しいという自信はあったが、美味しいものは誰にとっても美味しいと感じられるわけではない――特に国が違えば。


しかし、熾子の反応は純粋に良好なものであった。


「めっちゃ美味い!」


「本当?」


「うん。やっぱ本場の寿司は違うね! 活きがいいんだよ、活きが! 二人で食べていて一人が死んでも気づけない水準レヴェル。」


意味不明な表現に、司はきょとんとする。


とても美味しいってことですか――と横から玉子が訊ねる。


「まあ、そんな感じ。」


「いっぱい食べていってくださいね。」


カウンター越しから七五三男は声をかけた。


「本当に、娘がいつもお世話になっています。それどころか、今回は熾子さんにも敦巻さんにも助けてもらって。――」


「いえ――」


玉子は恥ずかしそうに目を伏せる。


「そもそも、司は私を追っかけて秋葉原まで来たんです。あんな処に私がいなければ、司はあんな騒ぎに巻き込まれなかったんです。」


いいじゃんそんなことは――と司は言った。


「どうせ追っかけて行ったのは私なんだし。助けてもらえなきゃ――今ごろはどうなっていたことか。」


先日――五月七日に起きた秋葉原騒乱事件は、死者十名、重軽傷者約三百名、騒乱罪・殺人罪などによる現行犯逮捕者四百名という、それこそ大惨事としか言いようのない事態へと発展した。


しかしながら、これでも被害者数は抑えられたほうである。原因として、犯行を起こした日本農労紅軍のメンバーがみな老人であり、視力や体力などに衰えが見られ、爆弾や銃の照準を上手く合わせられなかったことや、爆薬に不純物が多く、威力があまり大きくなかったことなどが挙げられる。


結果的に、日本農労紅軍のメンバーは全員逮捕された。これからは余罪の追及と、司法の厳しい判断が下されるものと考えられる。


なお、現場から少し離れた秋葉原駅前には、どういうわけか犯行に使用されたものと同じタイプのかんピース爆弾が落ちていた。これは紅軍が製造したものと考えられており、本人たちも肯定しているという。


デモの主催者もまた騒乱罪により逮捕された。騒乱を煽ったうえ、紅軍に石を投げつけていたのだから当然である。


「司の言うとおりじゃん。」


代美は苦笑して言った。


「まあ、あんなデモに参加してたことはアホだなとしか思わんけど。それでも――司も司で無鉄砲なところがあるからね。まさか、家を飛び出した挙句、本当にデモの現場まで行っちゃうとはね。」


「いや、女の勘っていうの? 何かピーンときたのよ。」


「それを無鉄砲っていうんだよ。」


「けど――本当によかった。」


玉子は一息吐く。


「脚に瘢痕きずあとが残らないって聞いたときは、本当にほっとした。」


「玉子のお陰だよ。――玉子が包帯を巻いてくれたから。」


玉子はふいに顔を逸らし、熾子さんと助けたんだよと言った。


「そうじゃなきゃ――あの応急措置もできなかったから。」


代美は、くすりと笑う。


「まあ、今回は呉越同舟ってことだね。」


それ司が舟ってこと――と熾子は言った。


事件が起きた夜、司は七五三男に病院まで運んでもらった。


そして司は、七五三男に今までの出来事について説明したのだ。


七五三男がとても驚いていたことは言うまでもない。危険な真似をするもんじゃない、と司を窘め、そして、助けてもらったのならばお礼をしなければならないと言った。色々と考えた結果、寿司をご馳走することとしたのである。


――熾子さんだけじゃなくて、できれば敦巻さんも呼びなさい。


念を押すように、七五三男はそう言っていた。


――司を助けたのは、熾子さんだけじゃなくって敦巻さんも同じなんだからさ。もちろん、二人が顔を会わせたくないならば、別々の日にでもご馳走すりゃいいけど。


少し心配ではあったが、司はその旨をメッセージで熾子に送った。


すると、少し意外な返信があった。


――代美さんが一緒なら、玉子さんと一緒でもいいですよ。


しかし、そう言うのも当然だったのかもしれない。代美がいなければ、玉子はまた何を言うか分からない。玉子と熾子のあいだには、今もなおしこりのようなものが横たわっている。


空になった熾子の皿へと目を遣り、七五三男は問う。


「熾子さん、次は江戸前握りなんていかがですかね?」


「あ、はい。ありがとうございます。ネタは何と何ですか?」


まぐろと、勘八かんぱちと、烏賊いかかつお穴子あなご帆立ほたて海老えびです。」


「じゃあ、帆立ほたて烏賊いかは抜きにしてもらえますか?」


「畏まりました。」


七五三男は酢飯を握り始める。


「それじゃあ、何か代わりのものをつけておきますね。好きなものがあれば、何でも仰ってください。」


「じゃあ、まぐろをお願いできますか?」


「畏まりました。――敦巻さんと鈴木さんは、次は何になさいますか?」


「僕は、熾子さんと同じものを。」


「私は――散らし寿司をお願いします。あの――ご飯の上にネタが載ってるやつじゃなくって、雛祭りに出されるようなやつです。」


五目散らしですねと言い、七五三男は司に目を遣る。


「司、新しい飯台はんだいで五目散らし作って」


「うん――分かった。」


うなづき、司は戸棚から新しい飯台――寿司桶――を取り出す。


入口の引き戸が開いたのはそのときであった。


いらっしゃいませ――と従業員たちは声をかける。


ふと目を遣れば、そこには「神風」と書かれた鉢巻きを締めた男が立っていた。名前は右川といったか――確か、今は逮捕されていると聞いたはずなのだが。


あ、嫌韓君――と玉子は声を上げる。


「よお――たまちゃん。奇遇だな、こんな処で。」


そして、右川の視線が熾子へと止まった。


「あっ、お前は例のキムチ女じゃねえか。何でいんだ?」


誰がキムチ女だ――と熾子は叫んだ。


七五三男はと言えば、露骨に迷惑そうな顔をしていた。


「あんたこそ何でいんだい? 逮捕されたって聞いたが。」


「今は保釈中だ。」


「そうかい。そうじゃなくとも、あんたは出禁だがね。」


「いや、客じゃねえよ。」


「冷やかしかい? ならばなおのことお断りだが。」


「いや、そこのキムチ女に用があって来た。」


「だから、誰がキムチ女だと――」


「お前に渡したいもんがあって来たんだよ。」


熾子の言葉など気にも留めず、右川は鞄の中から小箱のようなものを取り出す。そして、受け取れよと言って熾子へと投げた。それを、熾子は慣れたような手つきでキャッチする。


厨房にいる司からも、それは一目でプレゼントだと分かる物だった。白いリボンが締められており、封筒のような物が挟まれている。


熾子は首を傾げ、何これと言った。


「お前の元彼からのプレゼントだよ。」


右川は不愉快そうに鼻を鳴らす。


「聞いたぞ? お前が元彼と別れたのは、百日目の記念日を控えた日だったってな。その百日目の記念日のために、あいつはあいつなりに考えたプレゼントを買ってきてたんだよ。」


「はあ――それを今さら?」


「仕方ねえだろ。あいつは、お前がどこに住んでるのか知らなかったわけだから。それで帰る間際になって、俺に相談してきたのさ。できれば渡したいけれども、どうしたらいか分からない――ってな。」


だから俺が責任を持って渡すことにしたのさと右川は言った。


「お前、どうやらここの寿司屋の娘と知り合いみてえじゃねえか。そして、ここの寿司屋の娘はたまちゃんと知り合いみてえだ。だから、まずはたまちゃんに相談しようと思ったんだが――呟器のアカウントが消えてなくなっててな。」


「君、複アカ持ってたのかい?」


代美は小声でささやきかける。玉子は気まずそうに視線を逸らした。


右川はなおも続ける。


「――それで、ここに来たら何か分かるんじゃねえかって思って、来てみたんだよ。まあ、まさか本当にいるとは思わなかったがな。」


「へえ。」


熾子の前に姿を現さず、念仁は韓国へと帰っていった。ちょうど、誰にも知られることなく西の空へと沈んでゆく暁の月のように。


「そういうわけだ。あいつの一途な思いだし、受け取ってやれよ。」


「一途――ねえ。アレにそんな気持ちなんてあるのかな? あるんだったら、自分で渡しに来たらよかったのに。」


「あるに決まってるだろ。そのプレゼントだって、今まで大切に保管してたし、日本旅行に来るときも、偶然にでもお前に出会えて渡せたらいいなってことで持って来たくらいだぜ? 俺だったら、腹いせに売り払ってるところだけどな。もうどうせ離れ離れなんだし、受け取るだけなら何の損もねえんじゃねえの? 気に入らないって言うんなら、売り払うか捨てるかのどっちかにすりゃいいさ。」


熾子は皮肉な微笑みを浮かべる。


「あいつと随分と仲がいいようね。まあ、受け取るだけってなら受け取ってやってもいいけれども――それにしても、ネトウヨがそんな粋なことを言うなんて、私ちょっと意外だったわ。」


馬鹿野郎バーロー。」


右川は顔をそむける。


「俺は普通の日本人だっての。」


そして、そのまま店から出ていった。


しばらくのあいだ、熾子はその小箱を眺めていた。


まるで急かすように、代美はぽつりと口を開く。


「何なんでしょうかね? そこまで渡したかったプレゼントって。」


「さあ。」


熾子は、リボンに挟まれていた名刺大の封筒を取り外した。開封すると、何かが書かれたカードが出てきた。熾子はそれをまじまじと見つめていたが、つまらなさそうに横にけた。


続いて、小箱の包装を破り始める。小箱の中には、紺色のフェルトの箱が入っていた。そちらも開け、中に入っていたものを摘まみ上げる。短い鎖の下に、金の破片が二つついている。


「あ、それ、ペアのストラップじゃないの?」


ふと思いついて、司は言う。


「その二つのやつ重ね合わせると、ハートの形になるんだよ。そうしたら、何か文ができるんじゃないかな? 恋人同士がそれぞれ一つずつ持っていて、お互いに愛し合っている証にするんだよ。遠距離恋愛を想定した、ぴったりのプレゼントだと思うけど。」


言われて、熾子は司の前でその二つの金属片を重ね合わせてみる。確かにハートの形となった。筆記体で「Yeomin & Chija, Even when we're far away, I'll love you always.」と刻印されている。


「――あの莫迦。」


そう言った熾子の頬は、少し薄紅に染まっていた。


司は、熾子が横に除けたカードへと視線を落とす。ハングルで何かが手書きされている。


  너와 보낸 날들을 잊을 수가 없다.

  너가 나를 싫어할지라도,나는 너를 사랑하고 있다.

  (君と過ごした日々は忘れない。

  君が僕のことを嫌いになっても、僕は君のことを今でも愛している。)


司はその言葉をほとんど理解できない。ただ、「사랑하고サランハゴ 있다イッタ(愛している)」という単語が強く目についた。


司は、外の景色を思い浮かべる。


あの空の色は海の色――空の遥か彼方には、黒潮の流れる玄界灘が横たわっているのであろう。表面は穏やかに見えても、その下にはどのように荒々しい流れがあるのかも分からない。


韓国のことについて、司は覚えたての韓国語のように途切れ途切れにしか分からない。男女でどのような対立があるのかも分からないし、なぜ対立しなければならないのかもよく分からない。


ましてや、自分は男性と交際したことがない。男性との交際の現実についても知らない。熾子と念仁のことなど分かるはずもないのだ。


けれども――。


そうであったとしても、司は思わざるを得ないのだ。



いつかは、仲良くなれるのだろうか――と。


                                       了

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