Ⅲ きっとリアルでも友達になれるよ。

春休みであった。冷たかった空気は朝方に姿を消しつつあった。


寿ことぶきつかさ沙糖壷さとうつぼから金平糖こんぺいとうすくい上げ、ティーカップの中へと落とした。カップにそっと唇をつけると、茶葉の香りが咲いた。紅茶は、朝の冷たさを懐かしがらせるほど熱かった。


現在、司は高校一年生である。春休みが明けたら二年生となる。


へくち、と、くしゃみをする声が部屋の片隅から聞こえてきた。


「いい天気だな。」


窓辺に立ち、鈴木すずき代美しろみはふいに言葉を発した。


「こういう日は家に閉じ篭ってないで、外に遊びに出たいもんだな。」


代美は頭をショートカットにした少女である。そして背が少し高い。頭の上には、白身魚を模した飾りを載せている。


へくち、と、くしゃみをする声が再び聞こえてきた。


「私、花粉症だからあんま外に出たくないんだけど。すん。それに外に遊びに出るっていうんなら、もう司の家に来てるし。外に遊びに出てる最中に外に遊びに出ようなんて言う人が、あ、いる?」


へくち、と、敦巻あつまき玉子たまこはまたくしゃみをした。


玉子は分厚いレンズの眼鏡をかけた少女である。墨のように黒い髪の上には厚焼き卵の飾りが載せられている。


最近、日本の女子高生の流行は頭に寿司ネタ状の物を載せることだ。大部分は寿司ネタを模した飾り物である。なぜこんなものが流行はやっているのか誰にも分からない。


司自身も、日本人的集団意識から頭に大きな海老を載せていた。


ただし、やるのならば本物を載せようと思った。ちょうど最近になって、日本海溝の深部から新種の海老が発見されたところだ。ニホンバケモノオオエビといい、全長は三十センチ以上もある。司が頭に載せているのは、これを切り開き、茹で上げたものであった。


勿論、衛生管理には気を遣っていた。司は朝晩、米のじると酢で髪を洗っていたし、防腐処理として海老には薄く山葵わさびを塗っていた。


「くしゃみをしながら喋っちゃ駄目だよ。」


言って、代美は少年の微笑みを見せる。


「そもそも、司の家でDVD観ようって言ったのは君じゃないか。花粉症がそんな酷いんなら、君の家で観てもよかったんだけど。」


「それとこれとは別。」玉子は顔をそむける。「最初に映画を紹介したのは司だったし。とにかく、どっかに遠出なんて私はいやだからね。」


「まあ、今日じゃなくてもいいじゃん。どうせなら、みんなで今度お花見に行こうよ。皇居のお濠なんて綺麗だと思うんだけど。」


他人ひとの話聴いてる? 私は花粉症で外に出たくないの。」


司はティーカップを置き、ぼんやりと外の風景を思い浮かべた。


「お花見か。いいよね、お花見。」


「な、司もそう思うだろ?」


「ただ――私はもう他人とお花見行く予定たててるんだよね。」


代美は残念そうな顔となり、そうなんだと言った。


「けれど、お花見なんて何度行っても飽きないんじゃないかな?」


「玉子は行きたくないって言ってるじゃん。」


「うん、行きたくない。こうして司の部屋でだらけてたい。」


ふぇくち――と玉子は大きなくしゃみをする。反動で厚焼き卵の飾りが落ち、テーブルの上にごとんと転がった。玉子は慌ててそれを拾い上げ、はわわと言いながら頭の上に載せる。


「そっか。」


代美は司の隣に腰を下ろした。


「ところで――そのお花見って誰と行くんだい?」


「例の韓国人のフォロワーさんとだよ。来週の日曜日、浅草で。」


「ああ、あの留学してくるって人ね。」


途端に、玉子の顔が曇っていった。


「大丈夫なの、それ? 変な人だったりしないわけ?」


「大丈夫なんじゃないかな? 確かにまだ会ったことはないけど、ここ一年くらい呟器でやり取りしてるし。礼儀正しくっていい人だよ。」


分厚いレンズが午後の陽光に照らされ、光った。


「ネットでいい人だからって、現実でもそうだとは限らないじゃん。すん。それに韓国人って、神社の狛犬を壊したり、お寺の欄干に落書きしたりしてよく問題になってるでしょ? 浅草なんて処、案内してもいいの? お賽銭盗まれたらどうするの?」


司は軽く溜息ためいきく。


「いくら何でも偏見が入りすぎ。そんなことをする人は、どこの国の人という以前に問題があるから。」


「そうそう、玉子は自分の殻に篭りすぎなんだよ。」


玉子は憂鬱そうにティーカップを眺める。


「けれども私、司のことが心配なの。韓国人って、日本人のことを敵だと教育されてるんだよ? 一昨日も外務省に爆弾が送られてきたばっかじゃん。日韓関係がぎくしゃくしているときに、あの人たちが何してくるか分かんないと思うんだけど。」


「――うん。」


外務省での一件は司も気にかかっていた。


「確かに――そういうことはあったわけだけど。」


日韓関係は、ここ数ヶ月で再び劣悪化していた。


事の始まりは昨年のこと――戦時中に受けた拷問と虐待に対する賠償を求めるとして、韓国のとある高齢者が日本国政府を告訴したのだ。


第二次世界大戦当時、彼はまだ十六歳であり、朝鮮独立運動に参加していた。結果、千九百四十四年――昭和十九年――治安維持法違反で逮捕され、北海道某所の刑務所に収容される。


身体に今も残る瘢痕きずあとをメディアに晒し、彼は次のように証言した。


――取り調べのとき、焼きごてや電気を使った拷問を受けた。


――刑務所内では激しい虐待を受け、強制労働をさせられた。何人もの朝鮮人が虐待で死に、あるいは生き埋めにさせられた。


しかし――ここから話はこじれることとなる。


当時その刑務所の職員や囚人だった人々が、そんなことはなかったはずだ、何かの間違いではないかと主張したからだ。日本の保守論壇や研究者からも、この高齢者の証言に疑問を投げかけ、偽証ではないかとする声がいくつも上がった。


事の真相については分からない。やがて日本の東京地方裁判所は、日韓基本条約の条文を根拠として原告の訴えを棄却した。


韓国では激しい不満の声が上がった。あちこちで過激なデモが始まり、ソウルには銅像が建てられ、ドキュメンタリー映画も作られた。韓国のムン存寅ジョニン大統領もこの運動を支持する発言を行い、日本の何野外務大臣は、極めて遺憾であると言葉を寄せた。


その直後である――外務省へ向けて一つの小包が発送されたのは。


本来、その小包は開封すると同時に爆発する仕組みだったという。しかし、構造上のもろさから郵送途中で爆発したのだ。爆発したのはトラックのコンテナの中であり、幸いにも死傷者は出なかった。


時を同じくして、外務省・及び各種マスメディアに犯行声明文が届いた。今回の問題における日本国政府・及び司法の対応と、何野外務大臣の発言に対する抗議である旨が韓国語で記されていた。


「一人の日本人が韓国で罪を犯したら、韓国にいる全ての日本人が犯罪者予備軍っていうことになるのかい?」


代美の冷静な言葉に、玉子はたじろいだ。


「いや、それは――」


「それと逆のことだろう。」


「けど、玉子がそう言っちゃう気持ちも分かるよ。」


玉子をかばうように司は言う。


「一年前までなら、私も玉子と同じこと言ってたと思う。それくらい――私も嫌韓だったから。今だって、私は韓国人に色々と言いたいことあるよ。ましてや、韓国人は日本人よりも何倍も言いたいことあるだろうね。」


代美はやはり冷静に同意する。


「まあ、そりゃそうだけどね。」


「それに今は、韓国でのデモの映像がテレビでよく流れてるじゃない?」


日の丸を踏みつけたり、燃やしたり、金切り声を上げたり――。


そんな映像ばかり流れている。


「日本でも、韓国と国交を断絶しようなんて人がいて――」


「そんなにか?」


ふと何かを思いついたように、玉子はスマートフォンを操作した。


「五月にさ、都内で大規模な日韓断交デモがあるんだって。」


ほら――と言い、玉子は画面を二人に見せる。


「けど、こんな画像を掲げながらこんな日にやるなんてね。」


二人は顔を寄せて画面を覗き込んだ。


代美は呆れた顔となる。


「ほんと狂ってるな。」


「――そこまで言うことなくない?」


司は再び溜息を吐く。


「でもさ――憎悪ばかり連鎖させていっても仕方ないじゃん。それに、こういうことがあるたびに立場が悪くなるのって、日本にいる韓国人だと思うんだけど、それなのにわざわざ喧嘩を売ってくると思う?」


「そりゃ、そうだけど。」


「きっとリアルでも友達になれるよ。どうせ戦争が始まるわけじゃないんだし、むしろこういうときだからこそ、リアルでの交流が大切なんだと思う。たとえ国が対立しても、私達は友達でありたい。」


そう――と言い、玉子は一つくしゃみをした。


「私だったら――戦争しちゃうかも。」


その言葉は小さかったが、消え入るようにさらに小さくなった。言った本人は、厚いレンズの向こうで物憂げに瞳を潤ませている。


言葉の意味は計りかねたが、司は深く理解しようとは思わなかった。もし理解しようものなら、水晶硝子クリスタルグラス林檎りんごを落とすように、大切なものが粉々に砕け散ってしまうような気がした。


ふと、各種マスメディアに送られてきたという、先日公開された犯行声明文が気にかかった。


「それにしても――あの犯行声明文って、ちょっと変じゃない?」


玉子は首をかしげ、鼻声で問うた。


「変――っていうと?」


「いや――だって、いかにも韓国人がやりましたって言ってるようなもんじゃん。内容が分かり易すぎる――っていうか。もし私が犯人だったら、自分と分かる手がかりになりそうなものは、できるだけ隠そうとするんだけど。」


代美は興味を示した。


「それ、犯人は韓国人じゃないっていうことか?」


「まあ――そうだけれど。」


「そりゃ、司が賢いからそう思うだけだよ」と玉子は反駁した。「朝鮮人だろうと日本人だろうと、普通の人はそこまで警戒しないと思うけど。それに、犯行声明文を送り付けなきゃ、何のためにテロしたのか分かりづらいと思ったんじゃないの?」


「まあ、それはそうだとは思うんだけど――」


「何か思い当たることがあるのかい?」


「うん。――裁判を起こしたあの人は、さんっていうんだよ。」


すももっていう字を書くんだっけか?」


「そうそう。私は韓国語が少しだけ分かるから気づいたんだけど――それが犯行声明文ではさんになってたの。」


玉子は首を傾げる。


「勘くぐりすぎじゃない? 日本語じゃ李さんはリさんなんだから、韓国語でもリさんっていうこともあるんじゃない?」


「あるよ。――正確に言えば、北朝鮮では。」


二人の視線が司へ向いた。


「南では、ラ行の発音が頭に来ないんだよ。だから、韓国での李さんはさんだし、北朝鮮での李さんはさんなの。変だなって思ってよく見たら『歴史』って言葉が『력사リョクサ』になってた。韓国語では『역사ヨクサ』っていうはずなのに。」

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