こいこい オーバードーズ

豊口栄志

こいこい オーバードーズ

 ある朝、横浜の港に酔っぱらいの死体が浮かんでいた。

 終戦間もない頃の地方紙に載った小さな三面記事だ。

 酔っぱらいは南京町の中国人で、酒と博打が好きなただの料理人だった。

 都心の焼け野原、新憲法発布、財閥解体、ヤミ市の熱狂――荒廃と混乱の溢れ返る時代にとって、それはたいしたことのない事件のはずだった。



 夜更け。レンガ造りのビルの真裏にある半地下の入り口をくぐると、中は逃げ場をなくした紫煙が漂っていた。煙草と酒と男の垢じみた汗の臭いが充満する室内には、怒号とも叫声ともつかない大声が何かを囃し立てている。

 限られた人間しか立ち入ることの出来ない個室席の並ぶ中二階からは、部屋の中央に前後左右を金網で囲った舞台が見下ろせる。ボクシングのリングより一回り狭い三メートル四方の板敷きだ。

 そこで男がふたり、敵意のこもった目で睨み合っていた。

 組み合いにもつれ込む前の柔道の試合さながら、男たちは足を止めずにおもむろに動き続けている。

 互いに間合いを読み合っているのに、どちらからとも手を出そうとはしない。

 金網の横では手狭な円卓に、こちらもまたふたりの男が向かい合い、席に着くふたりを見張るように若い茶髪の女がサイドチェストほどもある機械と一緒に立っている。

 卓上には誰もが見慣れたカードが雑然と並んでいた。

 花札である。

 舞台上の男を一瞥し、席の男が手札をひとつ叩きつけた。

 すかさず女が声を張る。

「合札。萩」

 同時に女の手元が動いた。脇の機械のスイッチを押下する。

 金網と円卓を取り囲むいくつもの長机から酔漢たちが叫声を上げた。萩が入ったぞ! 次こそ決まるか!

 舞台上で片方の男が動きを止めた。両腕を上げて顔の両側を庇い、首を縮めている。空手の三戦立ちに似ているが、それよりも身体を固め、より防御に重きを置いた身構えだった。

 それよりも奇妙な変化が現れたのは対戦者のほうだった。

 首周りに装着したベルトから突き出した鋲のようなピストンが肩に打ち込まれ、微かに震う衝撃が走る。するとミチミチと音を立て、見る間に男の筋肉がはち切れんばかりに膨らんだ。

 血管の浮き出た顔を闘志に歪ませ、動いた。

「うおおおおっ!」

 おらび声と共に振り上げた拳を微動だにしない男へと打ち込む。

「ぐっ!」

 鳩尾を打たれながらも男は呻き声をひとつこぼしただけで、防御の構えを崩さない。

「あいつ! 堪えたぞ!」

 観客が上げる歓声に、円卓のほうでは札を叩きつけた男が渋面を浮かべる。

「まだ山引がある!」

 山札をめくったとき、男の顔が晴れやかにほころんだ。

「見ろ! 萩に猪!」

「合札。萩」

 宣告し、女が再びスイッチを押す。

 舞台上の男に装着された機械がまた彼の肩を打った。さらに筋肉が膨張する。

 再びおらび声が木霊する。

 二撃目が打ち込まれる。相手は金網に背中をぶつけながらも、未だ立っている。

「まだだ! こいつで猪鹿蝶よ!」

「猪鹿蝶。萩、紅葉、牡丹」

 出来役を数え、女がスイッチを押す。円卓の男は勝利を確信した笑みを浮かべた。

「タネ。紅葉、菊、芒、牡丹、萩」

「え!?」

 女の告げた役は意図せずして出来上がっていたのだろう、男が目を見開く。

 彼女は眉一つ動かさずスイッチを連打する。

「よ、よせ! やめろ! やめてくれ! あいつが死んじまう!」

 舞台上では首の装置がミシンのように男の肩に何度もピストンを打ち込む。

「あ、ああ……」

 フーセンガムのように筋肉がぶくぶくと膨張を続ける。

 男はパンパンに膨らんだ身体をよじり、膝をつく。

 浮き出た血管が千切れ、全身から血が噴き出した。瞼が腫れ、膨れた眼輪筋が眼球を押し潰す。

「うおおおおっ!」

 滂沱の血涙を流して上げるおらび声は、先程とは打って変わった断末魔の叫びであった。

「チョンボです。おつかれさまでした」

 呆然とする円卓の男に、女は静かに告げた。

 これが薬物を打ち合いながら殴り合う、この地下闘技場の日常だった。


「いい眺めだろう」

 中二階の個室席から悲惨な中毒死の様子を見下ろして、小太りした中年男は糊の効いたシャツの腕の中に若い女を抱き寄せた。

「趣味が悪いわ……」

 青い顔をする女を気にするふうもなく、男は自分の手を彼女の胸元に這わせる。

 そのごつい腕を女の手が掴んで止めた。

「よしてよ、そういう気分じゃないの」

「おまえ、いつから贅沢を言える身分になった?」

 冷笑が女の手を引き剥がすと、男は満足気に女の胸をまさぐり始める。

 ふと階下を見下ろせば、死体は片付けられ、次の試合の段取りを組み始めているらしかった。

「次はどれだけもつやら……」

 男の取り出した煙草に、女はすかさずマッチをこすった。

「さて、どんな奴が来るのか」


 まだいとけなさの残る小娘だった。

「これが投薬ベルト?」

 控え室で剥き身の上半身に革のベルトを渡す。両肩のラインに十二のシリンジを固定して、先刻まで壺振り役を務めていた茶髪の女がベルトを締める。

「ちょっと緩くない?」

「さっきの試合を見とったろう。帯がきついと肉の膨れしなに首が絞まるぞい」

 答えたのは干物と見紛うばかりの老人だった。

 娘はベルトを巻いた身体にシャツを被って、サブリナパンツをずり上げる。

「勝負の内容はこいこいです。最初に札を引いて親と子を決めます」

 祖父と孫娘ほども年の離れた二人組に茶髪の女は事務的に説明を述べる。

「花札の最中、合札を出すごとに札に応じた薬物が投与され、打撃一回の権利が拳士に与えられます。一度の手番に手札と山引で、運が良ければ二度の攻撃機会がめぐってくるでしょう。加えて役が揃えば出来役の札の全てに応じた薬物が投与され、更にもう一度、打撃権が与えられます」

「足技は使っていいの?」

「金的攻撃以外は禁止されていません。ただリングが狭いため蹴り技が使えるかどうかは状況次第です」

「打撃一回っていうのは接触していいのが一回だけってこと? 例えば拳を当てる前に肩からぶつかる技は使えないの?」

「使えません。肉体的接触は一度の機会に一回限りです。実質的には絞め技や関節技も禁止されていますね」

「薬の効き目は?」

「即効性の薬物ですので投与から数秒で効果が表れ、個人差はありますが、その後、三十秒前後持続します。ただし効果が強すぎるため、同時に複数の投薬を受けると中毒死する場合がございます」

「どのくらいで中毒になるの?」

「成人男性でも六本から七本も同時に受ければ、まず無事に立っていられません。特に先だっての試合のように筋力増強を過分に含んで十本も連続投与されては間違いなく死亡します」

 淡々とした口ぶりは、彼女がその指で拳士を死地へ追い落とした本人である事実を忘れさせそうになる。

「薬の効き目が切れてからなら、死にはしないってことか……」

「それからこちらを」

 軽く思案している娘に、女は虫ピンのような長い針を差し出す。針の尻に金属球が付いている様は太いまち針を連想させた。

「今から頭部に局部麻酔を掛けてこの針をこめかみに突き刺していただきます」

「うえ、なにこれ!」

「視神経の電気信号を任意に途絶させる絶縁体です。相手が合札を出した場合、あなたの視覚はこの機械によって奪われます。視覚の働かない状態で相手の攻撃を受けてください。攻撃を避けることは禁止されていますが、受けることや捌くことは許可されています。視力の無い状態でそれが出来るかは甚だ疑問ですが。また、打撃権発生時には神経を刺激して合図します」

「その合図があったら相手の視覚が消える?」

「はい、その通りです。装置の説明は以上です。それでは麻酔を行います」

 言って、麻酔薬を充填させた注射器に伸ばした女の手が空を掴んだ。

「え?」

「ふむ、確かに麻酔薬じゃな」

 老人が自分の舌にポタポタと注射器の薬を垂らしていた。

「先生、味で薬が分かるの?」

「いや舌が痺れてきおった」

「馬鹿なことしないでヨ」

 唾を吐き捨て、老人が注射器を構える。

「素人には任せられん。わしが打とう。こいつは男に打つ量じゃ。この子にはちと多いわい」

「へえ、先生って漢方医なのに麻酔も出来るの?」

「出来るわい! ……たぶん」

「試合より先生のほうが怖いヨ……」

 老人の震える手で注射器の針が娘の頭に突き刺さる光景を眺めながら、茶髪の女は口をつぐむ。

「そんな顔しなくても大丈夫だヨ。絶対に殺すから」

「え?」

「ワタシはそれをするために来た」

 麻酔が効いてきたせいだろうか、娘の瞼が微かに落ちて、両目が針のように鋭く光って見えた。


 頭の両側に刺した針を保護するだけのヘッドギアを巻いてから、娘と老人は壺振りの茶髪女に連れられて戦いの舞台へと赴く。

 新たな賭けの対象に、周囲の博徒たちはにわかに活気づく。彼らからの刺すような視線が娘と老人を遠慮無く値踏みした。

 賭けにならねえ。引っ込め。大穴が来やがった。――酒と煙草で爛れた声が飛ばす野次の中を娘たちは進み出た。

 茶髪女とは別の案内役に連れられたのだろう、部屋の中央にはすでに相手が待ち構えていた。

 くしゃくしゃの背広を着た細身の男と、ランニングシャツに標準服のズボンを穿いた筋骨たくましい青年。どちらが戦うのかは一目瞭然だった。

 二人とも若いが、特に身体つきの良いほうは童顔も相まって、まだ少年であるように見えた。

「どっちがこいつの相手をするんだ?」

 背広の男は薄いブリキ板を引き裂いたような耳障りなかすれ声で二人をねめつける。

「俺の相棒はこれでも相撲部屋に通ってた予科練上がりだぜ。爺さんや女で相手が務まるのかねえ」

「心配ありがとうよ。生憎と打ち合うのは嬢ちゃんのほうでな。わしが打つのは博打だけじゃ。この歳になるとこれくらいしか愉しみが無うなってしもうてな」

「ま、勝てる相手だ。せいぜい儲けさせてもらうぜ」

 博打打ちをよそに、娘と少年は無言で互いを見つめ合っていた。

 二人が興ずるのはただの殴り合いである。緻密な策の入り込む余地はほぼ無い。

 どのように相手を壊すか。ただそれのみを平気な顔で思考していた。

 簡単なボディチェックを済ませ、娘と少年が金網の中の土俵へ上がると、老人と男も花札を打つ席へ着く。

 茶髪の女は部屋中に声を響かせた。

「確認します。勝負はこいこい。互いに二十文の種銭を出して、これを取り合います。役は五光が十文、四光が八文、雨四光が七文、三光、花見で一杯、月見で一杯、猪鹿蝶、赤短、青短がそれぞれ五文、タネ、タン、カスがそれぞれ一文です。短冊、種札、カス札の役は札が増えるごとに一文増えます。質問はありますか?」

「菊に盃は化け札かいの?」

「はい。種札ともカス札とも数えます」

「手役は?」

「手四とくっつきが六文です」

「上がりの倍付けはあるんかい?」

「七文以上で上がれば支払いが倍になります。また、こいこいの後で相手に上がられた場合も倍の支払いです」

 そうかい、と頷いて、老人はしわだらけの顔に歪んだ笑みを浮かべた。

「――で、あの兄ちゃんを倒せばいくら貰えるんじゃ?」

「拳士が戦闘不能になった場合、残り全てを相手に支払いっていただきます。同時にその時点で勝負が打ち切られます」

「あい、分かった」

「質問は以上ですか? では、最初に一文のレェト設定して、参加費として一文を胴元にお支払いください。レェトは最低一文百円からです」

「わしはいくらでも構わんぞ。おまえさんが歩合を決めなされ」

「分かった。一文二百円で頼む」

 お互いが四千円分の現金を差し出す。茶髪の女はそれを預かってチップの木札を二十枚ずつ返却した。

 参加費分の木札を差し戻されてから、女は一組の花札を手の中で器用にカットする。日本人にしてはずいぶんと長い指だ。混血なのだろう。くっきりした目鼻は憂いを帯びた顔立ちにも見える。

 二人に向けて花札を差し出す。

「双方、一枚めくってください。月の早い者が親になります」

 細身の男が早速手をつけ、老人が後に続いた。

「悪いな爺さん。梅、二月だ」

「悪いの若いの。松、一月じゃ」

 二枚の札を山に戻し、女は再びカットを始める。

「どうぞ。親からお好きなように札を切ってください」

「わしは遠慮しよう。手が震うでな」

「では子が札を切ってください」

「あいよ」

 カットが終わり、茶髪女の手に戻った札がとうとう配られる。

 老人に、男に、場に、四枚ずつに分けて二回。都合八枚ずつの札が並び、両者の間に山札が積まれた。

「親の手番です。始めてください」

 空気の重さが次第に熱を持ち始めていた。


 板敷きの土俵に上り、娘はぐるりと周りを見渡した。吊り下げられたいくつものランプが凍えたふうに振り撒く灯りが、娘と青年の殴り合いに金を賭け合う男たちののぼせた顔を浮かび上がらせる。

 見上げれば中二階の個室席が見通せた。板壁で仕切られた小部屋では低い柵越しに女を抱えた小太りの男が安くはなさそうなブランデーを舐めている。他に上客はいない。

 改めて青年を真正面に見据える。弾力のある筋肉の隆起が一目で分かる。いい物ばかり食べているはずもないのによく鍛えられている。

「ちょうどいい相手」

 顔を見つめる。丸い輪郭に収まった大きな目の間に小さな鼻がすっと腰を下ろしている童顔は、娘の好みを突いていた。

「ホント、申し分ない相手」

「何か言ったか?」

「ワタシから顔は殴らない。約束するヨ」

 何の冗談だ、と眉間にしわを寄せる青年をよそに金網の外で花札が始まった。

 茶髪女の勝負開始の宣言で尻を蹴り上げられたように外野が騒ぎ出した。

 舞台の上でふたりが構えを取った。

 娘は左手を軽く前に出して右手を腰溜めに据える半身。

 青年は浅い前傾姿勢で両拳を胸の前に上げる。正中線を隠さないところ以外はボクシングの構えに似ている。

 金網の外で老人が札を叩きつけた。

「合札。松」

 茶髪女がスイッチを押す。娘の肩に薬液が打たれ、目の奥に電流を流したような痺れが走る。同時に青年の動きが止まった。

 氷水が血中を駆け抜けたようだった。

 前に出した娘の左手に寒気が走る。特に変化らしい変化は感じなかった。

 だが青年に向かって一歩足を踏み出した瞬間、頬に触れる空気の鋭さに気付く。

 毛穴が開き、皮膚がピリピリと緊張している。

「なるほど。まずはワタシの番」

 薬の効能を感じ、娘は得意の一拳を振るう。

 わざとガラ空きにしているであろう青年の胸板の中央目掛け、彼女は右拳を突き出した。

 うっ、と青年の息が漏れる。

 崩拳。形意拳における中段突きである。基本の技であるが故に積んできた功夫が如実に表れる。一撃で青年の顔色が変わった。

 同じ場所に山引の分も叩き込む。鞭を叩きつけたかのような鋭い震脚の音が響く。二撃で周囲の空気が変わった。

 見えないはずの彼の目が見開かれる。そこに今すぐにでも殴り返そうとする意志があった。

 娘は悟る。ボクシングに似た青年の構えは、相撲の前傾姿勢を浅くしたものだ。反撃が禁じられているため、相手に即応するための前傾は必要ない。これは筋肉を締め、耐えるための構えであった。

 青年の目に光が戻る。眩しそうに娘の顔を覗き込む。

「合札。梅」

 女の声が届いたとき、娘は一斉にランプを消したと錯覚する暗闇に包まれた。

 音も痛みもなく、唐突に視覚の遮断が訪れた。

 目をつぶっているのとは全く違う。光が感じられない。ともすれば前後左右どころか上下すら分からなくなりそうな暗黒に満たされる。

 不意に眼前に息遣いを感じる。ぬるい温もりが肌に伝ったと思った瞬間、娘の右頬に青年の拳骨が刺さっていた。

 衝撃を感じたときには既に左へ跳び退いて威力を殺している。攻撃を受け流す技術――化勁である。

 二撃目は飛んでこなかった。合札が無かったのだろう。

 光を取り戻し、安堵している自分に気付く。

 あらゆる動物はおしなべて『不意打ち』に脆い。視覚を途絶させた状態では全ての打撃が痛打に変わる。花札のやり取りで打ち合う間に勝負が着くのはそのせいだ。

 打撃の負傷だけではない。暗闇の中、いつか来る痛みを想像して待つという精神的重圧が苦痛と疲労を増幅させるのだ。薬の効果は三十秒前後、その間に打撃が来る。またその後に来るか来ないか分からない二撃目を待つ。闘志を削いで、残るのは疲弊だけだ。

 これは紛れも無く拷問である。

 娘が目を開くと青年がこちらを睨みつけていた。可愛い顔だと思った。

 ふと横を見れば左側は金網のすぐ傍だった。過敏に反応したせいで跳び過ぎたのだ。

 視覚を閉じてそれ以外の感覚――聴勁が研ぎ澄まされたのかと考えるが、すぐさま否定する。

 これが薬効なのだ。『松』は反射速度が段違いに向上する。

 娘の口許に微笑が浮かんだ。

 また女の声が合札を告げる。


「短冊狙いか。手堅いねえ」

「さて、どうかのう」

 男の探りをのらくらとかわして、老人は手札を選ぶ。

 実のところ、この花札も尋常のままではいられない。

 こいこいは役が出来なければ上がれないが、拳士の中毒死による敗北が存在するため、花札を打つ側は少ない枚数で上がる役を選んでしまう。

 二枚で出来る月見で一杯、花見で一杯。三枚ならば三光、猪鹿蝶、赤短、青短といったところだ。

 しかもこれらの役は五枚十枚集めて完成するタネ、タン、カスの役よりも払いが大きいのだ。

 自然と双方が高い出来役を狙って札を集める。

 その環境で老人がタンの役を狙っているというのならば、それは確かに手堅いと言えた。短冊を五枚集めるタンは赤短、青短を狙いながら取りに行けるからだ。

「だがな、爺さん、カスが溜まってきたんじゃねえか、ん?」

 男の細面に、切り込みを入れたような粘っこい笑みが浮かぶ。

「勝負はこれからじゃ。若いの」

 老人が札を出す。

 女の声が上がった。


 何度打ち合ったろう。数えていればよかったと娘は思った。思い出そうと考えることすら億劫なのに、身体中の痛みが意識を手放させてはくれない。

 青年は強かった。身体の芯に響く娘の発勁を食らって痣だらけで立っている。

 シリンダーが肩を打つ。ほらおまえの番だ、と背中を押す。

 手番の間隔が短くなっている気がしていた。

 前に打った薬がまだ効いている感触がある。

 あやふやだった意識が清水を浴びせたように透き通っていくのを感じる。

 覚醒剤のたぐいを打たれたのであろう。削りたての鉛筆さながら集中力が尖っている。

 そこに至って娘は自分が青年に追い詰められている途中だったことを思い出す。

 あの体躯で力任せに突き飛ばしていたせいで、化勁で受け流しても娘は金網の縁に押しやられてしまっていた。

 すぐ眼前に青年がいた。これほど近くては威力の乗った突きは打てない。かといって移動すれば身体が接触しそうだった。

 娘はその場で震脚し、同時に片手の掌打を突き出した。

 虎撲子である。

 だが本来、両手で打ち据える技を片手で放ったため、青年は少し後退っただけで技を耐えてしまった。

「おい! ジジイ!」

 金網の向こうで男が悲鳴に似た金切り声を上げた。

 もう相手の手番か。山引は無かったのだろうか。

「合札。萩」

 目の奥に電流が走る。まだ娘の順番だ。

 再び虎撲子を打ち込む。だが――間合いが開かない。

 このまま封殺されるのかもしれないと危惧したとき、さらに女の声が続いた。

「カス。松、梅二、柳、藤、紅葉、芒二、萩二」

 瞬間、十本のシリンダーが娘の肩をタイプライターのように乱打した。

 目の奥が熱くなる。悲しくもないのに涙が溢れてくる。身体中の血管が強く脈動し、鼻から血が垂れてきた。

 熱の奔流が身体の中を駆け巡り、肉体が獣に変化したものかと錯覚する。

 噴き出た汗が瞬く間に乾く。全身から湯気が上っていた。

 指先が赤い。爪の間からも血が漏れている。

 娘はその手を鉤爪型に握った。

「ごめん、加減……できない」

 熱い呼気と共にそう言って、娘の身体は青年にもたれかかったかに見えた。

 次の瞬間、青年の身体が宙を舞った。

 その場にいた誰もが、彼が娘の打撃で吹き飛んだことを時間を置いて理解した。

 密着状態から放つ発勁――寸勁。しかも形意拳の属する内家拳のそれではない。外家拳・鷹爪翻子拳の寸勁である。

 娘の身体が傾ぐ。風に弄ばれるようにゆらゆらと。

 板敷きに投げ出された青年の身体もまた同じように弱々しく立ち上がった。

 前髪の隙間から覗く血走った娘の目が、青年の姿を認める。

 ふうふうと荒い呼吸を落ち着けられないまま、娘は青年に手を伸ばし、血に濡れた指先で手招きをした。


 誰もが信じられないものを見る目で娘を見ていた。

「爺さん、あの娘は何だ。十二本も薬打たれた何故立っていられる!」

「漢方に副作用は無い。知っとるか?」

「何言って……」

「副作用が回復の過渡期として認知されとるからな。わしは中毒と何千年も付き合っとる漢方の医者じゃ」

「こいつ、勝負の前に別の薬を!」

「さあてな……」

 わざとらしくはぐらかし、老人は土俵の上を見やる。

 娘は手招きをやめない。

「こいこいしますか?」

 茶髪の女の声に意識を引き戻される。

「上がればあなたの勝ちです。参加費と合わせて差し引きトントンですが」

 娘はまだ手招きを続けている。

 こい、こい。こい、こい。

 一心に念じるように、青年に向かって手招きをし続ける。

「こい!」

「嘘だろっ! 次に上がったら今度こそ死ぬぞ!」

「喜ばんのか? おまえさんが上がれば倍付けじゃぞ」

 男はばつが悪そうに舌打ちを鳴らす。

「あの娘はとことん惚れとるんじゃ」

 老人は苦み走った笑みに顔を歪める。

「人殺しというもんにのう」


 一時、騒然としていた室内は今や水を打ったような静けさの中にあった。

 投薬を耐え切り、さらなる闘争を望む娘に呑まれていたのだ。

 その静寂は当の娘が耳をやられたのかと不安になるほどだった。

 ゴホゴホとざらついた咳払いが耳朶を打つ。青年がどっしりと構えていた。相撲部屋に通っていただけはある、立派な力士姿が透けて見える。

 幻を目に焼き付けて光が消えた。

 引きずるような足音が聞こえる。

 手を上げれば触れられる距離に男の存在を知覚出来た。

 恐怖は感じなかった。薬のせいだろうか。

 薬物は娘の感覚を研ぎ澄まして疲労を回復させている。

 思考には雑音が混ざるが身体だけはどこまでも透明だった。

 娘はその透明な両腕を下ろした。

 防御を解いたのである。

 勝負を投げたわけではない。

 青年は彼女の意図を理解したのだろう、深く息を吸い込み、渾身の力を引き出す。

 風を切って青年の張り手が撞木のように娘の胸を真っ直ぐに突いた。

 重い重い一撃を娘は両足を踏ん張って耐え抜いた。

 突きの力を足から逃したのだ。青年には自分の力が吸い取られたと感じただろう。

 神業的な技巧であった。

 それはすべからく青年の心を手折るべく跳ね返る。

 娘は守勢に回ってさえ、彼の心を砕こうと攻め立てたのである。

 だが彼は止まらなかった。さらなる一撃を打ち込む。

 やはり娘は倒れなかった。

 焦点の戻った娘と目が合った。

 痣だらけのふたりが憑き物の落ちた爽やかな顔で見つめ合う。

「合札。桐」

 女の宣告が耳に届く。

「残念だけど、もう終わり」

 娘はそう言って労うように青年の肩に手を載せた。

「カス。松、梅二、柳、藤、紅葉、芒二、萩二、桐二」

 再びあの乱打が始まり、殺人的な投薬が行われる。

 青年の肩に載せた手に力を込め、娘は歯を食いしばる。

 血が沸騰し、筋肉が結合と離散を繰り返す。肉体を組み換えられる感覚に気が狂いそうになる自分を、娘の自意識が俯瞰で見下ろしている。

 痛苦と高揚感があざなう熱波となって身体を内側から吹き飛ばしてしまいそうだ。

 それが時計の秒針を眺めているときのように、ひどく緩慢に感じられる。

 熱い呼吸を吐き出して、娘は青年の肩から手をどけた。

「じゃあね」

 囁いて、娘は走りだした。

 板敷きを蹴りつけ、金網に跳びつくと、あっという間によじ登り、その上から個室席まで跳び上がる。

 まさしくマシラのごとく。


「えっ……」

 呆然とする中年男を正面に見据え、焼けつくような喉から声を絞り出す。

「財閥解体の最中に、GHQのお目こぼしにかこつけて贅沢三昧。それはいい。狂った闘技場の胴元をやるのも勝手」

 一ダースを超える投薬で強化された震脚が酒を載せたテーブルを踏み折る。

 飛び散ったブランデーを絨毯に吸わせ、娘は獲物を見つけた猟犬よりも鋭い冷笑を浮かべた。

「財産隠しに土地を買い漁るのも構わない。でも、南京町に手を出したことは後悔しろ」

「し、知らん! 俺は! 下の者が勝手に!」

「おまえの雇った地上げ屋のせいで人が死んでる。料理屋のおじさん。警察と新聞は事故で済ませてた」

「だ、誰か! こいつの視覚を切れ!」

 装置に並び立って茶髪の女はこちらを見上げていた。見上げているだけで指ひとつ動かさない。

「誰か! いないのかー!」

 ヘッドギアを外し、娘は素手で頭に刺さった針を引き抜く。

 ひっ、と男が太い首の奥に悲鳴を飲んだ。

 娘の拳がおよそ人のものとは思えない形状に変形していく。薬のせいばかりではない。

 絶招。それも一部の者にしか伝えられない門外不出の秘技である。

 門外不出、故にそれを見た者は生きては帰せない。

「死ね。今夜はおまえを愛さずにいられない」

 青ざめた顔で固まる小太りの男へ実に何気ない足取りで近寄ると、娘は薬効の切れぬうちに男の胸の中へ拳を突き入れた。

 肉を断ち、骨を砕き、心の臓を抉り出す。

 脈打つ肉塊を床に打ち捨てて、部屋の隅で震える女に赤く濡れた指を突きつける。

「こいつの実家に報せろ。二度と。もう二度と。金輪際、南京町と関わるなと。破れば親族だけをひとりずつ殺す」

 そう脅しつける娘の顔は狂喜と愉悦に歪み、打ち震えていた。

 首の骨がバカになったように幾度も頷く女を認めて娘は階下を振り返る。

「言ったとおり、殺したヨ」

 見れば茶髪の女の姿は消えていた。ついでとばかりに老人と、預けたはずの賭け金まで一緒に。

 金網の中では青年がゆっくり手招きをしている。

「よしてヨ。殺したくなる」

 全身から血の雫を垂らして、笑う。



    こいこい オーバードーズ 完

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こいこい オーバードーズ 豊口栄志 @AC1497

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