第47話 メイン・ストリートを突っ走れ

 私も、やがて死ぬ。それは決まったことだ。

 自動車事故に遭うかもしれないし、乗った飛行機が堕ちるかもしれない。火事や地震に遭うかもしれないし、田所さんみたいに末期のガン宣告を受けるかもしれない。もっと身近に考えれば、ある日満員のホームで押されて線路下に落ちるかもしれないし、頭のおかしくなったやつに通りすがりに刺されるかもしれない。

 全てはハイデガーが指摘するところの、死の「予測不可能性」である。私にも誰にでも、死はある日突然訪れる。それはごく当たり前の話だ。朝テレビをつければ、様々な事情で死んだ人を知る。交通事故、火災、殺人、遺体あるいはその一部の発見・・・。

 人は人生を、宇宙の彼方まで延々と続く階段のようにイメージするものだ。自分の人生は、どこまでも続いていくと考える。要は、死ぬことを普段は考えていない。だから階段に踊り場があると、つい腰を下ろしてしまう。パイプ椅子を組み立てて腰掛け、ゲームやパチンコに興じる。あるいはヘッドフォンをつけて音楽を楽しんだり、誰かに電話をかけたりメッセージを送る。そして、身近な人や会社の悪口を言って時間を潰す。

 みんな別に悪いことではない。私だって、誰も読まない小説を書き、誰も聴かない曲を作っている。くだらないことに時間を費やしている。だが私と普通の人では、少し違うところがある。

 その違いとは、階段だ。私はささやかながら階段を一段ずつ登っている。でもごく普通の人は、なかなか登らない。一週間後も、一年後も、十年後も、同じ踊り場でじっとして、階段をひとつも上がらない人がいる。つらい過去や自分のコンプレックスばかり考えて、その場に立ち尽くしている。

 ハイデガーはごく普通の平均的な人は、世事にかまけて「本来的な自分」を失っていると主張する。ちょっと聞くと、彼の意見はもっともに聞こえる。だが階段の踊り場で、いっときの娯楽や酒で気を紛らわせながら、それでも困り果てている人こそ生きる苦しみを知っている。新聞を飾る不祥事や芸能ニュースにかまけながら、誰もがずっと心の裏に潜む自分固有の痛みを自覚している。それを一時、世事で横に押しやっている。

 この心の裏の問題は、ハイデガーが主張するように「死への先駆(自分が死ぬと自覚すること)」では解決しない。ましてや彼が望んだように、キリストの前に跪くことも普遍的な策ではない。一部の人は、熱心な信者になるかもしれない。しかし現在の宗教団体の嘘くささは、多くの人がすぐに気づく。結局は金なんだ、とすぐ見破る。現代において、宗教で全ての人を救うのは不可能だ。

心の裏にある問題を除去するためには、まず階段を登る気を取り戻さなくちゃならない。萎えた心を奮い立たせ、彼(彼女)に階段を登らせる。あなたに大切なのは、まず今日だ。今日目覚めて、やる気がわいてくるか。今日課せられた役目を、あなたはきっちり務める自信があるか。ごく普通の人々にとって、必要なことはこれだけだ。今日を無事にこなせるようになったら、明日のことを考えよう。何を簡単なことを、と言う人もいるだろう。だが普通の人には、これが難しいのだ。

あなたが落ち着いたら、未来の話をしよう。過去やコンプレックスや煩わしい人間関係は、ゴミ箱に捨てろ。そうして私と二人で、あなたの未来を語り合おう。

私には、やりかけの仕事がいくつもある。どんなに時間がかかっても、私はやり続けるつもりだ。階段を、一段抜かしで登るのだ。急ぐべき仕事だから。一刻も早く、みんなに楽になってもらいたいから。私の命が、途中で尽きてしまうかもしれない。だが、それでもいいのだ。まず、着手することに意味がある。次に仕事を、継続することに意味がある。たとえ私が途中退場したとしても、残ったみんなが仕事を続けるさ。


涼ちゃんのお母さんは幸い、症状はそれほどひどくないと診断された。だが念のため、ひと月入院することになった。面会するのは20時までOKだそうだ。涼ちゃんと真理ちゃんは、バイトが終わってから電車でお見舞いに出かけた。今週は二回。学校が始まる頃には、お母さんも退院しているだろう。彼女は涼ちゃんと、もっと頻繁に会えるはずだ。

私は平日の昼間に、直子ちゃんに電話をかけた。

「今、話しても大丈夫?」

「大丈夫。でも、死ぬほどつらい」と、直子は本当にしんどそうに答えた。

「今、どこにいるの?」

「今日は会社。でも、昨日帰ってきたツアーの清算で、頭割れそう」

「そりゃ大変だ。かけ直そうか?」

「いい。仕事は中断。おじさんと話す。おじさんと話すと、なんか元気になるから」

「そうかな?」私は不思議に思った。私には人を元気にしたり、笑わせたりする才能はない。

「おじさんは、そういう人だよ。だって、涼ちゃんも真理ちゃんも大月さんもみんな楽しそうじゃん」

「そう言われれば、そうだね」

「昨日、上海から帰ってきたの」と、直子ちゃんは不機嫌気味に言った。「来週はペルーに行くから、その準備もしないといけないの」

「この間は、阿寒湖にいたのに?すごい生活だね」

「まあ、これが仕事だから」と、まだ直子ちゃんは暗い声だった。

「直子ちゃん、なんか元気ないね。大丈夫?」と私は聞いた。

「わかる〜!!?」と、直子ちゃんが今にも泣きそうな声を出した。

「どうしたの?何があったの?」

「一緒に上海に添乗で行った先輩が、清算の仕事を全部私に押し付けたの!」

「そりゃひどい」

「ペルーの準備もあるし、いつもだったら休日出勤コース。でも日曜日はみんなと釣りだから、金曜までに絶対終わらせる・・・」なんか涙声になってきた。

「俺だったら、その先輩ただじゃおかないね。上司に相談したら?」

「大丈夫。だってその先輩、仕事できないので有名なの。清算させても計算間違えるし、目を離すとゴマカシかねない」

いやあ、どこにでもこういうやつはいるものだ。ズルの常習犯で、周りも諦めている。本人は平然として、良心の呵責もない。そしてこういう人、結構綺麗な人と結婚する。なんか、安倍首相みたいである。

「だから、私頑張る・・・」

直子ちゃんのしゃべり方が、日菜子ちゃんみたいになってきた。みんなたまには、誰かに弱い部分を見せたいのだ。

「なんか俺にできることがあったら、相談に乗るよ」と、私は言った。

「領収書の山で、死にそうなの!」

「通貨は、いろいろ混じってるんじゃないの?」

「その通り!香港に寄ったから、そこでは香港ドル。でも中国に入ったら、元とアメリカドルがごちゃ混ぜ。もう頭がこんがらがってくる」と、直子ちゃんは訴えた。

「エクセルの列に日付をを入れて、行を日本円と元と香港ドルとアメリカドルに分けて。その枠の中で使ったお金をその貨幣金額で入力して。会社は貨幣レートを一定期間固定するから、そのレートを別表に日付ごとに掛けるように表にして。こうしたら、簡単に整理できるよ」

「ああ、なるほど〜!。確かにわかりやすくなるわ」

「単に、行と列を整理しただけだよ。多分会社のシステムでもできるだろうけど、何より直子ちゃんの頭で全体を理解できていることが大事。シンプルにすれば、何事もわかりやすくなる」

 電話の向こうで、キーボードをタカタカ叩く音がかすかに聞こえた。

「これなら、夕方までに整理できそう!」直子ちゃんは、一転して明るい様子を見せた。「おじさん、すご〜い!」

「役に立ててよかった」

「これが、おじさんの秘密だ!」しばらく無言でパソコンをいじった後、直子ちゃんは言った。「人が困ってることが、分かっちゃうんだね」

「そんなことはないけど」と、私は言った。「ただ、物事とか悩み事を整理するのは得意だよ。実践的な悩みは、今のように小さな表に整理する。人生の悩みは、心の仕組みを解いてつらさを和らげる。そんな感じかな」

 直子ちゃんは、しばらく何も言わなかった。ずいぶん沈黙した後で、思い切ったように答えた。

「おじさんと年近かったら、私危なかったな」と、彼女が言った。

「危ない?」

「間違いなく、おじさんに恋してた。大月さんと三角関係だよ。あ、涼ちゃんも嫉妬しそう。彼女、おじさんが大好きだから」

 なかなか厳しい意見だった。まず涼ちゃんが私を好きなのは、彼女が真正のレズビアンではないことを指摘している。鋭い直子ちゃんは、たった1日過ごしただけで、それを見抜いたようだ。次に日菜子ちゃんが、私に恋していることもちゃんと理解したようだ。彼女なら説明しなくとも、私と日菜子ちゃんが釣りをしないでみんなの休憩所を作っているだけでピンとくるのだろう。怖い人である。

「直子ちゃんだから正直に言うけど、涼ちゃんは真理ちゃんが好きなのであって、女の人が好きなわけじゃないんだ。本人が何度もそう言っている」

「難しいね」と、仕事を放棄した直子ちゃんが言った。深いもの思いにふけっている様子がうかがえた。

「難しいよ。でもね、『好き』という原点に帰れば、難しい話じゃない。ただ、好きなだけだ。説明はいらない」

「うわー、難しいわー」と、直子ちゃんは言った。「おじさんは簡単なことしか言わない。でも言っていることは、とんでもなく難しい」

 その通り。素晴らしい。簡単な言葉ほど、難しいものはない。難解にしゃべることは、勉強さえすれば簡単だ。だが、難解なことを簡単にしゃべることが一番難しい。でも、人と繋がりたいのであればそうすべきだ。

「ねえ」と、私は沈黙している直子ちゃんに話かけた。「今週の日曜日、田所さんと真理ちゃんを隣にして、二人が話せるように仕向けてくれないかな?」

「いいよ〜!」と、直子ちゃんは即答した。

「あのさ、真理ちゃんは田所さんの隠し子だけど、彼女に自分のパパと話す時間を作りたいんだ。許してくれるかな?」

「あったりまえじゃん!パパと真理ちゃんのことは、もうおじさんがぶっ壊したから。ママも沙織も、何も言わないよ。分かった。日曜は二人を防波堤の釣り場で並べる。そういう仕切りは、私得意だから。誰にも何も言わせないよ」

 やはり田所家を支配しているのは、直子ちゃんだ。彼女と合意すれば上手くいくだろう。

「おじさん。今の仕事が終わるの、応援しててね」

「もちろん。なんだったら、手伝ってもいいよ」

「あはは。そこまで頼まないよ。気合い入れて、終わらせる。そして土曜は、パパとみんなの仕掛け作るから。期待しててね」

「期待してるよ。なにせ、ルアー釣りなんて初めてだもん」

「大丈夫。すぐ、覚えるよ」と、直子ちゃんは言った。口調がとても明るくなっていた。


 日曜日。田所家は自分の車で、私の家に来ることになった。田所さんが歩けなくなったので、車椅子が載せられる特別な車を借りたそうだ。そして運転は、田所さんの奥さん。直子ちゃんと沙織ちゃんが、釣りの後にたっぷり飲めるよう配慮したようだ。

4時半に、うちの駐車場で合流。今日の目的地は富津だから、1時間もかからないだろう。駐車場に四人で立ち、田所家のみんなを待っていても寒くはなかった。田所さんの予測通り、今日は穏やかな一日になりそうだ。

夜明け到着を狙って、二台の車は館山道を急いだ。後部座席の涼ちゃんと真理ちゃんはぐっすり。日菜子ちゃんは、私の知らない女性歌手の曲をかけてご満悦だった。会話はほとんどなかったが、彼女はずっと笑顔のようだ。

私は実は、女性歌手が作る歌詞があまり好きではない。女性差別だと怒られるかもしれないが、事実だから仕方ない。その理由は、彼女たちが「聖なる世界」の歌ばかり作るからだ。彼女たちは歌う。「あなたをずっと愛している」と。「ずっと愛し続ける」と。だが世の男は、そのセリフが嘘八百だと知っている。

 彼女たちは翌週にも、新しい男を作る。そして「あなたとは別れる」と連絡してくる。男がいくら言葉を連ねても、彼女は別れる決心を変えない。加えて、「あなたのここが嫌だ、そこが気に食わない」と別れる理由を並べる。まさに傷口に塩を塗り込む行為だ。男はついに諦め、ほぼ再起不能状態になる。そんな経験を何度もしたら、「あなたをずっと愛している」と歌われても信用できるわけがない。

もちろん、作詞が実は男ということも多い。これは論外なので、私は自分で作詞する女性歌手に注目してしまう。そして彼女たちが何を歌うのか、期待する。

期待は、たいてい裏切られる。彼女たちはやはり、今好きな人を本当に愛していると歌う。それだけ。深みもなにもない。だが私は、自分の人生で知った。彼女たちの心は、そんな簡単なものじゃないと。

古今東西、無軌道な行動を取る女性を描いた映画は多い。映画のヒロインはいつも不機嫌そうで、恋人を取っ替え引っ替えする。そして誰と寝ても、自分に心の平穏が訪れないと訴える。こんな映画を観るたび、若い私は首をひねった。だが今なら、その理由がおぼろげにわかる。

哲学者キルケゴールが書いた「死に至る病」という本の中で、「有限性の絶望」と「無限性の絶望」という話が出てくる。「有限性の絶望」とは、簡単に言うと私が最初に話した命の有限さだったり、能力、才能の限界(有限性)のことである。人はどれだけ努力しても、自分の力が届かない世界があることを知り、絶望する。これは誰にでも、心当たりがあるだろう。

一方、「無限性の絶望」は難しい。そこで先に挙げた、宇宙の果てまで続く階段の比喩を思い出そう。無軌道な映画のヒロインは、実はこの「無限性の絶望」にハマっている。誰と付き合っても、その相手が「自分の理想の相手」なのか確信が持てない。どんな学校に通っても、どんな仕事についても、それが「正しい選択」なのか確信が持てない。若いために、選択肢が無限だからだ。これが「無限性の絶望」の一例である。

「死に至る病」の論旨に沿うと、人はこの絶望を独力で解決できないとされる。だからキルケゴールは、イエス・キリストを信仰しろと言う。またかよ。もちろん私は、彼が出した結論に説得されない。だが、人が背負う絶望をシンプルに整理した点は、高く評価している。

日菜子ちゃんを例に挙げよう。彼女は自分の意思と関係なしに、バスケに打ち込まざるを得なかった。彼女の才能を知ったら、周りの誰もバスケをやめさせないだろう。だがそのせいで、彼女は「無限性の絶望」に堕ちてしまった。永遠にバスケを続けるつらさに、彼女は辟易していた。そしてついに、大学卒業と同時にバスケと縁を切ってしまった。

 同時に彼女は、高学歴と人の羨む職業を持つ人だ。だが彼女は、それにちっとも幸せを感じていない。彼女の話を聞く限り、日菜子ちゃんは学校も一種の牢獄と感じているようだ。囚人のような生活が、また無限に続くと彼女は考えている。その上彼女は、男とありふれた恋愛関係を築くことにも失敗した。

 回り道をしたが、私が女性歌手に歌って欲しいのは、日菜子ちゃんのような人の想いだ。なぜかというと日菜子ちゃんは、密かに人生に絶望し一生を独身で過ごす女性の典型例だからだ。女性ソングライターは、そんな女性たちが今感じていること、その生の苦しみ、つらさを素直に表現してほしい。そういう歌詞なら、私は喜んでその人の歌を聴く。

 偽りのない素晴らしい女性の歌として、Hi-posi というバンドを紹介したい。ボーカル兼ピアノのもりばやしみほさんが書いた、「身体と歌だけの関係」という曲だ。


 がんがんやって 早く飽きてね

 がんがんやって 一緒のスピードで早く飽きてね


 このHi-posiは1990年代に売れたバンドで、主にダンス・ミュージックを得意としていた。でも踊るための曲に、こんなびっくりする歌詞がのせられている。この詞は、少し説明を必要とするだろう。

 この詞の作者は、明らかに恋愛に絶望している。男がいつか自分のもとを去ると覚悟し、それを悟ったふりをしている。だから、「がんがんやって 早く飽きてね」なのだ。私とどうせ別れるなら、さっさとしてくれというわけだ。ただ、「一緒のスピードで早く飽きてね」とも言っている。作者が、彼を好きなまま別れるのはいやなのだ。それは現実には、ほぼ不可能なことだろう。だが作者は、お互いに納得して傷つかずに別れたいと望んでいる。

 この曲のラストは、こうである。


 身体と歌だけの関係でいよう


 歌だけが残る

 ステキな僕らのステキな歌だけがそこに残る


 この言い回しは、前半部分と矛盾している。一緒のスピードで(二人の関係を)飽きようと言ったのに、「ステキな僕らのステキな歌」(美しい思い出)が残ることを希望している。作者は恋人と別れた後、彼との美しい思い出に浸りたいのだ。まるで、エリちゃんみたいな話だ。

 年老いた私は、この歌詞について言いたいことは山ほどある。だがそれは置いて、この歌詞が持つ生々しさに深い感銘を受ける。そこにあるつらさ、苦しみ、悲しみ、孤独が手に取れるように伝わってくる。私はすっかり Hi-posi を気に入って、何枚もCDを買った。

 車内は、変わらぬ愛を切々と訴える歌で満ちていた。きっと人気のある歌手なのだろう。日菜子ちゃんが、それを好きならそれでいい。私は黙って、ハンドルを握り前を睨んでいた。

「拓ちゃん」と、日菜子ちゃんが私に話しかけた。

「なあに?」

「田所さんって、もう歩けなくなっちゃたんだって?」

「そうだって。車椅子に乗ってくるって」

「どんどん悪くなってるね・・・」

 彼女は永遠に続く愛の歌を聞きながら、有限な人間の生について考えていたようだ。

「うん。それが、あの病気だからね」

「無理して釣りして大丈夫かな?まだ冬なのに」

「やるしかないよ。今の田所さんに、今年の春や夏はないかもしれない。だから、今日出かけるんだ。今という時間に、徹底的に打ち込むしかない。彼は気合だけは十分だよ。大物を釣ると張り切ってる」

「すごい生命力・・・」と、日菜子ちゃんは言った。そしてしばらく黙った。

日菜子ちゃんは、田所さんの死を目前にしながらも奮闘する姿に、何か影響を受けつつあるのかもしれない。もしそうなら、素晴らしいことだ。無限に苦悩する日菜子ちゃんが、有限に立ち向かう田所さんからささやかでも「手かがり」を感じてくれたら。彼女の将来、仕事、バスケなどへの考え方が、少し変わるかもしれない。

「身体と歌だけの関係」も、せんじ詰めると「無限性の絶望」の歌である。無限に続く時間の中で、恋人がずっと自分を愛してくれないだろうと作者は予測している。その観念が耐えがたい孤独感を生み、それがねじれて「早く(私に)飽きてね」という言葉を生んだと私は思う。だがこれは、根本的な勘違いだ。

「有限性の絶望」と「無限性の絶望」は、現代では誰にでも起こりうることだろう。それを指摘した、キルケゴールは偉い。だが彼の考えは、実は根底まで考えて出された答えとは言えない。なぜならこれら二つの絶望は、人々の自由がある程度保証され、誰もが自分の人生を自分で選択できる社会でしか生まれないからだ。

わかりやすく言うと、「身体と歌だけの関係」の主人公が、田所さんのように親に結婚相手を決められたら話は全然変わる。相当頑固そうな主人公だから、決められた相手を断固拒否するだろう。そして恋人に対する想いを燃え上がらせるだろう。話は「ロミオとジュリエット」みたいになり、無限の悩みは吹っ飛ぶ。彼女は、恋人と会える一瞬、一瞬に喜びを感じるはずだ。

過去において、恋愛や結婚相手を自由に選べた時代は少ない。何より、近親相姦の弊害がある。狩猟採集生活を送っていた初期人類にとって、子孫(働き手)の確保は重要な課題だった。だから、隣村から若い男か女を受け入れて、適齢期の若者と結婚させる。代わりに若い男か女を差し出す。そこに当事者の意思は一切ない。だから、過去において恋愛は総じて禁じられ、秘匿された行為とされた。

キリスト教は極端な禁欲主義で、性に関わる一切のことを汚れたものとする。イスラム教では、若い頃から女性をヴェールで覆い、他人に顔どころか髪も見せない。お客さんが自宅を訪れても、奥さんや若い女性は客に挨拶もしない。奥の部屋でじっとしている。ギリシャやローマのような擬似近代社会の高所得者層を除いて、自由な恋愛と、そこから生じる苦しみはなかった。これは世界共通である。というか、今日を生きるだけで精一杯の一般庶民(農民)にとって、自由に人を好きになるなんて思いつきもしなかったのだ。

成熟した紀元1世紀頃のローマの貴族社会から、晩婚化が始まっていたそうだ。キーは自由恋愛にある。好きに相手を選んで良いと言われたら、無限の可能性問題に直面する。その相手が「自分の理想の相手」なのか、という問題が自分の身に降りかかる。疑い、可能性を考えたらキリがない。少子化問題の根本は、自由恋愛なのである。

自分の人生は、有限である。私のように見かけの良くない男は、そもそも女性に相手にされない。誰かを好きになっても、フラれるばかりの人生だ。だが若い頃の私のように、挫けてはダメだ。内面が魅力的になるよう努力すること。これしかない。すると女性は、「柿沢はカッコ悪いけど、こいつで妥協するか。いいところもあるし」となる。私の場合、それに気づくのが遅すぎたけど。


古い blues の曲は、アメリカの黒人奴隷の心情を鮮やかに描いている。ここでは、Led Zeppelin もカバーした「In My Time Of Dying 」の話をしたい。


In my time of dying, 私が死ぬとき

want nobody to moan 誰も泣かないでほしい

All I want for you to do 私があなたに望むのは

is take my body home 私の身体を家へ連れ帰ってほしいだけ


so I can die easy 私は楽に死ねる

(略)

Jesus gonna make it, my dyin' bed Jesusが私の死の床を作ってくれる


この曲は、誰の作曲かはっきりしない。どうやら、1920年代には知られていたようだ。レコーディングしてヒットさせた人もいたらしい。

まず気づくのは、現代でこんな歌詞の曲を作る人はまずいないということだ。「死にたくない」という歌はあっても、「楽に死ねる」なんてまず聴けないだろう。


I can hear the angels singing 天使の歌が聴こえる

Oh, here they come, here they come, 天使が来る、天使が来る

Bye-bye, bye-bye, バイバイ、バイバイ

Oh, it feels pretty good up here, とても気分がいいよ

I'll touch Jesus, I'll touch Jesus, Jesus に触れるんだ、Jesus に触れるんだ


主人公は、死を目の前にして高揚した喜びをストレートに口にしている。隷属と虐待と貧困に苦しみ抜いた人生から、まもなく脱出できるのだと。こんなひどい世界から、Bye-bye だと。Led Zeppelin のハードかつ完璧な演奏でこの曲を聴くと、その音楽の素晴らしさとともに、私はたまらない悲しみに襲われる。なんとつらい人生だったのかと。なんとひどいことをしてしまったのかと。

 注意すべきは、我々と問題の質や方向性が異なるということだ。現代社会に生きる人は、みな死を恐れる。有限の人生に苦しみを覚え、若さを保つため、健康を保つため努力し、金をつぎ込む。だが「In My Time Of Dying 」の主人公は、そうではない。死を楽しみにしている。主人公に、有限も無限も一切頭にはない。それで悩んだことは、おそらくないだろう。ただ苦痛に耐え、祈りを捧げて生きてきたのだろう。

この曲が現代まで残っているのは、黒人奴隷たちがずっと歌い継いできたからだ。おそらく、19世紀あたりから。多くの人たちがこの歌詞に共感し、それに自分を重ねたからだ。

だがこの曲も、おそらく私の世代で消えていくだろう。若い人は、古い blues なんて聞かない。また、まあまあの自由と平等を手にした私たちは、もうこの曲の意味を理解できない。哀しいけれど。

「何考えてるの?」日菜子ちゃんが突然、私にたずねた。急に話しかけられて、私は答えに窮した。

「えっ、ああ、うーんと・・・。無限と有限の問題」私はなんとか、それだけ答えた。

「なーに、それ!?わけわかなんない」と、日菜子ちゃんは少し呆れて笑った。「この頭には、いったい何が入ってるのかしら?永遠に、謎だな」

 そう言って彼女は、運転している私の髪を優しく何度も撫でた。彼女の手は私の頬に触れ、肩に触れ、背中を伝って下へ降りた。彼女の手は脇腹を過ぎ、太ももまで辿り着いて落ち着いた。私のそこをリズムを取るように、たん、たん、たんと軽く叩いた。それから彼女は、手を私の太ももに乗せたままにした。まるで私がここにいることを、感触で確認するように。そして自分の手のひらで、私の体温を感じて温かみを吸い取るように。


前を走る田所家の車が、高速を降りた。さてもうすぐ到着だ。まだ5時過ぎ。あたりは漆黒の暗闇だ。夜明け前に、釣りを開始できるぞ。

「拓ちゃんと付き合ってるとさ」と、日菜子ちゃんは話を再開した。「いろんな人に出会えるよね。私は人付き合い下手だから、自分じゃ無理」

「そうだねー。でも実は俺も、人付き合いはうまくないよ。でもさ、最近は人の悩みに付き合おうと思ってる。悩んでいる人がいたら、声をかけなくちゃと思ってる。だから自然に、知り合いが増えるんじゃないかな?」

「ふーん」と、日菜子ちゃんはうなった。

 人の悩みは、千差万別である。キルケゴールは、その一部を論じたにすぎない。彼は、誰もが自分固有の生を生きるという「実存哲学」の祖とされる。その着眼点は素晴らしい。だが彼が構想したよりも、人の生の苦しみはバラエティーに富んでいる。

 キルケゴールその人固有の問題は、彼が「せむし」だったことにあるという説がある。誰もが悩む身体的コンプレックスである。ビジネスで成功した裕福な家に生まれた彼は、一度婚約したのに一年後にそれを破棄している。正確なことは、もちろんわからない。だが結婚することを自ら拒むほど、彼が悩んでいたことは確かだろう。何かに。

 私たちはある場所に、自分の意思と関係なしに放り込まれる(生まれる)。そこで手元にあるもの、周りにあるものを見、考え、自己を形成していく。誰も仕方なく、自分に与えられた条件(貧富、美醜、身体能力、頭脳、時代、国など)を受け入れるしかない(ハイデガーはこれを、「世界内存在」と名付けている)。つまりスタートから、人はいろんな意味で平等ではないのだ。

 醜い人は、そのために一生を苦しむ。貧しい人はとんでもない努力をしない限り、また周りが協力してくれない限り貧困から脱出できない。頭の良くない人は、いくら頑張っても頭がいい人には勝てない。それが現実だ。

 前にも話したことだが、急進的なイスラム教に惹かれる人はこの自分固有の苦しみをスタートにしている。彼らは実は、過激なイスラム原理主義に大いに納得したのではない。自分の苦しみに耐えかねて、藁をもすがる思いでそれらに飛びついたに過ぎない。これは自爆テロを起こした人の、生い立ちを丹念に見つめればすぐわかることだ。

 また銃社会であるアメリカにおいても、若者による銃乱射事件はあとを絶たない。彼らが無差別殺戮を選択する理由は、宗教や人種にあるのではない。彼ら固有の、人生の苦しみのせいなのだ。だから、それを解かない限りこの種の事件はなくならない。

 アメリカ社会の、銃規制に私は賛成だ。だが、それに激しく反対する人々がいることも知っている。アメリカ社会は「銃規制だ」「反対だ」と、互いに叫ぶだけで、いつまでも少しも前進しない。もし仮に、銃を規制したとしよう。そしたら悩みを抱える人々は、爆弾か毒ガスを作るだけだ。なんの問題の解決にも、なっていないのである。

 問題の核心は、サインにある。1999年のコロンバイン高校銃乱射事件(犠牲者13名)においては、犯人による事件を予告するサイトの書き込みが、事件前に保安官に通報されている。2007年のバージニア工科大学銃乱射事件(犠牲者32名)でも、犯人が周囲で孤立していることは学生たちみんなわかっていた。

 彼らのこんなサインを見つけたとき、私たちは見て見ぬ振りをしてはいけない。サインに気づいたら、彼らに迷わず声をかけるべきだ。「大丈夫か?」と。最初はそれだけでもいい。それを継続することだ。そして彼らに、自分をぶつける。自分の個性、自分の考えること、好きなこと、なんでもいい。そうすることで、彼らの築いたバカげた城を破壊するのだ。「他者は、自分の存在を脅かす」。ハイデガーの言葉だ。親しい信頼できる人の言葉は、自分だけで作った妄想を砕く力があるのだ。

「今度は、何考えてるの?」とまた、日菜子ちゃんが私に話しかけた。

「う、うーん。ええっと・・・。銃乱射事件」と、私は詰まりながら答えた。

「夜明け前の爽やかな朝に、なんでそんなこと考えるの?」

「うーん、いろいろ考え込んでた」

「ねえ、あなたが好き」と、日菜子ちゃんは突然言った。「わけわかんないあなたが好き。本当だよ!?」

「そう?」私は考え事をやめた。


 目的地に着き、駐車場に車を停めた。そこからは、直子ちゃんがビシッと仕切った。まず田所さんの車椅子を押して、彼の望む防波堤の一ポイントを決めた。次に田所さんの隣に真理ちゃんを座らせ、その隣に涼ちゃんを座らせた。あとは、「あなたはここ。あなたはそこ」という調子で次々席を指定した。あまりの勢いに、誰も何も言えなかった。

 いざ釣りが始まると、田所さんは早速真理ちゃんにルアー釣りを教えた。目指すポイントに針を落とし、そこからゆっくり糸を巻く。ルアーが、生きた餌だと魚に思わせるのだ。巻き切ると、また遠くへ投げる。そして巻く。なかなか忙しい。

 涼ちゃんの面倒は、直子ちゃんと沙織ちゃんが共同で見ていた。私は田所さんの奥さんと日菜子ちゃんに挟まれながら、真理ちゃんの様子をじっと見ていた。


「田所さんは、なんで釣りが好きなの?」と、真理ちゃんはたずねた。

「えっ!?」と、田所さんはびっくりした様子を見せた。「うーん、なんで好きなんだろ・・・?そうだな。多分・・・。無心になれるからだと思う。いろんなことを忘れて、釣りに集中する。それが好きなんだと思う」と、思案しながら田所さんは答えた。

「忘れたいことがあるの?」と、真理ちゃんはさらに突っ込んだ。田所さんは、追い詰められて困った顔をした。

「そうだな・・・。うん、そうだ。忘れたいというか、考えたくないことがたくさんあったんだ。ずっと昔から、今まで。だから、暇を見つけては釣りをしてたのかも知れない」と田所さんは言った。

 私はこの会話に、思わず田所さんの奥さんをチラッと見てしまった。でも彼女は、微笑を浮かべていた。そして彼女は、田所さんではなく私を見ていた。この会話が意味することを、あなたと私はわかるだろうとでも言いたげに。

「うん、確かにそうだ。忘れたいことがいっぱいあって、私はいつもそれから逃げてた。そうだったんだ・・・」と、田所さんは独り言みたいに言った。そして、「真理ちゃんは頭いいね。私が知らないことを知ってる。柿沢さんみたいだ」と言った。

 真理ちゃんは釣竿から目を離し、得意の聖母マリアスマイルを田所さんに向けた。沙織ちゃんが、ハッと目を見開いた。

「私も忘れたいことがいっぱいあったよ。私は子供の頃から、女の子が好きだったから。全てのことが嫌だったよ。小学生のときから、女は男を好きになるのが当たり前だから」と、真理ちゃんは言った。

「真理ちゃんも、苦労したんだね。それも小さいときから」と、田所さんは言った。

「うん。私は同級生の男の子に興味なかったから。その時点でみんなとズレてた。高学年になって、男の子が私に次々告白するの。私はもちろん全部断った。そしたら、クラスの女の子全員から嫌われちゃった」

 真理ちゃんはそう言ってから、竿を振って針を遠くに投げた。だんだん上達している。そして釣り糸を少しずつ巻きながら、彼女は話を続けた。

「私は、ずっとトラブルメイカーだったの。周りと衝突してばっかり」

「そうだったの?」と、田所さんは驚いて聞いた。

「そう。私、去年の夏に同級生に目の上をカッターで切られたの。私がみんなとケンカしたのがいけないんだけど」

 田所さんだけでなく、彼らの家族全員が手を止めた。息を飲んだ。そして真理ちゃんを見つめた。彼女の言葉を待った。

「私も逃げ出しちゃった。家出したの、涼ちゃんと。四ヶ月くらいかな。そのとき、拓ちゃんに出会ったの」

「どうやって、柿沢さんと知り合ったの?」と、田所さんはたずねた。他の人たちは、口を挟みたいけれど我慢してくれた。

「終電で寝過ごしたら、拓ちゃんが声かけてくれて。それ以来、拓ちゃん家にずっといる」

「ねえ、不思議なんだけど」と、田所さんは言った。「なんで柿沢さんという、見ず知らずの人の家に住むことになったの?」

「拓ちゃんが、普通じゃなかったから」と、真理ちゃんは答えた。「知り合ってすぐ、拓ちゃんに『私と涼ちゃんが恋人同士だ』って話をしたの。涼ちゃんが話したんだっけ?そしたら拓ちゃんが、『普通のことだよ』って答えたの。びっくりした、本当に。今まで悩んでたことが、全部なんだったんだろうと逆に悩むくらい。ひっくりかえったな」

「そうだったんだ」と、田所さんは言った。「でも柿沢さんは正しいよ。自分の気持ちに正直でいるのは、とても大事なことだと思う。私は・・・。私は、自分の気持ちにずっと嘘をつき続けたから。今頃になって、正直さの大切が身にしみる」

「田所さんは、何に嘘をついたの?」と、真理ちゃんは聞いた。

「ははは」と、寂しげに田所さんは笑った。「真理ちゃん、厳しい質問だよ。そう、全部かな。生きてきた全部。私は、じいさんが決めたことに従って生きてきた。何もかも命令されて、言われる通りにしてきた」

「おじいさんが、怖かったの?」

「怖い、というかさ」と、田所さんは言った。「じいさんは、うちの一族で絶対だったんだ。誰もじいさんに逆らえなかった。いや、私の弟は逆らった。そして、今でも音信不通だ。生きてるのか、死んでるのかもわからない」

「ふーん。おじいさんが絶対だったんだね。私には想像できない」

「そうだろうね。あれは、うちの家にいないとわからないと思う」

「拓ちゃんなら、そのおじいさんとケンカするよ。間違いないよ」

「ははは。そりゃそうだ。柿沢さんなら、やりそうだ」

「大事なのは、今の気持ちを大切にすること」と、真理ちゃんは言った。自分に言い聞かせるみたいに。

「そうだな。ほんとそうだ」と、田所さんは同意した。


 私は心温まる父と娘の会話に耳を澄ませた。二人は釣り針を投げては引き寄せる、それを繰り返しながら話し合った。周りはそれを邪魔しないようにしていた。二人は、放っておけばずっと話し続けそうな雰囲気だった。私はすっかり安心し、自分も釣りを楽しんだ。

「柿沢さん」と、田所さんの奥さんが小声で私に話しかけた。

「はい」

「あなた、田所に私の再婚を勧めたそうですね」

「そう。そんなんですよ。今日、その結果を教えてもらう約束だったんです」と私は彼女に言った。

「私は、頭が真っ白になりましたよ」と、田所さんの奥さんは笑顔で言った。

「失礼ですが、奥さんは今おいくつですか?」

「44です」と、彼女はすぐ教えてくれた。

「なんだ、まだ若いじゃないですか」

「ええっ?!そんなこと言うの、あなただけですよ」と、彼女はさらに表情を崩して答えた。

「50までは、攻めでいけます。メイン・ストリートを突っ走れますよ」と、私は言った。私のセリフを聞いた直子ちゃんが、ひっくり返っていた。

「そんな・・・。そうでしょうか?」

「当たり前ですよ。攻撃的に行きましょう」と私は言い、リュックからiPad miniを取り出した。

「奥さん、ちょっとそこに立ってくれませんか?」

 何をする気だろうと訝しがりながら、彼女は釣り竿を置いて立ち上がった。私はiPad miniで、彼女の全身写真を三枚撮った。

「ねえ、日菜子ちゃん」と、私は彼女に話しかけた。「田所さんの奥さんの写真を、エリちゃんに送ってくれない?彼女に似合う服について、エリちゃんの意見を聞かせてって」

「いいよ」

 私は田所さんの奥さんの写真を、日菜子ちゃんの携帯に送った。彼女はLINEですぐ、エリちゃんに写真を送った。まだ、朝6時だけど。

「何をしたんですか?」と、田所さんの奥さんが聞いた。

「日菜子ちゃんの親友が、服飾デザイナーなんです。プロの意見を聞きましょうよ」と、私は答えた。

 私たちは、また釣りに戻った。田所さんと真理ちゃんは、熱心に会話していた。会話の主導権は、ずっと真理ちゃんが握っている。彼女はこれができる。涼ちゃんや日菜子ちゃんには、できない芸当だ。彼女には、私も敵わないことがある。

10分もすると、日菜子ちゃんの携帯がピロピロと鳴った。エリちゃんからの返信だった。メッセージを見せてもらうと、「こんな感じが似合うと思う。見る人が、信頼感を覚えるようなイメージが狙い」と書かれ、その下にURLがいくつも貼ってあった。

さっそく私のiPad mini にURLを転送してもらい、それを開いてみた。私の後ろから、直子ちゃんが覆い被さるように画面を覗きこんだ。

サイトを開いてみると、二十代くらいの女性がモデルの、様々な洋服が紹介されていた。もちろん私はよくわからない。でも、全体を通して明るい色が多かった。いつも黒基調の服装の、田所さんの奥さんの裏を突いている。

奥さんに見せると、「こんな若い服、無理ですよ」と、彼女は言った。とても恥ずかしそうだった。だが同時に、とても楽しそうでもあった。

「ママ、いいよこれ。いける、いける」と直子ちゃんが言った。突然の騒ぎに、沙織ちゃんも駆けつけた。

「沙織。ママに似合う服を、大月さんの友人の方に紹介してもらったの。デザイナーなんだって」と直子ちゃんが手短かに説明した。

私は日菜子ちゃんの携帯を借り、エリちゃんへお礼のメッセージを送った。すぐに「いえいえ、お安いご用です」と返信があった。

「ママってさあ、いつも怒ってるじゃん?」と、沙織ちゃんが直子ちゃんに言った。

「そんな。いつも怒ってない」と田所さんの奥さんは抗議した。でも彼女を娘二人は、完全に無視した。

「怒って顔が硬いよね。だからさあ、こういう柔らかい雰囲気必要だよ」と、沙織ちゃんが言った。

「同感」と、直子ちゃんが沙織ちゃんの意見に賛同した。「ママはもっと、明るい色を着るべきだよ。毎日、喪服みたいだもん」

二人の娘は、私がまさかママに再婚を勧めてるなんて知らない。そんなことは、子供が知らなくていいことだ。

「無理だよ。こんなの」と、田所さんの奥さんはまだ抵抗した。

「プロのデザイナーが、ママのために選んでくれたんだよ。その好意を無にするの?」と、直子ちゃんが本気で怒った。

「そうだよ。ねえ、来週買い物に行こうよ。今週紹介してもらったブランドをゆっくり吟味して、ママも納得できる店に行こうよ」と、沙織ちゃんが言った。

「行く!私も行く!ペルーから土曜に帰るから、日曜に銀座に行こう!」

「銀座・・・。もう、何年も行ってないよ・・・」と、田所さんの奥さんは困り果てたように言った。

「だからダメなんだよ、ママは。お洒落しなくちゃ。おじさんの言う通り、50までメイン・ストリートを突っ走れ!」と、直子ちゃんが言った。

「何それ?おじさんが言ったの?」と、沙織ちゃんが私に聞いた。

「そうだよ。ママはまだまだ、スポットライトを浴びれるよ」と、私は言った。

「わかった。ギンギンの服をママに着せるよ」と、沙織ちゃんは答えた。とてもやる気に満ちていた。

「是非そうして。男が寄ってくるくらい、ギンギンのキラキラでよろしく」と、私は彼女に答えた。


 この日は昼まで頑張ったが、誰もに何も釣れなかった。でもそれでいいのだ。前回同様テントを張って、用意していた鍋を作ってみんなで食べた。直子ちゃんは、仕事で負った数々の試練について大声で話していた。この人は話がうまい。思わず聞き入ってしまう魅力がある。

 田所さんと真理ちゃんは、すっかり意気投合していた。みんなの会話に加わらず、二人で真剣に話し合っていた。真理ちゃんに相手にされない涼ちゃんは、私の膝に乗ってむすっとしていた。そんな私を、田所さんの奥さんと日菜子ちゃんが挟んでいた。二人とも笑っていたが、とくに何も言わなかった。黙っていても、このメンバーが作り出した雰囲気に満足な様子だった。

 最後に、絶望について話そう。話が途中で途切れてしまったから。キルケゴールは、「死に至る病とは絶望のことである」と言っている。私は彼を高く評価するが、この意見には真っ向から反対である。

 絶望とは何か?チャンスである。びっくりされると思うけど。人は普段順調に物事が進んでいるとき、自分の奥底を見つめたりしない。スポーツでも、勉強でも、仕事でも、結婚生活でも、なんでも。すべてが上手く行っていると感じるとき、人は真剣に物事を考えたりしない。

 だがなんらかの理由で、絶望せざるを得ないときがある。ある人は自殺し、ある人は宗教に救いを求め、ある人は無差別殺人のような破壊的選択を取る。みんな自分固有の、絶望のせいである。

 だが絶望とは、「死に至る病」ではない。今まで軽く物事を考えていた自分を、徹底的に反省できるチャンスである。それは、想像を絶する苦痛を伴う(私も経験したことがある)。だがその苦痛に耐えて、悩み抜いた結論にこそ価値がある。

 一つアドバイスがある。自分だけで考えないことだ。名作と呼ばれる小説は、絶望したあなたと同じ問題をテーマにしている。映画も、素晴らしい作品がたくさんある。そして、音楽だ。音楽にのせた歌詞は、さらにあなたの最奥に届く。いま挙げたすべてが、あなたの謎を解いてくれる。私が保証する。





 

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レズビアンの少女二人と私 まきりょうま @maki_ryoma

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