第20話 制服と教科書

土曜日に私たちは、朝早くから出かけて制服と教科書を取りに行った。まずは真理ちゃんの家。彼女の家は、京成線沿いのこじんまりとした一軒家だった。

「ママはまだ寝てるから。ほっといて」と真理ちゃんは言った。真理ちゃんのお母さんのお店は、朝四時まで営業しているそうだ。そりゃ午後まで寝るよな。

私は外で待ってると言ったのだが、真理ちゃんは私を家の中に招いた。そして自分の部屋にまで入れてくれた。

これぞまさに、女の子の部屋だった。いろんな色が絡み合って、虹のように見える家具類。壁を埋め尽くすポスターや、風景画、ニッチな写真。それらの間を縫うように壁に飾られた、大量の花の絵。うちの部屋もこうすればいいのに。遠慮してるのか。それとも、涼ちゃんの趣味が違うのかな。

真理ちゃんは空にして持ってきたキャスターバッグに、教科書や制服を詰め込んだ。涼ちゃんも手伝った。私だけ、ボケっと突っ立っていた。私には、何が必要なのかわからない。

真理ちゃんが、血痕のたっぷり着いた夏服をタンスから引っ張りだした。一瞬私は、心臓が止まりそうになった。事件の日に着ていた制服だ。しかし、真理ちゃんも涼ちゃんも、それを見てもいたって冷静だった。

「これ、いらないね」

「捨てちゃおうよ」

そう言ってそれをビニールのゴミ袋に放り込んだ。二人にとって、それはもう過去のことなのだ。二人の眼は、来週の月曜日に向いている。そのビニール袋は私の車に積まれ、うちのマンションのゴミ捨て場に捨てることになった。


次に涼ちゃんの家に行くと、おばあさんが出迎えてくれた。彼女は、明らかに悲しげだった。それはそうだろう。可愛い孫が帰って来ると思ったら、独身の中年男との生活を続けるというのだから。

応接間で私にお茶を薦めるおばあさんを無視して、涼ちゃんは私の手を引いて二階の自分の部屋に連れて行った。

涼ちゃんの部屋は、シンプル極まりなかった。勉強机、タンス、クローゼット、テレビ、パソコン。他には何もなかった。壁には何の飾りつけもなかった。ぬいぐるみもなかった。真理ちゃんとは、まったく好みが違う。むしろ、私の部屋に近かった。

真理ちゃんと同じく涼ちゃんは空のスーツケースに要るものを詰めると、彼女はすぐ帰ろうとした。それはあんまりだと思い、私は二人を応接間に連れていった。するとドリーが、すぐ涼ちゃんを呼んだ。彼女と真理ちゃんは庭に出て、しばらくドリーと遊んだ。私はおばあさんと二人で、ソファに向かい合って座った。

「せっかく柿沢さんと平松さんが来て下さったのに、主人が不在で大変申し訳ございません」とおばあさんは私に言った。「本日は、商談を兼ねたゴルフがありまして・・・」

「そんなお忙しい日に、突然お邪魔して申し訳ございません」と、私も彼女に謝った。

「とんでもない。いつでも来てください。この度は、何もかも柿沢さんのおかげで・・・。涼を学校に戻してくださって、主人も私も柿沢様にはどんな感謝の言葉も思いつかないです。本当に、本当にありがとうございます」そう言って彼女は、座ったまま深くお辞儀をした。

「いえ、そんな大層なことではないです。学校が理事長までグルになってインチキをやったから、コテンパンにとっちめただけです。私は建築屋なので、トラブルはしょっちゅうです。私は問題や不正を見つけたら、ものすごく怒る男です。だから今回の件も、私には会社でやってることと変わりないです」

「主人が申しておりました。あなたのような部下が片腕に欲しいと」

私は苦笑するしかなかった。今回のことは、私一人ではできない。涼ちゃんと真理ちゃんのおかげだ。二人への私の思いが、困難なミッションを達成させたのだ。

「涼さんは、これからが大変です」と私はおばあさんに言った。「私は先生たちに、涼さんが欠席した授業や受けなかった試験を全部やれと命令しました。通常の授業の後に、時間を取ってやれと。そうすることで、欠席した分を取り返せと。

 それは裏を返せば、朝から晩まで勉強することになります。毎日、涼さんはヘトヘトになるでしょう。でも仕方ない、休んでたわけですから」

 私の話を聞いて、おばあさんは顔を曇らせた。学校に復帰できるという喜びから、これからの試練に気づいてショックを受けたのだろう。

「涼は、大丈夫でしょうか?」

「大変だと思います。私たちだってそうでしょう?朝から晩まで授業を受けたら、全部頭になんか入りませんよ。右から左に抜けて行くだけですよ」

「試験は大丈夫でしょうか?」

「そこは、私がなんとかします。学校がテストで出す問題なんて、たかがしれてますから。これだけ覚えろ、と絞って教えるようにします。高得点は難しいけど、単位を取れるくらいには仕上げます」と私は言った。

「先週主人が申し上げましたが、家庭教師を手配しましょうか?」とおばあさんは言った。

「いえ、必要ないです。涼さんはご存知の通り、容易に人に心を開きません。それくらい、これまでの人生で傷ついてしまったんです。ですから、他人の家庭教師に勉強を教えられても、彼女は受け入れないと思います」

「そうですか・・・」

 おばあさんはしばらく黙って、考え込んでいた。彼女も涼ちゃんに何か手助けをしたいのだ。それはわかる。だが、涼ちゃんは簡単じゃない。

「私と主人に、できることはありますか?」とおばあさんは私に聞いた。

「さしあたりは、ありません」と、私はまた偉そうに答えた。私の悪いところだ。人を傷つけることを口にしてしまう。しかし私は、シンプルな人間だった。彼らに気を使って、無駄なことを涼ちゃんに押し付けたりしたくなかった。

「では、どうすればいいんですか?」おばあさんは、少し私に怒った調子でたずねた。

「私がまず目指すのは、涼ちゃんが学校を卒業できることです。今は、留年も覚悟しなければいけない状況です。それくらい追い込まれているのが事実です」

 おばあさんは、さらに顔色を変えた。そしてなおさら、何か自分もしたいという表情をした。まあ、当然だろう。しかし私は、現実を直視する話をした。

「涼さんが本気で勉強をするなら、多分中学校一年生からやり直さなければいけないでしょう。彼女は、その頃から勉強を放棄していますから。これまでの試験は、落第点ギリギリで切り向けてきたのでしょう。でも、勉強はそんな甘いものではない。基礎部分から、しっかりと積み重ねないといけない。その基礎が、涼さんには決定的に欠けていると思います」

 向かいのソファで、言葉を失っているおばあさんに私は話を続けた。

「涼さんのために、何か手助けをされたいお気持ちはよくわかります。でも、涼さんに負担をかける方法はやめましょう。

私は涼さんに、各科目の基礎を突貫工事で教えます。幸い、涼さんは私の言うことを聞いてくれます。短時間で、それを実行します。

 それから、もう十一月です。卒業後の進路を決めなくてはならない。こんな状況ですが、私は涼さんに進学してもらいたいと思っています。レベルの低い学校でいい、四年制でも短大でも構わない。涼さんに、学生生活を送ってもらいたい。そこで知ること、そこで出会う友人は一生ものの価値があります。私はそれを涼さんに経験してもらうために、最短コースの勉強を教えます」

 キーワードは、最短コースだ。目指す大学があり、入試の過去問題から100の出題パターンがあるとしよう。予備校は、その100パターンの問題を繰り返し教え、試験に出して受験生に全パターンを教え込もうとする。しかし私に言わせると、それは分類が甘い。そして、非効率だ。

その100パターンを目を凝らして眺め考えると、A-1,A-2,A-3・・・。B-1,B-2,B-3,・・・。C-1,C-2,C-3・・・と、カテゴリー化することができる。A,B,C,D,E、せいぜいそんなもんだ。なんのことはない、100パターンは5個のバリエーションに過ぎないのだ。実際、頭の切れる18歳は、この事実に気づいている。だから試験でいつも高得点を取れる。5個のバリエーションをつかんでいるから、未知の問題に出会っても、A,B,C,D,Eのどれかだろうとあたりをつけられる。私はこれを西洋哲学から知った。

西洋哲学で押さえておくべきことは、主客一致の問題、徳福一致の問題、一元論と二元論(神がいるか、いないか)、観念論と唯物論、自由と平等の共存問題、これくらいだ。どんな難しい言葉で語られようと、哲学はこの問題のいずれかについて語られている。それが何かに気づけると、哲学者の語ることの意味がわかるようになる。

「私は、柿沢さん、あなたのおっしゃってることがよくわからないです」彼女は当惑しながら、正直に意見を述べた。

「こんな偉そうなことを申し上げてますが、当の私も大学受験の時はそんな事実に気がつきませんでした。大学を卒業してから、理屈がわかったんです。だから、私も頭の悪い人間です。大学も、大した学校ではありません」

「涼を、予備校に通わせなくていいのですか?」

「要りません」と私は即座に答えた。「涼さんは、学校の授業をこなすだけで精一杯になります。そんな疲弊した彼女に、さらに課題を課しても頭には入りません」

 私は、本当に生意気でイヤなやつだなと自分で思った。孫のことを真剣に心配するおばあさんの意見を、他人の私がピシャリと否定するのだ。失礼極まりなかった。

「わかりました」とおばあさんは諦めたように言った。

「失礼なことばかり言って、申し訳ありません」と私は謝った。

「でも、あなたは誰にもできないことをした。涼の退学届を取り消し、欠席まで帳消しにした。信じられないです。あなたみたいな人、初めて私は知りました」

 私が学校でやったことも、実は簡単な論理だ。「傷害事件を揉み消した学校の判断は無効だ。ゆえに、派生する涼ちゃんと真理ちゃんの退学と欠席も無効だ」と主張したに過ぎない。ペラペラとしゃべったが、全てこの論理を補完する言葉を並べただけだ。そしてそれを世間に公表すると脅した。事実を聞いた世間の人々は、私のシンプルな論理に納得する。揉み消しは無効だ、そんな学校はダメな学校だと。

「シンプルな理屈を、涼さんに教えることだと思います。英語でも、数学でも、歴史でも。シンプルな全体像を把握してもらった後で、細かい試験に出ることを教える。英語なら、ここはwillなのか、wouldなのか。歴史なら、ある国がある時代カトリックなのか、プロテスタントなのかと。全体像をつかんでいれば、答えは簡単に導き出せます」

「もう、私にはついていけませんわ」とおばあさんは言って、降参したように笑った。そして、「柿沢さん、あなたは涼の家庭教師役まで引き受けるおつもりなのですね。だから主人と私の支援を、必要ないとおっしゃるのですね」

「うーん、私はただ、涼さんにこれ以上苦労をしてほしくないのです。彼女は、もうたくさんの傷を負ってしまいました。そのいくつかは、一生かかっても治せないと思うのです。でも、それを小さくする可能性はある。そのために努力する必要がある。そう考えているんです」

「あなたは、涼を愛しているんですね。それでやっと、納得できました」とおばあさんは言った。

「そうかもしれません。でも誤解なさらないでください。私は男として、不能です。恋愛のように涼さんを愛する気持ちはありません」と私は答えた。

「あなたは、こんな年になった私に男の見方を変えさせるのですね。柿沢さん、私はあなたのような方に出会ったことは一度もありません。私の知る男とは、みんな主人のような男たちです。損得感情で行動し、いつまでも新しい女を探し求める。男とはそんなものだと、私はこの年まで信じて疑いませんでした」

「それが普通なんだと思います。私が異常なんです」

おばあさんは、声を上げて笑った。それは決して嘲笑ではなかった。私たちが分かり合った、安堵感から生じた笑いだった。私もつられて、自然と笑顔になるのが自分でわかった。

「ひとつお断りしておきます。私は、涼さんと同じだけ、彼女と一緒に庭にいる真理さんも愛しています。区別がつかないくらい、同じ強度を持った愛情です」

「あなたはお坊さんみたいですね」とおばあさんは言った。「名門学校を言葉でねじ伏せる強さと、驚くほどの知性で人を諭す力を持ったお坊さんです。涼があなたに惹かれるのが、よくわかりました」

いいえ、私はただの汚い中年男だよ。悟ってなんかいない。でもおばあさんが、それで納得されるのならそれもいいだろう。

「拓ちゃーん、来て、来てえ。ドリーが呼んでるよ」と庭にいる涼ちゃんが、大声で私を呼んだ。犬が見知らぬ私を呼ぶわけはない。しかし、行かねばならないだろう。私は立ち上がり、おばあさんに「行きましょう」と言って誘った。

おばあさんと私は庭に出て、ドリーの両脇にしゃがんでいる涼ちゃんと真理ちゃんの側へ行った。私はドリーの真正面にしゃがんだ。

「こんにちは、ドリー」と私は彼に挨拶した。涼ちゃんに頭を撫でられながら、彼は目の前に現れた私に警戒した視線を向けた。

「ドリー、拓ちゃんだよ。さあ、ちゃんと挨拶して」と涼ちゃんは彼に話しかけた。

ドリーはしばらく腰を下ろしたまま、じっと私を見ていた。それから、おもむろに腰を上げて立ち上がった。警戒した表情のまま、彼は私に近づいてきた。とてもゆっくりと。

ドリーは私のすぐそばまで来ると、じっと私を見た。それから彼は、しゃがんでいる私の膝に自分の顔を寄せた。そして次に、自分の頬をそこへ擦りつけた。私は彼の頭を優しく撫でた。

「ドリーは、人がわかるんだよ。ほら、拓ちゃんがいい人だってわかるんだよ」と、涼ちゃんが興奮気味にみんなに言った。

答えは簡単。匂いだ。私に、涼ちゃんの匂いが残っているのだ。だから彼は、警戒を解いたのだろう。私は彼の頭から首、背中までそっと撫で続けた。彼は悪い気はしない様子だった。

帰る直前、玄関でおばあさんは私に言った。

「非常に失礼ですが、柿沢さんの銀行口座を教えてくださいませんか?主人と私からのお願いです」

「えっ?」私は戸惑った。この申し出を受けるべきか?

「柿沢さん。私たちのお願いを聞き入れていただけませんか?」

そこまで言われると、断りようがなかった。私は財布からキャッシュカードを取り出し、おばあさんが差し出したノートに銀行口座と名義を書いた。

「いつでも、いらしてくださいね」とおばあさんは最後に言った。


 翌週、預金残高を確かめると、500万円増えていた。やれやれ、贈与税をたっぷり引かれちゃうだけなんだけどな、と私は思った。





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