11

 近づくにつれ、仄かな鉄臭さが鼻を刺す。遠く向こうで舞い上がった土埃がこちらの方まで飛んできていた。次第に低くうねる耳鳴りのような音が僕らの耳を覆い、その音に反発するようにして、心臓の鼓動が早くなっていく。

 ふと、幼い頃に高熱を出して寝込んだときのことを思い出した。僕は身体の強くない子どもで、何かにつけて風邪を引いた。そして高熱にうなされながら布団にくるまって眠っていると、決まっていつも同じ夢を見た。

 歯車。目の前で大きな歯車が回っている。あまりに大きすぎて頂点は見えないほど高いところにある。錆びて赤茶けた色をしていて、ねっとりとした油の臭いを放っている。

 僕がいるその空間には光がほとんどなく、辺りは薄暗い。四方は果て無く暗闇が広がっていて、僕と歯車の他には何もない。僕は吸い寄せられるように、その回転する歯車を見つめている。

 そこはとても静かだったけれど、唯一波打つような低音が身体に響いていた。モーターの駆動音か、それとも単に歯車の回転音か。音の出処はよくわからない。とにかくその音が僕の三半規管をおかしくして、意識を朦朧とさせていた。

 当然、自分が何故ここにいるのかはわからない。ただ茫然と立ち尽くして、しかし決して歯車から目を離すことはできなかった。一定のスピードで回り続けるその途方もなく大きな物体に目を向けていると、頭がおかしくなりそうだった。

 そしてその夢は何の前触れもなく終わりを迎える。汗まみれで目を覚ました僕は、目の前に見えるのが歯車ではなく見慣れた天井であることに安堵する。

 あの歯車がどんな意味を含んでいたのかは未だにわからない。だが、本能的に嫌悪感や恐怖を覚えたことは間違いない。今聞こえるこの音にも、そのときと同じ感覚を覚えた。

「君たち、こんなところで一体何をしているんだ?」

 突然背後から声が聞こえて、僕たちは慌ててそちらを振り返る。僕らに話しかけてきたのは、通りすがりの兵士だった。

「いつこっちまで戦火が及ぶかわからない。死にたくなかったら、早くここから立ち去った方がいい」

 彼は戦場に似つかわしくない僕たちを心配しているようだった。戦場を見に来たと言えるはずはなく、途中まで送ってくれるという彼に従って、ここは一度やり過ごすのが得策だと思った。

「あっちだ」

 僕たちは彼の指さす方へ踵を返し、来た方向に戻っていく。適当なところまで行けば、彼も納得するだろう。

 それにしても、どうして彼はこんなところにいたのだろう。話した感じでは、精神を病んだりしているようには見えなかったし、かと言って戦場から逃げ出してきた感じでもなかった。

 そんな取り留めない疑問を頭に浮かべながら、僕は何の気なしに首を捻って彼の方に目を向けた。その瞬間、驚きのあまり一気に意識が覚醒し、喉を引き裂くように大声を上げた。

「危ない!」

 しかし僕が気付いたときにはもう遅かった。ニルスの喉元に向かってナイフが勢いよく迫っていく。僕が叫んだところできっともう避けられない。男の血走った目が一瞬だけ僕の姿を捉えた。

 戦場というものをまるで理解していなかった。観光気分でこんなところまで来て、馬鹿みたいだ。僕はここで死ぬのだろうか。

 死ぬのは嫌だ。でも、生きてどうする? これから生きていくことに、何の意味がある? いや、意味がなくとも、死ぬのは嫌だ。怖い。苦しい。

 今更、最後に見たレヴィの顔が浮かんできた。これが走馬燈というやつだろうか。レヴィと暮らした日々が、スライドショーのように一枚ずつ流れていく。

 死ぬということは、この日々が無くなるということだ。この日々が途切れ、それでも世界は回っていく。そして少しずつ新しい世界の記憶に侵食され、僕が生きた日々はいつか消えて無くなってしまう。ちょうど、僕の中からレヴィが消えていっているように。

 どれくらいの時間が経ったかわからない。何十時間も経ったように感じたけれど、実際はたぶんほんの一瞬だったのだと思う。僕は固く閉じていた目をゆっくりと開く。恐ろしい光景をいくつも頭に浮かべながら、ようやく現実に目を向ける。

 ニルスは生きていた。ナイフは彼の喉をかすめ、わずかに皮膚が裂けて血が垂れているだけに留まっていた。彼は男を背負うような形で、頭を下げて前かがみになっている。

「ニルス……君、それは……」

 男の脇には深々と短剣が突き刺さり、赤い染みがじんわりと服の上に広がっていた。その短剣の柄に手をかけ、ニルスはえぐるように何度も男の身体に押し付けている。男の身体は次第に力が抜け、持っていたナイフが乾いた金属音とともに地面に落ちた。

 男が完全に動かなくなったのを確認し、ニルスは短剣を抜いて男の身体を投げ捨てる。

「これは前に見つけた廃人兵士からもらっておいたんだ。戦場へ行くんだから、手ぶらは困ると思ってね」

 まるで突然の雨に持っていた傘が役立ったと言うくらいの、ごく普通の様子で血の付いた短剣を掲げる。転がった死体には何の感慨も抱かず、ただ黙って使えそうなものを剥ぎ取っていた。

「じゃあ行こうか」

 そう言って彼は倒れていた僕に手を差し伸べる。今までと何ら変わらないはずなのに、口角を上げて微笑む彼の優しげな顔が恐ろしくてたまらなかった。

鈍い雲に覆われた暗い空。その色と同じ灰色の瞳に、僕の顔が映る。僕は目の前に差し出された彼の手を取ることができない。

 彼は何も言わず、僕に背を向けて歩き出した。しばらく途方に暮れていた僕は、彼の姿が見えなくなる直前で何とか気を取り戻して彼の後を追った。

 その後は何も考えられなかった。今自分が何をしているのか。どこに向かっているのか。この先に何があるのか。何もわからないまま、ただひたすらに、確かな足取りで進む彼の背中を追いかけた。


 そして僕たちはその場所へ辿り着く。

 眼前に広がる光景はまさにあの絵本で見たそのままだった。血生臭さが鼻をつき、赤黒く澱んだ空気に満ちている。立ち上る土煙の中で、武器を片手に目を見開き、雄たけびを上げながら目の前の敵に飛びかかっていく。地面には力なく倒れた兵士たちが無造作転がっていて、無機質な死体となった彼らに振り向く者は誰もいない。

 自己防衛すら教えられていないペンギンたちは、殺し、殺されを繰り返して、死体の山が堆く積もっていく。彼らは無感情に、無感動に、ただ目の前に提示された戦いに没頭する。皮肉にも、この場所において彼らが生きる手段はそれしかない。

 最高峰でペンギンたちを指揮する人間たちは、呑気に椅子に座り、時折談笑している。まるでこの戦いが自分たちとは関係のないものであるかのように、遠い目で戦場を眺めていた。

「僕たちはずっと、ああやってペンギンたちに戦いを押し付けてきたんだ。今まで感じていた平和は全部紛い物だ。あそこでふんぞり返っている奴らと同じさ。仮初の平和を信じ込んで、見るべきものから目を逸らしていたんだ」

 ニルスは血が滲むほど固く拳を握っていた。おそらく彼の言葉は、自分への戒めの言葉だった。彼は自分自身に憤慨している。

「これは人間と人間の戦争なんだ。それなのに、僕らの国は勝手に戦う役目をペンギンに押し付けているんだよ。僕らが感じていた平和は、そういう平和だ。君はこれを見て何を感じた? これを見てもまだ、笑顔のままで生きていけるのか? 君がずっと一緒に過ごしてきた彼も、このどこかで戦っているんだ」

 彼はまくし立てるように声を上げる。僕は何も言えなかった。僕は彼と違って、まだこの光景を自分の中で昇華できていなかった。

ここへ来て、これを見て、自分は一体どうするつもりだったのか。この中にレヴィがいる。そんなことを考えてみても、あまりに現実感がなくてよくわからなかった。

 そうして僕が立ちすくんでいるうちに、ニルスは腰に差した剣に手をかけ、ゆっくりと戦場の方へと降りていく。

「どうするつもりなの?」

 思わず僕は遠ざかっていくニルスに声をかけた。彼はこちらを振り返り、きょとんとした顔を見せる。

「どうって、僕も戦うのさ。そのためにここへ来たんじゃないか」

 当然のことだと言うように、彼は答える。

「僕はセルマを苦しみから解き放とうと、彼の命を奪った。僕は正しいことをしたし、あのまま彼をここに追いやるわけにはいかなかったけれど、それでもは僕の単なる身勝手でしかなかった。だからこうして彼への償いもできないまま、のうのうと生きているのが許せなかった」

 彼は誰に言うでもなく独り言つ。それはまるで遺言のように聞こえた。

「だから彼の代わりにこの場所に立つことが、せめてもの償いになるんじゃないかと思った。幸せも、平和も、感じてはいけない。自分の身を焼き殺しながら、苦しみ、もがいて死んでいくことが、僕の贖罪だ。それがこの旅の目的で、だからここが旅の終わり」

 彼はすっと死に場所を求めて旅をしていたのか。時折感じた彼の虚無的な空気は、それが起因していたのだろう。僕は「死」に向かっていく友人に言葉が出てこない。これではレヴィのときと同じだ。また何もできないまま、彼との「別れ」が訪れる。

「君はどうする?」

 試すような口調で、僕に問いかける。彼はどうして僕を一緒に連れてきたのだろう。彼にとって、僕という存在は何だったのか。

 僕は彼の問いかけに何も答えられない。その無言を回答だと受け取ったのか、彼は僕に背を向ける。そしてもう一度だけ振り返って、僕を責め立てるように言った。

「君は何をしに来たんだ?」

 小さくなっていく友人の背中を見つめながら、僕はずっと答えを探していた。

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