戸松秋茄子

in the storm

 

 長男の部屋のコルクボードには、家族旅行の写真がいっぱいに貼られていた。


 たとえば、ある写真では妻と子供たちが宮島の厳島神社を背景に笑っている。広島に旅行したときに撮った写真だ。あの頃Yは四二歳で、長男は一〇歳だった。自分から原爆ドームを見たいと提案した長男に、Yは命の重みと平和への願いが芽生えたのだとその成長を喜んだ。


 その写真の隣にあるのは、滋賀のキャンプ場に行ったときのものだ。Yと長男が沢を背に笑っており、その手には彼の上腕ほどの大きさがある魚がぶらさげられている。釣果の芳しくなかったYに対して、息子は大物を釣って得意がっていた。Yは対抗心から日がすっかり傾くまで釣り糸をたらしていた。妻が「どっちが子供か分からない」と呆れていたのをよく覚えている。


 写真なら他にいくらでもある。水族館。動物園。温泉。各地の名跡。仕事が忙しい分、長期休暇には必ず家族で旅行に出かけた。帰りの車中で子供たちがすっかり疲れて寝入るのを眺めるとき、Yはいつも来てよかったと思った。どれだけ疲れていても、次の旅行はどこに行こうかと妻と話すのが楽しみだった。


 だからYたちは旅行が好きだった。写真が好きだった。



 その写真をいま、見知らぬ男の指がコルクボードから剥ぎ取った。


 男の指は、むかし子供たちが飼っていたカブトムシの幼虫を思わせた。手袋越しでも、丸々と太った親指の不気味さが伝わってくる。幼虫は、家族写真の上を這い、ちょうど息子のあたりで動きを止めるとそこで体を起こしはじめた。そのまま家族の思い出をわずかに折れ目さえ作りながら引き剥がす。


 妻を支える手に思わず力が入る。薄いブラウス越しに、爪が食い込むのが分かった。Yははっとして手を離す。


「すまない」


「ねえ、あなた」妻は放心したように言った。「きっと何かの間違いよね。だって、あの子があんな……」


「ああ」


 妻の母親から相続した家の中、名前も知らない男たちがあわただしく動き回っていた。


 締め切った雨戸の外から激しい風雨の音が聞こえた。外は嵐だった。家の中にも嵐が吹き荒れていた。


 男たちが訪れたのは午前八時のことだった。


 ――近隣で起きた事件について、息子さんに訊きたいことがあります。


 事件のことはもちろん知っていた。全国の耳目を集めた事件だ。血が流れ、皮膚が裂かれ、肉と骨が切断された凄惨な事件。街から子供たちの姿が消え、そのかわりにマスコミが大挙して押し寄せ、町中いたるところで警察の姿を見かけた。Yの家でも、子供たちになるたけ早く帰るように言いつけ、また一人で出歩くことを禁じていた。


 ――××君はご在宅ですか。


 ――はい。


 そう言って、妻は二階の子供部屋に上がって行った。Yはそのやりとりをリビングでテレビを見ながら聞いていた。甲子園を見ようとしたのだが、台風の接近によって試合は中止になっていた。


 やがて、妻が二階から降りてくる。しかし、足音は一つだ。


 ――すみません。どうやら出かけたみたいで。


 ――そうですか。では、出直してきます。


 男たちは帰った。


 ――警察かい?


 ――ええ。でも、うちの子に何の用かしら。


 妻は朝食の用意を再開しながら、そう言った。Yたちはあまりにも暢気だった。きっと息子の知っていることが捜査の助けになるかもしれないと判断するようなことがあったのだろう。そう思って気にも留めなかった。


 それから一時間、二時間が経過した。トーストと目玉焼きはすっかり冷め、午後になって家に戻ってきたのは男たちだけで、その手にはYの家をくまなく調べる権利を与える書類を持っていた。


 ――息子さんに逮捕状が出ました。これから部屋を調べさせていただきます。


 嵐は止まない。


 男たちは部屋の中をかき回し、あらゆる物を持ち出していった。Yたちはその一つ一つを指さし、それを男たちが撮影した。繰り返し浴びたフラッシュが、瞼の裏に残像が焼きついて離れなくなった。


「これもお願いします」


 男が言った。


 Yは息子がコレクションしていたお土産のスノードームを指さした。金閣寺。白川郷。旭川動物園。ここでしか買えないんだ――旅先でそう懇願する息子に負けて何度、足りない費用を出してやったことか。それを捜査一課の刑事が真面目腐った顔で部屋の外に持ち出し、撮影する。


 これが本当に現実の光景なのか?


「これもお願いします」


 次に男が差し出したものを見て、Yたちはぎょっとした。


 避妊具の箱だ。


「そんなものまで……」


 妻がそう漏らすと、男はまったくの無表情で言った。


「すみません。必要なことなんです」


 妻は口に手をあて、いまにも泣き出しそうな顔になった。


 妻にはこんなことはさせられない。


 Yは屈辱に歯を食いしばり、開封済みの避妊具の箱を指さした。瞬間、フラッシュが襲い掛かる。写真を撮られることがこんなにも屈辱的に思えたのははじめてのことだった。きっと、この写真は警察のファイルに永遠に残ることになるのだろう。避妊具を指差す自分の姿が。


「ねえ、あなた。あの子、そういう相手がいたのかしら」


 Yはまた次の押収物を指さしながら答えた。


「そうとは限らないはずだ。ほら、子供がよく水を入れて遊ぶだろう」


「でも、いたっておかしくないでしょ。いえ、きっといたんだわ。なのに、わたし全然気づかなかった」


「落ち着きなさい」


 男たちが次から次へと物を運び出してくる。Yには彼らの見分けがつかない。みな一様に無表情だからだ。まるで、自分たちのあずかり知らぬ意思に操られてでもいるかのように淡々と物を運び出してくる。


「あなたはそればっかり。落ち着きなさい落ち着きなさいって」妻が壊れたように笑う。「落ち着いていられるわけないでしょ! うちの子が殺人鬼だって言われて、赤の他人に部屋を引っ掻き回されてるのよ!」


「おい、静かに……」


 Yは男たちの様子を気にした。


「追い出してよ、いますぐ! あの人たちを外につまみ出して」妻がますますヒステリックに叫ぶ。「雨にでもなんでも打たれるといいわ。雷に打たれても知るもんですか。だってわたしたちをこれだけ辱めたんですから!」


 妻が声を張り上げると、男の一人がノートの束を持ってきて言った。


「お願いします」


 Yたちのやり取りは聞こえているだろうに気にした様子もない。黙々と部屋の中を動き回っている男たちが不意に腹立たしく思えた。


 しかし、自分に何が言えるだろう?


「はい」


 Yはそう返事をして、努めて無表情にノートの束を指さした。


 フラッシュが瞬く。



 リビングで、男たちに署名するよう言われた書類にペンを走らせていると、風雨の音に紛れてチャイムの音が聞こえた。


「なんなの、あれ」


「マスコミだ」


 家宅捜索がはじまるとき、警察からすぐにマスコミが来るだろうと忠告を受けていた。家の中の様子を見られないよう雨戸を締め切り、チャイムが鳴っても応対するなと。そのときは家宅捜索そのものへの衝撃が大きく、気にも留めなかった。しかし、それがいざ現実のものとなってみると激しい憤りを覚えた。


 こんな横暴があるだろうか。自分たちはまだ息子が事件にかかわりがあるという証拠は何も聞かされていない。あの恐ろしい事件の犯人だと納得できないまま辱めを受けている。


 ニュースをつければ、「少年に逮捕状」というテロップが画面に踊っているのだろう。昨日までの自分たちがそうであったように、視聴者はみなその報道を鵜呑みにするはずだ。ついに捕まったかと胸をなでおろし、また刺激的な見世物が終わったことに若干の寂しさを覚え、そして続報を待つのだろう。自分たちの家庭から搾り取れるだけの情報を、メディアが茶の間に運んできてくれることを期待するのだろう。きっと親が甘やかして育てたに違いない。いったい、どんな育て方をしてきたんでしょうね。そんな会話を交わしながら。自分たちとはまるで無縁の世界の出来事だとでも言うように。


「でも、うちの子はやってないのに」


「大丈夫だ。きっとすぐに誤解だって分かる」


 チャイムは止まない。外からはどんどんとドアを叩く音と、「××新聞社のものです」という声が聞こえてくる。


「ねえ、あなた。自分の子供がこれだけ貶められて黙っていられる大人がいるかしら」


「おい、馬鹿なことは考えるな」


「馬鹿? 馬鹿って何? この状況の方がよっぽど馬鹿げてるわ」


「頼むからおとなしくしていてくれ」


「嵐の中、せっかくお越しなんですもの。そんなお客さんを放っておくわけにはいかないわ」


 妻はそう言うなり玄関に向かった。あわてて引きとめる。


「おい、何をするつもりだ」


「こそこそ隠れてる必要はないでしょ? うちの子は潔白なんだから。堂々と申し立ててくるの」


「やめておけ。見世物にされるだけだ」


「でも、じっとなんてしていられないわ」


 妻は玄関に走った。Yの制止を振り切ってドアを開く。その瞬間、またもフラッシュが瞬く。それもひとつやふたつではない。妻に向かって突き出される無数のカメラとマイク。後ろから見ていても、妻が凍りつくのがわかった。


「息子さんに逮捕状が出たというのは本当なんでしょうか」


「息子さんはいまどちらにいるのでしょうか」


「警察が家宅捜索中だそうですが何か証拠は見つかりましたか」


「息子は――」


 妻が言葉を搾り出そうとした瞬間、横から野次が飛んだ。


「この街から出て行け!」


「化け物の家族が!」


「死ね! 死んで詫びろ!」


 集まっていたのはマスコミだけではなかった。近所の住民たちだ。見たことのある顔もあれば、見たことのない顔もある。嵐の中、自分たちを罵倒するためだけに集まったのだ。


「あの子を返せ!」


「平和を返せ!」


「静かな街を返せ!」


 罵倒は止まない。マスコミはマスコミで、質問を続ける。やがて、後ろから、石やペットボトルが飛んできた。


「やめなさい」


 誰かが一喝した。群衆を押しのけるようにして、熊のような男が玄関まで近づいてくる。近所の教会の神父だ。


 神父が盾となるように腕を広げると、野次がぴたりと止んだ。フラッシュだけが瞬き続ける。


「あなたたちは試練のときにあります」神父がこちらに向き直って言った。「しかし、神は乗り越えられない試練は与えられません。ヨブ記をご存知ですか? ヨブは――」


「わたしたちは聖書の登場人物じゃありませんし、息子も殺人犯なんかじゃありません!」


 妻は叩きつけるようにドアを閉めた。瞬間、その場に膝から崩れ落ちた。


「大丈夫か?」


 あえて多くは述べず、妻に手を差し伸べた。


「ええ、大丈夫」


 振り向いた妻の顔を見てはっとする。誰かの投げた石が当たったのか、額から血が流れていた。妻は玄関に転がった石を眺めながら、


「ねえ、あなた。石からも指紋って取れるのかしら。誰が投げたのか調べてもらわないと」


「さあ、どうだろう」


「こんなことをする人たちだなんて知らなかった」妻は片手で額を押さえながら立ち上がった。「それよりあの子、家の周りがこの様子じゃ帰るに帰って来れないわ」


 その方がいいのかもしれない。そう言いかけたとき、Yの携帯に着信が入った。聞きなれた着信音が、銃声のように胸に響いた。まさか、マスコミは携帯の番号まで調べ上げたのか。知らない番号だった。少しだけためらった後、通話ボタンを押した。


「もしもし」


「お父さん!?」


 下の息子の声だった。Yは驚きに打たれた。その瞬間まで、自分たちにもう一人息子がいることさえ忘れていたのだ。


「ねえ、テレビでやってることは本当なの? お兄ちゃんが……」


「それより、お前いまどこにいるんだ」


「友達の家だよ。家の電話に何度かかけたんだけど、つながらなくて」


「ああ、悪かった。でも、マスコミからひっきりなしに電話がかかってくるんだ」


「家の周りにマスコミが集まってるんだよね」息子は言った。「僕、帰れるの?」


「帰れるさ。当たり前だろ。お前の家なんだから」


「でも、どうやって帰るの。いま行ったら絶好のカモになる」


「その友達には悪いけど、もうちょっとそこにいさせてもらうんだ。そうすればきっと誤解が解ける」


「でも、もう限界だよ。今日は土曜なんだよ? 友達の両親だっているんだ。僕がどんな目で見られていると思う? 『ここにもマスコミが来たら困るわねー』なんて言われてごらんよ。そんなところに腰を落ち着けていられるわけないだろ」


「すまない。だがもうちょっといさせてもらうんだ」


「お兄ちゃんが悪いんだね。こうなったのも全部」


「お前まで何を言うんだ!」


 Yは声を荒げた。


「だって、そうでしょ。お兄ちゃんがあんなことをしなければ――」


「お前までお兄ちゃんを疑うのか!」


「だって、テレビが」


「テレビ、テレビ。それが何だ。わたしたちは家族だろう。家族が信じてやらなくてどうする!」Yは続けた。「いいか、いまお兄ちゃんは全国から疑いの目で見られている。一人で心細い思いをしているはずだ。だからこそお父さんたちが信じてやらなくちゃいけないんだ」


「でも、お父さん。本当にお兄ちゃんを信じてるの?」


「当たり前だろう。家族とテレビ、どっちを信じるんだ」


「僕もすぐ帰れるんだね」


「当然だ」


「わかった。でも、お兄ちゃん、どこにいるんだろう」


「さあ。お父さんたちにもまだわからない。そうだ、友達の親御さんに代わってくれるか?」


 それから先方の両親に詫び、また息子をしばらく置いてくれるよう頼み込んだ。


「子供が自分の家にも帰れないなんて」通話が終わった後、妻が絞り出すような声で言った。「こんなのってないわ。あんまりよ。ねえ、明日からどうすればいいの。これだけさらし者にされたら、もうこの家には住めないわ。母さんから相続した家なのに。わたし、自分が育った家を失うんだわ」


「落ち着くんだ。われわれは何も失ったりしない」


「父さんが死んでから、女手一つでわたしたち姉妹を育てて、ローンを返済してきたのよ。わたしたちになら安心して家を預けられるってそう言って天国に行ったのに。なのに、これじゃあひどい親不孝ものよ」


「落ち着けって言っているだろ!」


 Yは思わず声を張り上げた。


「ごめんなさい」


「いや、こっちこそ声を荒げてすまなかった」



「これもお願いします」


 長男の部屋の前に戻ると、男の一人が刀形のペーパーナイフを持ってきた。


「どこで買ったのかしら」


 妻は自分で指さして言った。フラッシュが瞬く。次いで、ナイフや鋏などが押収されていく。いずれもお土産屋で売っているような代物だ。


「旅先であんなものを買ってたなんて気づいたか?」


「ううん」


 妻の顔が曇っていく。Yは妻の手を握った。石のように冷たく、震えていた。


「大丈夫だ。大丈夫だ……」


「ねえ、あなた。もし、もしよ。あの子が犯人だったら……」


「弱気なことを言うな! わたしたちがあの子を信じてやれなくてどうする!」


「でも、わたし、考えてみたら最近ずっとあのこと話してないの。あなただってそうでしょ?」


「話さなくたって、わかるものだろう。自分の息子が殺人鬼で、気づかないなんてことがあるか。掃除のとき、部屋にだって入るだろうし――」


「それもずっとやってないの。あの子、嫌がるから」


「本当に? いつから?」


「あの子が中学に入ってからずっと……」


「たとえそうだとしても」Yは言った。「一緒に住んでいればわかる」


「そ、そうよね」


「あの子のわけがない。あの子のわけがないんだ」Yは自分に言い聞かせるように言った。「なあ、覚えてるか? マルタがいなくなったときのことだ。あいつの悲しそうな目を覚えているだろう」


 マルタというのは、うちで飼っていた猫のことだ。長男が河川敷で拾ってきたのを、育てていたのだ。


「ええ。食事も喉を通らない様子だったわ。ねえ、覚えてる? あの子、人間と猫は死んだら同じところに行くのかって訊いたのよ」


「ああ、マルタの後を追うんじゃないかと心配した」Yは言った。「優しい子なんだ。そうだろう? あんな残酷なことができるわけない」


 絶え間ない嵐の音。


「ねえ、今度のことが終わったらまた旅行に行きましょう」


「ああ、いいね。行こう。有給はどっさり溜まってるんだ。申請してみよう。ただ……」


「何?」


 妻がまた不安げな表情になる。Yは努めて軽い口調で言った。


「カメラは家に置いて行こう。写真はしばらくこりごりだ」


「そうね」と妻は久しぶりに笑みを見せた。「それにしても、あの子、本当にどこに行ったのかしら……」



「これもお願いします」


 男が言ったとき、Yは何でも来いという気分になっていた。たとえ息子の部屋から何が出てきても動じはしない。親として最後まであの子を信用するのだと。


 男たちが部屋の外に持ち出してきたのは、ホラービデオの山だった。


「あなたたちが何を考えているのかはわかりますよ。こんなものを見ているからあんな事件を起こすんだって、そう思っているんでしょう。息子の友人にこういう映画が好きな子がいるんですよ。その子の部屋にはテレビがなくて、息子の部屋に置いてもらっているんです」


 何を言おうが関係ないとばかり、男がフラッシュを浴びせてくる。


「これもお願いします」


 Yは息を呑んだ。それは注射器だった。プラスチック製のちゃちなものではない。ガラス製で、先端には注射針がついている。明らかに医療用とわかるものだった。


「これもきっと友達から預かっているんでしょう。息子に注射器を使う機会なんてないはずですし……」


 思わずそうひとりごちていた。男たちは答える代わりにフラッシュをたいた。


 動揺しているYの元に次々と物が運ばれてくる。蝋燭、殺鼠剤、ネイルガン、親のYにも、何に使うのかわからない品の数々。フラッシュに次ぐフラッシュ。


「これもお願いします」


 警官が差し出したのは、ガラスケースに入った骨だった。何か小さな動物の頭蓋骨に見える。たとえば、そう、猫の……


 指が震える。


 パシャ。



 息子の部屋に最後に入ったのはいつだろう。Yは考えた。あれはたしか、二年前、新しい本棚を運び込んだときだ。あのときすでにこれらの品々がこの部屋のどこかに隠してあったのだろうか。それとも、あれ以降になって集められたのか? わからない。息子はいったい何を考えていたのだろう。自分たちと暮らしていたのは、いったい何者だったのだろう。


 Yには息子がわからなくなった。



「あの子なのかもしれない」


 Yは言った。そばで見ていた妻はもはや言葉を失っていた。


「ねえ、わたしたちの何が間違っていたの? 一人部屋を与えたこと? テレビを与えたこと? 部屋の掃除をやめたこと? 野球チームに入れてやれなかったこと? 爪を噛む癖をやめさせたこと? 胎教にモーツァルトを聞かせたこと? それとも――」妻はそこでいったん言葉を飲み込み、「あの子を生んだこと?」


 Yは答えることができない。


「死んで詫びるしかないわ」


「馬鹿を言うな。わたしたちの子供はあの子一人じゃないんだぞ」


「あの子だってきっと、わたしたちと一緒にいたって幸せになれないもの。だったらいっそ……」


「頼むから死ぬだなんて言わないでくれ」


「じゃあ、どうしろって言うの」


「一生をかけて償っていくんだ。この家も失うことになるかもしれない。いまの職場にもいられなくなるかもしれない。それでも誠心誠意を傾けて謝罪するんだ。それを途中で投げ出してみろ。それこそ、息子は居場所がなくなるぞ。兄は人殺し。両親は謝罪も十分にせず逃げたって一生を後ろ指をさされながら過ごすんだ。それが幸せだって言うのか?」


「わかったわ。ごめんなさい」


「長い戦いになる。一緒にいてくれるか?」


「ええ、もちろん」


 その瞬間、部屋から男たちのどよめきが聞こえてきた。


「どうしたんです」


 Yは部屋の中に向かって訊いた。男たちはまるで何かを囲むように一箇所に固まっており、部屋の戸口に背を向けていた。


「押入れの天井の板が動かせるのはご存知でしたか?」男の一人が言った。


 Yは妻と顔を見合わせた。ぶるぶると首を横に振る。


「いえ」


「そうですか」


 そのとき、部屋を行き来する男たちの動きが途絶えていることに気づいた。


「なんなんです」


 何か落ち着かない気分になった。いったい、百戦錬磨の男たちを狼狽させる何が息子の部屋にあるというのだろう。


「何かを見つけたなら言えばいいでしょう! さっきからずっとそうしてるように。写真でも何でも撮ればいいんだ!」


 すると男の一人が部屋から出てきて言った。


「では、お見せしますが……覚悟してください」


 男がどいた。部屋の奥にあるものを見た瞬間、妻がふらふらとその場に崩れ落ちた。Yにはもはやそれを支える気力もない。ただ呆然と突っ立ち、口を半開きにして部屋の奥にあるものを見るだけだ。


 妻はすでに啜り泣きをはじめている。男たちはそれを急かしもせず、マネキンのような無表情でYたちに凝視を注いでいる。


 外ではごうごうという風雨の音と、チャイムの音が鳴り続けていたが、家の中では妻の啜り泣きが聞こえるばかりだった。


 信じてやれなくてすまなかった。お前のことを最後まで信じてやるべきだった。


 Yは詫びた。


 だが、彼の息子はもう何も話すことができない。


 嵐の中、絶望に打ちひしがれるYたちを、息子の生首が見返していた。

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