3章 その10

 しばしの沈黙の後、ブランはリュミエールに訊いた。


「……そういえば、君は私に何か聞こうとしていたね。何だい?」


 リュミエールは静かに言った。


「……私がこの間聞きそびれたことは、この小屋の方面からうちの使用人がやってきたのは何故か、ということよ。普通こんな森の中に用なんてないから、もしかしたらあなたと関係しているのかなって。私たち、それが知りたくてここにたどり着いたの」


「なるほど。ベルのことかな」


「!! やっぱり知っているのね!」


 リュミエールは食い気味に言った。


「ああ。彼女には世話になってる。世捨て人のような私でも、完全に一人で生きているわけではない。支援者あっての生活だ。いろいろと世間の情報や物資や金品の用立てをしてもらっている。……そうか、最近勤め先が変わったと言ってたが、君の家の使用人になっていたのか」


「ええ、そうよ。やっぱりベルと関係があったのね」


 リュミエールは合点がいって小さく手を叩いた。彼女は疑問が解決したため、少し安心した表情になっていた。


「ふふ、もしかして彼女のことを疑ったかい? 大丈夫、彼女は『魔女』の手先でもなんでもない。ただ手助けしたり、話し相手になってくれている以上のことはないよ。怖い顔をしているそこの少年の思っているようなことはしていない」


 ブランは微笑み、アランの方を一瞥いちべつした。


「……」


 アランは彼女を見たまま押し黙っていた。まだ彼は警戒を解いていないのだろうか、とリュミエールは思った。


「おや、やはり疑念は解けなかったか。まあいい。元からそう簡単に晴れるようなものじゃないと思っているからね」


 ブランは言った。アランは相変わらずムスっとした表情だ。


「あっ」


 奥の方からヨアンの短い声が聞こえたかと思うと、ガタッすぐにという音がした。何か物が崩れたような音だった。


「げほ、げほ……」


 ヨアンは尻もちをついていて、舞い散る埃を吸い込み咳き込んでいた。


「大丈夫かい」


 ブランがヨアンの方を向いて言った。ヨアンは咳き込みながら「大丈夫」と言ったが、「大……げほ……夫で……げほげほ」という感じで聞き取れなかった。


「ここへはベルくらいしか来ないから、全然片づけをしていない。散らかっていてすまない」


 ブランが申し訳なさそうに言った。ヨアンのいる場所を見ると、本や絵を描く道具と思しきものが床に散乱していた。


「大丈夫……です」


 ヨアンの咳が落ち着くと改めてそう言った。彼は一旦咳払いをしてから、また言葉を続けた。


「それより……ブランさんは絵をお描きになるんですか?」


 ヨアンが訊ねた。ブランは驚いたように目を丸くした。


「ああ……描くよ。でもなぜそれを」


「三人が話している間、この部屋に置いてある物を見ていたんです。そしたら、絵を描く道具や資料みたいなものが沢山あったので……それに、このイーゼル」


 ヨアンは周りを見渡しながら言った。ブランもまたハッとしたように見回した。


「……やれやれ、秘密を知られるのは恥ずかしいね。ベルくらいしかこの小屋を訪れる者がいないから、今まで隠す必要もなかったのだけど」


 そう言うと、ブランはフードを深々と被って顔を隠した。そして、その下から覗くように上目遣いでこちらを見て話し始めた。


「確かに、私は絵を描く。油絵具を使って。私はそれを売って収入を得ているんだ。画材や資料などはベルに用意してもらっている。絵を売るのも彼女に頼んでいる。たぶん街にも私の絵が出回っているだろう。でも、私の正体は言いふらさないでくれ。私が描いたとわかると気味悪がるだろうし……何より、恥ずかしい」


 彼女はそう言って目を伏せた。

 また沈黙が訪れるが、この沈黙は逆に張り詰めていた空気を少し和ませた。リュミエールとヨアンは表情を少し緩めた。難しい顔をしていたアランも、キョトンとした表情を見せた。


「な、何かおかしいことを言ったか」


「いえ、あなたも恥ずかしいと思うんだな……って」


 ヨアンは言った。


「それはそうだ。私は冷酷非情な魔女ではないのだから」


 ブランは言い返した。


「ねえ、ブラン。よければあなたの作品、見せてくれないかな? 絵を売ってる、ってことは、上手なんだよね? 見てみたいな!」


 リュミエールは明るく言った。


「今恥ずかしいと言ったばかりだろう……完成品はみんな売ってしまったから、今あるのはイーゼルの上にある……布をかけてあるあの絵だけだ。未完成品を見せるのはもっと恥ずかしい。できれば見せたくないのだが……」


「ここまで言って、引き下がれないよ! ホントに、ちょっとだけ!」


 リュミエールは持ち前の強引さを発揮して食いつく。ブランの表情はフードに隠れて見えないが、ランタンの光に反射して銀色に光る眼は困惑した色を放っているように見えた。


「こいつ、言い出したら聞かないんです。簡単には引き下がらないと思いますよ」


 アランがあきれ顔でブランに言った。リュミエールは、アランの方を向いて不服そうな顔をした。


「あの……僕も見たいです。是非見せてもらえませんか」


 ヨアンも彼女に懇願した。ブランはより一層フードを深々と被り、ゴニョゴニョと喋った。


「……わかったよ。見せてあげる。特別にね。ただし、他言無用だ。これだけは守ってくれ。約束だ」


 ブランは渋々リュミエールたちの頼みを承諾した。ブランはおもむろに立ち上がり、小屋の奥にあるイーゼルにかかった布に手をかけた。


「これだ。見たいならこっちへ来るんだ」


 ブランは三人に近くへ寄るように促した。三人とも彼女の言う通りにイーゼルの近くへ行った。

 ブランはかけられた布を取り去った。すると、目の前に大きなキャンバスが姿を現した。。

 キャンバスには暗い青の油絵具がぐちゃぐちゃと塗りたくられていて、その上にポツポツと明るい色で何かが描き込まれている。しかし、リュミエールは一見してどんな絵だかわからなかった。


「ほら、言っただろう、まだ描きかけだ。しかも、まだ描き始めたばかり。まだ人に見せられる段階じゃない」


 ブランは自分の身体で絵を隠すような位置に移動して言った。


「わかったらもうおしまいだ。さあ、戻って」


 ブランは三人を追い返そうと手で払うような動作をした。しかし、アランは一瞬背を向けようとしたが、他の二人は動かずに目を輝かせていた。


「……もっと見せてください。私、絵を描くのが好きなんですが、なかなか上達しなくて。コツとか教えてもらっても……いいですか?」


 ヨアンがブランの絵に食いつく。リュミエールも彼に続けて声を上げた。


「あたし、描いてる途中の絵を見たのは初めてかも。これはこれで貴重な感じがするわ。これからこのキャンバスに段々色が加えられていくのね」


 ブランは二人を見た。不思議なものを見るような目だった。


「この絵には何を描くつもりなんですか?」


 アランが再びブランのほうに向き直って訊いた。ブランは答えた。


「君たちはそんなに興味があるのか。化け物の描く絵に。特別に教えてあげよう……と言いたいところだが、まだ秘密だ。ちょっとスランプだから、完成するかわからない。途中で破いて捨ててしまうかも」


 ブランがそう言った直後、リュミエールがすかさず言葉を挟んだ。


「ダメだよ、捨てるなんて! 出来損ないだから捨てるって、それじゃあなたを捨てた父親と一緒じゃない! だから、せめて完成させてあげて。きっと私たちがその完成品を見てあげる!」


「リュミエール……」


 ブランは呟くように言ったあと、突然プッと噴出し、声を上げて笑った。


「アハハ……久しぶりに人と話したけど、面白いものだね。わかった、この絵は必ず完成させる。君たちが見てくれるというのならね。まあ良いものが出来上がるという保証はしないが」


「きっといいものができるよ!」


 リュミエールはグッと拳を固めて明るい声で言った。


「僕も……楽しみにしてます。描く過程にも興味がありますし」


 ヨアンも言った。


「ま、待って、みんな。もしかして、またここに来るつもりか? 絵を見るために」


 アランが慌てた様子で訊いた。リュミエールはアランの目を見てコクリと頷いた。


「それはそうよ。毎日でも通うわ」


「毎日だって?」


 アランはリュミエールの返答に驚いたような最初からわかっていたような、微妙な表情をした。


「ま、毎日?」


 ブランは目を丸くして完全に驚いた表情で言った。流石に毎日来るのは予想外だったようだ。


「僕は……毎日でもいいかな。いろいろ教えてもらいたいこともあるし」


 ヨアンは中空を眺めるようにゆっくりと言った。


「……参ったね、これは」


 ブランはフードを脱いで頭を掻いて言った。


「リュミエールは言い出したら本当にやりますからね……同情します」


 アランはブランを見て小声で話した。

 リュミエールは満足そうな表情で描きかけの絵を眺めていた。


 この日の空は厚い雲で覆われ、白い。どうやら次の日までこの空模様は続きそうだ。灯火祭りの日は晴れているといいな、とリュミエールは帰り道で考えていた。

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