8話 傲慢に踏みにじる
背が高く、がっしりとした体つきの、三十を目前にした青年。珠纒の神垣の里長だった。
彼の後ろで開け放されたままの扉の向こう、数人の兵が篝野を捕らえているのが見える。
里長は立ち尽くす咲織の姫をみて、後ろ手に扉を閉め、悪びれもしない顔で微笑んだ。
薄暗い建物の中、白い薄物は濡れて咲織の姫の体に張り付いてる。肌の色が透けて、体の線があらわになっている。
無遠慮な里長の視線に、咲織の姫は恥ずかしさよりも、憤りが勝った。
「神のための聖域に、兵をつれて無遠慮に踏み込むなど、どういうおつもりです」
身を隠すこともせず、語気も強く言う咲織の姫に、里長は表情を変えない。ただただ微笑みかける。なだめるように、そして自らの優位を見せつけるように。
「年が明け、そなたも十五の年になった」
ゆっくりと足を踏み出してくる。咲織の姫は、思わず後ろに下がった。それをみて、里長は笑みを深める。
「そなたを我が妻に迎えたい」
咲織の姫は、ただただ唖然とした。
「潔斎の最中の巫女に、何をおおせになるのです」
「こなたが、生涯身を清め、神に仕える必要などない。神垣に尽くすのではなく、俺と共にあって、支えてほしい」
唐突な求愛の言葉に、咲織の姫は眉をしかめた。
――彼が咲織の姫を見るときの目に、強い熱がこもるのをどこかで知っていた。
普通なら、うっとりとその言葉を受け止めるのだろうか。
だけど咲織の姫にとって、耳に心地のよい言葉ではなかった。巫女としての矜持が、状況の不穏さが、里長の笑みが、そうさせなかった。
「何を考えていらっしゃるのですか。わたくしは、巫女として神垣のためにあります」
かたくなだな、と里長は優しく言う。
「俺はそなたが生まれた時の、玉垣のことをよく覚えている。あの春、いつもは儚く花を咲かせる玉垣の桜が、いっせいに吹き零れるように咲いた。神垣のうちに、花びらの雨をふらせた。あれほどに明るい春を見たことがない。この国は再び冬を忘れたのかと思ったほどだ」
だが、いまも雪は降り続けている。空の雲は晴れず、桜がいっせいに咲いたのはその時一度きり。
「珠纒には、これほどに神秘が息づいている。この水の宮も、凍つる桜も、玉垣の桜も、そなたも。咲織の巫女姫」
桜の祝いの日に生まれた神秘の巫女姫を、神垣の者は、数多の希望を抱いてあがめている。そばにいれば、玉垣の外でも寒さが和らぐと、トリまでが口にするほど。
咲織の姫は、それを知っている。だからこそ、自分は清くあり続けなければならないと自負している。それを。
「俺はずっとそなたを手にいれたいと思っていた」
――それを、踏みにじるような事を、里長は口にしている。
咲織の姫の意志など関係ない。己が行うことを、ただそばにいてみていればいいのだと。
「わたくしを手中にして、どうするおつもりです」
「巫女姫は、このようなことに鈍くていけない。そなたに恋い焦がれていたと言っているのだ」
咲織の姫は答えない。里長は、ひどく残念そうな声で、肩を落として言った。
「純真でお優しい咲織の姫、まさか俺の真心をお疑いなのか」
真心など。
神垣のうちでもない、このような聖域に兵を連れておしかけ、無防備な姿を前にして口にすることだろうか。ただ思いを伝えるために人目を避けたにしては、あまりにも場違いで、気遣いもない。
何より、里長の目にこもる熱が、恋などと言うものだけでないことにも、気づいていた。
「わたくしが、なにも知らないとお思いですか」
咲織の姫は眉を険しくして言った。
「あなたが密かに兵を増やし、トリを介さずに外へ働きかけているのを知っています。何を考えていらっしゃるんです」
ここへも、咲織の姫のように、トリと一緒に来た様子はなかった。
もし里長がトリへ頼みこんだとしても、彼らは潔斎の最中の巫女のもとへ里長を案内はしないだろう。
里長は、トリの導きなしにどうやってここまで来たのか。
「さすが咲織の姫は聡い。味方も多くあらせられるようだ」
里長は薄く笑って足を進める。
咲織の姫も後ろへ下がるが、背中が裏手の扉に当たる。それを見て里長は笑みを深め、また一歩踏み出した。手を伸ばせば届くほど近くに。
咲織の姫は唇を噛み締めた。この、男は。咲織の姫の意志など関係がない。無理矢理にでも巫女を汚して、手にいれるつもりだ。
なんて不遜で、高慢な。
咲織の姫は背中の扉を開け放ち、階段を駆け下りた。
泉の前に足を止める。
ひとつ大きく息をして、足音高く踏み込む非礼を心中で詫びてから、再び泉の中へと歩を進めた。
追ってくる足音がする。咲織の姫は、水の中で振り返った。
「どういうつもりだ。まさか」
驚愕の声を上げる里長を、強く見返した。
神の去った国にも、わずかばかりの神秘が息づいている。
だから咲織の姫は、このちいさな社において、枯れず凍らない泉のなかで、神に願って開手を打つ。
邪を祓うため。自らの意志を見せるため。
咲織の姫に気圧されたのか、泉に踏み込むのをためらって、里長は足を止めた。
「わたくしは、あなたのものにはならない。たとえいつか、巫女の役割を捨てる日が来るとしても、あなたのためではないわ」
後ろへ下がる。腰の深さまで水につかる。
里長の後ろから篝野が駆けてくるのが見える。
頬を腫れさせて、口の端から血を流していた。足を引きずっている。なんてひどいことを。直杜は外に出たままだが、無事だろうか。
神々に願う。
どうか、珠纒の神垣を守ってほしい。我が身と引き換えとしてでも。
瞳を閉ざして、もう一度、開手を打った。その音は、澄んだ空気に響き渡った。
意識が遠のく。水に倒れ込む。響いた水音が、遠くの出来事のようだった。
あれきり眠っていたのだろう。その後どうして社にいたのか分からないが、篝野か直杜が助けてくれたのだろうか。
先を行く拓深が、咲織の姫の手を強く握る。何事かと見上げると、ちらりと振り返ってから、足を止めた。
ましろい雪の中を見やって、拓深は眉をしかめている。
風に声がさらわれないよう、顔を寄せて言う。
「何かいるな」
あの朝のことを思い出す。やはり咲織の姫には、何の気配も感じられなかった。
「神喰?」
「いや、神喰がひとりでうろつくとは思えない。雪人か、迷い人だ」
だが確証がない。
「迷い人なら助けて」
「あんた一人で手一杯だ。俺はまずあんたに責任がある」
拓深はにべもなく言った。
「今この状況で、外をうろついてる奴は、どう考えても不穏だ。偵察すべきかもしれないが、今はその余裕がない。あとで様子を見に戻るが、とりあえず先に進む」
咲織の姫と一緒でなければ。迷い人は必ず助けるのだろうし、不穏な者ならば立ち向かうのだろう。
拓深は先を見て、過ぎてきた目印の木を見てから言った。
「少し
「任せます」
頷いた咲織の姫に、拓深は軽く言った。
「絶対に迷わないから、安心しろ。俺は運もいいからな」
咲織の姫の緊張をほぐそうとしてくれたのだろうか。単に本心なのかもしれないけれど。
ふてぶてしく笑ってから、拓深は咲織の姫の手を引いて、再び歩き出した。
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