9話 父の手

 ※



「お前の父親はもう帰ってこない。お前の母親ももういない。ここに居ても、おもしろいことは何もないぞ」

 幼い颯矢太にそう言ったのは、大駕だった。


 昔のことはあまり覚えていないけれど、あの日のことはよく覚えている。


 颯矢太の母方の祖父母は、そもそも娘がトリと夫婦になるのを反対していた。

 だから母親はトリの妻になってから、駅舎に移り住んで、颯矢太を産んだ。


 雪人の子の颯矢太はトリになるのが分かっていたから、祖父母は余計に颯矢太と関わろうとしなかった。

 いずれいなくなる者に、心血注ぐのを恐れたのかもしれない。


「俺と来るか」

 父母が死んで、駅舎の中に閉じこもって、誰とも関わろうとしなかった颯矢太に、大駕はあっさりと言った。


「神垣の中は息が詰まる。神垣の人間は閉鎖的で頭が固い。親を亡くした子供ひとり気遣ってやれないなんて、どうかしてる」

 血縁なのに、颯矢太を見ようとしない祖父母の存在が間近にいることも、息苦しさの要因だったのかもしれない。


 あとで知ったが、颯矢太を連れだすことを祖父母はあっさり認めたけれど、トリたちからは随分と反対されたらしい。

 雪人とは言え、子供を外に連れ出すのは、大駕にとっても颯矢太にとっても危険なことだった。


「お前と似たような子供のいる神垣がある。お前の慰めになるかもしれない」

 そう言って手を差し伸べてくれた。ずっと手をつないで、時には大駕が颯矢太を背負って、雪の中を旅した。


 あの時、大駕が連れだしてくれなければ、今頃どうなっていたか分からない。




 重い灰色の空から、雪が落ちてくる。

 ぼんやりとそれを眺めていた。いつからそうしていたのか、気がつくと颯矢太は雪の上に横たわり、空を見上げていた。


 風花。見に来たのはこれではなかったはずだ。


 身を起こそうとして、激痛にさいなまれた。

 右脚が、左腕がうるさいほどに痛くて熱い。体がひどく重い。頭が鈍い。見渡す限りの雪の中、ここがどこか、見当もつかなかった。

 うつぶして、痛みの波が去るのをこらえた。


 誰かに抱えられて、珠纒の外に放り出されたところまで覚えている。

 足を折られて身動きが取れなくて、それから――


「都波……!」

 雪の上を這いずるようにして、前へ進む。どこへ行けばいいかもわからないけれど。


 前へ出した手が、固いものに触れる。握りしめて、引き寄せた。

 簡素な木の杖。都波が祈りの紐をつけてくれた卯杖とは違う。これは、池野辺を出た日に、都波が咲かせた椿から枝を切り取った杖だった。


 杖を握りしめ、なんとか座りこむ。

 雪は次から次へと落ちてくるのに、なぜか颯矢太の上には落ちてこない。

 どれだけ倒れていたのかわからないが、少しも体の上に積もっていない。手や足が凍り付いて、動かなくなっていてもおかしくはないのに。

 まるで神垣の中にいるようだった。それどころか、ぬくもりすら感じる。


「お前なのか」

 旅の間、風はずっとゆるやかで、いつもよりも進みやすかった。

 雪がひどくなったのは、都波が気を失っていた間だけだった。あれは都波が身に持った神秘のひとつなのかもしれない。

 そして都波の咲かせた椿にも、同じような神秘が宿っていても不思議はないのかもしれない。


 それは、都波が颯矢太を案じていると、伝えてくれるようだった。


 雪の中に放り出されたのに、どうしてこの椿の杖があったのか。

 誰かの哀れみなのか情けなのか。考えて、颯矢太は唇をかみしめた。


 だけど今は、無事な方の手で、杖を握りしめる。なんとかそれにすがって、折られていない左足を踏ん張って、立ち上がる。


「行かないと」

 自分をふわりと避けていく風に向けて、顔を上げる。


 都波をひとりで残してきてしまった。拓深に知らせたいが、手立てがない。どうしても、珠纒に戻らなくてはいけない。

 雪の中をもがくようにして歩き出した。



 足を出すごとに痛みが走る。雪の中で汗をかいてはいけないと分かっているのだが、痛みで、額に汗がにじんだ。


 気がつくと、曇り空の下、赤い光が周辺を舞っていた。

 明かりを受けながら、こちらに近づいてくる人物に気づいた。

 彼はひとりで、雪を渡っていた。トリがひとりで雪の上を行くのは、あまり普通のことではない。


「颯矢太、無事だったのか」

 びっくりした顔をして、嬉しそうに笑った。その口から白い息がもれる。とてもよく見慣れた顔だった。


「大駕さん」

 颯矢太は大きく一つ息をついて、椿の杖にもたれた。

「どうしてこんなところにいるんですか」


 辺りをたくさんの松明が、西にも東にも列をなして動いている。

 降りしきる雪の向こうでぼやけてみえて、何も分からなければ、きれいだと思ったかもしれない。


 雪の中で見る炎はあたたかい。同時に、恐れを呼び起こす。

 体を温めてくれるだけでなく、身を寄せる何もかもを奪う危険を秘めているから。


「このあたりに、雪人がたくさん身を隠しているのではないかと、珠纒の里長に聞いてな」

「なぜ珠纒の里長がそんなことを知っているんです」

 さあ、と大駕は笑った。


「咲織の姫が禊を行う水の宮と同じように、たくさんの遺物がこのあたりにあるのは、珠纒の皆が知っている。このあたりには雪人が多いから、なにかあるはずだと睨んでいるようだ」

「探して来いと命じられたんですか」


 もれる息が熱い。体が熱を持っているようだった。苦しいのは、痛みと熱のせいだけだろうか。


「探して、見つけてどうするんです。焼き払うんですか」

 颯矢太の言葉に、大駕は笑みを深める。

「やはり、気づいていたのか」

 否定してほしいと願った、すがるような思いを、大駕はそっけなく否定した。


 まさかと思っていた。でも、間違いじゃないとどこかで分かっていた。

 珠纒で捕えられ、足を折られた颯矢太を、雪のただなかに置き去りにしたのは、この人なんだと。


「俺が、あなたの手を忘れるわけがない」

 そうだな、と大駕は感慨深そうに言う。

「俺がお前を、池野辺の神垣に連れて行った」


 そうだ。この手に引かれて、子供の頃、初めて雪の中を渡って、池野辺の神垣へ行った。

 父の友人だった。この人が、颯矢太を助けてくれた。


「お前の父親が死んで、母親も死んで、お前は自分の中に閉じこもるようになった。このままだと、この子はだめになると思った。友人の忘れ形見が、会うたびに痩せて言葉を口にしなくなるのが、俺はつらかった」

 思い出を語る顔は優しかった。


「どうにかしたいと思っていた時に、池野辺で椿が咲き乱れた話を思い出したんだ。あの神垣には都波がいた。お前と同じ親のいない子が。少しでも慰みになればと思ったんだよ」

 だけど笑みを浮かべる顔は面のようで、思い出はどこかの誰かの物語のように、上滑りして聞こえる。


 明かりにあおられて、雪の上の影が揺らぐ。

 たくさんの松明、珠纒をとりかこんでいる数は、池野辺を襲った神喰の数の比ではない。


 たくさんの神垣や垣離を襲う神喰たち。長い年月の間に、雪原をわたるすべを自分たちで学んでいてもおかしくはなかった。

 だけど今これほどに、容易にしたのは誰か。


「大駕さん、どうして」

 この人が、道を違えるわけがない。トリとしての役目を捨てるわけがないと、願いたかった。


「あなたが都波のことを、ここの里長に教えたのか」

 都波が生まれた日の椿の話を。池野辺の神垣の里長が口止めをしたのに。

 トリが漏らさねば、里長が知るわけもない。それはもう、颯矢太たちの先導として珠纒に来た大駕以外、考えられなかった。


 大駕は応えない。吹雪にされるがまま、体に雪を積もらせて立っている。


「あなたが、俺を、殺そうとしたのか」


 そんなわけはないと思いたかった。

 だけど、考えれば考えるほど、彼しかいなかった。

 颯矢太のそばに椿の杖が落ちていたのを見て、疑念は確信になっていた。


 颯矢太にとって椿がどれだけの意味を持つか知っているのは、池野辺を、都波を知る人だけだ。


「どうして、どうしてあなたが!?」

 大駕は、叫ぶ颯矢太を見据えたまま、つぶやくように言った。


「旅に生き、旅に死ぬ。この過酷さを、神垣の者はわかっていない。雪人ならば当然と思っている。トリになって、神垣をつなぐために生きるのが。俺は飽いたのだ。お前の父親のように命尽きる前に、飽いてしまったのだ」

 トリは、この枯れた国を旅して、土地や同族のつながりにしがみついて生きる人たちを、つなぐ糸だ。


 強い感情が、吹雪と共に心の中を吹き荒れる。

「感謝されればいいのか。特別な者だと崇められたかったのか、あなたは!」


 そんな人ではなかったはずだ。自分の身も危ういのに、ただの子供の颯矢太を助けてくれたこの人は。


「さあ、どうだろう」

 それでも大駕は、淡々とつぶやく。

「旅の間にたくさんの同胞を失い、いつ自分が死ぬかもわからない。もう疲れたのだ」

 年を重ね、ただ疲れていた。


 自分も、彼と同じように、いずれ迷うのだろうか。

 たくさんの同胞を失い、ただひたすら旅をすることに飽いて、滅びを願うだろうか。


 生まれ故郷を知らない。父のことも母のことも覚えていない。

 旅の続く暮らしは、自分が何者でどこに根差すのか、不安を抱くことがあるのも確かだ。

 池野辺の神垣は仮住まいでしかない。どこにも本当の家などない。灰色にくすんだ雲と、ただただ白い世界を歩いていると、わからなくなる。


 ――だけど。

 神々の骸と共に、かつての信仰を守って生きる神垣の人間よりも、吹雪のもと肩をよせあい過酷な国と共に生きる垣離の人間よりも。

 誰よりもこの国と共に生きているのは俺たちトリだと、誇りを持っていたはず。


 大駕はふらりと颯矢太に近寄る。

「お前には悪いと思っている。だが、これでいいんだ」

 颯矢太が身構えるよりも早く、拳が振りかかった。

 顔に衝撃がはしり、今度は腹を激痛が襲う。大駕は颯矢太の傷ついた体を、容赦なく殴りつけた。


 冷たい空気が喉の奥にからみついて、息ができない。颯矢太は冷たい雪の上に倒れ伏していた。


 悔しかった。憎かった。同時に、悲しかった。

 目の前に、大駕の足がある。踵を返して、颯矢太に見向きもせず、歩きだした。


 駄目だ。颯矢太は、去っていく足に、行くなと、念じる。痛みで声が出ない。


 彼は雪人の住まいを見つけて、燃やしつくすのかもしれない。その後また珠纒に戻るだろう。


 珠纒には、都波がいる。

 都波は裏切られたなんて知らない。見知った顔が近くにあれば、必ず駆け寄ってくる。疑いもなく、微笑みかける。

 絶対に。


 颯矢太は、雪に手をつき、凍える体を起こした。雪人のくせに、無様に体が震える。

 しっかりしろ。力の入らない足を叱責する。

 足はうずき、灼熱のような痛みと熱を持っていた。それでも、杖にすがって立ちあがる。


 気配に気づいて、大駕が振り返る。颯矢太は倒れ込むようにして、足を踏み出した。大駕が腰に帯びていた短刀を抜き取る。

 体ごとぶつかって、大駕の腹に突き刺した。


「何も傷つけさせない。――あなた自身のためにも」

 雪の上に、湯気を立てて血が落ちる。真っ赤な染みは、あのとき都波が咲かせた椿のようだった。


 涙がにじむ。零れた滴が、凍えた頬にぬるくつたう。


 大駕が雪の中に膝をついた。颯矢太は、それに引きずられるようにして、再び倒れ込む。雪が白煙のように舞い上がった。


 もう冷たいとも感じない。今度こそ、駄目かもしれない。

 いつか旅の中で、雪に倒れるかもしれないと思っていた。父のように。


 だけど、今なのか。

 旅に飽くほどの間もなく、今なのか。


 行かないといけないのに。

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