#4-1
香奈美は今、人生で一番不幸な時期だった。
今日もハローワークへと通う足取りは重い。自分がこうなったのは、三年間付き合っていた彼氏と別れたことに始まる。
元は香奈美も大手企業の受付で働いていた。そんなあくる日、同じ会社の社員から声を掛けられ、優しそうなその男性と付き合い始める。異性から声を掛けられるのはこれが初めて。今まで引っ込み思案で彼氏がいなかった事もあり、二つ返事で受けたのである。
始めの二年は彼も優しかった。休日はいつも一緒に出かけ、誕生日とクリスマスを共に祝い、プレゼントもくれた。香奈美にとっては夢のような時間を過ごした。
しかし三年目に入り、彼から「急に忙しくなった」と告げられ連絡が取れない日が続く。同じ社内でも互いに部署が遠く、顔も会わせられずに一ヶ月が過ぎた。
そして更に一ヶ月後、急に「別れてくれ」と話を持ち掛けられてきた。突然の事で返答に窮し「何故?どうして?」といった涙声の言葉しか出てこない。それに対して男は「他に女がいて子供までできた」とだけ告げ、香奈美から去っていったのだ。
後日、香奈美は別れた原因には相手がおり、それが同じ会社の女上司であることを知った。所謂「ネトラレ」というやつだ。祝賀ムードの会社内で、自分だけが浮いた存在となる。
同じ会社であれば、いつか嫌でも二人と顔を合わせることになるだろう。良からぬ噂が立ち始める前に、辞表を出して退社するしか残された道は無かった。
(神様は不公平……世界はどうして存在しているの……?)
結局は男運が無く、人を見る目の無かった自分が悪いのだ。そう思って諦めようとする夜が続き、涙で枕を濡らす度にどんどん惨めになっていく事に気が付いた。
あくる日鏡でやつれた自分の顔を見て、香奈美は他人を恨むことを覚えた。自分はこんなに苦しんでいるのに、向こうは今ものうのうと生きている、きっとそうに違いない。
どうして今まで相手が一方的に悪いと思わなかったのだろうか。自分のお人好しさ加減に嫌気が差し、再び自己嫌悪に陥り、そしてまた恨みつつの日々を過ごす。この繰り返しで香奈美はどんどん壊れていき、やがて無気力の境地へと辿り着いた。
(……実家に帰ろうかな……)
会社に勤めていた頃は少なからず両親へと仕送りをしていた。ところが今の自分は失業手当を貰って暮らしている身。それも来月で切れ、いよいよをもって貯金を切り崩して生活をしなくてはならない。出戻りだと笑われるのとどっちが辛いのか、天秤にかければ判りきった事だが、踏ん切りが付かないでいる自分がそこに居た。
──ドンッ
「キャッ!」
考え事をして歩いていた香奈美は、誰かとぶつかり倒れてしまった。慌ててズレた眼鏡を直し見上げると、いかにもガラの悪そうな男が3人突っ立っている。
逆立て髪、モヒカン、スキンヘッド。今にも「ここは通さねぇぜ?」と言わんばかりの面々に、香奈美は一瞬でまずいと焦った。
「どーこ見て歩いてんだボケェッ!」
「いてぇよぉ!今ので骨が折れちまったぁ!」
「どうしてくれんだ姉ちゃんよぉ!」
「ご、ごめんなさいっ!」
関わると碌な目に遭わないだろう。一礼し、場を後にしようとするも腕を掴まれてしまう。叫ぼうとした時には遅く、抱きかかえられ口を塞がれてしまっていた。
「おっとぉ! 逃がさねぇぜ! たっぷりと詫び入れて貰うからな」
目の前に止まったのは汚いライトバン、きっと男たちの仲間の車なのだろう。ドアが開けられ香奈美は無理矢理乗せられそうになる。
「──っ! ──っ!!」
「暴れんじゃねぇ! ぶっ殺すぞ!」
「なんだぁ、このヒョロ眼鏡は。もちっとマシなの連れてこいや」
「女なんざ脱がしちまえば一緒だぁ!」
男たちの会話を聞き、香奈美はこれから自分が何をされるかを覚った。散々弄ばれた挙句、自分は山中奥深くに捨てられるのだ。それかドラム缶に詰められ、見知らぬ海に沈められるのかもわからない。
殺すと言われたが思いつく限りの抵抗を試み、ただひたすら救いの神が現れることを祈った。
『ちょっと! 何してんのあんたたちっ!』
第三者の女の声に、男たちの動きが止まった。女というのが頼りなくは感じたが、この状況下で贅沢は言っていられない。ともかく救世主は現れたのだ!
「あんだぁ? おっおっおっ? よく見るとえぇ女やんけぇ!」
「あんたら警察呼ぶけどいい?」
「おうおう呼んでみぃ、ぐへへへ……」
香奈美を突き放し、男たちは現れた女に近づいて行く。これに女は一歩も引かず、素早くスマホを取り出すと早口で喋り出した。
「こちら〇〇通りの△△前ですけど事件です。車両ナンバーは『・6-66』です。はい、軽のバンで車種は……」
余りの手際の良さに、一同唖然となる。
そのうち男たちの一人が慌て始めた。
「お、おい! 向こうから来るの、巡回中のマッポだ!!」
「ヤベェぜ! ズラかるぞっ!」
男たちは大慌てで車に乗り込み、交差点を曲がって行ってしまった。
「……なぁんてね。大丈夫?」
スマホを折りたたみ、女性はへたり込んでいる香奈美へと近づく。
「最近物騒よね、気を付けないと。さ、立って」
「……ひっく……ひぃぃん……」
「あららら」
人の目も気にせず、安心しきった香奈美は大声で泣き始めてしまった。
二十分後、二人はレストランのテーブルに向かい合い座っていた。
「助けて頂き本当に有難うございました。……すみません、見ず知らずの方にとんだご迷惑をお掛けしてしまって……」
あの後、香奈美は女性に手を引かれながら場を離れた。何か食べれば元気が出るからと、半場強引に連れて来られたのがこの店だ。洒落た洋風の内装だが昼食には早いのか、まだ店内はさほど混みあってはいない。
「いいのいいの、気にしないでね。困った時こそお互い様だし」
「そんな、今度しっかりお礼をさせて下さい。ええと、そう言えば……」
「あたし? ああそうだ、名刺作ったんだっけな。どこだどこだ?」
女性は自分のポーチを探り出し、やがて一枚の紙をテーブルへと置く。
GIRLS BAR ~レッド・キャッツ~
─
烏頭目宮市本町大通り〇〇-〇
TEL △△△-△△△△-△△△△
「くるみや……りこ…さん?」
「そう。変わった名前でしょ?」
「いえ、そんな……素敵なお名前です」
香奈美はそう答えるも、源氏名か何かと思っていた。璃子の着ている服から水商売関係の仕事だとは思っていたが、あまりにも格好がそのまま過ぎやしないだろうか。
「ジ~」
「あ、あの。どうされました?」
「今、変な事考えてたでしょ?」
「え、そんなことありませんよ」
「正直に言ってみ? 怒らないから」
冗談ぽく笑いながらそう詰め寄る璃子に、これ以上嘘をつくのは悪いなと考える。どことなく明るい人だし、ちょっとくらい変なことを言っても怒らないだろう。
何でも話せる友人のいなかった香奈美。友達欲しさからもう少し親しくなりたいと考え、思ったことを口に出してみた。
「え、えと、お水関係のイメージぴったりだなぁと……。あ、変な意味では無くて、璃子さんとても綺麗な方だから……」
「あー、なるほどね。でもどちらかといえば『水』というより『火』の関係かな」
「火、ですか?」
「そう。火」
……どういう意味だろう、消防署関係にでも勤めているのか?
「で、香奈美さんは? やっぱり接客業を?」
「いえ、今は就職活動中でして。でも、どうしてそう思われたんです?」
「丁寧で言葉がしっかりしてるからよ」
「そんなことないですよ。いつもおどおどしてて……」
謙遜しながら心の中で「鋭い人だ」と覚った。そこから香奈美の中に生まれたのは警戒心ではなく、ある種の親近感に近い好感触。久しく他人と会話が無かったこともあってか、心の扉は自然に解放へと向かう。
「仰られた通り私、以前は大手企業の受付をしていたんです」
「あら凄いじゃない。でもどうして? 聞いてもいい?」
「はい……数か月前のことなんですけど……」
香奈美は自分が以前働いていて、彼氏がいたことを打ち明け始めた。最初のうちは少しづつ途切れ途切れに話していたが、璃子の静かで心地よい相槌を受けて、段々と口調がはっきりしていく自分に気付く。これに勇気付けられた香奈美は、同じ会社の女上司に彼氏を寝取られたことまで打ち明けたのだ。
「……始めは何かの冗談だと思ったんです……でもそうじゃなかった。私、彼の事は信じ切っていて……だからちゃんとお互いに話せるまでずっと待っていたのに……」
「……」
「……璃子さん?」
「……」
「あ、あの…」
「……え?」
急に静かになった璃子へ、香奈美は驚きながら声を掛ける。
「ど、どうされたんですか?」
「どうって……」
一瞬、璃子は香奈美がどうして驚いているのかわからないようだった。頬杖を突いていた腕を代えようとして、ようやく何のことなのか理解する。
自分でも知らないうちに、璃子は右目から涙を流していたのだ。
「え、やだ……なにこれ……」
「ご、ごめんなさい! 私がこんな話したばっかりに」
「そうじゃないのよ……あはっ……人の事で馬鹿みたいね、あたし……」
そう言ってポーチからハンカチを取り出し、涙を拭き始めた。
「……正直言うとさ、あたしも大好きだった人に裏切られたことあってね」
「璃子さんも、ですか? 」
「でもあたしが一方的にそう思い込んでただけだった。帰ってこないと思ってたら、そいつ死んでたのよ。馬鹿な話でしょ? むしろ清々したわ、死んでてくれて……」
「……ごめんなさい、辛いこと思い出させてしまって……」
「え? やぁね全然そんな事無いから! こっちこそ話の腰折ってごめんね」
慌ててそう取り繕う璃子に、香奈美は胸がキュンと締め付けられる思いがした。
会社であった辛い思い出を誰かに話したのはこれが始めてだ。しかもそれを真剣に聞いてくれて、涙まで流してくれるなど思ってもいなかった。この人は自分より若く見えるが相当様々な経験をしてきているに違いない。できればこのまま友達になって今後も色々話ができないだろうか。香奈美はそんなことを考え始めていたのである。
そして、事態は思わぬ方向へと動き始めた。
「でもさ、正直憎いでしょ。元彼もその寝取った女も」
「はい、それは勿論。でも過ぎたことですから……」
そう答える香奈美に璃子はずずいと顔を近づける。
「今から貴女の部屋にお邪魔してもいいかしら?」
「えっ? えぇ、大丈夫ですけど…?」
「まだ思い出の品とか残ってるんじゃない? これを期に全部処分しよう」
香奈美は璃子を連れ、アパートの自室へと戻って来た。ドアを少し開けたところで何かに気付き、すぐ閉めてしまう。
「どうしたの?」
「ちょっとごめんなさい! すぐ片付けるので少し待ってて貰えます!?」
顔を赤らめ大慌てでそう言うのは部屋が散らかっているからに他ならない。まさか他人を部屋に入れる事態になるとは想定していなかったので、完全に油断していた。
「大丈夫、あたしそういうの全然気にしないから平気、平気」
「で、でも……」
「あたしも働く前は部屋がゴミ屋敷でさ、店のマスターから『そんなんじゃ雇ってやれん』って言われてようやく片付けるようになったくらいだし」
「ゴ、ゴミ屋敷……」
璃子に押され、香奈美は仕方なく中へと招き入れる。
「ってなによ、普通に綺麗じゃない」
「そ、そんな事無いですって!」
小部屋に通されるもやはりそこまでは散らかってはおらず、むしろ小綺麗なくらいだった。
「お茶入れて来ますね」
「ううん、構わないで。すぐ終わらせましょ」
寝室は女の子らしいファンシーなキャラクターの小物がたくさん並べてある部屋だった。それでいてインテリアはしっかりしたものが多く、木でできた箪笥などが置いてある。
「これは?」
璃子は何気なく伏せてあった写真立てを起こす。そこにあったのは、香奈美が元彼と付き合っていた頃の写真だった。どこかのテーマパークのアトラクションを前に、二人肩を並べて楽しそうに笑っている。
「写真、捨てて無いんだ」
「…はい、すぐに信じられなくて……。そのまま置いていたらどんどん捨てられなくなって……ずっとそのままでした……」
この数か月間、香奈美は確かに戦っていた。皮肉な事にその戦いを支えていたのがこの写真だった。悔しさを糧にするために置いていたというよりも、自分が寂しさに押し潰されて負けてしまわぬため。良き思い出を糧とするため残して置いたのだ。
「過去の思い出にすがって生きていたなんて……。私、弱い人間ですね」
「そんなことないわ」
「璃子…さん……?」
ベッドに腰掛け俯いていた香奈美を、璃子は抱き留めた。
「貴女は今までずっと一人で戦っていた……それはとても勇気ある事よ」
香水の甘い香りがする璃子に囁かれ、香奈美は思わず目頭が熱くなった。さっきまで見ず知らずの他人だったのに、どうしてこの人はこんなにまで優しくしてくれるのだろう。戦い疲れていた香奈美は、このまま璃子の優しさに溺れてしまいたかった。
「でもね、過去を捨て去るのもまた勇気なのよ。それは部屋の空気を入れ替えたり、他の服に着替えてみたりするのと何ら変わらない、何も怖いことは無いわ」
「はい……」
「そうすれば段々楽になっていくから」
頭をそっと撫でられ、香奈美はまた涙をこぼしていた。
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