final36/36「黑の幻影」

「――――さよならだ」


 そして、呪毒の杭は自らを貫いていた。

 腹部へと突き立てられた杭は深々と食い込み、腰に巻かれていたしめ縄を弾き飛ばす。しめ縄とは二つの世界を隔てる結界を示す呪具、ゆえに呪操槐兵にとっては大気中に無数に漂う死霊を防ぐ為の安全装置だ。

 そして死霊を身に宿す〈御霊みたま〉にとっては、最後の制限機構リミッターに他ならない。


 ――――制限機構リミッター、解呪。


 黒い機影に向けて、揺らめく人魂の数々が吸い込まれるように殺到する。数多の鬼火を宿した〈御霊みたま〉の顔布は引き千切られ、遂にカメラアイたる銅鏡が露わとなっていた。

 しかし、光を宿している銅鏡は一つのみ。 

 機体は術者と同様の右眼だけを残し、蒼き隻眼と化していた。


「呪術は秘されてこそ意味がある……お前はそう言ったな。そうだとも、欺瞞と秘密まみれの呪術師らしく行こうじゃないか。ここから・・・・だ」

『自分で安全装置を破壊しやがったな、死霊に己を捧げたか』


 これまで呪操槐兵を装っていた擬装さえ剥ぎ捨てて、本性を現した〈御霊みたま〉は真っ向から敵機に歩んで行く。空間中に漂う死霊を取り込み続け、際限なく膨張して行く力が溢れんばかりに機体を軋ませる。

 もう後には戻れない、確実な死をも受け容れた男が吼えた。


「〈御霊みたま〉、俺を奴のところまで……ッ!」

『お前には俺を斃せない、死に損ないが何度やっても変わるものかよ!』


 直後、両機は真っ向から激突し、最期の決闘を告げる鐘の音が打ち鳴らされた。

 戦況は6対1。赤い朽ち木の雑兵を引き連れた〈天地あめつち〉が、遂に槐兵ならざる者と化した〈御霊みたま〉ただ一機を潰さんと弾雨を撃ちかける。

 ビルからビルへ、曳光弾が何本もの火線を描く。

 見えざる巨人同士がぶつかり合う闘いは、渋谷中心部の上空に数え切れない火花と砲撃音を散らしていた。


 しかし、その全てが〈御霊みたま〉を捉え切れない。

 それどころか瞬く間に二機の〈火焔ほむら〉が崩れ落ち、呪われた木片となって眼下の街に降り注いでいった。


「今さらこんなモノがアアッ!」


 戦力差は数の上で圧倒的。しかし、隻眼の巨人は火線を遡るように走り出すと、ほとんど一瞬のうちに〈火焔ほむら〉の一機を仕留めていた。

 仕込み刀を伸ばした左手で殴り抜ける。

 ただそれだけで再生不能の木屑となって行く敵機を背に、一つ目の悪鬼と化した〈御霊みたま〉は鮮やかな回し蹴りで二機目を斬り捨てる。


 今や杭を使わなくとも〈火焔ほむら〉を葬り去れるほどに、リミッターを解除した機体からは極めて高強度の呪毒が発せられているのだ。

 加速。未だ無事な右脚でビル看板を蹴り出した〈御霊みたま〉は、たったそれだけでヴェイパーコーンを纏う。そのまま飛び蹴りの要領で刺し貫いた〈火焔ほむら〉は、義足代わりの杖によってアスファルトに縫い留められていた。


「これで……雑魚は片付けた。あとはお前だけだサカキ!」

『死に掛けがよくやる!』


 見上げてみれば、上空から推進落下パワーダイブして来る〈天地あめつち〉の機影が在った。その両腕で振り上げた鈍刀は風を裂き、今にも機体を叩き潰さんと迫って来る。

 しかし、〈御霊みたま〉はその場から退かない。

 足元でクレーター状に抉られた地面を木屑が埋めて行く。黒い装甲から滲み出る死霊の毒が、触れた傍から〈火焔ほむら〉の残骸を朽ちさせているのだった。


 ――――かなえがこの街で生きる、その未来を。


 今や大気中に漂う死霊の全てが力となる。神木製のちっぽけな機体に流れ込み続ける莫大な死霊が、断裂しかけていた木質性人工筋繊維にさえ設計限界を超えた力をもたらす。

 直後、〈天地あめつち〉と〈御霊みたま〉が切り結ぶ。

 衝撃波と共に吹き飛ばされたのは〈天地あめつち〉の方だ。渾身の力で斬り上げた木刀の一振りが、片腕だけで超重量の機体をも吹き飛ばしていた。


『流石にこいつは想定外だったねぇ、だが!』


 ジェット推進の炎に押し出された〈天地あめつち〉が、即座に体勢を立て直して突っ込んで来る。勝負は一対一、共に槐兵として規格外の境地へと至った二機が渋谷上空で不可視戦闘を繰り広げる。

 〈御霊みたま〉の重量出力比パワーウェイト・レシオは、今や自壊寸前で極大に達していた。

 その膂力で以て音の壁を突き破った機体は、断熱圧縮された高温空気の衣を纏い、自ら焼かれ続ける。木製装甲表面を炭と変えつつも勢いは止まらない。


「俺はかなえの未来に掛けられたあらゆる呪いを解いてみせる……お前にも、そして俺にも誰にも縛らせはしない!」


 容赦ない衝撃波が、街に硝子の雨を降らせる。

 しかし誰にも見えない、誰も頭上の巨人に気付けない。

 散り行くことを悟った葉が秋には色付くように、全身を赤く燻らせる〈御霊みたま〉は見えざる流星となって〈天地あめつち〉に突っ込んで行った。


 鮮烈な閃光、金属と硬化神木製の刀が打ち合わされる。

 目にも留まらぬ激烈な急制動に、地面との摩擦で発火した〈御霊みたま〉の足元からは火花が迸っていた。もうまともに歩けないはずの機体が音よりも速く機動し続ける、そんなにわかには信じ難い光景が現実となっているのだ。


『あの人型の呪物にはまだ利用価値がある、お前を始末すればいい話だ。まだ〈森羅しんら〉の為に役立ってもらわなければな』

「かなえを、かなえ達をそんな下らないことの為に……!」

『喜べよ、古来より人身御供は名誉の証だっただろう! 森羅とは既存のどんなカテゴリにも当てはまらない戦略兵器だ、そしてあの娘は小さな森羅とでも言うべき前代未聞の呪物だ。それを制御パーツとして還すことの何がおかしい!』

「違う、かなえはそんな事の為に生まれて来たんじゃない!」


 それぞれの得物を振るう二機の槐兵が、夜明けも近い交差点中央で鍔ぜり合う。

 スクランブル交差点から人と車が絶える時間は無い。ちょうど見えざる〈天地あめつち〉の脚は見えない鉄柱となって、運悪く衝突した車が眼下で横転する。

 呪操槐兵が戦えば、破壊と死が撒き散らされてしまう。

 目には見えない10m大の鉄塊が高速で機動する、破砕音が轟く街は既にパニック状態だ。無数のタクシーとまばらな人々が行き交う街中でも、両機は互いに一歩も引こうとしない。


「かなえは俺たちなんかとは違う。槐兵なんていう呪われた人型でも無ければ、〈森羅しんら〉のような旧き遺物でもない……当たり前の幸せに寄り添える子だった。呪いを帯びながらもこの街で俺と生きてくれた……!」


 かなえが何の為に黄泉返よみがえったのか、その答えはまだ出せない。

 しかし、願いのような直感が幻也げんやの脳裏を掠めて行く。呪われてなおかなえであってくれた彼女は、あるいは現代という時代に呪いと人が共に生きて行ける一つの可能性では無いのかと。

 呪いを奪う事にしか使えなかった自分とは違うのだと。


 ――――俺はどんなに汚れても構わない、それでも!


 まだ何も答えは出ていない。

 その可能性をつまらない思惑の為に潰させたりはしない。

 呪いとは在り様を縛ること。かなえの未来を縛ろうとするサカキは、彼女に掛けられた呪いそのものだ。

 幻也げんやは既に汚れ切った我が身を砕き散らすように、渾身の力で操縦桿を押し出していた。


「だから違う、貴様のそんな下らない定義のろいでかなえを縛るなアアァッ!」


 遂に自壊し始めた〈御霊みたま〉が、自分自身をも砕くと知りながら最大馬力で敵機に突進する。あまりの過負荷にへし折れた義足は、それでも瀕死の機体を弾丸の如くに押し出し切っていた。

 ぶつかるのは拳と拳。

 遂に用をなさなくなった木刀を放棄し、〈御霊みたま〉は仕込み刀を宿した左腕で真っ向から敵機に殴りかかる。〈天地あめつち〉もまた捻じ曲がった鈍刀を放ると、合金製のマニピュレータで以て拳戟に応じていた。


 激震、両機の拳がぶつかった衝撃は道路をも波打たせる。


 殴り負けたのは〈御霊みたま〉の方だった。衝撃に耐え切れなかった左腕は半ばから潰され、合金で覆われた〈天地あめつち〉の拳を前に砕け散る。

 しかし、無駄ではない。

 すかさず叩き込んだ黒い右手の一撃が、同じように潰れつつも〈天地あめつち〉のマニピュレータを破壊し切っていた。粉砕された前腕部から飛び出したパイルバンカーは、すかさず敵機の砕けた腕から死霊を流し込む。


「届いた……ッ!」

『両手を引き換えにしたか、こいつは!』


 死霊を流し込まれた〈天地あめつち〉の片腕は朽ち始め、次々に分厚い装甲が脱落して行く。途端に作動したらしい爆砕ボルトが、呪毒の感染をせき止める代償として敵機の右腕をアスファルト上に叩きつけていた。


 〈御霊みたま〉が今さらその隙を見逃すはずがない。

 敵機に飛び掛かった隻眼の巨人は、とっくに潰れたはずの両手を〈天地あめつち〉の胸部装甲に掛ける。断面から伸びた根は装甲の隙間を侵し、遂には力任せに引き剥がされた装甲が高々と宙を舞った。

 飛び退った〈御霊みたま〉は、今度こそ止めを刺さんと片脚を屈する。


「その装甲さえ無ければアァッ!」

『あいにく俺は常に悪い可能性を想定する性質でなァ!』


 サカキから焦りと愉しさをない交ぜにした叫びが上がる、その直後に〈天地あめつち〉の左肩部装甲は大口を開けていた。

 スライド展開した装甲の奥に潜むのは、直径280mmの円い闇だ。砲身を極端に短く切り詰められた大砲、すなわち臼砲と呼ばれる隠し武装は、既に砲口の至近距離にいる〈御霊みたま〉を射程内に収めていた。


 ――――無理だ。


 考えるよりも早くフットペダルが蹴り出されていた。

 突撃。片脚の〈御霊みたま〉は真っ向から距離を詰め、もはや臼砲の迎撃を避けられないと知りつつも右手の杭を構える。

 途端にマズルファイアが幻也げんやの視界を焼いた。


『信管セーフティー解除、即時起爆……発射ファイア


 無慈悲な宣告が一拍遅れて聞こえて来る。280mm臼砲が巨大な砲火を噴き出すのと、〈御霊みたま〉が敵機の下に辿り着くのはほぼ同時だった。

 漆塗りの甲冑は、無数の矢によって貫徹されていた。

 砲口付近で炸裂した弾は、たった一度の起爆で数百に達する鋼鉄製ダーツをばら撒いたのだ。半身を串刺しにされた〈御霊みたま〉はたまらずバランスを崩し、その勢いのままアスファルトを滑って〈天地あめつち〉の足元で停止する。


『一発限りだが役に立つとはなぁ。極端に射程を短くしてあるからこういう時に役に立つ、280mmフレシェット弾の味はどうだよ』

「はっ……第一位幹部が……こんな、ものか」


 無数の矢弾は〈御霊みたま〉のコックピットをも貫通していた。

 身体の至る所を貫く鋼鉄製ダーツが傷口を灼熱させている、即死しなかったのが奇蹟のような有様だ。幻也げんやは朦朧とする意識の中で、なおも血まみれの操縦桿を離そうとしなかった。

 破片で裂かれた眼球はもう何も映してはいない。

 それでもまだ終われない、その残り火のような意思が槐兵をも動かす。


「あと、少し……だ、〈御霊みたま〉ッ!」


 遂に止めを刺されたかに思える〈御霊みたま〉は、しかし、未だ断裂しかけた木質性人工筋繊維を稼働させ続けていた。

 黒く燃え尽きた腰布を崩れさせながら、

 焼け爛れた全身の装甲を軋ませながら、

 〈御霊みたま〉はいっそ痛々しいほどの弱弱しさで〈天地あめつち〉を捕まえる。機体は最期に持てる全ての力を振り絞り、敵に手を伸ばしていた。


 もう何も見えなくとも、軽い衝撃が愛機の果たした仕事を教えてくれる。幻也げんやは血に汚れた口元を小さく歪め、誰に知られるともなく胸中に呟く。


 ――――充分だ、ありがとう。


 そこまでだった。

 〈御霊みたま〉の銅鏡から光が消え失せると、機体を形作っていた神木は降霊を解き始める。強いて当てはまる表現があるとすればそれは死だった。

 稼働停止。樹齢50年に達する若き機体は遂に役目を終え、渋谷スクランブル交差点の只中で膝をついたまま擱座する。

 対する〈天地あめつち〉は未だ眼前に立ちはだかっていた。


『娘は殺した後に捕らえるさ、逃げられはしない。お前の負けだ』

「いや、貴様らの……負けだ……決して、かなえは捕えさせない』

『今さら何を』


 幻也げんやはもはや何も見えないコックピットの中で、機体外から聞こえて来る雑音の数々に耳を澄ます。

 パチパチと爆ぜる小規模火災の音、サイレンの音、機体が軋み行く音、それらの向こうに聞こえて来るのは人々の喧騒だった。


 降霊が解けた以上、〈御霊みたま〉は衆目の下に晒されている。

 これまで槐兵の存在に気付きもしなかった人々が、スクランブル交差点の中央で擱座する黒い巨人を初めて目にしたのだ。その数は果たして数十人か、あるいは数百人か、いずれにしても一斉に〈御霊みたま〉へと向けられた瞳は釘付けになっているはずだった。

 人々の瞳は神木製モノコックボディの巨人を映し、懐から取り出された端末は次々にレンズを向ける。


「そうだ、俺に気付け……俺を見ろ」


 今だけは霊障によるジャミング効果も薄い。

 レンズを介して接続されたネットワークの効果範囲は、絶大だ。

 ここに居ない人々の視線までもが、今この瞬間に殺到している。


 ――――だから全ての条件が揃うこの瞬間を狙っていた。


 幻也げんやが死力を振り絞って動かした右手は、外套の内ポケットからシワだらけの画用紙を取り出して行く。光を失った視界ではもう見えなくとも、その画用紙に書いてある文字は何度も見返して網膜に焼き付けていた。

 それはかなえ自身が記した、かなえの名だ。

 クレヨンで記された名を感触だけで探り当てた幻也げんやは、自らの血で以て線をなすり付ける。燃え尽き行く命が成し遂げる、人生最期の呪術は音も無く発動して行く。


「もうお前たちの、誰にも……かなえを暴かせない……!」


 この手で解こうとしているのは、かなえと出会ったその瞬間に掛けた呪い、最初で最後に与えられた唯一の贈り物、そしてこの世で最も短い呪に他ならない。

 かなえの未来に掛けられたあらゆる呪いを解く。

 瀕死の幻也げんやはにやりと笑い、勝ち誇るように言葉を紡いでいた。











「解呪、忌み名の儀」











 幻也げんやが掠れた声を上げた途端に、忌み名を記していた画用紙は唐突に燃え上がる。その熱こそ、人生最期の呪術が成功した証と悟る幻也げんやは、全身から力が抜けて行くのを感じていた。


 ――――この儀式を目にした奴らは誰一人、かなえの名を思い出すことは無い。


 言葉や文字はそれ自体に意味を持ち、力がある。

 ゆえに文字で何かを表すということは、文字の持つ意味合いで相手を縛るという事に他ならない。それこそが呪いと呼ばれる術理の根幹だ。

 そして名とは、この世で最も短い呪。

 それこそは名付けられた者の在り方を縛り、認識出来るようにする最も根源的な呪いの一つ。

 ならば、記憶の中から名を奪ってしまえばその者は認識されなくなる。


水鏡みかがみ幻也げんや、まさかお前は……!』


 何が起こったのかをようやく理解したらしいサカキの声が、薄れ行く幻也げんやの意識に木霊する。忌み名を消し去る儀式を見せ付けた以上、サカキを含む者たちは既にかなえを認識する事さえ出来なくなっているはずだった。


 人は定義されていないモノを認識できない。

 結果として起こる現象は神隠しにも等しい。


 名付けた者にしか解けない呪いは、この渋谷スクランブル交差点に集まった〈神籬社ひもろぎしゃ〉関係者の記憶からも消し去っているのだ。

 神隠しに遭ったかなえを教団が追う事はもう決して出来ない。

 奪う事でしか未来を紡げなかった男の、これこそが答えだった。

 サカキが何かを言っているようにも聞こえたが、もはやぼんやりとして何も聞き取れない。それでも幻也げんやは掠れた声で敵に呟いてみせる。


『……、……は……ッ!』

「俺の……勝ちだ、サカキ」


 サカキは今度こそ止めを刺そうとしているのかも知れなかったが、もうどうでも良かった。とうに光を失った視界には、かなえと過ごした思い出だけが走馬灯のように蘇って行く。

 かなえとシロヒメ。

 その全てを救うことは出来なかったと知りつつも、胸を満たすのはどうしようもなく暖かな感慨だった。友と敵に託したかなえたちの行く末を見守る事はもう出来ない、その資格が無かったとしても幻也げんやの裡に後悔は無かった。


 ――――明日。


 人生の何もかもに意味を与えてくれた娘に与えられるのは、たったそれだけのちっぽけな可能性だ。全てを懸けて紡いだ贈り物は、ほんのささやかな祈りのようなものでしかない。

 願わくは、明日が優しい日でありますように。

 いつかまたかなえが笑える日が来ますように。

 神を辱めたことはあっても祈った事など無かったというのに、何処にいるともしれない何者かに願っている自分が居た。うっすらと口元を歪めた幻也げんやは光なき視界に幻の光を見る。


「朝、か」


 ビルの合間から朝日が差し込み、力尽きた〈御霊みたま〉を照らす。ひび割れた装甲の隙間からも数条の光が差し込み、幻也げんやの身をコックピットの闇から掬い上げていた。

 かなえと共に明日に行けるかも知れないと思えた。そんな泡沫の夢は醒めて、遂に深く昏い東京の夜が明けて行く。

 たとえいつ来るかも分からぬ平穏が遠いとしても、夜はまたこうして明けて行くのだ。

 かなえにとっての明日が来ようとしている、それがただ嬉しかった。


 ――――俺にしては上出来じゃないか。


 たとえ今日という日に自分がいられなくても。

 怪異と成り果ててもかなえを守ろう、永久に。


「……かな、え……今、帰るよ」


 秋の涼やかな朝日に照らされる中、立ち並ぶビルから伸びる影は愛機ごと水鏡みかがみ幻也げんやという男を吞んでいった。

 そして孤独に沈む、かなえを救いあげた根の国へと。

 長い眠りの訪れを悟ったかのように、人ならざる身体と化した一人の男は、その意識を閉じて行く。静かに引火した煙草が懐から落ちた事にも、もう気付けない。


 忌まわしき街は新たな陽に照らされる。

 魔都東京の夜明けに一本の煙草と21gの重みが零れ落ちて行った。



 * * *



 早朝、とある民家の和室に寝転がる一人の少女がいた。一見すると他に誰かがいるようには見えない。

 しかし、少女の腕に抱き締められていた犬のぬいぐるみは、誰に操られるでもなく勝手にもぞもぞと抜け出して行く。


『朝か』


 かなえと犬山、あるいはわんわんの二人が身を寄せる民家は、都内某所に用意していたセーフティハウスの一軒だ。てくてくと畳の上を歩き回っていた犬山は、小さな部屋の窓から差し込む朝日につぶらな瞳を向けていた。

 幻也げんやと遊園地で別れたのも昨晩のこと、朝までには戻ると言っていた彼を待っていたのはかなえだけではない。もう一度彼ら父娘が逢えるのではないかと、心の底で願っていたのは犬山にしても同じことだった。


 ――――戻らなかったか。


 犬山が振り返った先には、泣き疲れて眠ってしまったかなえがいる。

 ぬいぐるみの身体で苦労して掛けた毛布の中、不安げな表情で寝息を立てる彼女は、唯一の友から託された形見となってしまったのかも知れなかった。

 昨晩も必死に孤独に耐えていた彼女を、1人には出来ない。

 犬山はすっかり押し潰されてしまった耳を立てると、彼女の傍で起きるのを待っていようと歩み出す。しかし、その歩みはぴたりと止まっていた。


『誰だ、出てこい』


 ぬいぐるみが辺りを見渡して行く。

 確かに感じたのは、何者かがこのセーフティハウスに巡らせた結界へ足を踏み入れた気配。しかし、強固に組んだ術式をいくら確かめてみても、あらゆる呪符と結界が起動した形跡は皆無だ。

 それでも侵入者が忍び込んだ可能性を捨て切れない。


 室内にふっと炎が現れたのは、その瞬間だった。

 ちょうどかなえの直上に現れた炎は、ほんの一時だけ光を放つとすぐに消え去る。その跡からは宙に撒かれた花弁だけがひらひらと舞い降りて来た。


『まさか』


 犬山はもはや存在しない瞼を見開くように、その宙を舞う花びらの行方を見守っていた。発動形式を見る限り間違いない。あの煙草・・・・に組み込まれた召還術式を介して、散った彼岸花だけが呼び出されたのだ。

 落ちて来るのは、真っ白な彼岸花の欠片。

 持てる全てを振り絞って退色したかのような白は、幻也げんやの白髪を思わせる色だ。真っ白な花びらはそっと優しくかなえの下に舞い降りる。


 花びらが頬に乗っても、彼女は起きないままだった。

 まるで眠っている所を起こしたくないとでも言うかのように。


『そうか、お前だったのか……水鏡みかがみ


 全てを察するにはそれだけで充分だった。

 改めて窓の外の風景を眺めてみれば、ちょうど玄関先の道路には連なる電柱の影が落ちている――――はずだった。しかし、その不自然に歪んだ輪郭は、まるで黒い巨人の姿を象ったかのようにも見えてしまう。

 それは決して見間違いなどではない、と犬山は理解した。


 あれは一人の男が燃え尽きた骸であり、文字通りの影なのだ。

 人々に畏れられる者となるという呪操槐兵の性質を突き詰め、遂には一つの怪異へと成り果てた男の残滓なのだった。

 もはや意思を持たない影だけが永久にかなえを守るだろう。黒き巨人を目にした人々が朧な噂を語る程に、その影は一つの物語となって街に根を張って行くだろう。


『お前はもうどこにも還れない、それでも帰って来たんだな』


 娘の存在を神隠しによって覆い隠し、自らは影となって語り継がれる。

 魔都東京に運命を呪われた男は、生涯最後に東京という街そのものを呪い返したのかも知れなかった。

 そして、影がするりと室内に滑り込んで来る。

 寝ているかなえの頬を撫でるように、決して闇から抜け出せない巨人の影がそっと溶け合った。彼女の閉じた瞼から零れ出す涙は、影をすり抜けて畳を濡らして行く。


「ぱぱ……」


 かなえにはもう触れられない、涙を拭う事も出来ない。

 それでも約束を果たすように、目の前でかつて父だった者と娘の影が触れ合う。見守る犬山の脳裏にも、決して聞こえぬはずの声が聞こえて来るようだった。


 ――――ただいま、かなえ。


 巨人を象る黒き影が、そっと少女を抱き締めるように形を変える。

 誰にも知らせぬままに真実は葬り去られ、一人の男の人生だけが巨人の影となって日の下に焼き付けられた。

 東京の影に在り続けた男が、遂に黑き幻影かげとなる。

 2028年の神無月、魔都東京に一つの名も無き怪異が生まれた。

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槐神霊装伝エンジュ―現代呪術戦は魔都東京にて―(#槐エンジュ) 鉄機 装撃郎 @43121523

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