第十走 女子に二言はなし

 時間は少し遡り、私が初ハーフマラソンを完走した後からその次の夏の話になります。21キロ走れただけの私でしたが、やはり将来はフルマラソン42キロにいつかは挑戦してみたいと漠然と思うようになりました。走ラン会の新しいコーチが丁度東京マラソンを走りに行ったことも大きかったです。


 その時は私なんてまだまだ、と考えていましたが彼女は断言してくれました。


「ヨカコちゃんもいずれは42キロ走れるようになるわよ」


 そのコーチはそれから走ラン会は都合で辞めてしまいましたが二年後くらいにロンドンマラソンも完走、世界六大マラソンを制覇した人に贈られる手のひらサイズの巨大特別メダルを手に入れ、私も写真を見せてもらいました。


 私は大会完走後のメダルはよっぽどのことがない限りどうでもいい人間なのですが、そんな貴重なメダルは別です。でもそんな六大会を制覇できる日なんて私に来るのでしょうか。その気になる六大会とは、東京、ボストン、ロンドン、ベルリン、シカゴ、ニューヨークと、なんだか地域が偏っているような気もしないでもないです。


 コーチがロンドンを走ったのは確かシャーロット王女誕生のすぐ前でした。


「ロンドン完走おめでとうございます。ところで王女の誕生見逃しましたね」


 そんなことを私は帰国したコーチに言ったのを覚えていますから。ロンドンの地理には疎いですが、もしマラソンと王室の行事が重なっていたら、ロンドン市の関係者や警察の皆さんは警備や段取りがさぞ大変だったことでしょう。




 さて、その頃でしたか、友人が本を一冊(注1)貸してくれました。記者であり、走者である著者のエッセイ集です。その本の中に、彼が丁度年齢42.195歳の時にフルマラソン42.195キロを走り、それで募金を集めるという逸話が書かれていました。42歳の誕生日の71日後がそのタイミングだそうです。


 そこで当時41歳だった私もその考えが気に入り、42歳の時にフルマラソン42キロを走ろうという目標を打ち立てます。流石に誕生日の71日後という縛りは出来ませんから、誕生日が冬の私は42歳になったその次の9月、地元のマラソン大会でフルマラソンを走ることに決めました。


 21キロは走れても、それより長い距離を走ったことはありません。21キロでも結構苦しくて消耗するのに、さらにその後21キロ走るなんてまだまだ考えられませんでした。しかし、目標が出来ると俄然やる気が湧いてくるものです。




 その本には他にも色々な逸話が書かれていました。2006年のニューヨークマラソンに著者が参加した時にはあのランス・アームストロングも同時に走っていた話もありました。


 著者のアームストロングに対する盲目的な憧れなどがつらつらと述べられていましたね。私が本を読んだのはドーピング問題が公になった後ですからなんとも白けた感じになってしまったのは否めません。


 プロ、アマに関わらずある程度以上のレベルのスポーツ界は私には未知のものです。スポンサーからの圧力、周囲からの期待など想像を超えるものでしょうし、厳しい摂生、体調管理に怪我、故障、病気、加齢等の不安材料は数え切れません。


 ドーピングなんて誰でもやっている、という人もいます。私などのただの趣味で走っている人間でも、これを飲めば、これを打てばタイムが上がる、なんてものにはふらふらっと傾いてしまう気持ちも分かります。




 話が大幅に逸れてしまいましたが、逸れたついでに同じ本に書かれていた逸話を他にも挙げてみます。私も長距離を走り始めるまでは全然知らなかったのですが、何万歩も何時間も走っていると肌と肌、肌と衣服の同じ部位が擦れて荒れたり傷ついたりすることがあるのです。


 靴擦れ、足の水膨れと同じようなものと考えて頂ければ分かり易いかと思います。幸い、私自身は今のところ足の水膨れ以外は経験したことがないのです。男性はマラソンを走っている時に乳首が服と擦れて出血までしてしまう人もいるのです。


 この本の著者もそうで、あるマラソンでゴールの瞬間の感動の写真には胸のところから二本の赤い筋がダラーっとついている少々恥ずかしい写真があったそうです。彼に内緒で奥さんが誕生日祝いのために写真を色々探して同僚や友人達に聞いてまわっていた時のことでした。同僚の編集者が奥さんに


「すごく良く撮れている写真がある。乳首出血しているけど、採用? 不採用?」


と聞いてきたことがあったそうです。


 私はそれを最初に読んだ時に一瞬何のことか分かりませんでした。乳首が出血するって何ですかそれ?でした。


 でもある日目撃してしまったのです、あるマラソン大会でゴール後まさにその状態になっているお兄さんを。おにーさん、どうしてその白いTシャツじゃないと駄目だったの、他にもっと目立たない色のTシャツなかったのと心の中で彼に問いかけていました。




 あとはラン友の一人も言っていました。


「僕は乳首が敏感だから着るものは布地の肌触りと色で選ぶんだよ」


 でないと長距離の大会でつらいし痛くなるし恥ずかしいそうです。




 そう言えば初めてハーフを走った時に一緒にスタートしたクロヨさんが軟膏を携帯していました。


「肌が擦れるところに塗っておくのよ、腋の下、股の間、乳首とか。使う?」


 練習で長距離走っていたときも私はそんな問題は全くなかったのです。だからまさに『へぇー』状態でした。別にあまり肉が付いていないから、擦れないのです。悲しい事に付いて欲しい所にも付いていない虚乳の私は走っていてもゆっさゆっさと揺れないし、スポーツブラをしていると擦れることもないのですね。




 さて、ダラダラと余談ばかりで長くなってしまいましたが、要するに私は42歳でフルマラソンを完走しよう、と言う目標を立てたということです。言ったからにはやり遂げないといけませんが、目標を立てた41歳の当時はまだハーフマラソンのタイムを少しでも上げようと頑張っていたところでした。


 それでも女子に二言はないと、ちゃっかり翌年のフルマラソンの申し込みも済ませました。アラフォーは女子とは言わないだろと突っ込まれる方もいらっしゃると思いますが、そこは『オバサンに二言はなし』より語呂が良かったのでお許しください。



注1:“Why I Run” by Mark Sutcliffe

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細腕鍛錬記 ヨカコ @yokako

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