怪演

 署の階段を登り切り入り口のすぐ側にいるノリコは、鉄門の前に立つケントを見とめると、眉を顰めて立ち竦んでしまった。

 聞きたいことは山ほどあったし、いつもの彼女ならすぐに警官の制止を振り切って飛びつき、抱きしめていたところだ。


 が、ケントの姿は明らかに異様であった。

 暗闇でも遠目でも、はっきりと映るその目の狂気。そこから署全体を覆う程に、煌々と迸る赤光……


 隣に立つモウリは露骨に怯えて、恥も外聞も投げ打ってイノガシラの背に隠れた。ガチガチと鳴る歯がうるさい。シバヤマはノリコを背に庇いながら、その異常なほどの怯えぶりを訝しみ、静かに訊ねた。


「どうした、モウリ」

「い、今の声だぁ……」

「あぁ?」


 年甲斐もなく恐怖に顔を歪めながら、モウリは震える唇からどうにか声を絞り出した。しかしシバヤマはこの余りに要領を得ない説明に得心しかね、思わず苛立って声を荒げ追求した。

 見かねたイノガシラが、目だけはケントから離さず、モウリを代弁して応えた。


「今朝方、殺られたミハラのことについて事務所で協議してる最中に、を聞いたとか言ってな。俺に泣きついてきたんだよ」

「変な声?」

「頭に直接響いてきたんだと……さっきまでは相手にするのも馬鹿馬鹿しかったが」


 イノガシラの声が、微かに震えた。


「実際聞いちまうと馬鹿にはできねぇ」


 シバヤマは息を呑み、鉄門の側に立つケントにそろそろと視線を移した。


 背後に聳える署から、ワァワァと喚き散らす声が聞こえる。頭上にある割れた窓から様子を窺う者があり、事務所では電話を手に取り応援を要請する者があり、さらに署の入り口からは、バタバタと慌ただしく数人の警官が出て来て次々にケントの姿を見とめて騒ぎ出した。


 全員の姿がケントの目から迸る赤光に包み込まれ、呑まれてゆく。シバヤマもまた例外ではなかった。懐に手を差し入れて拳銃に手をかけるが、そこに立つ小男はなぜか、こんなものでどうにかなる相手に思えなかったのである。


 T署は瞬く間に、ケント一人によって大混乱の渦に叩き込まれてしまった。


川越健人カワゴエ ケントかッ!」


 そんな中、真っ先に声を発したのはイイヅカ。彼は既に懐から取り出した拳銃の先をケントに突きつけている。

 落ち着けイイヅカ、といつもの台詞を言う間もなかった。周囲の警官たちがこの一人の勇者に勇気付けられ、次々に拳銃を抜いて同じようにケントに突きつけたのだ。そして口々に喚き散らす。


「何の用だ!」

「両手を頭の後ろで組め!」

「そうだ!」

ひざまずけ!」

「抵抗すると撃つぞ!」


 全員、正気を失っている。誰も彼も、ケントの瞳から放たれる狂気の光にけしかけられ、誘われているようだった。

 しかし小男は無数の銃口を向けられているのに、口元を歪め、肩を揺らして不気味に嗤っている。そして、不意に真顔になって声を発した。


「撃てよ」


 今度は、脳に直接流し込んではこなかった。それも決して大声ではない。

 しかし警官たちは、水を打ったように静まり返った。シバヤマもまた指一本動かせず、その一挙一動を見守ることしかできない。


 ケントは小首を傾げて、片腕を上げて掌を署にかざす。全員がその先に意識をやったその時。


 パリン、パリン、パリィンッ……


 矢継ぎ早に破裂音が鳴り響き、署の窓が次々と割れた。十枚、二十枚と割れては硝子片が警官たちの頭上に雨霰あめあられと降り注ぎ、勇者ぶっていた警官たちは皆銃口をケントから離して懸命に己の頭を庇った。


 シバヤマもまた懐から手を抜き、ノリコを庇った。

 錯乱する頭の中で、異能をもって警察をとことん侮辱するケントへの怒りと、同輩後輩たちの余りのみっともない姿に悔しさと情けなさが渦を巻く。

 一方で自身の懐で身を屈めるノリコは、ケントから片時も目を離さず涙を堪えていた。彼女はまだ、彼に対する愛も哀れみも失っていない。この場で一番強いのは、紛れもなく彼女だった。シバヤマは己をも情けなく思い、最後の意地を振り絞ってケントを睨みつけた。


 が、彼の表情にはもう歪んだ笑みは消えていた。彼は真っ直ぐ自分の目を見つめ返している。訝しむシバヤマの頭に、先程と同じ声が響いた。


『ありがとうな、おっちゃん』


 この上なく、哀しげな声だった。周りを見渡しても、皆頭を庇うばかりでその声に気付いている者がいる様子はない。ケントは、自分だけに語りかけているのだ。


「この野郎ぉッ! いい加減にしやがれぇッ!」


 イイヅカの怒号が響き、シバヤマははっと目を見開いて彼に目をやった。彼は再度銃口をケントに向けていた。


「待てっ、イイヅカッ!!」


 シバヤマは悲鳴に似た声で部下を制止した。だがイイヅカの耳に、その声は届かない。

 パンッ、パンッ、と乾いた銃声が耳をつんざき、薬莢やっきょうが散乱する。


「刑事さん、やめてッ! やめてェーーーーッ!!」


 ノリコが絶叫する。シバヤマは「いけない、奥さん、いけない」と懸命に宥めつつ、彼女を抑え込んだ。


 ……銃弾は間違いなく命中していたが、ケントは微動だにしなかった。額と首筋、胸元に穴が空き、そこからドロリと緑色の液体が流れ出す。撃ったイイヅカも、シバヤマも、ノリコも、他の警官たちも、一様に目を見開き、硬直してその異様を見守った。


「いてぇな、この野郎」


 ケントの顔に、また歪んだ笑みが戻る。

 舌を出して顔に垂れた液体をペロリと舐めとる。直後、漏れ出た液体はみるみるうちに煙と化してその顔を覆い、やがて体全体を覆う。


怪物バケモノ……」


 隣に立つイノガシラが、ぼそりと口にする。咎める気は起きなかった。シバヤマも、全く同じ感想を持ったからだ。

 勇者イイヅカも遂に戦意を喪失して震え上がり、全弾を撃ち尽くした拳銃をケントに向けたまま立ち竦む。


 怪物・ケントは、一様に自分の姿を戦慄と共に見守る警官たちに向かって、また決して大きくない声で言う。


「今回のことは全部……」


 そこでケントは言葉を切り、ちらりとノリコと目を合わせた。尚も「その先を言わないで」と哀願するように自身を見守る彼女にふっと微笑むと、また歪んだ笑みを作り警官たちを睥睨し、悪びれもせず宣言した。


「俺の仕業だ」


 最早、誰一人それを疑う者はなかった。ノリコの頬を、つぅ、と涙が伝った。「どうして……」と小さく呟くのを、シバヤマは聞き逃さなかった。

 ケントは次にイイヅカに視線を移して言う。


「お前、『川越健人か』っつったな……そりゃちょっと違う」


 警官たちの頭に、映像が流れ込む。

 パラバルーンから、轟々と燃え盛る炎。その前に立つ、血まみれの少年の姿。悪魔の子・仰木オオギ健人。それが目の前に立つ怪物・ケントと重なる。


「俺は仰木健人……あの頃と、何も変わっちゃいないさ」


 言うとケントは、無造作にイイヅカに手をかざした。パァン、と破裂音が鳴り響き、イイヅカは見えない何かに弾かれるように吹き飛ばされた。シバヤマがノリコから身を離し、大慌てで部下の背を全身で受け止める。しかしそれは老刑事の力では、到底止められない勢いだった。二人は纏めて吹き飛ばされ、署の入り口のドアに叩き付けられた。


 見くびっていた。『悪魔の子』を。

 気を失う寸前、シバヤマの脳裏を悔恨が過った。


 そして、ずっとイノガシラの背後に隠れて怯えていたモウリの頭に、また声が流れ込んだ。


『ツギハオマエダ』。


 事務所で聞いたそれと、全く同じ台詞だった。モウリは、がくりと膝を折ってその場に崩れ落ちた。


 目的を全て成し遂げたケントは、夜風に靡くモッズコートを翻して闇に消える。それを止めることは、最早誰一人として出来なかった。

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