門前の混沌

 多くの捜査員を現場に残して、シバヤマとイイヅカは一足先にT警察署に戻った。

 パトカーに同乗させたノリコは相次ぐ絶望と衝撃の末に茫然自失し、元の溌剌とした中年女性の魅力をすっかり失って、急激に老け込んでしまっていた。

 パトカーを降りたシバヤマは彼女の力の抜けた細い肩に自身のコートをかけて、その腕を引いて署への階段を登った。イイヅカは用心深く周囲を窺っている。犯人の目星はついても動機が不明な以上、彼女が標的とならない保証はどこにも無いのだ。


 もう夕陽も落ち切って、署の周辺を支配しているのは夜の闇。腕を抱くノリコから負の気を受けるシバヤマは暗澹たる心持ちで、彼女を気遣いながら一段一段、用心深く登り慣れた階段を登る。


 と、不意にノリコが口を開いた。


「アヤちゃんは……?」


 シバヤマはまたも答えに窮して、イイヅカと顔を見合わせる。心優しい上司の心中を察したイイヅカが代わりに答えた。


「まだ、所在が掴めていません」

「そう……でも、じきに帰ってくるって言ってたんです」


 ノリコの声に力はなかったが、その内容はまた二人の刑事を驚かせた。


「『じきに帰ってくる』……? 奥さん、それは一体誰から聞かれました?」


 シバヤマは出来うる限り刑事の血、つまり事件解決の望みを抑え、ノリコへの心遣いを優先して、彼女の目を真っ直ぐに見据えて優しい声色で訊ねた。

 するとノリコは突然、表情を取り戻した。顔をくしゃくしゃにして涙を流し、嗚咽を漏らしながら答えた。


「ケンちゃんが……」


 二人の刑事は共に今日一番の驚愕と困惑に襲われ、また顔を見合わせた。ノリコは嗚咽しながら尚も続ける。


「ねぇ刑事さん……ケンちゃんは、ケンちゃんは……」

「はい、はい。ゆっくりで構いません、奥さん……」


 シバヤマはノリコの肩を摩りながら、ただ一心にその言葉に耳を傾ける。しかし彼女の言葉は次第に熱を帯び、激しくなっていった。


「あの子は、皆さんが思ってるような悪い子じゃ決してありません……皆さん、あの子を疑ってるんでしょう!? 何も知らないで、あの子とちゃんと話したこともないのに……!」


 二人の刑事は当惑しきり、頭をかいた。

 情報を聞きたいという気持ちと彼女への気遣いがせめぎ合い、どう対応すればいいのか分からない。


「きっと、何か事情があるんです! 主人も、ウチの子たちもみんな……きっと何か得体の知れないことに巻き込まれて……」

「えぇ、えぇ、奥さん。分かりますとも」


 シバヤマは最早自身の考えを放棄して、ともかく彼女に同調した。ひとえに彼の良心から、そうせざるを得なかったのだ。


「お恥ずかしい話、今回の事件は我々も全く掴みかねておりまして、その……犯人の目星も何らついておりません。ですから、えぇっと……」


 イイヅカは敬愛する上司の健気な姿に胸を打たれ暫くその様子を見ていたが、突然猛スピードで走ってきたパトカーが階段のすぐ側に乗り付けるのに気付いて、すぐにそちらへ鋭い視線を投げた。


 パトカーの扉が開かれ、出てきたのは四課マル暴の古株刑事・井之頭隆二イノガシラ リュウジ

 彼は階段上に立つシバヤマに気付くと眉間に皺を寄せて睨みつけ、シバヤマもまた条件反射的に睨み返す。二人はほぼ同期であったが、美作ミマサカ組との癒着によって悪評ふんぷんたるイノガシラと、清廉潔白で知られるシバヤマはかねてより犬猿の仲であった。

 イノガシラはシバヤマを睨みつけたまま、後部座席のドアを乱暴に開ける。そこから出てきたのは、毛利照雄モウリ テルオ。美作組の大幹部にして、当署四課と美作組とを結ぶパイプ役として知られる悪党だった。

 彼は随分怯えきった調子で小さくなって、青白い顔をしていた。


「何事だ、イノガシラ」


 モウリの腕を引いて階段を登ってくるイノガシラに、意外なことにシバヤマが先に声をかけた。尤も声色は、ノリコに語りかける時のそれとは打って変わって無愛想そのものだったが。


「チッ、うるせぇ。こっちの話だ」


 イノガシラは一つ舌打ちすると、これまた無愛想に応じた。彼の子分の刑事が一人、モウリを庇うようにその後に続いて歩いてくる。

 するとイイヅカがに気付いて好奇心を抑えられず、この強面の上司に思わず素っ頓狂な声をかけた。


「あれイノガシラさん、山路ヤマジさんがいませんねぇ?」


 と、モウリの肩がビクリと震えた。シバヤマはそれを目敏く見抜き、イイヅカを睨み付けてそれ以上の質問を封じようとするイノガシラの肩を掴み、さらに問い詰めた。


「本当だな。いつもお前ヤクザがらみのヤマじゃ、あいつを連れ歩いてただろ」

「うるせぇってんだ白髪野郎……こっちは今大ごとなんだ。すっこんでろ」

「大ごとはこっちの台詞だ。ガイシャAが発見された現場で怪我したのはマル暴の誰かだと聞いてる。それがヤマジの奴なんじゃねぇのか?」


 シバヤマはイノガシラのチンピラめいた強面などより余程恐ろしい、老刑事の風格でもって詰め寄ったので、流石の悪徳刑事もたじろいで返す言葉を失った。


「今回のヤマはな、署全体で当たったってどうにもならねぇ事態かも知れねぇんだ……今度ばっかりはお前の居直りも、マル暴の隠蔽体質も、ちょっとばかし抑えてくれねぇと困るな」


 と、イノガシラが歯軋りしてシバヤマと睨み合う中、ずっと黙っていたノリコが口を開いた。


「モウリさん……?」

「へっ……あ、あぁ、こりゃどうも、奥さん……」


 刑事たちが一様に驚き、ノリコを見た。借りてきた猫のように縮こまっていたモウリが、おずおずと彼女の呼びかけに応じたのだ。


「奥さん、こいつと面識が?」

「えぇ……ウチの子が何人か彼のところのお世話になってるので……ねぇモウリさん、あなたどうしたの? そんなに怯えて」

「い、いや、そのぅ」


 ノリコはシバヤマの問いかけに適当に応じると、モウリにしつこく詰め寄った。


「ねぇ、もやられたって聞いたわ……何か知ってるんなら教えて!」


 シバヤマははたと気付いた。そう言えば、一連の事件で真っ先に撲殺された美原慎二ミハラ シンジは、このモウリの舎弟まがいの立場にあったと聞く。そして彼もまたかつて、ノガミの手を経て川越邸の世話になった一人だったことを思い出した。


「モウリさん、ウチのケンちゃんが疑われてるのよ! ねぇ、あなた、黙ってないでなんとか言いなさいよ! 何の責任もないとは言わせないわよ!」

「まぁまぁ奥さん、ちょっと落ち着いて……」


 イノガシラが苦笑しつつ、怯えきったモウリの前に立ち塞がり、興奮するノリコを宥めた。


「コイツもね、被害者なんでさぁ。奥さんと同じく、じきに標的になるかも知んねぇってんで、ここまで連れてきたわけだ……それにねぇ」


 そこまで言うとイノガシラは頭をかきつつ、気持ちためらいがちにその先を口にした。


「ホシは何もあんたのいう、『ケンちゃん』一人じゃあないんでね……」


 ノリコが凍りついた。シバヤマとイイヅカは額に青筋を立てて、一斉にイノガシラに詰め寄った。


「何だと、お前、そりゃどういう了見だ」

「そうですよ! よくもまぁ、この状況でそんなことが言えたもんです!」

「落ち着けってんだ馬鹿ども……いいか? てめぇらも刑事なら、冷静になって状況を整理してみろ」


 バツの悪そうに俯くモウリを代弁するように、イノガシラはすっかりヤクザから移った下卑た薄笑いを浮かべつつ述べ立てた。


「今のところ、あの屋敷で死体になってねぇのはくだん川越健人カワゴエ ケントと、川越文香アヤカの二人だけだ。どっちも所在が掴めてねぇ以上、両方疑ってかかるのが刑事のスジってもんだろうが。えぇ? 出来損ないの人情屋どもが……」

「このクソ野郎ッ!」

「おいっ、待て、待てイイヅカ、落ち着け……!」


 顔を真っ赤にして怒り狂いイノガシラに掴みかかろうとするイイヅカを、シバヤマは歯噛みしつつ制する。

 すると、また虚ろな目になって立ち竦むノリコを見やって一層下卑た笑みを浮かべつつ「おぉ、怖い怖い」と肩をすくめるイノガシラの裾を、モウリがくいくいと引いた。


「お、おいイノガシラさん、早く入ろう……俺はもう恐ろしくて……」

「あーあー、分かったよ」

「おい、イノガシラ……お前、この状況でまだ袖の下で動くのか」

「あぁん?」


 シバヤマは努めて冷静に振る舞いつつも、腹の底からこみ上げる怒気を孕んだ声色でイノガシラをなじる。


「お前の魂胆は読めたぞ。ちょっとでもそいつが恨み買わねぇように、ホシをってんだろう。おいモウリ、お前、今度は幾ら積んだ?」

「おいおい、また始まったよ……ありもしねぇ推理ごっこはお前の悪い癖だな。全く呆れるぜ。今はそんなことにうつつを抜かしてる時じゃねぇ。『署全体で当たったってどうにもならねぇ事態かも知れねぇ』んだろう?」


 イノガシラはせせら笑いながら、図星を突かれて卑屈に笑うモウリの手を引いて署の階段をズカズカと登っていった。

 ノリコも、シバヤマも、イイヅカも、結局は悔しさを押し殺してその背を見送るしかなかった。


 ……と、その時だった。


 パリィンッ


 鼓膜を突き破るような破裂音が頭上に鳴り響き、汚職刑事が足を止めた。

 その場にいた全員が肩を震わせ、一斉に音の鳴った方を見上げた。署の窓が一枚割れていたのだ。


「何事だッ!?」


 降り注ぐガラスから身を呈してノリコを庇いながら、真っ先に声を上げたのはシバヤマ。イイヅカが「俺が行きます!」と威勢良く言って階段を駆け上がった。が。


『後ろだよ、ばぁか』


 全員の脳に、が聞こえた。それぞれが血相を変えて顔を見合わせる中、ノリコが呟いた。


「ケンちゃん……?」


 元々青かった顔からさらに色を失ったモウリが、恐る恐る振り向いた。

 署の門前に立つ小男が、視界に映る。四白眼に煌々と灯った赤光が、夜風にはためくモッズコートを羽織ったその姿を照らしていた。

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