クローシェの魔女

悪魔のささやき

 隣同士に腰掛けるケントとユミコは、共に微動だにせず窓越しに見つめ合った。

 ケントは瞬きすら忘れていた。動いているのは、すぐ隣の女に聞こえていないかと不安になるほどに激しく脈打つ心臓のみ。


 いつからこの電車に乗っていたのか、いつから隣に腰掛けていたのか分からないユミコを『人間じゃない』とケントに確信させた要素はいくつもある。


 まずはケント自身、たった今まで彼女の存在に気付かなかったこと。

 自分を窓越しに見つめたまま、決して小さくない声で話しかけるこの余りに異様な女に、ケントを除く乗客が全く注目していないこと。

 そして何より、全てを見透かしたように赤く光る目と、旧姓と二つ名を言い当てた赤い唇に浮かべた微笑に、人間離れしたを感じたこと……


 ケントは、じっとりと滲み出る汗に意識を戻された。感情を殺し尽くされ生きる屍と化した筈の彼が、この寒い電車の中で脂汗をかくほどに緊張している。

 しかし窓に映る赤い瞳は蠱惑的な色香を益々強め、どこまでも彼を惹き込んでゆく。


 何度となく意識が遠のき、また戻る。その繰り返し。不眠に苛まれていた頃の、脳内で巻く渦に体感したことのない快楽が混じったように、混濁する意識の中でユミコの瞳が放つ赤い光だけが確かに輝いていた。


 ふと、様子の変わらない周囲に意識を戻される。ゼェゼェと、到底隠しきれない己の荒い息遣いだけが車内に響き渡る。しかし車内の誰も自分に注目しない。彼らは変わらず俯き、孤独と戦い寒さに震えている。

 遂にユミコと共に世界から連れ去られたかと思い、ゴクリと生唾を飲み込んだ。ユミコが窓越しに湛える微笑は益々邪悪に歪み、それでありながら反発する気力が湧かない。

「魅せられている」。ケントはまざまざと実感させられた。


 しかし同時に、一瞬見えた車窓の先に映る景色に動揺し、少しばかりユミコから意識が離れた。

 真っ暗である。見たこともない山あいの田園風景が広がっている。T市など、とうの昔に通り過ぎていたのだ。


 何やってんだ俺は。次で降りよう、次で……


 そんな決意は瞬時に虚しく遠のき、目線は窓から離れてくれない。ケントの意識は最早、ユミコによって完全に支配されていた。

 彼女は軽く口元に手をあてがい、妖しげに笑っている。自分に気を取られ、時間も、周囲の変化も忘れていたケントを嘲笑うかのように。


 怒りは湧かない。心も体も動かない。何をされたわけでもない。ケント自身がただ、「そうしていたい」と思っていたのだ。或いはそう思わされているのか。もうそんなことはどうでも良い。

 二人は、遂に他に乗客のいなくなった真夜中の、田舎の路線の電車で、ただ窓越しにジッと見つめ合っていた。時間は止まったようにも、長く過ぎたようにも感じた。過ぎ行く時間すらどうでも良くなっていた。


 ユミコが不意に、耳元で囁いた。


「もうすぐ至羅浜しらはまよ」


 淫靡な響きに体が少し跳ね、首が動いた。ケントは遂に、隣にいるユミコに真正面から向き合った。瞳から放たれる真っ赤な光が、間近から流れ込む。ローズの香りは益々、グロテスクなほど直接的に鼻腔に流れ込む。

 胸の高鳴りは益々強まる。心臓を直接鷲掴みにされ、無理矢理動かされているようだ。ユミコの真っ赤な唇は、妖しい微笑を崩さずに動き続ける。


「私の家、ここなの……あなたもここに用があるの? それともまだ先?」


 胸の苦しさにケントは思わず、微かに喘いだ。ここで降りたい。そしてもう戻りたくない。電車が止まる。車掌の声は聞こえなかった。ケントはただ彼女の言葉を待ち侘びて、その目と口元に全ての意識を集中させた。


 ユミコが立ち上がると、釣られてケントも立ち上がる。体と体が正面で向き合い密着している。やはり彼女は、ケントより頭一つ分背が高かった。真っ赤な瞳と唇が迫り、白磁器のように白い頬がケントの荒れた頬を嬲る。

 ユミコはそのままケントの肩に顎を乗せる。耳に甘い吐息がかかる。子犬のように震えるケントのもう片方の耳を細い指先でソロリと撫でながら、鼓膜を優しく吹いて揺らすように囁いた。


「ここに用なら……泊まって行かない?」


 断る理由も力もない。それを知ってか知らずかユミコは返答を待たずして、ケントの腕を抱き寄せて強引に降車した。

 真っ暗な至羅浜駅のホームに足を着けた瞬間、ケントはやけに冷静になった頭で、「あぁ、もう戻れないな」と確信した。

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