意識の志向性と統合

 今回は完全なる思いつきなのですが、


 最近は、脳の役割とは、つまるところ「統合」ではないか、と考えだしました。


 意識を「志向性」として捉えるならば、意識とは「何ものかについての意識」であると考えられます。


 意識は何かに向いた矢印のようなものです。自分の興味の向いた矢印です。


 自分からはたくさんの意識が外へと向きます。その矢印の方向性が一人ひとりの「個性」ではないか、と考えました。


 矢印の行く先、自分自身の意識が何処へ向けられるのか、それらを統合して捉えなおした時、自分自身を規定することができるのではないか、と考えました。


 ちなみに最終的には自分自身に意識の矢印が向いてます。


 攻殻機動隊(STANDALONECOMPLEX)で好奇心こそが個を決定づける、と考えていましたが、それに近いかもしれません。


 と、なると、意識の始まりは、あらゆる意識の志向性を脳が統合して、自己というものを規定した時から、ということになるかもしれません。


 ここまで書いて、この意識を意識し直す感覚はちょっとデカルトっぽくてあんまり好きじゃないかもしれません。


 意識が世界の外にある感覚ですね。

 客観的で、凄く分析的な視点です。

 仏教的ではない。

 凄くキリスト教的な……もっと言うとプラトン的な感覚。


 何故だろう?


 あ、志向性が一方通行的に考えているからだ。


 でも、意識は一方通行ではなく、フィードバックされてこちらも影響を受ける。

 相互に影響を与え合うはずです。


 志向と反応。

 フィードフォワードとフィードバックを合わせて統合する。


 ここまでいくと意識と無意識を統合しているような感じですかね?


 意識と無意識の統合こそ、脳の役割なのかもしれません。

 

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意識の始り 千石一郎 @sengoku-ace

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