第13話
私の目眩は正直に言って大したことはなかった。だが私はそれを利用することを考えた。
「私ちょっと家で休んでようと思うから、お母さんたちは二人で観光しててくれる?」
うまいことを言って、私は父母のガイド業から逃げようとした訳である。狡猾だった。「病人ぶる」女は私の大嫌いなタイプの女なのであるが、この際は致し方ない。
父母はそうすることにして、夕方の船で千住に帰ると言う。私は肩から重荷を下ろした気分で一人になり、町をぶらついた。
まだ午前中の十一時前という時間帯だった。家ではなく研究所に帰るつもりだったのだが、少し中途半端な時間である。お昼は研究所に行って夫と二人で取るか、あるいは町で昼食してから研究所に出勤するか。その昼食の時間にも少し早い。
目眩を起こしたぐらいだから全く気分がいいという訳でもない。私は鮫洲海岸通りの道端のベンチに腰掛けて、ぼんやりと海を眺めて体を休めた。四月の海を舞うウミネコだかユリカモメだかの白い鳥を眺めていると気分が晴れて来た。
こんな風にベンチで一人座っていると、またあのヤクザ男を思い出してしまう。私をガイドと間違えた男。いやいや、こんないい女が一人でいたら、またあの手の男に声を掛けられてしまうかも知れない。その日の私は黒の上下のスーツを着ていて、ちょっと遠目にはガイドに見えなくもないだろう。スーツというのは体の線がよく出るので尚更だ。私は自分の胸や腰を服の上から軽く撫でて、思わず周囲をキョロキョロして、男の視線を気にする。そういう自分の自惚れ振りに苦笑する。
さて私はあのヤクザ男にまた会いたいのやら会いたくないのやら。
私の右手に壮麗な建物がある。ヨーロッパの教会を思わせる石造りの立派な建築であるが教会ではない。
通称ピエタ。孤児院である。
今もその教会風のエントランスから数人の女の子が出て来た。赤いベレー帽に赤いスカート、そして白いスモック。何とも可憐なこれがピエタの制服である。彼女たちは品川の天使と呼ばれている。
この女子孤児院は大変規模の大きな施設で、多い時には千人もの女の子が在籍しているとか。男子孤児院はないのかい? と問われると、これがないのである。男の子は放っておいて構わないが、女の子は大事に大事に守らなければならない。フェミニズム的ではなく生物学的に正しい判断である。正しい判断をしているから品川は繁栄している。
このピエタの女の子たちは幼少時から高い音楽教育を受けている。そのオーケストラと合唱隊は素晴らしい完成度を誇り、毎週土曜に開かれる彼女らのコンサートは常に観光客で満杯だ。私も何度か見に行ったことがあるが、音楽の見事さと会場の熱気にいつも驚かされたものだ。
この品川の経済を支えているのは観光業である。その中心と言える性的娯楽を受け持っているのがあのガイドたちだ。ガイドを目当てに東京中から男たちが集まり、品川にお金を落として行く。
ガイドはその職務上どうしても妊娠する機会が多くなる。彼女らも避妊はするだろうが、また行為の中で本気になってしまうこともあるだろう。
そうして子供が出来る。
ガイドは二千人もいる。自分で子供を育てたい者もいれば、そうでない者もいるだろう。
その受け皿はどうしても必要だ。
それがすなわちピエタである。
ガイドとピエタはこの品川を支える一つのシステムと言える。誰が考えたのかは知らないが良く出来たシステムだと思う。この品川にお金と人間を増やしてくれるシステムなのだから。
赤いベレー帽、赤いスカート、白いスモック姿の三人のピエタの少女がこの海岸通りをこちらに歩いて来る。歳は十二三歳ぐらいだろうか。若い娘はそれだけで可憐なものだが、そこに「孤児」というタグが付くとその可憐さも三倍増となる。東京中の男たちがピエタの女の子に熱狂しているのも分からないでもない。私のようなおばさんが見ても彼女らの可愛らしさに目を細めてしまうぐらいだ。
「こんにちは」
ただ目が合っただけで、三人のピエタの少女は私のような見ず知らずのおばさんに挨拶してくれた。とても躾が良いのだ。
本当に可愛らしい。
あんな娘がいたらその家庭はそれだけで幸福であろうな……と私も挨拶を返しながら思う。
私の前を行き過ぎた三人の少女の背中をぼんやりと見送っていると、不意にその中の海側を歩いていた一人がうずくまった。
おや、気分でも悪くなったのかな? おばさんも気分が悪くなったのでここでちょっと休んでいる所、などと声でも掛けようかなどと思っていると……
それどころの話ではなかった。
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