第12話
統計によると殺人事件の五割は親族同士の間で起こるらしい。私のようにダーウィニズムの研究をしている者からすると、親族を殺してしまうことによる「遺伝子の長期的な生存への期待」にかかるダメージも大きいと思われるのだが、それでも人は親しい者を憎まずにはいられない。統計上の五割という数値は重い。
千住の町から父母が訪ねて来た。私の実の両親である。千住と品川の間は船便で結ばれているので、新生物のウヨウヨいる危険極まりない廃虚の中を通って来る必要がない。この水運こそが現在の品川の発展の原動力となったものだ。
「あの島はまた大きくなったような気がするねえ」
モンサンミッシェルを思わせる壮麗な品川の本島を見やって母が言った。
「実際しょっちゅう拡張工事してるからね」
私はぶっきらぼうに答えた。いささか愛想のないガイドである。
平日に訪ねて来た父母の為に、私は研究所の仕事を半日休んで観光案内である。夫がそう取り計らってくれた訳だ。夫は何かと気の利く優秀な人である。そういう夫の気配りの良さに、妻はなぜか嘆息することもある。
私は両親が、特に母が余り好きではなかった。
私と母は似た者同士なのである。何と言うかいささか優越本能肥大気味のプライドの高いタイプ。人の欠点・弱点・ミスを見つけて、それを笑うのが生甲斐という嫌な嫌な女なのだ。
「あの島はねえお母さん、上空から見るとハート型をしてんの。初代品川市長の願いでね、品川は東京の心臓にならねばならないって。東京の町々――千住や玉川や板橋やアコアグタムを結ぶ物流の拠点となって、あちこちに人や物を送り出して、生き生きと鼓動して、もって復興の礎とならなければならないってね」
「その話なら前にも聞いたよ」
これである。早速私の揚げ足取りである。母は万事がこんな調子で、あれはダメだこれはダメだと人や物の悪い所しか見ようとしない。この品川に来てからも、やれ船は危ないだの汚いだのと大袈裟に「被害者ぶって」ばかりだ。被害者と加害者だと被害者の方が自動的に優越者になれるので、母みたいな女は頻繁に被害者ぶりたがるのだ。父は至って大人しい人であり、そんな母の毒々しさにもウンウンうなずいているだけだ。
私の臨時のガイド業は気の重い物だった。人の欠点・弱点・ミスが大好物の母はそのアンテナを私にも向ける。子供はまだかとか、早く孫の顔が見たいとか、私の嫌がる話題をしばしば振って来る。親族間で殺人事件が多いのももっともだな……と私は唇を噛む。まあ母も動物であるから「遺伝子の長期的な生存への期待」が本能として働いているのであろうが。
「そんなに子供が欲しかったら自分で生んだらいいじゃない、お母さん。頑張りなさいよ」
六十八歳の母に向かって私は出来るだけ事務的に言い返す。事務的にというのは、あんたの皮肉には動じていませんよという顔をしなければならないからである。母が幾らか顔をしかめて、私はヤッタと悦に入る。
品川には何でもある。学校も病院も警察もある。多くの飲食店、ホテル、海水浴場、劇場、大きな書店、孤児院、そしてガイドたち。
そうガイド。端正な制服姿の品川の花。
母はガイドを見つけると例によって「売春婦ども」と毒づく。私はと言えば、前ほどガイドに対する軽蔑感が薄れていた。自分自身の変化を私は多少の誇りに思わなければならないと自覚している。かと言って、こんな所でひょっこりあのヤクザ男と出会わねばいいが……とビクビクしている私がいるのもまた事実なのだが。
私は父母を市場に案内した。「豊かな品川」を象徴する場所である。この品川の海の水産物や東京中の農産物が集積され、それは壮観なものである。
青果店の店先には筍が並んでいた。そう、今は四月であり筍の季節なのである。一人の若い男の店員がその筍を半分に割って皮剥きをしていた。これから茹でて売るのであろう。十も二十も切り並べられた筍の断面は美しいクリーム色を見せて、辺りには新鮮な筍の独特な香りが漂っていた。
「いい匂いねえ」
六十八歳の母が喜色満面な顔をしてその筍の一つを手に取った。実際新鮮な筍というのはいい香りがする。古くなった筍の生臭い臭いとは全く別物である。若々しくフレッシュで、どこか精液みたいな香りなのだ。この香りというのは、筍を切って十分もすると吹き飛んでしまうので、知らない人も多いかも知れないが。
「よしなさいよ、お母さん」
私は母を注意した。店の商品を素手で触るのはいかにも老人的な無神経さに見えたし、それに何よりも精液的な匂いを喜ぶ母の姿に嫌悪感を覚えたからである。
「ああ、いい匂い」
母は私の言葉などまるで耳に入っていないかのようで、手にした筍の切り身に鼻を擦り付ける仕草をした。
その時、私の腹に沸騰したのは母に対する殺意だった。
自分の母親の浅ましい姿を見せつけられるのは悲痛なものである。こんないい歳をした老婆が精液の匂いに我を忘れるとは……。
「ごめんなさいね、これ買いますから」
私は若い男の店員に事務的に言った。若い男は笑顔だった。
「いいよ奥さん、これから茹でるんだし。今から茹でると出来上がるのは三時頃かな。茹で上がってから暫くその茹で汁に浸して置かないと筍のえぐみとか抜けないんだ。だから少し時間もかかっちゃう訳よ」
若い男の店員の商業的スマイルは嫌味のないものだった。私の腹の沸騰はふっと収まっていた。
「家庭でさ、それ一個だけ茹でたって上手くえぐみとか抜けないから。だから出来上がった頃にまた買いに来てよ奥さん。奥さんみたいな美人ならおまけしちゃうから」
「あら、お上手。じゃあそうしちゃおうかしら」
愛想のいい若い男の笑顔に私は体温の上昇を覚えていた。
そうしてふと気づくと、私は全く無意識的に筍の一つを手にしていた。本当に全く無意識だった。
浅ましい。母と同じではないか。
そう思っても、私は新鮮な筍の切り身に鼻を近づけるのを止めることが出来なかった。あの香りを鼻腔から吸い込んで吸い込んで、背骨の方に甘い痺れを感じていた。その恥ずかしさを隠す為に、私は若い男に笑いかけた。そうしてこう言った。
「いい匂いね」
「うん本当に今だけの物だからね。まさに旬だよね」
どこか恋のときめきみたいな感覚で、私は軽い目眩を覚えた。それが本物の目眩であり、私の頭上で世界は回り、ヨロヨロとふらついて、私はバランスを失った。気がつくと父と若い男の二人が私を抱き抱えていた。
「大丈夫ですか、奥さん?」
店員が心配そうに私の顔を覗き込んだ。私は目眩の原因を何となく分かっていたので、少し無理をして店員に微笑した。
「何でもないの。ごめんなさい。この頃ちょっと仕事が忙しくて……貧血気味」
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