5、恋バナをすると無料のタクシー

 今日はどこを走っても、客を拾えない。

 天気が悪いというわけでもない。曇天ではあるが、雨が降っているわけでもない。

 それなのに誰にも会わないというのは、なんとなく虚しい感じがする。

 ただ運が悪いのか、それとも、こういう運命の巡り合わせなのか。

 考えたところでキリがない。


 さて、私は今まで、いろいろな人と話してきた。

 好きという気持ちがわからない人。

 好きだという感情をぶつけても届かなかった人。

 好きだという感情に気付かない人。

 人の善意の感情を裏切る人。

 人に対する接しかたを間違えている人。


 ……なんというか、笑ってしまう。

 これらは全て、鏡だ。

 これらは全て、私自身だ。

 私がなぜ、恋ができなくなったのか。

 私がなぜ、恋を恐れるようになったのか。

 客はいない。だからこそ。この際だ。

 今日はその話をしよう。

 私が、まだ子供だったとき。

 恋に憧れていたとき。

 恋を夢見ていたとき。

 人を好きになった。人に好きと言ってもらえた。

 その嬉しさも、その喜びも、今でも鮮明に覚えている。


 そして。

 それから私をさいなんでいった、物語も。

 私の心の中にざっくりと深く突き刺さった傷も。


 話そう。

 かつての物語を。

 情けない物語を。

 恋に溺れ、恋に飲まれ、そして、感情すら制御できなかった若き日を。

 笑って欲しい。馬鹿にして欲しい。

 かつての私を。

 そうすれば、きっと、私は救われる。

 私は、かつての自分を恥じ、そして、前に進める。

 そう信じる。

 そう信じて、あなたに、送る。

 かつてあった、小さな物語を。




 図書館で出会った女の子に恋をした。

 そんな物語の始まりは、ありきたり過ぎてつまらない。

 だが、私の物語は、本当にそんなチープなきっかけから始まった。

 私が高校に進学し、すぐさま図書委員になった。各クラスから最低一名は必要だった図書委員には立候補でなったわけでなく、運の悪いクジ引きだ。

 だが、図書委員になってよかったことがひとつある。

 それは、彼女に会えたこと。彼女と知り合えたこと。

 早希(さき)。それが、彼女の名前だった。

 もちろん最初は名前で呼んだりしていない。苗字とさんづけで呼んでいた。

 彼女は少し変わった子で、図書委員も自らの立候補だったそうだ。本が好きで、本の知識も豊富な彼女は、クジで選ばれたようなエセ図書委員が帰ったあとも、図書館の整理をしたり、汚れた本を綺麗にしたり、そんな、普通はやらないようなことをずっとしていた。

 そんな、誰よりも遅くまで残っていた彼女のことを知った私は、彼女の手伝いをしていた。

 重い本を運んだり、本棚に順番通りに戻すのを手伝ったり。

 いつの間にか、私の視線は、彼女を追っていた。

 彼女を、好きになっていた。

「にゃはは、マサキもついにそういう話をするようになったかー」

 そう言って笑っていたのは幼馴染の心菜(ここな)だ。家もそこそこ近く、幼稚園から親しかった私たちは、よくお互いの部屋でこんな風に話をしていた。

 あいにく成績が私よりも遥かによかった彼女は、私が進んだ学校よりも上の進学校に進んでいた。

 それでも、心菜はよく私の部屋に遊びに来て、いろいろと話をするのが恒例となっていた。

 さらに私の両親は多忙で帰りも遅くなることが多く、心菜が夕飯を作ってくれたりすることも多かった。

 正直、姉か妹のような関係の彼女に、私は早希のことについてよく相談をしていた。

 そんな恋愛相談にも、彼女は笑って乗ってくれた。

「ま、でもマサキは奥手そうだからなー。うっし、あたしがしっかりフォローしてやる」

 そういう彼女の言葉がなにより頼もしく、恋愛も、どういう風に女性と接するにはどうすればいいのか知らなかったわからなかった私にとって、正直、彼女だけが頼りだった。

 親しい女性もそれほど多くなかった私にとって、そういう話ができる女性は幼馴染の彼女だけだったから。

「今日も手伝ってくれてありがと」

 とにかく彼女と一緒にいる時間を多くしろ、と言われた私は、早速それを実行した。

 彼女が帰るまで一緒に図書館の仕事を手伝い、帰り道が一緒だった私たちは、彼女の家の近くまで、一緒に歩いた。

「お安い御用。どーせ家に帰ってもゲームくらいしかやることないから」

 私のそんな笑えない冗談にも、彼女は口元を抑えて笑ってくれる。

 彼女の動作のひとつひとつに心臓が高鳴った。

 彼女の仕草のひとつひとつに視線が奪われた。

 私は彼女を本気で好きになっていた。

「うわー、こりゃ重症だわ」

 心菜もそう言う。確かに自分でもそう思っていた。

 寝ても覚めても彼女のことばかり考えている。

 これが、恋。

 高校にあがったばかりの幼い私は、その感情をそう理解した。

 それは間違っていなかった。

 そのときは。



 ある日の放課後、私はいつも通り、図書館に来ていた。

 一刻も早く早希に会いたい気持ちがある。いつも放課後は、胸が高鳴り、ワクワクしている自分がいた。

 いつも彼女が先に図書館に来ていたはずだが、その日、彼女はまだ来ていなかった。私はすぐ来るだろうと考え待っていたが、彼女は姿を現さない。

 少し心配になり始めた頃、私はふと、窓から外を見た。


 彼女が、いた。

 図書館からちょうど見える位置だが、校舎から見れば裏側だ。

 男と2人で、そこにいた。


 さーっと、血が引くような感覚。そして、思ったよりも冷静に、それはそうなんだろうなと考えてしまう。

 彼女はとても美人だった。背も高く、おまけにスタイルもいい。

 そんな彼女に特別な男性がいるということは、よく考えると当然のような気がした。

 歯をくいしばる。

 今まで彼女といた時間はなんだったのか、今まで彼女を思っていた時間はなんだったのか。

 いろいろなことが頭をよぎった。

 大きく、息を吐く。そして心の中で、心菜に対してごめん、と思った。

 それでも彼女が男と一緒にいるところから目を離すことができず、じっと、ふたりでいる光景を見ていた。

 彼女はあまり口を開いていない。一方的に、男がしゃべっているようだ。

 内気で人見知りな彼女なら仕方ないかな、と、そんなことを思った。ほんの少しだけ、口元が緩む。

 そのとき、彼女の目が、こちらに向いた。

 目が、合う。

 ほんの少しだけ、心臓が跳ねる。

 覗き見していてごめんとか、目の前にいたらそんなことを口にするだろう言葉が脳裏に浮かんでは消えてゆく。

 目を離すことができず、じっと、彼女を見ていた。

 そんな彼女の口が、わずかに動いた。

 それは、目の前に立つ男に向けられた言葉じゃない。こちらに対して、向けられた言葉だ。

 その言葉の意味を理解したとき、私は駆け出していた。

 たすけて。

 彼女の口は、確かにそんなふうに動いていた。


「お~い」

 私は男に気づいてないふりをして、早希に声をかける。

 男のにらみつけるような視線を感じた。

「高瀬君……」

 彼女が名を呼ぶ。その表情が安堵したものに変わったように思えた。

「センセが呼んでる。ちょっと手伝って欲しいんだって」

 少し早口でそれだけを言い、さも、今気づいたかのように男へと視線を向け、

「無理?」

 なんてことを言う。

「あ、ううん。大丈夫」

 早希はそう言って何度も頷いた。

「すぐ行くから」

 続けてそう言い、男に向かってぺこりと頭を下げてから、私のほうへと歩いてくる。私が軽く男を睨むと、向こうも睨み返してきた。やがて、小さな舌打ちが聞こえ、男が背を向ける。

 ……嫌な奴だな、と思った。

「誰先生が呼んでたの?」

 背中に声がかかり、振り返る。

「ああ……」

 男が立ち去ったのを確認してから、口を開いた。

「ごめん、嘘ついた」

 正直にそう答える。

 彼女が丸い瞳を向けた。

「困ってるみたいだったから」

 そう言うと、彼女は大きい瞳を丸くしてしばらくこちらを見ていた。

 やがて、

「わっ!」

 思わず声が出て手を伸ばす。が、伸ばした手は空振りに終わった。

 彼女が、突然しゃがみこんだのだ。

「……どうしたんだよ」

 両膝を地面に乗せたら汚れるだろうに、そんなことも気にせず彼女はペタリと地面に座り、俯いて地面を見つめる。その表情は見えない。

 わずかな沈黙の後に絞り出した言葉に、彼女は大きく息を吐いて、

「付き合って、くれって」

 そう口にした。

 その態度だけで彼女の答えはわかる。それでも、その言葉を聞いたときは心臓が跳ねた。

「会ったこともないし、話したこともないんだよ? 図書館で少し会ったらしいけど……覚えてないし」

 彼女は何度も大きく息を吐くようにして言葉を紡ぐ。

「しかも先輩だし……びっくりしたよぅ」

 最後に大きく息を吐いて、彼女は言った。

「そ、そうだったんだ」

 私の口から、言葉は出てこない。かろうじてそれだけを言い、彼女を見つめる。

「好きな人とか、いないのか?」

 このタイミングでなにを聞いているんだ。自分でもそんなことを考える。

「気になる人は、いるよ」

 彼女の答えは、ほぼ即答だった。

 心臓が、また跳ねる。頭の中が真っ白になる。

「いるんだよ」

 彼女は言葉を続けた。俯いていた彼女が、顔をあげる。

 そして、手を伸ばした。

 引っ張ってほしい、と、そういうことだと思った。手を伸ばし、彼女の手を握る。

 その手のひらは温かかった。むしろ、熱いくらいに感じた。

 ぎゅっと、強く、手が握られる。

 熱いくらいの温度が伝わってくる。

 なぜそんなにも熱いのか、なぜそんなに強く、手を握るのか。

 そのときは気づかなかった。わからなかった。

 ただ初めて彼女の手を握った感覚に、その温度に、そのすべすべの質感に、すべての意識が向かって行っていた。

 彼女がじっとこちらを見つめていたのも、彼女も似たような感覚を持っていたからだと思った。

 なにも、考えられなかった。

「しょ、っと」

 彼女がわずかに力を入れて、手を引く。転ばないように力を入れると、彼女は立ち上がった。

「行こ」

 そう言って、背を向ける。なにを言っているのか、最初はわからなかったが、

「今日、返ってきた本いっぱいあるから」

 彼女は口にし、歩き出した。

 ああ、図書館のことか、と理解する。

 先ほど感じた熱さも視線も、まるで何事もなかったかのように、彼女は早足で歩く。

 急ぎ、彼女を追った。

 そのときに彼女の顔も耳も真っ赤になっていたということには、気づかなかった。気づけなかった。


 図書館に戻る。

 彼女が言っていたので少し覚悟したが、戻ってきた本はわずかだった。図書委員としての業務も簡単に終わり、それからはいつも通りの、棚の整理やらなにやら。

 いつもと比べて会話の少ない中、最後まで残って仕事をし、そして、

「そろそろ帰ろっか」

 彼女の一言で、家路につくことになった。

 いつも通り、並んで歩く。でも、その日に限って言葉が出てこない。彼女の小さな他愛のない話題も曖昧に相槌を打つだけで、こちらから話題を提供するようなことはなかった。

 それでもひとつだけ感じたことがある。

 彼女との、距離だ。

 いつもなら一歩か二歩、ほんのわずかに隙間のある彼女との距離が。

 ほんの少しだけ……近い。

「………………」

 横を見る。

 もちろん、彼女との距離も近い。

 わずかでも右を向いてしまうとキスをしてしまうのではないか、と、そんなことまで考えてしまっていた。

 視線は泳ごうとも首の向きは変えず、ただまっすぐ前を向いて歩く。

「どしたの?」

 そんな行動が気になったのか、彼女はそのように聞いてきた。

「い、いや、別に!」

 なにがとかそんなことはなにも聞かれてなかったのに、そのように即答した。

「ふうん」

 彼女も答える。

 首を動かさず、視線だけを横へ。

 彼女も同じように、まっすぐ前を向いていた。

 ほんの少しだけうつむき、ほんの少しだけ、沈んだ表情で。

「っ、危ない!」

 後ろから車が来ているのに気づき、とっさに彼女の手を取った。少し強く、引っ張る。車は決して飛ばしているというわけではなかったが、結構な速さで通り過ぎたように思った。

 文句のひとつでもつぶやけば、その状況をごまかすこともできた。

 でも、勢いとはいえまた握ってしまった手のひらと、そして、思った以上に近い場所にあった彼女の表情に、私は固まってしまっていた。

「ご、ごめん!」

 とっさに叫び、距離を取る。

 それでも。

 握りしめた手は。

 離れなかった。


「………………」

「………………」

 ふたり無言で、繋がった手を見つめる。

 互いに離れない。離れようとしない。

 手を見つめていた瞳はやがて、吸い込まれるように互いの瞳を見つめ。

 その思ったよりも近い距離に、お互いの目は閉じられ。

 そして。


 やわらかな感覚は、なんとも形容しがたいものだった。そして、甘酸っぱいとかレモンの味とか聞いていたそれも、なんとも言葉にできない。

 それよりも唇越しに伝わる温度や高鳴る心臓や、なによりもその瞬間、ほんのわずかな時間が本当に長い時間に感じられたそのひとときが、私の脳を麻痺させていた。

 なにも、考えられなかった。

 唇が離れ、距離が開き、そして、目が開けられる。

 ついさっきまでもっと近い距離にいたはずなのに、まだまだ近いその距離で見つめ合うのが、気恥ずかしい。

「……恥ずかしいね」

 同じことを考えていたのか、彼女もそう口にした。

 ほんの少し、距離が離れる。それでも繋がったままの手が少しだけ引っ張られ、

「帰ろ」

 彼女はそう、口にした。

 手を繋いだまま、歩く。

 ふたりの帰り道は、いつも本当に他愛のない話題を話していた。

 沈黙が嫌で、面白くないやつだと思われるのが嫌で、いつも場を盛り上げようとしていた。

 でもそのときだけは言葉が出てこなくて。

 それでも、なんの不安も、心配もなかった。

 繋がった手から、すべての思いは伝わっている。

 決してそんなことはないはずだ。ないはずなのに。

 そのときの私は、そう思っていた。

「ばいばい」

 そう言って彼女の手が離れ、先ほどまで握っていた手を小さく振る。

 まだ彼女の温かさが残る手を振り返した。

 変な顔をしていたのか、それとも、同じことを考えていたのか。

 最後に彼女は小さく笑って、歩いていった。

 道の影に彼女が消えるまで、その場を動かず。

 ただ、彼女の背を見ていた。

 そして、手を繋いで歩いたこと、キスをしたこと、それらが本当に現実だったのかを再確認するかのように何度も彼女と繋がっていた手を見つめ、唇に触れる。

 紛れもない現実だということを再確認すると、まるで体がふわりと浮かび上がってゆくような感覚に囚われた。

 体が弾む。足が跳ねる。頭は燃え上がるように熱くて、まるでふらふらと世界が回っているかのように感じる。

 昨日まではなにも感じなかった周りの風景ですらも、どこか違うようにも思える。

 そんなくらい、そのときの私は。

 舞い上がっていた。

 家に帰ってベッドに横になり、枕を抱く。

 思い出すと体が突然動きだし、ごろごろしたりバタバタしたり、なんだか変な声をあげたり。

 そんなことをしていた。

「気持ち悪いやつだな」

 だから、心菜が部屋に訪れてきたのにはまったくもって気がつかなかった。私は驚きの声をあげ、ベッドから勢いよく起き上がった。

「なんだ、なんかいいことでもあったのか」

 ニヤニヤと笑みを浮かべながら心菜はそのように聞いてくる。

 そのとき、彼女はどんな答えが来ると思ってたんだろう。そのとき、彼女はどんな答えを期待したんだろう。

 そのときはそんなことを考えるような余裕はなかった。そして、彼女に嘘をつく必要性がなかった。

 だから、そのときに正直に答えてしまったのだ。

「キスした」

 心菜の目が丸くなった。

「は? は!? はあーっ!?」

 心菜は大声をあげる。

「まさか、無理矢理か!?」

「バカ、そんなわけあるか!」

 彼女の予想外の言葉に私は大声をあげる。

「どういうことだよ!」

 心菜が食いついてくる。俺は小さく息をはいてから、答えた。

「どう……いうことなんだろう」

 正直にそう言う。心菜も目を細めた。

「でも、たぶん、俺たち、」

 それでもなんと次に口にしようとした言葉には確証があった。自信があった。

 これからの日常がどうなるか想像したら、ニヤニヤがとまらなかった。

「付き合うんだと思う」

 その言葉は、そんな確証のあることで、私自身が以前から描いていた強い願望でもあって。

 ワクワクとドキドキと、私は自らの感情を抑えることができなくて。

 心菜に向けて、笑みを浮かべながら、そんなことを口にしたのだ。

「へえ」

 心菜は表情の読めない顔を浮かべ、

「よかったじゃん」

 そう、私に向けて言葉を発した。

 舞い上がっていた私は、その言葉は心からの言葉だと思った。

 思っていた。



 次の日の朝、偶然にも彼女と遭遇したとき、俺はなんとなく気まずさを感じた。

 キスをしたのは事実だ。でも、その事実がもし夢だったらとか、単なる気まぐれだったらとか、頭の中にネガティブな考えがいくつも浮かんでは消える。

 彼女とあったときにどんな顔をするべきなのか、なにを話せばいいのか。

 必死に考えた、私の一言は、

「ぃよ、よぅ」

 カミカミだった。

 が、彼女は笑うこともせず、「おはよう」と小さく口にし、ゆっくりと私の横に並ぶ。

 一緒に歩いて学校に向かう道、私たちは無言だった。

 それでも、

「………………」

「………………」

 彼女の指が、ゆっくりと俺の指に触れた。

 それだけで、心臓が跳ねる。

 静かに彼女のほうへと視線を向けると、

「………………」

 控えめにこちらを見上げる、視線があった。

 彼女に対する思いが、感情が、爆発しそうになる。顔が熱い。

 そんな真っ赤な顔を見たせいなのか、それとも他の理由なのか、彼女が少しだけ、笑った。

 そんな、控えめで、大胆で、そして、ちょっとだけ意地悪な彼女のことを、私は。

 本気で、好きになっていた。



 それからの私たちは、ごくごく自然に一緒にいるようになっていた。図書委員の中では最後まで残っていて、帰りはいつも一緒に帰る。映画の話になると「見に行こう」という話になって、自然と休みの日の予定も決まって行く。

 好きだー、とか、付き合おうー、とか、そういう言葉がなくても、私たちは自然とそういう関係になっていた。

 そして、学校からの帰り、別れ道では、

「ねえ」

 声をかけられて油断したところに、彼女が近づいてくる。

 楡の木の影で、いつも私たちはわずかに触れるだけの拙いキスをした。

 それが、お別れの合図だった。

「また明日ね。ばいばい」

 彼女の小さく振る手を引き寄せ、もっと、もっとキスしたい。抱き寄せて、彼女の細い体を抱き締めたい。

 でもそのときの私は手を振り返すだけで、なんの行動も起こせずにいた。無理に引っ張って嫌われたらどうしようとか、そんなことばかりを考えていた。

 臆病だった。

 彼女が見えなくなってから、そんな事実を理解して息を吐く。

 好きだという気持ちですら、伝えられていない。

 たった一言なのに、それが臆病すぎて口にできない。

 そんな、奇妙なジレンマに陥っていた。

「アホだなお前は」

 そんな私にそう言ったのは心菜だ。

「そんなところで臆病になってどうするんだ」

 彼女は言う。確かにその通りなのだが、素直に頷くことができず私は「うーん」と声をあげるだけだった。

「どっからどう見ても相思相愛じゃないか。素直になれないとそれはそれで危ないぞ」

 彼女の言う『危ない』がどういう意味合いかはわからなかったが、私は頷いた。

「ときには大胆に、無理矢理やっちまえばいいだろ」

 他人事だと思っているのか、心菜は言う。不機嫌そうにしているのは私の煮えきらない行動のせいだと思った。

「さすがにそれはダメだろう」

 私は答える。

「まあ、確かにな…………」

 心菜も息を吐いてそう言った。

「でもな、もうちょっとなんかしてみろよ」

 続けてそんなことを言う。

「なんかって、なんだよ」

 私は聞くが、

「知るか」

 心菜はそう答えた。

「とにかく、もっとあからさまなカップルみたいになれ。でないと、」

 言葉は続きそうだったが、

「ま、お前には無理かもしれないけどなー」

 続かなかった。

 彼女が言いかけたことが気になったが、彼女の軽口への反感が先に来たため、私はなにも聞かなかった。

 カップル。

 言われてみれば私たちはそうなのだろう。

 好きという言葉も、付き合おうという言葉もなしで、私たちはいつも一緒にいた。

 でも確かに、それはなんというか仲のいい友達の延長のようなものだ。

 休みの日に出かけたり一緒にいたりは、そもそも心菜と頻繁に行っていた。

 それが早希に変わっただけのこと。

 でも、それだけじゃない。

「ねえ」

 帰り際のキスと、ふたりっきりになると繋がれる手のひらと。

 ふたりで勉強をしているときは、ちょっとだけ肩が触れたり、頭を寄せてきたり。

 子供っぽくて、進展もなくて。それでも俺たちは、付き合っていた。

 恋人同士、だったんだ。

 


 そんな話を、こと細かく心菜にいつも話していたことは、当時の私はただ単に舞い上がっていただけなんだと思う。

 一緒にいると楽しかった。繋いだ手が温かかった。キスすると心臓が跳ねた。

 そんな話が、やがて心菜へと矛先を向けてしまった。

「お前も彼氏作れよ、な」

 そんなふうに軽く、彼女にいってしまった。

「好きな人くらいいるだろ? こいつカッコいいなと思うやつとか、憧れるな、とか、そういうの」

「それは……」

 心菜の表情が曇った。

「お前に好きな人がいるなら、俺は全力で応援するぞ」

 が、そんなこと気にしなかった。言葉を、続ける。

「俺たちのこと、ずっと応援してくれてたからな」

 その一言で、言葉を終えた。

 わずかな沈黙。少しだけ、重い空気。

「誰が」

 その沈黙を破ったのは、心菜の言葉だ。

「誰が応援なんてしてた」

 その言葉の意味が、わからなかった。

「誰も応援なんてしてない! あたしは、ただ!」

 強い口調で、彼女は口を開く。

 強い感情のこもった表情が、強い意思を持った瞳が、向けられる。

「ただ……」

 言葉が途切れた。

「ど、どうしたんだよ」

 私は言葉の意味や理由を気にしなかった。それよりも、そのとき珍しく、心菜が大きな声をあげたことに驚いた。

「いきなり大声あげて」

 そのとき、ちょっとだけ彼女に近づくという選択をとった私の行動は、間違っていただろうか。

 いつも彼女は、近くにいた。早希が現れるまでは、ずっと近くにいたんだ。

 そのくらいの距離感は当然だと思った。

「っ!」

 顔に衝撃が走った。

 心菜の拳が、握りしめた拳が、私の頬を射抜いたのだ。

「な、なにすんだよ!」

 私が声をあげ、彼女のほうを向く。

 すると、次にはまた違う感覚が、私を襲った。

 両手で顔を掴まれ、そして、柔らかく、甘い感覚が唇に届く。

 早希のものとは違う。

 柔らかさも、味も、そして、心臓の跳ねかたも違っていた。

 どちらかというと、驚き。

 いきなり心菜は私の両頬に手をやって、唇を合わせてきた。

 突然のことで、目を閉じる暇もなかった。

 ずっと、近い位置にいると思っていた心菜が、思っていた以上に近い場所にいる。

 目を閉じ、まるで私の視界すべてを奪っているかのような、そのくらいの近くにいる。

 早希とするときよりも、近い。

 歯と歯がほとんど当たっているような距離で。

 奪われるようなキスを、された。

「な、なにを……」

 距離をとることも忘れ、そのまま口を開く。

 見たことのないような心菜の表情がそこにはあった。うるんだ瞳で、泣きそうな顔で、こちらを見ていた。

「あたしは、ずっと好きだった」

 しばらくの沈黙ののち、彼女が口を開く。

「マサキのことが好きだった!」

 強い口調が、まっすぐに心に届く。

「誰が応援なんてするか。あたしは……」

そこではわずかに目をそらして、言葉を紡ぐ。

「上手く、いかなければいいと思ってた」

 うつむいた状態からわずかにこっちを覗き込むように目を動かし、彼女は言葉を続ける。

「上手くいかなければ次は……あたしの番だ、って。そう、思ってた」

 心菜は顔をあげた。

「こんなに上手く行くなんて思うか! あたしはずっとお前の近くにいたんだ! 誰よりも近くでお前のことを見てたんだよ! なのに、」

 言葉が途切れる。心菜はまた、うつむいた。

「今は……あたしよりも近い場所に、別の誰かがいる」

 声も沈む。聞き取れないくらいに、その声は小さくなってゆく。

「そんなの嫌だ」

 最後に彼女は両手で顔を覆って、そう口にした。

 どんな言葉をかければいいのかもわからなかった。どんな表情をすればいいのかもわからなかった。

 沈黙。

 そのときの私は、そんな選択をしてしまった。

「なあ」

 かなりの沈黙が流れたのち、心菜は顔をあげた。

 少し赤くなった目と頬が、いつも一緒にいる心菜とはまるで別人のような感覚を受ける。

「お前、これからも、早希と一緒にいるんだろ」

 そんな彼女の口から、ゆっくりとした口調で言葉が漏れる。

「練習、しようぜ」

 そんなゆったりとした口調でも、その言葉の真意を図ることはできなかった。

「れん、しゅう?」

 ただ、言葉をそのまま返す。

 そのときの私は、きっと、考えることですら放棄していたんだと思う。

「そうだ。練習だ」

 心菜は笑った。

 その顔は、いつもの彼女の顔だった。

 ちょっとだけ意地悪で自信家で、 どうしようもない世話好きで。

 いじっぱりで大胆で頭がよくて。

 いつもそばにいて。いつも、参考になる助言をくれて。

 そんな彼女の提案を、断ることができなかった。

「練習、しよう」

 近づいてくる彼女の顔に身動きもとれず、先ほどの歯の当たりそうな乱暴なキスとは違う、まず触れるだけのキス。

 少しのあいだ触れ合ってからおもむろに彼女は立ち上がり、部屋の電気を落とす。

 そして聞こえてくる、わずかな音。彼女が服を脱いでいるのはなんとなくわかった。

 ああ、練習ってそういう。そう思った。

 もちろんそれを拒否することもできた。

 でも、体は動かなくて。

 理性の上ではこれはいけないことだということがわかるが、本能がそうは思っていない。

触れ合ってたい。もっと、もっと触れ合いたい。

 そして、その場でなにもしなかったらそうなるということはわかっていた。

 彼女の手が伸びてきて、シャツを握る。

 子供の頃、着替えを手伝ってもらった感覚を思い出す。

 ただ、それとも違っていて。

 そのあとの行為がどんなことなのか理解していて。

 やめろという声を聞きながら、やめるなという意思を受けながら。

 電気の消えた部屋のなかで。

 練習が、始まった。

 その練習は甘くて酸っぱくて、切なくて。

 甘美で優雅で儚くて。

 そのときは、早希のことを思い出すことすらできなかった。 

 ただ、練習と称して。

 心菜とひたすら、貪るように、求めるように。

 抱き合った。




 いざその練習が終わったら、やはり罪悪感が胸を貫いた。

 早希への想いや、心菜への感情。行為そのものの快楽。

 ありとあらゆる感情が胸に流れ込み、どうすればいいのかさえわからなくなる。

 そんな状況で、当時の私がとった行動はたったひとつ。

 沈黙だった。


「どうしたの?」

 いつもと違う様子に、早希が尋ねてくる。

「いや、別に」

 それに正直に答えることなく、誤魔化す。

 誤魔化されているとは思っていたのだろうか、少し怪訝な顔をしながらも、早希はただ頷いてくれた。

 優しく控えめで、ただまっすぐに私を見つめていた彼女に、きっと、そんな状況は想像ですらできなかったんじゃないかと思う。

 それからも、練習は続いた。

 心菜との行為はまるで日常の1ページのように、頻繁に、貪欲に、何度も繰り返した。

 いつからか、感覚が麻痺していたのかもしれない。

 体を貫くその快楽に、すっかり溺れていたのかもしれない。

 いつからか罪悪感すら消え失せ、早希との関係にしても、心菜との関係にしても、それはそれ、これはこれなどと考えてしまうようになったのかもしれない。

 沈黙。

 そのような行動をとったツケは日に日に大きくなって、もはやなにが正しいのかにも気づかない。

 気づいてなかったんだ。

 その行為の意味が。

 そのときのはまだ16歳で。

 人を好きでいるということがどういうことかもわかってなくて。

 人を愛するということがどういうことかもわかってなくて。

 臆病で、無責任で、身勝手で、そんなどうしようもない。

 そんな、人間だった。

 でも、そんなことが許されるはずもなく。

 まわりがそれを許してくれるはずもなく。

 破滅は、すぐそこに。

 迫っていた。


 

「ねえ、今日キミの家に行っていい?」

 早希が放課後、そんなことを口にした。

「え、なんで?」

 少しだけ動揺したような気がする。早希は特に気にする素振りを見せることなく、話を続けた。

「なんか最近、元気ないような気がするから。ね、一緒に映画でも見ようよ。オススメあるんだ」

 早希は弾む口調で口にする。

「ごめん、今日はダメなんだ、ちょっと部屋散らかってるから」

 そんな嘘をつく。もちろん本当の理由は、心菜が来るからだ。

「お片付け中かな? 手伝おうか?」

 早希は優しくそんなことを言ってくれるが、

「いや、悪いから」

 短く、それだけを言う。ほんの少し彼女の表情が変わったような気がするが、見ない振りをした。

「また今度な」

 それだけを言う。早希は「うん」と小さく頷いて、それからはお互いなにも言わず、ただ黙って、帰り道を歩いた。

 早希がなにか聞こうとしたのはわかった。なにか言おうとしたのはわかった。

 でもそれすらも気づかない振りをして、歩く。

「じゃあまた」

 いつもの別れ道で、手を振って別れる。

 早希は一瞬だけ不満そうな表情を見せたが、笑みを浮かべて手を振った。

 これで、いい。

 そんなことを考えていた。



 その日の練習は、正直激しかったと思う。

 上になっていた心菜はいつも以上に体を動かし、その貫くような感覚に耐えるだけで精一杯だった。

 だから、心菜の視線がわずかに動いたとき、それに疑問を抱くことすらなかった。

 頭の中が真っ白になり、彼女の中にすべてを吐き出す。

 心菜は満足そうな笑みを浮かべ、荒い息を整えることもなく、

「あたしたちはこういう関係なんだ」

 そう、口にした。

 意味がわからなかった。

 それはこちらに向けられた言葉ではない。彼女の視線の先、部屋の扉のほうに、その言葉は向かった。

 勢いよく身を起こし、振り返る。

 わずかに開いた扉の先。

 そこに、いた。

 早希が少しだけ目を見開いて、口元を手でおさえ、立ち尽くしていた。

「早希」

 名前を呼ぶ。

 名前を呼んで、初めてその状況を理解した。

「早希!」

 叫ぶ。

 早希は駆け出す。立ち上がって部屋を出ようとしたところで自分の格好に気がつき、ズボンをはいてシャツを手にして部屋から飛び出る。

 シャツを着て玄関の扉を開けると、ちょうどそこで早希に追い付いた。

「待ってくれ!」

 腕を掴み、叫ぶ。早希は腕を振り払おうとしたが、力を入れてそれを制した。

「待って、頼む、違うんだ、説明、説明させてくれ」

 しどろもどろになってそんなことを言うが、早希がこちらに向いて目が合ったとき、なんの言葉も出てこなかった。

 涙。

 早希の頬に涙が輝いているのが見えたとき、言おうとした言葉もなにもかも、消え失せた。

 腕を振り払われる。早希は走り出そうとはしなかったが、こちらに対して背を向けた。

「そうだ、説明してやれ」

 声が聞こえ、その声のほうへ視線を向ける。

 心菜が白いYシャツだけを羽織り、腕を組んで玄関に寄りかかっていた。

 ボタンはしていない。彼女の豊満な胸部も、下半身も丸見えだ。

「な、お前っ」

 思わず彼女に駆け寄り、扉を開いて中に入れようとする。が、心菜は抵抗し、腕を掴もうとしてもするすると逃げ回る。

「さよなら」

 強い口調が背中に届いた。

 振り返ると早希が少し早足でその場から去っているところだった。

 追いかけようとすると今度は腕を捕まれる。

「行くな!」

 心菜の声が耳に響く。それでもその悲痛な声と捕まれた腕を振り払い、早希を追いかけようとすると、

「なんでだよ」

 今度は背中に悲痛な声が届いた。足が自然と止まる。

「あたしはお前のなんなんだ!?」

 心菜も涙を流していた。

「セフレか、都合のいい女か、どうでもいい女か!?」

 心菜の大声が響く。

 近所に聞こえるとか、彼女の服装とか、そんなことを考える暇もなく、ただ、彼女の声だけが、叫び声だけが、まっすぐ聞こえてくる。

「あたしがどんなに、お前のこと想ってても」

 やがて心菜の顔がくしゃりと歪み、やがてその表情を悟られまいと手で両手を覆う。

 それでも、手のひらのあいだからはぽたぽたと液体が滴っていて、それが地面へ落ちるごとに彼女はひくひくと嗚咽をならす。

「お前が本当に想ってるのは、早希で」

 その光景に、その、一瞬だけ見えた表情に。

「あたしの体を通して、早希を見てるんだろ?」

 耐えられなかった。

「そんなの嫌だ」

 彼女に背を向ける。

「そんなの嫌だ!」

 そうしてみると、体は勝手に動き出した。両足が勢いよく動き、早希の去った方向へと向かう。

「マサキ!」

 名を呼ばれた。罵倒の声が聞こえた気がした。気がしただけだ。でも、絶対そうだと思った。

 でもそれを気にすることなく、考えることなく。ただ、その場から逃げる。

 そう、これは、逃げだ。

 早希に今から走っても追い付けるなんて思ってなかった。

 ただ、まっすぐに見つめてくれていた心菜の視線が、感情が、怖かった。

 だからなにも言わず、ただ、逃げ出したんだ。




 しばらく走っても、案の定早希には会えない。

 家に戻れば、心菜がいる。行き先がなかった。

 特に用事もなくいろいろなところを彷徨い歩き、日が沈み始めてから帰路につく。心菜が玄関にあの状態のままいたらどうしようと思ったが、玄関先に彼女の姿はなかった。

 誰もいない家のなかで、誰もいない部屋のなかで、まだわずかに心菜の匂いが残るベッドの上で、横になる。

 なにを、間違った?

 そんなことはいま考えたら明らかだ。

 でも、当時はそんな、簡単な結論に行き着くことなんてできなかった。

 付き合ってる相手は早希で、好きなのは早希で。これは、この行為は単なる練習で。

 でもそんなことはなんの言い訳にもならなくて。心菜との行為を、楽しんでいた自分もいて。

 断ればよかった。練習をするなら、早希と別れればよかった。

 その両方ともを選ばなかった。バレなければいいと思った。

 なにも言わず、ただ状況に流され、なにもせず。

 心菜の感情に気づかず、早希への想いに気づかず、早希の想いですらも踏みにじって。

 話していれば。

 伝えていれば。

 結論を出してさえいれば。

 そう、悪いのは、すべて。

 俺が。

 俺が答えを出せなかったから。

 俺がなにも考えてなかったから。

 沈黙し、なにも言わず、なにも言えず、ただ黙っていたから。

 すべては、俺が。

 あのときの、まだ身も心も未熟な俺が。

 ただ、そこに。

 いた。





 それからの展開は早かった。

 あんなに本が大好きで、本についていろいろなことを話していた早希は図書館に来なくなった。

 もしかしたら、学校ですら辞めたのかもしれない。正直、あのとき以降、彼女と会った記憶がない。

 心菜に関しては、噂でしか聞いてないのだが、海外留学に行ったという話を聞いた。

 成績優秀な、彼女のことだ。

 海外に行っても、彼女はうまくやるだろう。そう、他人事のように思った。



 そして、俺は。

 なにも、変わらなかった。

 図書委員として本を整理し、決して来るはずのない早希を待った。

 家に帰ったら待ってるかもしれない心菜を探した。

 会ったら、なにを話そうか。

 話したいことがいっぱいあった。

 言いたいことがいっぱいあった。

 あのときの俺は、なにも言えなかったから。

 今ならわかる。今なら言える。

 自分がなにをして来たのか、理解している。

 土下座だってしてもいい。殴られようが、蹴られようが、どう罵倒されようが仕方ない。

 今ならきっと、なんでも話せる。

 いつか、彼女たちと会うことがあれば、話そう。

 そう、考えていた。

 でも、そんな機会は来なくて。

 そのうち1年が過ぎ、2年が過ぎ、気がついたら大学生だった。

 自分のレベルでも楽勝の大学に行って、高校時代と同じように勉強をして。

 それでも心に引っかかるトゲは抜けなくて、俺は彼女たちの面影をまだ探していた。

 そしてそのトゲが残っている以上、俺は誰かと親しくできるような状況じゃなかった。

 誰とも接することなく、ただひとりで大学に行き、家に帰り、寝る。

 早希が学校で待っててくれるはずもなく。

 心菜がごはんを作ってくれているわけでもなく。

 孤独だった。

 でもその孤独は、きっと自業自得だから。

 そう、自分に言い聞かせていた。

 誰とも接したくない。

 そんな自分への。

 言い訳だった。



 時は流れ、孤独な大学生活も終わりを告げようとしていた。

 就職活動をまともにしてなかった俺は親族の勤めているタクシー会社に勤めることになった。正直、どうでもよかった。

 大学卒業間近になって始めて、俺は自分の歩んできた道に気づいた。

 なにも、学ばず。

 なにも、喋らず。

 俺はこの数年、なにをして来たのか。

 ただありもしない幻影をいつまでも追いかけ、自分の殻に閉じこもって。

 サークルにでも入って、賑やかにやりたいと思った。

 高校でも面白いと感じなかった、学校祭の雰囲気を味わいたかった。

 でもそのすべてはもう手遅れで、手のひらからすべてはするすると滑り落ちてゆく。

 そうやって、タクシーの運転手になった俺は、正直、勤務態度がいいというわけでもなくて。

 酔っぱらいや変な言いがかりをつけるやつ、いろいろなやつがいた。

 でも、そんななかに。

 口数少なく返答する俺に、ただずっと、物語を言い聞かせるような。

 そんな人もいたんだ。

 世界中を旅して回った話。それぞれの国のタクシーは、国柄が出るという話を聞いた。

 株でボロ儲けし、脱サラした人の話。働くということはどういうことか聞かれた。答えられなかった。

 そして。たくさんの人が。

 恋の、話をした。

 自分がいま想っている人の話。

 自分がどんな失敗したのかの話。

 その話は、きっと、友人たちには聞かせられない話なのだろう。

 だからきっと、俺に話した。

 でも俺はそれが楽しかった。

 他人がどう思っているかなんて、俺は考えたことがなかった。

 俺は恋に失敗して。

 苦しんで。

 でもそんなの、大したことない。

 多くの人が、恋をしている。人を想い、喜び、楽しみ、苦しんでいる。

 かつての俺も、そうでなかったか?

 早希と他愛のない話をするのが好きだった。

 心菜とくだらない話をするのが好きだった。

 俺は、いつも誰かと一緒にいた。

 話をするのが好きだったはずだ。

 たくさんの話を、していたはずだ。

 それが、「話さなかった」ことでそれを失って。

 そのせいでたくさんの友人も離れていって。

 いまの俺には、友人と呼べるような人なんて、いない。

 自分自身に課した罪だと思った。

 早希、心菜にしたことを考えると、当然だと思った。

 それは決して間違ってはいない。

 でもきっと、間違っていたんだ。



 あるとき恋に破れた女性を乗せた。彼女はずっと泣いていて、ずっと、俺に話をしていた。

 タクシーを降りるとき、財布が鞄からすぐに取り出せず、苦労していたから。

 恋の話をしてくれたお礼に、俺の心のつかえを少しでも取り除いてくれたお礼に、サービスしてあげようと思った。

 でも、直接言うのは少し恥ずかしくて。

 俺は、こう口にしたんだ。


「このタクシーは、恋バナをすると無料のタクシーなんです」


 俺の考えは変わった。

 たくさんの人と、話をした。

 たくさんの人に、俺のことを話した。

 みんなそれぞれ、思ったことを口にしてくれる。

 それは十人十色で、いろいろな意見があって。

 くだらない話をした思い出が、他愛のない話をした思い出が、よみがえってくる。

 きっとこれが、本来の俺の姿なんだ。

 ずっと忘れていた。

 ずっと、そうでないと言い聞かせてきた。

 俺は本当はくだらない話が好きで、他愛のない話が好きで。

 そんな、他愛ない会話を楽しめるような、なにもない日常が好きで。

 その日常ががらがらと崩れていった、その恐怖にただ負けて。

 本来の自分を、失っていただけだ。

 恐怖に怯えていただけだ。

 ただ、それだけの話。

 ただそれだけの、本当にくだらなくて、つまらなくて。

 そんな情けない、どうしようもない物語だ。

 俺は。

 そんなふうに。

 生きてきたんだ。



 仕事も終わり、俺は会社の事務所に戻ってきた。

 時刻的にはもうすぐ夜の十時をまわるといったところか。タクシー会社としてはこれからが本番の時間ではあるが、今日の俺の勤務はその時間で終わりだった。

「ふええん」

 事務所に入ってすぐ、情けない声が耳に届いた。

 普通ならもう閉じているはずの事務所の明かりがついていたので予想はしていた。俺はその情けない声の主のもとへ向かう。

「また残業か?」

 俺がそう聞くと情けない声を発した人物は長い髪を翻し、ゆっくりとこちらへと振り返る。

「マサキー、仕事終わんない」

 声の主……美優(みゆ)はこちらを見上げるようにしてそう言う。

 見ると彼女がやっていたのはファイルの整理かなにかだろうか、机の上にはどっさりとファイルが並んでいる。

「わ、わ」

 そのひとつが振り返り際にひじに引っかかり、どどどと波をうって積んでいたファイルがなだれ落ちる。

「ほら」

 俺はしゃがんで、ファイルを集めるのを手伝う。

「ありがとー」

 美優はそう言って、俺の手からファイルを受け取った。

「どう整理するんだ、これ」

 いくつかのファイルを広げて聞くと、

「ばっらばらのファイルを日付順に並べかえるのですよ」

 美優は肩をすくめて言う。

 俺は彼女の隣の席に腰をかけ、彼女の机からいくつかファイルを奪い取った。

「じゃ、とっとと終わらせるぞ」

 言うと、美優は一瞬目を丸くしたが、

「ありがと」

 そう小さく呟いて、作業を再開した。

 少しのあいだ、無言でただファイルを整理する。

 時計の針の音と、ファイルをめくって、紙を取り出したりする音だけが響く、静かな時間が過ぎる。

 この辺りの大きな通りも、この時間だと車も少ない。

 穏やかだった。

「今日は」

 そんな穏やかな空気の中、彼女が口を開く。

「どんな話ができた?」

 視線を向ける。

 彼女はまっすぐ、こちらを見ていた。

「……ああ」

 俺は小さく頷いて、作業を続ける。彼女も手は動かし始めるが、視線は幾度となく俺のほうを向いていた。

「今日は、」

 だから、俺は口を開く。

 タクシーの客と、どんな話をしたか。

 それに対して俺がどんな返答をしたか。

 そう。

 俺の物語を語る上で、もうひとつ言うべきことがあった。

 美優だ。

 俺とほぼ同期でこの会社に入った彼女は、なんというか、遠慮とかそういうもののない性格だった。

 隙あらば声をかけてくる。会えば話をしてくる。

 その話は多義にわたって。

 最近見たドラマの話。最近聞いた音楽の話。自分の話や友達の話、本当にいろいろと、彼女は話してくる。

 そして、いろいろ聞いてくる。

 無視することもできた。うるさい、と突き放すこともできた。

 でも、俺は。

 俺は彼女と、話をした。

 他愛のない話を、くだらない話を。

 こんなに自分は笑っていただろうか。

 こんなに自分は話していただろうか。

 俺はいつのまにか、笑っていて、話していて。

 それが自分のかつての姿だと思ったとき、俺は少しだけ。

 変わろうと思った。

 もとに戻ろうと思ったのか。それも、先に進もうと思ったのか。

 俺は話をするようになった。

 きっと。

 俺がそんなふうに思えるようになったのは。

 この、遠慮もなければデリカシーもない、気遣いもない。

 そんな、空気を読まずに話しかけてくるような、彼女の。

 美優のおかげだったんじゃないか、と。

 思ってしまう。


「ふーん、あんまり面白くないね」

 今日会った客の話を彼女はバッサリとそう口にする。

「あのな。こっちは嫌でも相づちをうたないといけないんだからな」

「あは、だよねー、お疲れー」

 美優は笑って言う。つられて少しだけ笑い、俺は整理が終わったファイルを彼女の机の上に置く。

「こっちは終わった。あとは?」

「おー、さっすがー」

 彼女もファイルのひとつを整理し終えたところだった。

「あとは明日にする」

 が、机の上にいくつか残っているファイルを眺めて彼女はそう口にした。

「そうしろ」

 時計を見て言う。美優は大きく両手を伸ばしてあくびをした。

「せっかくだから送っていってやるよ。帰る用意しろ」

 俺がそう言うと、

「いいの? やた、ラッキー」

 ぱあっと笑顔になってそう言う。俺が背中を軽く叩いてやると、彼女は立ち上がって帰る用意を始めた。

「今日、彼氏は?」

「ざーんねん、今日ダーリンはお仕事であたしよりもっと遅いのです」

 少しだけ頬を膨らませて言う。俺は少しだけ笑みを浮かべ、彼女に背を向ける。

 もしこいつに彼氏がいなかったら、恋をしていたのだろうか。

 それはわからない。

 今、彼女に感じているのがどういう感情なのか。

 友情。

 それがもっともふさわしいと思った。 

 どんなことだって、彼女とは話せると思った。

 どんなことだって、彼女には話してほしいと思った。

 言い合いになろうが、ケンカになろうが、それが、俺と彼女の、ふさわしい距離感だと思った。

 それが恋と呼ぶべきものになるかなんて、わからない。

 俺がまた恋ができるのかどうかなんてわからない。

 俺はまだ臆病で。

 自分自身の行動すらもわかってなくて。

 自分自身がどう思われているのかもわかってなくて。

 だからきっと俺に、まだ恋はできない。

 俺が次に恋をするのはきっと、もっともっと先だ。

 俺が、たくさんの人の想いに触れ、たくさんの人の言葉に触れ。

 たくさんの物語と感情のなかで、俺が、俺自身を本当に心の底から許せたら。

 俺はきっと、人を好きになれるんじゃないか。

 そう、思う。

「おまたせー」

 だからそれまでは、俺はタクシーを動かそう。

 たくさんの人と話をするために。

 たくさんの人の話を聞くために。

「行くか」

「おうよー」

 乗せるのは、そんな気持ちを持たせてくれた、俺にとって大切な客だ。

 だからこそ、俺は勤めて丁寧に、接する。

「ようこそ」

 俺は業務用のタクシーではなく、自分の車の後部座席の扉を開き、俺はうやうやしく頭を下げた。

「恋バナをすると無料のタクシーへ」

 そんな俺を彼女は見て小さく口元を抑えて笑う。

 そして、両手でスカートをつまむような仕草を見せ、楽しそうな顔を俺に向けた。


 さて。

 今日はどんな物語を語ろう。

 今日はどんな物語を聞けるだろう。

 俺の物語はまだ、始まってもいない。

 いつか、そのときのために。

 今は。

 俺は車を動かした。

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恋バナをすると無料のタクシー 影月 潤 @jun-kagezuki

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