傘さし狸と迎え人 ――蛙――14

「何のつもりか知らないが、そんな与太話、大の大人が信じると思ったのか?」


 言いながら、皮肉の形に唇が歪む。


 しかし、その手は関節が白く変わるほどきつく握りしめられたままだった。


 ――本当は、わかっているのだ。


 なのに理性が、それを認めることを拒絶している。


「けれど、先生」


 思わず漱也が一膝乗り出そうとした、その時だった。


「じゃあ、これはどう説明するんでしょうかね」


 言いながら、蒼生は掛け軸の一点を指差した。


 途端、羽根川の瞳が激しく揺れる。


「刹那で口の中から消える飴玉だって、舌には甘みや香りが残るんです。なのに人間の子供が一ヶ月間共に暮らして、何も残さないはずないでしょう」


 ――そこにあったのは、折り紙の蛙だった。


 先ほど折った〈ぴょんぴょんガエル〉は、お尻の部分がバネ状になっていたのに対し、こちらは頭が丸く膨らんで足の先が細く尖った、より写実的な造形だ。


「こちらは、江戸の昔から伝わる伝承折り紙ですね。ただ、当時は〈折りすえ〉や〈折りもの〉と呼ばれていて、今のような正方形のいろ紙がなかったので、長方形の和紙から和鋏で切り出していたんです。さてしかし、これは失敗作のようだ」


よほど不器用な人間が折ったのか、歪に折り目が曲がってしまっている。


しかし掛け軸の女は、そんな不細工な出来映えの蛙を大事に握りしめていた。雨に濡れないよう、落として汚さないよう、胸にかき抱くようにして。


「それは、俺が……」


 ようやく絞り出された声は、狼狽を隠しきれずに震えていた。


「俺が、折ったんだ。別れ際、彼女にプレゼントして……けれど、すぐに捨てられたんだと思ってたのに」


 うわごとめいた羽根川の言葉を、横から蒼生の声が遮った。


「その答えが、今も掛け軸の中にありますよ」


 羽根川の目が、再び掛け軸へと吸い寄せられる。つられて漱也も身を乗り出した。


「よく御覧なさい。蛙の背中に何があります?」


 あ、と声を上げたのは、これで二度目だ。


 よく見ると、蛙の背中から細い棒のようなものが突き出していた。一見、糸屑のように見えるため、見落としてしまいそうになるのだが――。


「――針?」


 そう、蛙の背中にあったのは、一本の縫い針だった。


「〈待ちかねて女郎蛙へ針を刺し〉って川柳があるのは御存知ですか? これはね、長らく姿を見せない想い人を呼び寄せようと、江戸の頃に遊女の間で流行ったまじないの一種なんですよ。十返舎一九の〈倡売往来〉にも、〈まちびとまじないのかいるの折かた〉として紹介されています。〈帰る〉の洒落で〈蛙〉の折り紙を使ったらしいですが、その背中に待ち人の名を書きつけて縫い針を刺し、〈あの人に会えたら、背中の針を抜いて川に放してあげるよ〉と言い聞かせて、箪笥の中に隠しておくんですね。そして、めでたく待ち人と再会できたら、針を抜いて川や池に流してやるんです」


 そこで蒼生は言葉を切った。


「待ち人が誰か、当然アンタは御存知ですよね?」


 しかし羽根川から声は返らなかった。


 ただ沈黙そのものが、答えの代わりを果たしている。


「再会を望んでいたのは、アンタだけじゃない。彼女も同じだったんですよ」


 その胸に待ち人の名を秘め続けながら。


 とどめきれずにいた再会への祈りを、折り紙の蛙に託して。


 借金のカタに売り飛ばされ、黴に蝕まれてもなお、決して手放そうとはせずに。

 

 そして、今。


「……夢じゃなかったんだな」


 震える声で、ぽつりと羽根川がそう呟いた。


 遥かな年月を越え、ようやく溢れ出した涙を滲ませながら。


 

 ――今から十五年前の、遠い昔。


 雨の中、傘を手に迎えに来てくれた人が確かにいたのだ。

 

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