我に故郷なし-1/4

 空を見上げた星の海、煌く瞬きの一つがそれかもしれぬ。見下げた足元広がる地面、掘って進めた裏側にあるかもしれぬ。地の果て広がる地平線、その向こう側にあるものか。海の果てに広がる水平線、船が沈むその先にあるものか。

 どこにあるかは誰もが知らぬ、けれども在ることを誰もが知る。その世界の名をイリシアという、人間だけでなく多種族が住まい、剣と魔法が理である。


 このイリシアの地には凍てつくノートラという極寒の地があり、この地は<北壁山脈>と呼ばれる山々によって南の大地と隔てられていた。その<北壁山脈>を北に見ながら、つまりは山々の南側にある街道を南東へと向かって二人の男が歩いている。

 どちらも身の丈二〇〇はあろうかという偉丈夫であるが種族が違う。黒髪の男はただの人間族、赤髪の方は長く伸びた耳が特徴的なエルフ族の男だった。この二人、種族も異なれば育ちも異なる。文化風習も違うが長く行動を共にする、そう友の間柄であった。


 人間族の男の名はカブリ、エルフ族の名はブレト。二人はこの間までノートラの地で旅をしていたのだが、雪が降りしきる白銀世界を見飽きてしまい、再び<北壁山脈>を越えてきたところだった。

 季節は春の一月であり、草木が芽吹き小さな花が咲く季節。太陽が天上を闊歩する時間が長くなりはしているが、吹く風には今だ冬の名残があった。けれども極寒の大地から戻ってきた二人には初夏のようである。


 寒さのために着込んでいた熊の毛皮はとうに脱ぎ去り、適当な商人に売り払った。けれども冷気に慣れた体は大量の汗をかかせて体から水を逃げ出させる。喉が渇けば力も入らない。どこかに水場はないか、宿屋がないか。通り掛かる者は無いだろうか、もしあれば水を分けてもらおう。

 そう思いながら歩く二人だったが水の匂いは漂ってこず、人家の気配も無い。通り掛かる馬車はあるが、声を掛けても逃げ出されてしまう。二〇〇もある大男が二人、一人は剣を一人は弓を持っている。危険を感じられてしまうのも已む無きこと。


「こんなに汗をかくことになるとはこれっぽちも思わなんだ。体がこういう風になってしまっているともっと早くに知っておれば、先日の宿屋でもっと水を汲めたというに」

 苦々しい表情を浮かべながら言ったのはカブリである、その隣を歩くブレトは「全くです」と同意を示した。


「春になったばかりですからね、肌寒いから汗とは無縁。そう思い込んだのが運の尽きでしたね、今日が特別暑いのか。それともノートラで我々の肉体が馬鹿になったのか、どちらでしょうねぇ」

「どちらでも構わんわ。理由が分かった所で俺達のこの喉の渇きが癒えるわけではないからな。そうだブレト、エルフ族のお前は森での暮らしが長いわけだ。となれば植物に関する知識も豊富であるのが当然というものだが、違うか?」


 突然にカブリは立ち止まって右手を見た。ブレトもそちらへ視線を向けたが、広がっているのは平原だ。

「そりゃあ草木の知識というものは持っておりますとも。食べれる食べれないはもちろんの事、武具に使えるものは何か、家を建てるに有用なのはどんなものか。当然のように知っていますけれども、いきなりどうしたんです?」

「ではこの光景を見て何か思いつかんか?」


 言われて辺りを見回してみたブレトだったが、めぼしい物は見つけられない。ある物といえばまだ生えて間もない咲いて間もない、名前を思い出すのが面倒くさくなるほど様々な草花が茂り咲いているだけである。

 そこでなるほどそういう事かとブレトは合点した。草花は水が無ければ生きていけないし、緑の体には水気がある。そこから水を得ることは出来ないか、カブリはこう言っているわけだ。


 カブリの言うことは全くの見当違い、というわけでもない。植物の中には水を多く含むものも数あり、そういった植物を少し切ってやれば喉を潤すことも出来る。だが残念なことに、森の狩猟で鍛えられたブレトの眼力を持ってしてもこの平原からその手の植物は見つけられなかった。

 そもそもあったとしても水を得るのは無理だったろう。飲めるほどの水を出す植物のある時期は決まっていて、夏の一月あるいは秋の三月頃で無ければ植物も水を蓄えてはいないのだ。


「目の付け所は悪くないと言いたい所ですが、残念ながらそのようなものは生えてませんよ。あったとしても時期が悪い、この季節に水を貯めてるものはありやしません」

「そうか、ならば仕方があるまい。このまま行けば水場は無くとも宿はあるはず、そこを目指して歩くしかないというわけか」


 二人は再び歩き出す、黙々と足を進めていくと喉の渇きが気になって仕方が無い。これを紛らわせようとしてどちらともなく他愛も無い話を始めた。

 パンネイル=フスの居酒屋<銀夢亭>に屯している鍛冶師のアセロはどうしているだろうか、博徒から足を洗って細工師になったフラウダは何をしているだろうか。宇宙から来たといっていたあの大きな蜂は帰れたのだろうか。

 知己を話題にしていたが中身は無い、渇きから目を逸らせれば何だって良いのである。そんな他愛も無い話を続けながら歩く最中、カブリはある事を思い出してぽつりと零した。


「そういえばブレトよ、お前さんの故郷……何といったか、<クレアイリスの森>だったか。そいつはこの辺りにある森ではないかと思うが、違うか?」

「えぇ、その通りですよ。私の生まれ育ったエルフ族の集落はこの近くです。それがどうしましたか?」

 ブレトの声は明らかに低く、歩みも少しばかり遅くなる。故郷の事は考えたくなかった。カブリもブレトが故郷を良く思っていない事は承知していたので、話には出さないようにしているのだがふとした事を聞きたくなったので口に出したのである。


「思い出させてしまい悪いとは思っておるんだがな、土地勘がありやせぬかと思うたのよ。エルフ族は住処の森から出たがらぬことは知っている、けどもお前さんなら森の近くについても知っているのではなと思うてな」

「あぁ、そういう事でしたか。ご存知の通り我々は森から出ませんからね、とはいえ私は変わり者。知っているかもとなるのは不思議じゃありませんが、知らないんですよね。森を出るまでは、私も森から出ることはありませんでしたから」


 そういう事かと納得できれば気を落とす理由も無い。声の調子はすっかり普段と変わらず元通り、足取りもまた同じ。ここからまたパンネイル=フスの知り合いについて好き勝手に言い合い始めた二人であるが、奇妙なことが起こり始めた。

 この街道を歩いているのはカブリとブレトの二人しかいないはず、だというのに三人目の声がするのである。しかもそれは女の声で、男の情欲を掻き立てるような艶を含んでいた。


 初めは空耳だと気にも留めていなかったのだが、声はする度に近づいてくる。その内に何と言っているのか、一言一句漏らさず聞き取れるようになった頃に二人は確信した。聞き覚えのある声であると同時に、逃げねばならぬと。

 声はどうやら後ろから聞こえてくるようだった。カブリとブレトは互いの呼吸を合わせて全く同じように駆け始めようとし、そのまま動けなくなってしまった。石像になってしまったかのようで、指の一つも動かせない。


 ただ幸いというか声の主の意図あるものか、首より上は自在に動かせ声を発することも出来た。逃れようが無いと知りつつも、二人は何とか動こうと全身の筋肉に力を込めるがぴくりとも動けない。

 その間に背後からゆっくりと、こつりこつりと足音を鳴らし気配が近づく。声の主である、それは二人の横を通り過ぎると真正面に回ってからくるりと振り返る。顔を見た瞬間、カブリとブレトは大きな嘆息を漏らした。


 <妖艶なるニグラ>であった。彼女は強大な力を持つ魔法使いであり、不意に二人の前に現れては仕事を頼んでくるのである。そしてこの仕事というのが厄介な難事ばかりである上に、報酬はさして弾んでくれないのであった。

 ただニグラ、今回はいつもと様子が違う。普段は豊満な乳房や大きな尻を強調する露出の激しい格好をし、頭に伸びる山羊の角、蹄になっている足を隠しもしない彼女である。けども今は肌を見せないようにしていたし、足には靴を履いて頭には頭巾を被って角を隠していた。


「まったくどうしてあなた達は毎度毎度私から逃れようとするのです。私が酷い仕打ちをするとでも思っているのですか。いつも言っていますでしょう、私は全ての仔を愛するのですよ。愛しい愛しいあなた方に鞭を振るうはずがないでしょうに」

 いつものニグラの挨拶である。これにカブリが噛み付くのがある種の慣習めいたものになっているのだが、カブリはだんまりを決め込んでいた。それというのも全てニグラの格好のせいである。


 普段と違うという一点だけで警戒するには充分だ、今までと違う何かをやらせようというに違いない。金縛りの術を解いてもらうのも忘れて、カブリとブレトは動けぬ体のまま身を強張らせた。

「どうしたのですかあなた達? いつもならここで喚き立てるなり私から目を逸らすなりしますでしょうに、けれども今日はじぃっと見つめる。ま、無いとは思っておりますけども私の役に立ちたくなりでもしましたか?」


 二人は首を強く強く、風音がするほど横に振った。

「どうしたもこうしたも、言いたいのはこっちの方ですよ。こうして私達の動きを封じるのはともかくとして、あなたのその格好。いつもの踊り子というか娼婦めいた、あの破廉恥な服はどうしたというのです? それだけでこっちは何かあるんじゃあと疑うというものですよ」

「疑われるのは意に沿いません、けれども何かあると思ってもらえるだけでも私としては嬉しいものです。これなら動きを封じる必要はありませんね」


 ニグラがぱちりと指を鳴らせば金縛りは解けた。まさに駆け出す所で止められ、それをいきなり離されたのだから二人は姿勢を崩してもんどり打って前に倒れこむ。ニグラはそんな二人を慈愛に満ちた笑顔で見下ろしていた。

 カブリが嫌いなことの一つは見下されることである、例え慈愛の眼差しを向けられていようと見下ろされていることには変わりない。こいつは我慢がならないと、起き上がりつつ剣へと手を掛けたが、それを引き抜くこと無く手を離す。


 相手はニグラ、呪いの文句を唱えること無しに他者の肉体を封ずる腕を持つ。そのような者を相手に剣が通用するとも思えず、歯を食いしばらせつつも何とか溜飲を下げるしかなかった。

「まぁまぁカブリったらそんなに怖い顔をして。今日はそんな無茶なお願い事をしに来たわけじゃありませんよ、私と一緒に竜と会いに行って欲しいのですよ。二人はまだ竜に出会ったことはないでしょうし、悪い話ではないはずですよ」


 今の今まで喉の渇きもあって苛立っていたカブリとブレトだが、竜と聞けば話は変わる。多くの伝説で語られ、今も酒場で噂に聞くことはある。しかし実際に見たことはないし、出会ったという話も聞くことは無い。

 市場を歩けば竜の鱗、あるいは骨を使ったという武具や装身具が売られていることがあるが、それら全てが紛い物である事を知っている。話にこそ聞くが得体の知れない存在、それが竜だった。


 他の者がニグラと同じ事を言ったとしても信用できるか甚だ怪しい、けれども言っているのはニグラである。得体の知れぬ者が得体の知れぬものに会いに行こうというのは、不思議と信憑性を感じさせるものだった。

「あのニグラさん、本当に竜に会いに行こうというのですか? 竜といえば話にしか聞いたことはありませんが、背中の翼で空を行き、刃も通さない強靭な鱗を持っていて、火や毒の息を吐くというあの竜に?」

「そうですよ、正にブレトが言った通りの竜に会いに行こうというのです。もちろんただ会うだけではありませんよ、偉大な英雄モウランを尊敬するカブリなら知っているでしょうけれど、英雄の逸話に竜退治は付き物ですよね?」

 その通りだとカブリは頷いた。


「ちょうどこの近くの集落にですね、竜がやって来て困っている所があるのですよ。人助けも出来て、竜を見れて、それだけでなく戦うことが出来る。胸に火が点きませんか?」

 うーん、とカブリは唸りをあげた。かつての英雄モウランの伝説にも毒竜と戦う逸話があるのを知っている、それもあって竜の姿はかねてから一目みたいところがあった。しかも大義名分を持って戦うことが出来るという、竜に勝てる見込みは分からないのが正直な所。


 されど胸は躍る、決してニグラに煽られたからではない。人々のために剣を手にして竜と対峙する、なんと英雄的であろうか。かつてのモウランの行いを追体験できるような気がして、カブリのやる気は俄然と湧き上がり逸った気は鼻息を荒くさせた。

 それとは反対にブレトは冷静である。あの竜がこの近くにやって来たというなら、どうして話を聞いていないのだろうか。昨晩、街道沿いの宿に泊まった。そこの店主も、食堂で一緒に酒を飲んだ商人達も、竜の事等一言も口にしていない。


 これは何だかおかしな話だ。ニグラの話には知らねばならぬ裏があるに違いなかった。

「ちょっとお待ちなさいなカブリさん、ニグラさんの話はおかしいですよ。この近くに竜が現れたというなら間違いなく噂になっています。昨日の宿を思い出してください、耳聡い商人がいましたね。けれど彼等の誰一人として竜の事など話してはいなかった」

 出発するのは今か今かと待ちかねていたカブリだったが、このブレトの言により我に返った。そうだブレトの言う通りだ、商人という連中は時勢に詳しい。でないと仕事が出来ないからだが、その彼等が近隣に降り立った竜を知らないはずがないのである。


 危うく騙されるところであったとカブリは心を落ち着けて、そっとニグラから距離を取った。

「そうともブレトの言うとおりだ。竜が来たなら俺達だって既に耳にしているはず、さてはニグラ。お前、俺達に隠していることがあるはずだ」

 カブリに指を突きつけられたニグラは大きな溜息を吐いた。悪巧みがバレたから、というよりも呆れた様子に見える。


「もうどうしてあなた達はすぐ私を疑うのですか、悲しくなってしまいます。私は嘘を言いませんよ、あなた達の言うことも最もなのですけれど不思議はなんにもありません。だって竜に困っている集落というのはエルフの森です、ブレトはもちろん知ってますよね。エルフという種族は他と比べるととっても閉鎖的な人々、だから話が出回らずに噂にもなっていなかった。それだけのことですよ」

 なるほどそうだったのかとカブリは納得し、その後にすぐにちょっと待てよと自分に言い聞かせた。


 ニグラの言っていることに不審な所は無い、話の中に嘘があるとかそういう事ではない。この近くにあるエルフの集落といえば<クレアイリスの森>の事ではなかろうか、だとすればそこはブレトの故郷である。もしかすると他にもエルフの里があるのかもしれないが、それは地元のブレトに聞けば分かることだ。

 早速、答えを知るものに尋ねようとブレトの顔を見た。聞くまでも無く答えが知れた、この近くにあるエルフの里は<クレアイリスの森>しかない。カブリの隣に立つ相棒ブレト、彼の表情からは色という色が失われていた。

 苦難に立たされようと飄々としている相棒のそんな表情を見て黙っていられるカブリではない。


「何だかんだと言いつつも手伝っている俺達だが、この仕事ばかりは請けるわけにはいかん。例え貴様が妖しげな術で――」

「えぇ、知っていますよ。ブレトが故郷に帰れないぐらい、それが何だというのです? 賭博師なぞが良く言うでしょう、バレないイカサマはイカサマではない。見抜かれない嘘もまた嘘ではない、というわけで顔を隠せば済む話。仮面の一つや二つ、様々な意匠を見繕って持ってきておりますよ」


 ニグラはカブリが話しているにも関わらずそれを遮り、襟元を開けて胸の間に手を突っ込んだ。そこから出るわ出るわ、一つや二つどころではない仮面の数が、大小さまざま色もとりどり。服の内に仕込める数ではなく、どうやって持ち運んでいるのやら。

 話を打ち切られたこともあるのだが、ブレトの事情を知っているにも関わらず、さらりと言ってのけるニグラの神経が信じられずにカブリはつい口が開く。しかしすぐに閉じた、得体の知れない女だということは承知のこと。そんな女がまともな感性など持っていようはずも無い。


 それはともかくカブリが気になるのはブレトの事である。ニグラは二人を<クレアイリスの森>に連れて行く気でおり、首を横に振ろうものなら魔術によって従わせてくるものと思われた。カブリは竜をお目に掛かりたい気持ちがあるので、ニグラのこの頼みは願ったり叶ったりというところがある。だが果たしてブレトはどうなのか、カブリは相棒の様子を再度伺った。

 ブレトの目には光が戻り、力強く正面に立つニグラを見据えている。何を考えているかまでは読めないが、覚悟を決めたことには違いない。


「いきましょう。二度と戻れぬ我が故郷、そう思っていましたけれどニグラさんの力があるなら正体を隠すのは容易なはず。話した覚えはないですが、私の事情を知った上で斟酌してくれているようですし。せっかくの機会、無碍にしようと思いません」

「お、お前……それで本当に良いのか? その、里の者にブレトだと知れたら殺されてしまうのだろう? それでも行くというのか?」

 カブリの声は上ずっていた。彼が良いというならそれで良い、だが不安は残る。


「構いませんよ。それに、故郷に残してきたものもあります。それがどうなったのか、私は知りたいのです」

 詳しくは聞くまい、相棒そして友人のブレトがそう言うのであればカブリはこれ以上口を挟む気は無かった。彼の正体を隠しとおせるよう尽力し、伝説に謳われる存在である竜と相対するのみである。


「ようし、ならば竜退治といこうではないか。このカブリ、そしてブレト。我等二人がようやく数多の英雄に肩を並べる日が来たということ。男であれば胸に火が吐き心が躍る、さぁ竜よ首を長くして待っておれ。我が剣でその首落として見せようぞ!」

 抜いた剣を天に向け、己を鼓舞するカブリの横でブレトが頷く。そのエルフの目には、早くも故郷の風景が見えていた。

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