P.S.サイト

亀虫

P.S.サイト


 俺は幅野広司はばのこうじ。どこにでもいる二十代後半のサラリーマンだ。今日もスーツをぴっちりと着こなし、髪型もきっちりと七三にし、電車に揺られて通勤中だ。昼出勤なので、少し空いている電車でロングシートの左端に座り、悠々と出勤中だ。

 どこにでもいる、と言ったが、一点だけ他人と違うところがある。それは、俺には「他人のパーソナルスペースが視覚的に見える」という特殊能力があることだ。


 そもそもパーソナルスペースって何? という人に説明すると、「他人にこれ以上近づかれると嫌だなあ」と感じるようになる距離範囲のことだ。まあ、個人個人の「縄張り」的な意識のことだという解釈で問題ないだろう。パーソナルスペースの広さは個人差があり、フレンドリーな人、人見知りの人などの性格などで変わる。さらに、親密さや見た目の印象など、近づかれる相手によっても範囲が変化する。必ずしも一定の広さではないのだ。


 例えば、そこにいる男女。朝っぱらから二人でぴったりくっついている熱々な大学生カップル。あれがパーソナルスペースの狭い奴の一例だ。彼らはぴったりくっついても嫌じゃない、お互い許しあっているごく親密な仲だ。だからあんなに接近していても男が女を突き飛ばしたり、女が寄生をあげて車掌さんを呼んだりしないというわけだ。ちくしょう羨ましい。

 逆に、パーソナルスペースが広い例は、あの太った男の席の隣を二人分空けて座っているOLだ。もっと席を詰めてもいいだろうに、彼女らはわざわざ広く間を空けて座っている。それは彼女にあの男にこれ以上近づいてほしくないという心理が無意識に働き、あれだけの距離を空けたのだ。すなわち、席二人分があの男に対する彼女のパーソナルスペースということだ。


 俺はこの「パーソナルスペース」を視認することができる。それは対象となる人を中心とした三重の同心円状の印として現れる。一番外側の円の中に人が入ると円の色が青く、二つ目の円に入るとその円から内側の円の間のエリアが黄色く、一番内側に入ると中心の円が赤く変わる。そして、誰も円に入ってないときは色がつかず、外、中、内を区分けする曲線だけの円周が現れる。対象との距離が近ければ近いほど青、黄、赤の順に円の色が変わっていき、その人の不快度がわかる。つまり、取るべき適切な距離がわかるのだ。

 俺はこの能力を「P.S.サイト」と呼んでいる。

 だが、パーソナルスペースを知ることができるからといって得することはあまりない。こんな能力なんかなくても、なんとなく大体の距離感は察することができるし、本当に近づきすぎたと思ったら大抵向こうから去っていく。せいぜい他人との距離を測り違えて怒られることがなくなるくらいのもの。不要といえば不要な能力だ。

 とはいえ、常にこの能力が発動しているわけではなく、自分が「パーソナルスペースを見たい!」と念じたときにのみ発動するため、あって邪魔になる能力ではない。見たくないときは自由にオフにできる。だから、役に立たなくてもとくに気にするようなことでもなかった。暇なときに能力を使って「あっ、こいつスペース狭いなー、馴れ馴れしい奴なんだろうな」とか「こいつ広いな絶対ビビりだろ」などと観察して遊べるので、暇つぶしくらいには使える。


 

 俺は電車の中で暇になったので、P.S.サイトの能力使って今日も何気なく乗客のパーソナルスペースを覗いてみた。

 さっき例に挙げた学生カップルや太った男や席を空ける女は見るまでもなくわかりきっているので、別の人をターゲットに見ていく。

 まずは俺が座っているロングシートの席から通路を隔てて正面の席に座っている、紺のポロシャツを着て、ベージュのチノパンを穿いている、メガネをかけた男。果たして彼のパーソナルスペースはどんなものだろうか。

 一見普通に見える彼のスペースは……なんというか、やっぱり普通だった。円の半径は二メートルちょっとで、色は青。デフォルトの状態だと、この円の範囲は能力の対象になった人間が俺との間で感じているパーソナルスペースを指す。そのため、相手が俺のことを何らかの形で認識していなければ円は現れない。つまり、彼は俺のことを認識していて、円が青いということは彼のパーソナルスペース内に俺が入っているということだ。

 とはいえ、青の円に誰かが入ること別に珍しいことではなく、電車という狭い空間だと大抵誰かしら範囲に入ってしまう。また、青のスペースの大きさは人それぞれ差はあっても、大体一メートルから三メートルくらいはあるので、二メートルという広さは平均的な範囲と言える。そのため、彼のパーソナルスペースが青く表示されるのはごくごく普通のことだ。

 その後、彼は何事もなく目的の駅で降りて行った。パーソナルスペースの範囲もずっと変わらなかった。見た目も普通、範囲も普通、行動も普通、彼はあまりにも普通過ぎた人だったので、俺はちょっとがっかりした。もっと面白い人がいないものか、と俺は再び車内をキョロキョロと見た。だが、今は面白そうな人はいなさそうだ。


 それから一駅。駅のホームで停車した電車は、シュー、という音とともにドアを開けた。その直後、やけに騒がしい二人組が乗車してきた。二人とも太った中年の女性、おばさんと呼ばれる生き物だった。そのうち一人の髪型はパーマで、もう一人はソバージュだ。

 ぺちゃくちゃと中身のない世間話をしながら、彼女たちはシートの真ん中付近の座席へドカッと座った。座った後も声のボリュームを下げずにしゃべり続けるものだから、車内が空いているにもかかわらず随分とうるさくなった。まったく、どうしておばさんという生き物はこう騒がしいものなのか。周りの迷惑を考えないのだろうか。

 そうだ、こういうときこそ能力の使いどころ。俺はおばさんのうちパーマの方に照準を合わせ、P.S.サイトを発動した。

 案の定、彼女のパーソナルスペースはかなり狭い。さっきの男の同心円の二つ目(黄色くなるスペース)と同じくらいの大きさだ。距離にして大体90センチほど。俺はその範囲に足を踏み入れていないため、円に色はついていない。

 ならばこれならどうだろう? 俺はパーソナルスペースの対象者を、俺からもう一人のおばさんへと変更した。


 この能力は二人の対象者の間のP.Sパーソナルスペースを見る能力だ。ここでは仮に、一方の対象者を観察することで距離を感じる側を「観察者」と呼び、もう片方は観察者に見られる側の対象者である「被観察者」と呼ぶことにする。P.Sを表す同心円は常に観察者側に発生し、被観察者には発生しない。

 普段は被観察者を俺自身に固定しているが、実は俺が見えている範囲でなら観察者も被観察者も自由に対象を移し替えることができる。

 たとえば、能力の対象者がAとBの二人だとする。Aが被観察者(俺)で、BがP.Sを確認したい観察者だ。この場合に能力を発動したとき、AとBの間で感じているP.Sの同心円が、観察者Bの周りに現れる。これが普段使っている能力の使い方だ。

 そこで、対象を移し替えた場合どうなるか。今回は、被観察者を移し替えるものとする。被観察者A(俺)を、全く別の対象者Cに変える。こうした場合は、Cが被観察者となり、C、B間のP.Sの同心円がBの周りにのみ出現する。円は常に観察者の周りにだけ発生するのだ。

 今回の件にこれをそっくり当てはめると、俺Aが被観察者だったものをおばさんC(パーマ)移し替えることになり、それによっておばさんC(パーマ)が被観察者となり、観察者おばさんB(ソバージュ)の足元に同心円が現れ、CがBに対して感じているP.Sを確認できるようになる。

 理論通り、おばさんBの足元には円が現れた。

 だが、おばさんBの足元から現れた円は範囲はごくごく狭く、臨席同士であれだけ近いのにも関わらず、円の色は青。すなわち、あの距離でも「近すぎる」とまでは感じていないということだ。これは親しい仲であれば珍しくはない。それでも、赤の他人に対する範囲と合わせて見てみると、なんとなくこの人たちの性格が推測できると思う。この人たちは俺に対するP.S.が平均より狭かったが、仲間に対するP.Sも狭かった。つまり、馴れ馴れしい性格だ。良く言えば友好的な性格。世の中にはこのようにパーソナルスペースが異様に狭い人もいるものだ。

 さて、しばらく彼女らを観察していると、一人の男が近づいてきた。灰色のスーツ姿で、頭がバーコードな初老の男性。バーコードはおばさんたちの席の前に立ち、「ごほん、ごほん」と何回か咳払いをした。きっと彼女らがあまりにうるさかったので、注意のために来たのだろう。

 彼女らは会話を止め、バーコードに対してあからさまに嫌な顔をした。その後、彼をキッと睨み、隣同士でひそひそ話を始めた。無言で指摘されたように感じ、悪口を言っているのだろう。

 この場合のパーソナルスペースはどうなっているんだろう? 気になったので、俺は被観察者をおばさんBからバーコードへ変更してみた。

 すると面白いことに、パーマおばさんのパーソナルスペースが一気に広がった。さっきまで隣の人にすら青かった円が、今は真っ赤である。注意してきたバーコードおじさんに対して敵意むき出しということだ。周りに迷惑をかけておきながら身勝手な人だが、こう思う人もいる。バーコードおじさんは、おばさんの一睨みのパワーに気圧されて逆に気まずくなったためか、そのまま無言で彼女たちの前を通り過ぎて行った。何故世の中のおじさんはおばさんに勝てないのだろうか。俺もこのおじさんと同じ立場に立ったら、まるでギリシャ神話の怪物メデューサに睨まれたように石化してしまうだろう。できれば関わりたくないものだ。くわばら、くわばら。



 今回も結構いい暇つぶしになった。残り二駅ほどで勤務地の最寄り駅だ。そろそろ頭を仕事モードに切り替えておかねば。

「〇〇(駅名)~。〇〇~。降り口は、右側です」

 車掌のアナウンスが鳴り、電車が停車した。扉が開き何人かの乗客が乗ったり降りたりした。

 俺はそのとき何故だか寒気がした。おばさんが大声でおしゃべりをしている以外何の変哲もない車内において、突然寒気を感じる要素はないはずだ。誰か暴力などの厄介ごとを起こして急激に他人の領域を侵したり、知らないうちに異世界へ連れ去られるなどのファンタジックな出来事が起こったわけではない。ただどこかから異様な雰囲気を感じ取っただけだ。

 ではこの異様さの正体は何だろうか? 考えられる可能性を上げてみよう。


 その一。俺が夢を見ている可能性。電車に乗ったときにうっかり寝て乗り過ごしてしまった、という経験がある人は少なくないだろう。疲れていたり、暖かくて心地よい日は、いつの間にか寝落ちしていることがままある。今日はまさにそういう日で、前日の仕事の疲れが残っていて、晴れていてポカポカした陽気に包まれている。寝落ちしてしまっても仕方がない環境だ。眠りに落ちていれば夢くらい見ることもあるだろう。

 夢は得てして不条理な展開をするもの。だからこの異様な空気も夢ならではの不条理さから生まれたものかもしれない。俺は実際に怪しい雰囲気を感じる夢を見たことがある。何か正体不明のものの気配を感じるが最後まで正体がわからず仕舞いの、もやもやしてなんとも気持ち悪い夢だった。形のない不気味さが最後まで付きまとい、嫌な感覚がしたものだ。今回も、こんな感じの悪夢かもしれない。

 だが、夢にしては少々ハッキリしすぎている。夢は、自分が夢の中にいると自覚している明晰夢であっても、どこか背景がぼやけていたり違和感があるものだが、今はそれがない。俺は間違いなくいつもの電車のいつもの席に座っていて、いつものように他人のパーソナルスペースを覗き見していた。この異様な雰囲気そのものを除いて、不自然なものは見当たらない。

 夢か夢ではないか調べる方法としての定番は、やはり自分の頬をつねること。痛くなければ夢、痛ければ夢ではない。

 ギュっ、と頬をつねった。痛い。夢である可能性は低そうだ。


 その二。これから起こる出来事を第六感で感じ取っている可能性。俺にはP.Sを覗き見る特殊能力があるくらいなのだから、ある程度鋭敏な直感力も持っている。この直感力をもってすれば、近い将来に起こる嫌な予感を感じ取っている可能性はあるだろう。これから人身事故が起こったり、電車が脱線事故を起こしたり、テロか何かで車両の一部が爆発したりするかもしれない。そんな目に合わせないために、直感が俺に教えて回避する道を示してくれているという考え方だ。

 だが、これは実際に起こってみなければ本当かどうかわからない。俺はこの直感に従ってみるべきか。もしかしたら、そのおかげで命拾いをするかもしれない。一方で、残りの乗車区間はたったの一駅だ。この狭い区画で事故が起こるなんて……と楽観的に考える俺もいる。

 結局、直感なんて根拠のないものを当てにするよりは、早く通り抜けてしまったほうがいいと思った。この可能性は否定はせずとも、肯定もせずに見過ごしておくことにした。


 この短い時間でそんな下らないことを考えていた俺だったが、異様な空気の発生源はすぐに判明した。

 それは開いたドアの向こうから漂っており、俺の乗っている車両にゆっくりと入り込んできた。それが中に入ってきてドアが閉まり切った途端に車内には異常なオーラが充満する。和やかな車内は一転して一気に物々しい空気に包まれた。電車は重い空気を運んだまま走り出した。

 オーラはこの男から発せられていた。年齢は五十歳ほどだろうか。白髪の混じった長い髪で、アロハシャツと短パンの姿で、非常に鋭い目つきをしている。体格は意外とがっしりしており、チンピラのように周囲を威嚇しているわけでもないのに、只者ではない雰囲気を醸し出している。

 奴は他の席が十分に空いているにも関わらず、あろうことか俺の隣に腰かけてきた。



 隣に男が座ったとき、俺の中で緊張が走り、恐れおののいた。顔を合わせているわけでもないのに、右方から漂う圧倒的なパワーを持つオーラ。実際に近くに来たことで、おばさんの比ではないことがわかった。わざわざ数ある空席の中から俺の隣を選んで座ってくる、なんとも無遠慮な奴だ。他人のパーソナルスペースを侵すことに何のためらいもない、さっきのおばさんと同類か。

 こんな時こそ俺のP.S.サイトが役に立つ。隣を見るのは怖かったが、意を決しこの男の顔を覗き見た。眉毛が太く、立派な白髪交じりの口髭を生やした厳つい顔だ。あまりの迫力にその横顔だけで思わず目を反らしてしまいたくなる。だが、ここで引き下がっては俺のプライドが許さない。俺は役立たずの能力とはいえ一応能力者だ。どうせ一駅の間だけだ、付き合ってやろうじゃないか。観察者を俺に、被観察者をこの男に設定。勇気を振り絞って能力を発動した。

 円が現れない。おかしいな。能力の発動対象の設定ミスか、あるいは俺の能力が異変を起こしバグったか。俺はもう一度能力発動をやり直した。しかし、やはり円は現れない。

 俺は納得がいかず、試しに被観察者を車内の別の人にセットし直し、能力を行使した。こちらはしっかりと円が現れた。正常に発動している。やはり、このオーラ男に対して発動しなかったのは一時的なエラーだろうか。もう一度被観察者をオーラ男に戻し能力を発動した。

 しかし、円はない。青円どころか、円周すら表示されない。これは一体どういうことだろう。初めての経験だ、円自体が現れないなんてことは。

 あの図々しいおばさんですら、ちゃんと円はある。彼女たちは彼女たちなりの領域を持っているのだ。それなのに、この男にはない。彼のすさまじいオーラに弾かれて俺のP.S.サイトが通用しないのだろうか?

 俺が男の横顔を見つめていると、横目でこちらを睨みつけてきた。威圧感のあるその眼光に、俺は気絶させられそうになった。だが負けていられない。俺はぐっと肛門に力を入れてなんとか踏ん張って持ちこたえた。

 一体何なんだ、この男は。俺の常識では説明しきれない。


 ——お前も能力者か。


 隣のオーラ男が睨んだまま言った。いや、これは実際に彼の口から出た言葉ではない。口髭をたくわえた口は全く動いていなかった。そして、直接脳に響くような声だった。これは能力者……テレパシー使いか?

 俺が虚を突かれ口をもごもごさせていると、再びテレパシーが聞こえてきた。

 ——答える必要はない。儂のテレパスはお前の考えていることがわかる。言わずとも返答を思い浮かべるだけでよい。


 やはり能力者か。自分の考えていることを伝達するだけではなく、考えを読み取る力もある様子だ。

 弱ったな、これではこちらが何をしようとしているか筒抜けだ。うかつなことは考えられない。


 ——そう身構えるな。別に取って食おうというわけではない。ただお前と、特殊能力者と話がしてみたいと思っただけだ。


 能力者と話がしたい……か。ほとんど役に立たないとはいえ、そもそもこのような能力を持つ者は少ないだろう。能力者同士が邂逅かいこうしたとなれば、関わりたくなるのは当然だろう。


 ——お前を見たとき、いや、この電車が停車したときからか。電車の中から独特のにおいを感じ取った。わしと同類のにおいをだ。お前が儂に対して何かを感じ取ったようにな。だから、お前が能力者だということはすぐにわかった。


 俺がこのオーラ男に対して感じていた異質な雰囲気を、彼も感じていた。ということは、能力者同士は互いに通じるところがあるのかもしれない。俺は自分以外の能力者を目にしたのは初めてだが、このオーラを見れば一発で納得がいく。


 ——名乗るのを忘れていたな。儂の名前は堀田伝蔵ほったでんぞう。何せこの能力を使って誰かと話そうとしても驚いて逃げられてしまう。どうか無礼を許してもらいたい。お前は特殊能力に理解があるからか、逃げ出さなかった。ありがたいことだ。お前の名前は……幅野はばのというのだな。覚えておこう。


 俺の思考を勝手に覗き見しながら男はどんどん脳内にテレパシーを送ってくる。そりゃ、ただでさえ厳つい顔をしたおっさんがいきなりテレパシーで話しかけてきたら誰だって驚くだろう、と俺は思った。能力の有無に関わらず、普通に話しかけられただけでちびってしまいそうな迫力だ。俺だって、能力者でなければ今頃逃げ出していたはずだ。


 ——くくく。そうか。まずは儂の顔はやはり恐ろしいと思うのだな。貴重な意見を有難う。それはそうとして、儂はお前に興味がある。能力者として以上に、お前個人にだ。その能力はどのようなパーソナリティから生まれ、どのような環境で育ってきたのかということを。



 俺の能力のルーツ。それはどのようなものだったか。男の話を聞いていると、俺はおのずとそれについて考えていた。

 気付いたときにはこの能力が発現していた気がするが、はっきり自覚するようになったのは、おそらく俺が中学生の頃だ。

 俺は人と人との距離感をとても気にする子供だった。母親が神経質な性格だったということも要因の一つだろう。母は秘密主義で、自分のパーソナルスペースを侵されるのを極端に嫌がる人だった。少しでも中へ踏み込めば、烈火の如く怒り狂った。一度母が部屋で秘密の電話をしているところに入ってしまったことがある。そのときはよほど聞かれたくない会話でもしていたのか、怒られて、きついお仕置きを受けた。理不尽に、容赦なく、俺の尻を叩いた。たとえ身内であったとしても関係ない、自分の領域に上がり込む者は徹底的に排除する。それが俺の母親だった。

 そんな母に育てられた俺は、思春期に入る頃には、どこまでだと怒られないか、様子を見ながら人と接するようになっていた。他人の触れられたくない領域の範囲が気になり、常にそこに足を踏み入れないようにビクビクしながら日々を過ごした。その意識があまりにも強くなってしまったためか、いつの間にか他人のパーソナルスペースが形として見えるようになっていた。これがおそらく俺の能力、P.S.サイトのルーツ。環境が俺の力を覚醒させたのだ。

 

 ——なるほどな。やはり生育環境や経験が能力に及ぼす影響は大きいということか。勉強になったぞ。儂の能力もおそらくは経験によるものと考えられる。二十年ほど前、細かい話は言いたくないので省くが、これは儂が苦い経験をした直後に発現した。こんななりでも結構ショックを受けた出来事であった。一方的にお前の頭を覗いてこちらからは言えないとは随分都合のいい話だとは思うが、これだけは本当に言いたくない。すまぬ、理解してくれ。


 俺はそんな話など別に聞きたくもなんともない。お前が勝手に俺の考えていることを読み取り、一方的に話しかけているだけだ。謝られても困る。


 ——ふふ、それもそうか。では儂はお前に一方的に話しかけることを続けよう。儂の経験の仔細しさいについて話すことはできぬが、要点を簡単に話せば、徹底的に拒絶された恋だった……。


 男は虚空を見つめたまま自らの脳で語り始めた。


 ——ある者に恋をした儂は、積極的に気持ちを相手にぶつけていった。何度も何度もぶつけた。だが、何度やっても無駄だった。想いは際限なく増幅していくのに、全く受け入れてもらえず、何故か俺を避け続けた。理由が知りたかったが、相手が答える前に逃げてしまい、聞くことができない。どうしても嫌なのか、聞き出せないのは仕方なくもあったが、絶対に真意を知りたいという願いが儂にはあった。


 恋とか、見た目によらず可愛いところがあるんだな。だが、押してばっかりじゃ恋は実らないもんだぜ。


 ——そうかも知れぬ。だが、神は儂の願いを聞き入れた。このとき儂はテレパス能力に目覚めたのだ。最初は自分でも不気味に感じたが、すぐに慣れた。願い通りの力が手に入ったのに、何を気持ち悪がる必要があるか。俺は強力な武器を手に入れた。早速この能力を使って相手の気持ちを読み、気持ちを伝えた。


 そんなことをしたら、余計怖がられるんじゃないか? この世に妙な能力が存在していることを知っている俺でさえも、正直突然頭の中に話しかけられてびっくりしたぞ。

 

 ——ああ、お前の言う通り、あいつは絶叫して逃げたよ。思考をテレパスで読みとることで、あいつの考えを知るという目的自体は達成できたがな。


 へえ、そうかい。でも、これまでの話の流れからしてろくな答えではなかったのだろう。


 ——答えは俺のデリケートな思い出に触れるのでな、言わないぞ。苦い経験と先に言ったが、これがその経験だった。とにかく、拒絶的な答えではあったよ。だが、儂はこの能力を得るきっかけができたのだ。むしろこの失敗はよかったのだと前向きに考えることにした。その後も儂はこの能力を使い、気になった奴をナンパして回った。


 おいおい、それじゃ能力の悪用だろ。同じ手を使っても、同じように怖がられるだけじゃないか。ナンパなんてやっても成功しないだろう。


 ——能力の悪用? それはお前も似たようなものだろう? 適当に暇つぶしに使うくらいだとお前の脳みそは言っている。


 確かに、ほとんど有効にP.S.サイト能力を使えたことはなく、この男の言う通りだ。まあ、俺の頭の中を直接覗いているわけだから図星で当然ではあるが。


 ——もちろんこれは一度も成功せず、皆脳に直接話しかけた時点で驚いて逃げていった。だが、儂はもう止まらない。この能力を使うこと自体が快感になっていた。相手の心が読めるのだから、反応がありありと儂のもとに伝わってくる。知るということはまっこと楽しいことよ。それが表に出ない内なる考えであればなおさらな。思考した当人と俺のみが知りえる秘密というわけだ。これは最高の遊びだよ。


 趣味悪いな、おっさん。そんなんだからモテないんだ。


 ——こうなったときにはもう恋などどうでもよくなっていた。だが、それを何年も続けていると流石に飽きが来る。新たな刺激が欲しかった。心を揺り動かす刺激が。それを探し求めていたときに現れたのが、お前だ。お前は能力を持った人間だ。しかも儂も力を持っている、ということを感じ取れるときた。儂は心が躍った。儂のことを理解してくれるかもしれない者が現れるとは。久々に儂は興奮してしまったよ。


 たまたま出会って時間があったから今はお前の自分語りに付き合ってやっているが、俺は何度もじじいのくだらない話に付き合うほど暇じゃないぞ。それに別にあんたのことを理解したつもりはない。能力の存在をちょっと知っているだけだ。



 窓から見える景色は、右から左へ流れていく。もうそろそろ目的地に到着する頃だ。

 隣に座るじじいは相変わらず凄みのあるオーラを漂わせている。じじいは「ふうっ」と溜息を一回ついた。


 ——やれやれ、わからんか、この興奮が。お前が見ることができるのは人の許容範囲だけかね。今回の接触に限って言えば、儂は単なる悪ふざけで他人と同じように接しているわけではない。お前に親しみを持って接しているのだ。


 つまり、どういうことだ。


 ——こういうことだ。


 じじいはぴったりと俺の身体にくっついてきた。

 ひっ、と思わず俺は小さく叫んだ。やっと意味を理解して背筋がゾクっとなった。彼の異様なオーラの正体も、パーソナルスペースがないのも、俺のすぐ隣に座ってきたのも、全て合点がいった。

 

 ——お前、よく見るといい男だ。儂のものにならんかね。


 このじじいのパーソナルスペースがないのは、能力に弾かれたとか、隠す能力があるとか、そういう類のものではない。ただ単に見えないほどスペースが極小だったのだ。

 パーソナルスペースは、好意を持っている人に対しては狭くなる傾向にある。その人を受け入れており、あわよくば近づきたいと思っているため拒絶の必要がないのだ。つまり、P.Sサイトの円が見えないくらい狭い彼は、好意を持って俺に接している。しかも並みではない。好意の程度がlikeくらいであれば、狭くても見える円が発生する。円が見えないということは、それはlikeを越えたlove、いや、それ以上のレベルだ。これがこのじじいが俺に密着できる理由。彼は俺に密着したいと強く願っているからに他ならない。きっと元々はそういう相手を探していて、物色していたのだ。そのような中で、能力と勘を持ち合わせた俺を偶然発見して、運命の相手に巡り合えたと思っているのだ。これはまずい。俺にそっちの趣味はない。誰か助けてくれ。


 ——察したようだな。能力を知る者同士、理解しあえる良きパートナーになれるであろう。


 俺は今、恐怖で絶叫したくてたまらない。吊り橋効果を狙っているのならやめてくれ。確かにお互いドキドキしているだろうが、俺とお前ではドキドキする意味が違う。頼むから恐怖と性欲をごっちゃにしないでくれ……。


 ——そうか、それは残念だ。だが、折角会えたのだ。せめてお友達から始めさせてくれ。


 この男、心の声は聞こえるが、その声の意味までは理解できないようだ。過ぎた能力というものは、使い手次第でとても危険なものになりうるということを俺は改めて認識した。一刻も早く、ここから抜け出したい。


「次は~……降り口は~……」

 

 車内アナウンス! やった、解放される! 駅のたった一区間がここまで長く感じられたのは初めてだ。


 ——ほう、ここで降りるのだな、もっと一緒にいたかったのだが、残念だ。


 これ以上一緒にいてたまるか。俺は喜んで立ち上がり、ドアのすぐそばまで歩いた。一刻も早く彼の元を離れたかった。

 電車が停車し、ドアが開く。俺は早歩きで電車を出る。よし、よし! 逃げられる! このまま三番出口から出て、会社に直行だ。俺は頭の中で無意識のうちに会社への道筋を地図にして描いていた。


 ——なるほど、そこに勤めているのだな。わざわざ地図で示してくれてありがとう。お前は親切だな。これでいつでも会いにいける。もう寂しくないぞ。


 ハッ、やってしまった! 彼は思考を読み取れる。つい思い描いてしまった会社への道を覗かれてしまった! 俺は堀田伝蔵の毒牙から逃れることはできない。


 ——また会おうね。さらばだ、幅野広司さん。


 ドアが閉まり、彼を乗せた電車は急激に遠ざかっていく。俺は茫然とし立ち尽くし、それを見送った。やはり、この能力は役に立たない。パーソナルスペースなんか知っても、そこに意図的にずかずかと踏み込んでくる者に対しては無力なのだ。それもどこからでも届く、テレパスという長い手足を使って……。

 人との距離感を気にするあまりに発現したこの能力がなければ、じじいは俺に興味を持つこともなく、また俺も変な対抗心を持つことなく、この現実感のない脳内会話も繰り広げられなかっただろう。誰よりパーソナルスペースが広いのは俺自身だ。パーソナルスペースが広ければ広いほど、その範囲に他人が入り込みやすく侵されやすいということに気が付き、俺は咽び泣いた。

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