11.三日目七谷水難事件③

 ばん、と机を叩いて立ちあがった俺には、みんなの目に宿った感情が見えていた。


「あ?」

「なんだよ、いまさら」


 それは“敵意”。

 昨日まではみんな、なんとなく「こいつ、あんまり好きじゃない」くらいにしか俺に感じるところはなかったような気がする。それが、この号令で決定的に「嫌い」に変わった。今、くっきりと。それがはっきりと分かった。当然、立ち上がる者はいなかった。


「ど、どうしたんですか、みなさん? こ、今度は、ちゃんと委員長さんが号令をかけたんですけどぉ」


 水を吸い込み過ぎてしんなりとしてしまった真っ白なタオルを適当に巻いた無敵さんが、あわあわと手を彷徨わせている。恥ずかしさからか顔を真っ赤にしている無敵さんからは、しゅーっと湯気が立ち昇っていた。

 どんだけ熱くなってんだ、お前は。血液が沸騰してんじゃないだろな? 人間って、体温が四二度を超えると脂肪が固まって死ぬはずなんだけど。

 しかし、なるほど。ここは進学校。ここに入れたという自負が、おかしなヤツには従えないというプライドを生み出しているんだろう。最近なかなか耳にはしないが、エリート意識ってやつはまだこうして生き延びているわけだ。

 実際、ここに通っていると聞いた者は、みんなたいてい多少なりともびっくりする。なにしろ全国的にも名の通った、歴史のある学校だから。

 ふぅん。プライドを保つためには道理も無視、か。それがお前らのスタンスなわけだ? いいだろう。それが正しいのかどうか、俺がきっちり教えてやる!


「どうした? なぜ立たない? 留守先生が言っただろ? 号令はクラス委員長がかけなさい、と」


 俺はこっちをチラ見している男子に向かってそう言った。そいつは「ふん」と鼻から息を吐き出し、そっぽを向いた。


「そ、そうです。なのに」

「悪い。ちょっと静かにしててくれ、無敵さん」

「ははは、はふぅっ」


 俺は無敵さんの援護を遮った。いや、本当に悪いとは思うけど。

 お前は、もう十分に頑張った。ここからは、俺の仕事だ!


「言っておくが、ここで立たないやつは無責任ってことになる。いい加減なヤツってことにな。なぜだか分かるか?」


 返事をする者はいなかった。ただ。


「くすっ」


 窓際一番前の席に座る男の肩が、少しだけ揺れた。


「何がおかしいんだ、阿久戸?」

「いや、なにも。話の腰を折ってしまってごめんよ。続けて、ホズミくん」


 少しだけ振り返った阿久戸の横顔は、やはり綺麗としか形容出来ないものだった。阿久津の流し眼と、一瞬だけ視線がガチ合う。瞬間、俺の中に騒がしい警報音が轟いた。


「……なぜなら、俺はクラス委員長に立候補したわけじゃあないからだ。昨日、無敵さんの家に向かった俺には、クラス委員長をどうやって決めたのか分からない。しかし、例えば留守先生が推薦したとしても、クラスの誰かが推薦したにしても、それをお前らは良しとした。つまり、俺は民意に選ばれた存在であるはずだからだ」


 阿久戸に感じた不穏な印象を振り払おうとして、俺はつらつらと淀みなくそう語った。すると。


「推薦したのは七谷だぜ」

「は?」


 そう教えてくれた後藤田は、間抜けな声を出した俺に向かって親指をぐっと立てた。歯がきらんと光っている。なにその爽やかな笑顔? 変態のくせに。


「そうなの! オトっちゃんを推薦したのは何を隠そう、アイドル菜々美なのでしたっ! てへっ☆」


 七谷が舌を出して自分の頭をこちんと叩いた。笑顔で。ものっ凄くいい笑顔で。だから、なんで笑ってんの、お前ら? この状況、お前が作ったってことなんですけど。


「はぁっ? 誰がアイドルだっ! 違う、そんなことはどうでもいい。お、お前が、俺を委員長に推薦したのか、七谷ぃっ!?」

「てへへっ」


 怒りボルテージ上昇中。あと少しで必殺技が使えそう。お前ら二人、フルコンボでボッコボッコにしてやんよ!


「ちなみに副委員長に無敵さんを推薦したのは私だが」

「えええええ! く、黒野さんっ?」


 中指で眼鏡をくいっと押し上げる冷静な黒野に、無敵さんが叫びを上げた。


「無敵さんは黒野かよ! なんなんだ、お前らっ? どうして俺たちをこんな目に遭わせる?」


 つい怒鳴ってしまった俺に、七谷は。


「えっ? だって、いなかったから」

「それ、無敵さんの推理そのまんまじゃねぇか!」


 そして、黒野は。


「私はそんな理由で無敵さんを推薦したわけじゃない。ただ、決めるのに意外ともめてな。私が早く帰りたかったのでそうしただけだ。観たいテレビがあったので、やむを得ないことだった」


 と、至極当たり前のようにそう答えた。え? 録画できないの、お前んち?


「全然やむを得なくないですよっ! もっとちゃんと話し合いましょうよぉ!」


 無敵さんが激しく突っ込んだ。相当ショックを受けている。確かに、この理由は酷過ぎる。結局は「いなかったから」なんだけど、それを悪用するに気が咎めたという形跡が黒野にはなかったから。


「……お前ら、いじめっ子か? 敵なの? 味方なの? どっち?」


 たまらなくなり、俺は溜め息交じりに黒野、七谷、後藤田を順に見た。


「菜々美はオトっちゃんの味方だよっ!」


 七谷はぴしっと俺に敬礼した。迷いがねぇ。意味不明。


「俺? や、やめろよ、ホズミ。こんな公衆の面前で、そんなことが言えるかよ」


 後藤田は頬を朱に染めて身を捩った。もういい。お前は死ね。


「敵か味方か、だと? そんなもの、どちらでもないに決まっている。お前の言いたいことが分かるから、私はこうして起立した。こんなこと、もうどうでもいいだろう? それより、この空気をなんとかしろ」


 腕を組んだ黒野は、ぷいっとそっぽを向いた。偉そう! どうでも良くないことしたって自覚がねぇ! ……が。


「この空気、か」


 言われて、教室に目を戻す。


「くくっ。バッカじゃねーの?」

「無敵さん係、内部分裂? くっすくす」


 微かに。

 教室には、嘲笑が充満しつつあった。


「…………」


 留守先生は、動かない。

 何を考えている? この先生、一体……?


「ふふっ」

「阿久戸……」


 なぜだかは分からないが、阿久戸の含み笑いは良く俺の耳につく。その度、心がざわめき始める。と、ここで無敵さんが昨日休んだ理由を思い出す。


『誰って。阿久戸くんですけど』


 そうだ。昨日、無敵さんを“休ませた”のは、阿久戸だった。元はと言えば、そのせいで、今、こんな状況になっている。では? まさかとは思うけど。

 これは、阿久戸の意図したところ、なのだろうか? もしそうだとしたら、なぜ、なんの為に――?


 まぁいい。今、それを考えていても仕方がない。このままでは、このクラスは間違いなくおかしくなる。何度となく、幾度もそういうクラスは見てきている。その俺の勘が、そう告げている。

 すでにおかしなヤツが何人かいるけど。無敵さんとか、無敵さんとか、あと、無敵さんとか。それでもなんとかしなければ。


「そうだな。ひとつ、なんとかしてやるか」


 黒野に応え、俺は正しく前を見据えた。


「留守先生」


 俺は留守先生に呼びかけた。


「なぁに?」


 留守先生はにっこりと微笑んだ。いつもの留守先生だ。この場面でその笑顔って、なかなかサイコホラーしてないか? 結構怖いな、留守先生って。


「七谷と黒野の推薦に賛成したのって、何人ですか?」

「委員長と副委員長の決議? それなら、阿久戸くんを除いた全員よ」

「阿久戸、以外?」

「ええ」


 俺のいる席からわずかに見えた、最前列に座す阿久戸の口元は、にぃ、と吊り上がっていた。


「……やりやがる」


 思わず。

 俺の口角も上がっていた。

 ふ。いいだろう。どうしたいのか知らないが、俺は自分の言いたいことを言うだけだ!


「朝の挨拶、始業終業終礼も、お前らはそうして座っているつもりなのか? 他の教科の先生たちにも、こんな状態を見せるのか? 今、お前らがそうしていられるのは、留守先生だからなんじゃないのか? 今、号令に従わないのは、留守先生を舐めているってことだろう。俺たちへの評価を下すに多大な力を持つ担任教諭に対し、いい度胸をしているな」


 まずは脅す。正常で健全な判断が出来なくなっている相手には、頭から冷や水をかけてやるに限る。


「あっ……」

「う。そ、そう言えば……」


 効果はあった。ただ流されているだけのやつらは、早速動揺し始めた。良し、もうひと押し!


「お前らは、そんなひどいことをしているって分かってんのか? こんなに可愛らしくて儚くって弱々しくって小学生みたいに頼りない、声もロリキャラアニメ声優まんまな留守先生に、良くそんな非道なことが出来るもんだ。

 みんなが留守先生を、しかもたった三日にして舐めまくっているなんて。可哀そうだろ、留守先生が。こんなことを聞いたら、ひょっとしたら泣く可能性だってあるんだぞ」

「ふあああぁ~! や、やめてぇ、ホズミくーんっ! 先生、言われなければ気付かなかったはずなのにぃー! せ、先生、さっきから、心がずきずきと痛むのぉーっ!」


 俺のひと押しで最初に落ちたのは留守先生だった。ひょっとしたら泣くかもとは言ったけど、ひょっとしなくても泣いていた。


「あ、あれー? 俺、留守先生を傷つける為に言ったんじゃないけどなー?」


 校長室でならともかく、生徒の前ではさすがに泣かないだろうと思ってたのに。先生、ホントに大人なの? 実はマジで小学生なんじゃないだろな? その胸、実は作りもの? もしそうなら、超がっかりなんですけど。


「おい、ホズミ。無敵さんだけでは飽き足らず、先生まで泣かすとは。どこまで酷いやつなんだ、貴様は」

「鬼だね、オトっちゃん」

「はふぅ~。そ、そのドSな王子っぷりが、またイカスぅ」

「酷いです。鬼畜です。やっぱりホズミくんは、人間の皮をかぶった悪魔なんですっ」

「ち、違う! 俺は、みんながどれほど酷い事をしているのか、ただ説明しただけだっ!」


 クラス中の冷たい視線を代弁するかのように、黒野、七谷、後藤田、無敵さんが、それぞれ俺に非難を浴びせた。

 どうしていつも俺だけが……。かなり納得いかないが、これが効果てきめんだった。


「ははっ。分かった分かった。確かにこれはひどいことだ。留守先生の涙で、それがよーく分かったよ」

「だな。おれだって留守先生好きだし」

「ま、あたしも、留守先生を泣かせたくなんかないもんね」


 がたがたと椅子を鳴らして立ち上がる者が出始めた。さん、し、ご……。お。七人か。


「ありがとう」


 これで起立した者は俺たち無敵さん係の五人と合わせて十三人。残り、二二。過半数にはまだ遠いが、まずまずの滑り出しだ。そう思い、俺は立ちあがったやつらに会釈した。


「み、みんなぁ……」


 で、留守先生は瞳をうるうると潤ませて、神に祈るかのように手を組んじゃったりしている。今立ち上がった奴等への感謝の気持ちは、俺の比ではないらしい。この時点で、留守先生の担任教師としての威厳は、すでに地に堕ちていると思われるが……。

 留守先生も、俺と同じで結構とばっちりを受ける星の下に生まれついているんだろう。留守先生と結婚するという未来もアリかなー、とか思ってたけど、そんな性質を持つ二人が一緒になったら悲劇しか招かないような気がしてきたので、もっと慎重に考えたいと思います。


「勘違いするなよ、ホズミくん。ぼくは留守先生の為に立っただけだ」


 あと、七三メガネのひ弱な坊やが口をへの字に曲げて釘を刺して来たけど、そんな弱っちぃのに、なんでそんな偉そうに出来んの? 悪いけど、俺、めちゃくちゃ見下しちゃいますよ? そのちっぽけなプライド、もっと傷つけちゃいますよ? なにしろ性格悪いんだ、俺は。自覚してて直さないんだから、俺もたいがい嫌なやつだと、自分で思っているくらい。だからさ。いまさら、お前一人に嫌われたって屁でもない。


「ああ。理由なんかどうだっていいんだ。とにかく号令には従った。それだけで、お前の人間性は保たれたんだからな。最低ギリギリのラインで、だけど」

「ぐぅ」


 立ちあがっておきながら、まだ自分の面子を気にしている七三メガネがムカついたので、追い打ちをかけてやった。従ったという事実攻撃と、お前の為に、という心情攻撃。これは結構効くだろう。


「何が人間性だ。たかが朝の号令ごときで、バカバカしい」

「だよねー。なにムキになっちゃってんの、あいつー?」

「やだやだ。先生に権利を与えられたからって、はしゃいじゃってさ。暴帝になるのって、絶対ああいうタイプのやつだよな」


 まだ座ったままのやつらが、三々五々、好き勝手に話を始めた。


「おい。言いたいことがあるなら、直接俺に言ってこい。同じ意見のやつらと話し合って、なんか違う結論とか出んのかよ?」


 ち。イライラする。ここでもそうか。そうなのか。ここにも……、群れないと主張出来ないやつらしかいないのかよ!


「言えよ! 俺の号令に従えない正当な理由を! 自分が正しいと思うなら、俺に論戦を挑んでみろっ!」


 言ってしまった。やってしまった。

 しまった! 俺は、また!


「ホ、ホズミ、くん……?」


 心配そうな無敵さんの線の目が、俺の顔を下から覗きこんできた。


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