第3話:置き去りにしてしまった願いを……

 人が消えた街の中、僕は通い慣れた新橋方面へ向かって歩いている。巨大な高層ビル群から覗く午後の空は、いつもより光の量が多い。車が全く走っていないのは、東京都が発令した戒厳令のためだ。主要幹線道路を含め23区内の車道は全面通行禁止となっている。


 いつだったかはるかと二人で歩いた品川インターシティーもこんな景観だったように思う。平日の深夜だからなのか、人影も少なく、それでも近未来的なデザインの巨大な建造物は確かに息づいていて、そのギャップが不思議な空間だった。人の存在が限りなく薄いのに、照明は煌々と照らされ、街だけが生きている風景。僕らはそんな空間を抜けながら、品川駅に向かって歩いていた。


「授業参観、来てみる?」


 いつもと同じように唐突に始まる遥との会話。その文脈を探りながら彼女に視線を向けてみる。少し幼い彼女の表情に、まるでいたずらをしたばかりのような、少年のあどけなさが含まれていた。


「小学校に通わせるような子供がいるように見えるかい?」


 遥と結婚をして、いずれ子供を授かることができたのなら、僕にもそんな日常を経験することができたのだろうか。


「ふふ。そんなふうには見えないわよ」


「なら、ちょっと気まずいかな。そもそも小学校には関係者以外入れない、そうでしょう?」


「学年主任には許可を取ってあるの。大学の同期が、参考までに私の授業を聞きたいって」


 突然、鳴りだした携帯通信端末のアラーム音が記憶の再生を一時停止させる。緊急安全性情報は、一時間おきに繰り返されていて、どう設定しても解除することができないようだ。真っ赤な警告に染まる液晶画面には、落下予測地点が東京都品川区であること、東京都からの即時退去を要請する文字情報が並んでいる。


 この状況は絶望と呼ばれる何かなのだろうか。否、僕はそうは思わない。むしろ、みな希望を携えながらこの街から去っていくのだと思う。だから決して後ろ向きなことではない。後ろ向きに見える行為の中にこそ、真に前向きな行為な行為が含まれていると、僕はそう思う。絶望にとらわれ続けているのは、むしろ僕自身なのだ……。


「月は地球のまわりを回っています。このように、星が星のまわりを回っていることを公転と呼びます。はい、公転。月は、地球のまわりを公転しているんですね」


 遥を見上げる子供たちの真剣な眼差しに、自分の小学生時代はどうだったろう、と考えを巡らせてみるけれど、当時の授業風景も、あの頃の自分が何を考えていたのかもよく覚えていない。関心は人の記憶を形作る重要な要素だ。関心のないものに人は視線を向けないし、仮に視線を向けさせられたとしても、記憶には留まらない。


「地球そのものも太陽のまわりを公転しています。地球が太陽のまわり一回転するのに、ちょうど一年かかります。季節が一年ごとにくりかえす理由は、地球の太陽のまわりの公転しているからなんです」


 そう言って遥は、児童の父兄に紛れて、教室の後ろにたたずむ僕に視線を向け、軽く笑みを作ってくれた。教室の窓から入り込んでくる風が、カーテンを揺らし、そして遥の髪をなびかせていった。再びめぐる季節を、もう少しだけ君と一緒に過ごしたかった。


 忘却とは、記憶されていたものが無となることではない。果てしない沼の底に埋めたはずの記憶の破片は、再び浮かび上がってくる可能性を秘めている。忘却とは記憶の無を願うことにすぎない。そして、そんな願いは往々にして星に届かない。


「おいっ。君、そこで何をしているっ」


 過去の情景を再び切り裂く鋭い声に、僕は思わず後ろを振り返る。自衛隊の特殊装甲車両が僕の後方から近づいていた。ひと気のない第一京浜に、迷彩柄の特殊車両だけが走っている景観。街の終わりにそぐわない違和感がそこにはある。


「ここは緊急退避区画だ。速やかに退避しなさい。今ならまだ、神奈川方面へ向かう列車が出ているはずだ。衝撃波警戒区外エリアまで、すぐに向かいなさい」


 迷彩服を着た男が、車両の窓から上半身を乗り出し、そう叫んでいる。まだ残る住民を探し出し、安全に退避させるために、警視庁と自衛隊は共同で昼夜問わず活動を続けていた。しかし、上空を旋回していた自衛隊のヘリコプターも、その姿をめっきり見かけなくなった。もう残された時間はわずかなのだろう。


「分かっています。僕は大丈夫ですから」


 急ぎ向かう場所があるのだろう。迷彩柄の車両に乗った自衛隊員は、それ以上何も言わず、そのまま僕の前を走り去っていった。


 終わりの時が迫っている瞬間、自分以外の誰かを想えるのなら、その想いはきっと本物に違いない。


「そろそろ……かな」


 もし、過去が取り戻すことができず、受け止めるしかないことなのであれば、なぜ人間は過去に対して、もがき苦しみ、取り戻すべく抗うのだろうか。その答えを探したい。そう、強く思ったのは、小惑星が都心に落下するという報道を目の当たりにしてからだ。


 だから僕は、汐留ビルディングの最上階に向かっている。正面エントランスからエレベーターホールに向かうも、電源は全て落とされているせいか、照明も消えている。僕は廊下の突き当たりから、上層へ向かう非常階段を駆け上った。


 かつての職場であるこのビルの内部構造は知り尽くしている。この階段を登り切ればやがて最上階に出ることができる。


――空に舞う、迷える星を、もう一度、君と眺めたいんだ。


 ビルの最上階から屋外へ出てみると、異様な温度に驚いた。真夏のような外気に、息をするのも苦しい。


 やがて視界には、東の方角から、真っ白な雲が一直線に西側に向かって延びてくる光景が映し出される。その先端には青空を真っ赤に染める巨大な小惑星。真下に小さく見える新橋駅のホームが、あの時と同じように朱に染まっているのは、決して西陽のせいじゃない。


 その軌道の下側と上側、空をくっきりわける境界線。太陽の光は、小惑星がまるで尾を引いているように吐き出している直線状の白い雲に分断され、その上下に明暗差をはっきりとつけていた。


「自然がこんなにもはっきりと空間を分節するなんて……」


 上空を一直線に飛来してくる星は、小惑星なんて言うのだけれど、直径は30メートルもある。空を覆い隠すものがないこの場所から眺めてみると、まるで太陽が二つになったみたいだ。空気を秒速18キロメートルで切り裂くその音は、音というよりはむしろ、鋭い風に近い。まるで桜の花びらを散らしていくように、空の青さを蹴散らしていく。


 小惑星の動きに合わせて、地表に伸びる影の方向が素早く変化していく様子は、太陽をコマ送りで再生した映像のようだ。


 目の前を横切る巨大な光が、僕の目線のやや下側を通過したとき、大きな破裂音とともに、いくつかに分裂していくのが見えた。あまりの音の大きさに、僕の聴覚神経はその機能を失ってしまったようだ。耳鳴りだけが頭の中に響くなかで、分裂した小惑星のかけらは三方向に別れ、予測された品川よりもやや南側に落下していくように思えた。


 僕はゆっくりと瞼を閉じる。置き去りにしてしまった願いを、再び……。


 無音の中、目を開けると、その瞬間、辺りにそびえる高層ビルの窓ガラスが一斉に吹き飛んでいった。小惑星が空中で炸裂した時に発生した衝撃波だ。それは、地面を揺らすような振動となって、僕の体もビルの屋上から吹き飛ばしていく。


 すっと重力が消え、真っ白な光に包まれていくなか、紫色の花びら舞う季節にたたずむ遥の姿が浮かび上がる。彼女の微かな笑顔の向こう側、言葉では表せないような大切な感情に触れることができたんだと思う。


 印象のその先に、純粋な不可能性があるにもかかわらず、僕らは互いの存在を必要としていた。


 やがて桜の花びらは、紫色の残像を残しながら吹き飛んでいき、そして遥の幻影も白い光に包まれていく。


星迷う空の下で願う夢は遥か。


――またね。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

星迷う空の下で願う夢は遥か 星崎ゆうき @syuichiao

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ