第9話
今日も昼の片付けまで終えた後、アンゼリカは小屋を出て反狼の牙のアジトに向かう。
道も慣れてきて、最初と比べれば体力も付いてきたのか、息も切れないようになってきた。ローブを引き寄せ、自然と歩くスピードが上がる。アジトはすぐそこだった。
「お、アンゼリカ! いらっしゃい」
アジトに着けば、最初に気がついたのかアルフレッドが声をかけてきた。
アンゼリカとは反対に真っ黒な肌の彼は笑いながら彼女の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜるように撫でた。ローブ越しとはいえ、そんなことをされれば当然のごとくアンゼリカの白い髪は乱れる。
「ちょ……っやめてよそれ! ぼさぼさになるじゃない!」
「あー、ごめんごめん、つい。もうやらないよ」
「そう言って昨日もやったじゃない!」
あれ、そうだっけ、とアルフレッドはこともなげに言うが、アンゼリカからすればたまったものではない。髪は女の命なのである。とはいっても、本の受け売りなのだが。
「いやぁ、アンゼリカの頭って丁度良い位置にあるからさ、つい撫でちゃうんだよな」
「何よ、チビっていいたいの!?」
「うーん、そうとも言う」
「怒るわよ!」
きゃんきゃんと騒ぐアンゼリカを特に気にした様子もなく、アルフレッドが笑った。
「はは、アンゼリカは今日も元気だねぇ」
じゃれあう二人に話しかけたのはレオナだった。赤毛を揺らしながら近づいてきた彼女はアンゼリカに歩み寄りその体を抱きしめる。ルゥより少し身長の高い彼女は、あっさりと小さなアンゼリカを包み込んでしまえるのだった。レオナがアンゼリカをこうやって抱きしめるのもいつものことだ。
「アンぜリカはこのサイズが可愛いんだよ、女の子は小さいのが良いのさ」
「むぅ……でも、私もレオナみたいに大きくなりたいわ」
「あっはっは、あたしみたいに図体だけでかくなっても何も得しないよ!」
快活に笑う彼女だが、どうしてもアンゼリカの視線はレオナの豊満な胸にいってしまう。次いで自分の胸を見下ろすと、悲しいくらいに真っ平らだった。
ローガンはアンゼリカよりずっと大人だ。やはり胸はある方が良いのだろうか、とアンゼリカはうなる。
「……やっぱり、羨ましい」
「なぁに言ってんだい。胸なんて、アンゼリカだってまだまだ子供なんだから、もっと大人になったらちゃんと育つさ!」
笑いながらレオナはまたアンゼリカを抱きしめる。そんな二人を見ながら、若干蚊帳の外にされてしまったアルフレッドが、あはは……、とどこか悲壮感のある笑みを浮かべていた。
「いやぁ、やっぱ女の子同士の会話は華やかだよなー……」
「何オッサンみたいなこと言ってんだ」
「あれ、ルゥ。今日の訓練は終わったんだな」
廃墟の奥から出てきたルゥは、ローブはなくインナーとズボンだけというラフな格好だった。先程までの運動量を示すように、彼の顎を伝って汗が落ちた。
「あぁ。……来てたのか、アンゼリカ」
「え、ええ」
「ああ丁度良い! なあルゥ、アンゼリカはこのサイズが可愛いと思わないかい?」
「!? ちょ、ちょっとレオナ!」
レオナがアンゼリカの肩を掴んで前に押し出す。
ルゥの前に出される形になったアンゼリカは抗議の声を上げるが、レオナはいいからいいから、と笑った。
「……何の話だ」
先程の会話を知らないルゥには話が良く飲み込めないらしい。眉間の皺をさらに深くして問うた。レオナがあっはっは、と笑う。
「身長だよ身長、やっぱ女の子は小さい方が可愛いだろ?」
「はぁ? 興味ねぇよ」
「またまたぁ、ルゥだってあたしみたいに自分よりでかい女より小さい娘の方が好きだろ~?」
レオナがからかうように笑うと、ルゥがむっと拗ねたように顔をしかめた。どうやら彼自身も、自分よりレオナの方が僅かに身長が高いことを気にしていたらしい。
「うるせぇ。レオナだっていつか抜かしてやる」
そう言って、彼らに背中を向けてさっさと廃墟に戻っていってしまった。予想外の返答に目を見開くレオナの頬は僅かに紅潮している。しかしすぐにはっと我に返って、「ちょっと!」と声を張り上げた。
「質問に答えてないよ、ルゥ!」
「うるせぇ」
ルゥは振り向くこともなく、廃墟の奥に消えてしまう。まったく、と言ってレオナは困ったように頬を掻いた。
「まあまあ、ルゥはそんな奴じゃん」
「まあそうだけどさ。……そういえばアルフレッド、あんたは今日の夕飯当番じゃなかったかい」
「あっ、そうだったそうだった。じゃあアンゼリカ、またな!」
そう言って、アルフレッドもまた廃墟の奥に走っていってしまった。多分夕飯の支度をしに行ったのだろう。
やれやれと肩をすくめるレオナの顔を見上げながら、アンゼリカはレオナはルゥが好きなのではないだろうか、と思っていた。
その『好き』は仲間や友人へのそれではなく、本の中のヒロインが主人公に抱くような――言うならば、愛と呼ぶべきもの。
「? どうしたんだい、アンゼリカ」
「……いいえ、何でもないの」
しかし、確信は持てなくてアンゼリカはレオナの質問を首を振って誤魔化した。今のアンゼリカには、愛がなんなのか分からなくなってしまった。以前ならば、ローガンを愛していると胸を張って言えたのに。ローガンになら何をされても構わないと、ローガンとなら不幸になっても構わないと、その思いこそが愛だと言えたのに。
何故だろう。その答えを、アンジェリカは持ち合わせていなかった。
――六時には小屋に帰って身だしなみを整え、外に出た事など無かったかのようにローガンを出迎えるのにも慣れた。思っていたより、自分は嘘が上手かったらしい。
ローガンを欺いていることに罪悪感は消えない。それでも、アンゼリカは反狼の牙のアジトに通うことを止められなかった。
反狼の牙のメンバーと話すのはアンゼリカにとって刺激的なのだ。彼らと話すことで、アンゼリカは自分の気持ちが分かる気がした。自分がどうしたいのか、自分がローガンに抱くこの感情は、愛なのか。
いや、理由は本当に、それだけだろうか?
「アンゼリカ、どうしたの?」
「!」
ローガンの声で思考の海から引き戻された。夕飯のスープを掬ったままスプーンをぼうっと見ているアンゼリカは、ローガンからすればおかしかっただろう。
「スープ、美味しくなかった?」
「! 違うの、少し考え事をしていただけよ」
スプーンを口に入れる。ずっと掬われたまま空気にさらされていたスープはすっかり冷えていた。ローガンはそんなアンゼリカを心配そうに見る。
「アンゼリカ、最近よく考え事をしているね。悩みでもあるの?」
「悩みなんて……」
否定しようとして、ふと思いとどまった。これくらいならばローガンに聞いても大丈夫なんじゃないだろうか、と思ったのだ。
正面の席の、ローガンの顔を見上げる。その青い目はアンゼリカを、心配そうにじっと見つめていた。その瞳を見て、アンゼリカは疑問を口に出してみる。
「……ねぇ、ローガン。愛ってどんな感情だと思う?」
「愛?」
難しいことを言うね、そう言ってローガンは顎に手をやった。
「そうだな、主は、隣人を自分自身のように愛せ、と仰ったと言うね」
「主?」
「このお方だよ」
彼が己のネックレスの十字架をアンゼリカに見せる。そして微笑んだ。少し悲しそうな笑顔だった。
「だけど、その『愛』ってやつがどんなものなのかは僕にも分からないな」
悲しそうな笑顔を見ていられなくて、アンゼリカは顔を伏せた。アンゼリカはローガンの悲しそうな顔が苦手だ。見ていると、自分も悲しくなってくる。
「……ローガンにも、分からないことがあるのね」
「僕だってまだまだ若造だからね」
何とか絞り出した言葉は震えてはいなかっただろうか。アンゼリカには分からない。
だがローガンは特に何か言うこともなく、優しく微笑んだ。いつもの笑顔だ。悲しそうな雰囲気はもう無い。
アンゼリカは何も言わず、パンに齧り付いた。そんなアンゼリカを見て、ローガンは微笑む。
「愛がどんなものなのかは僕にも分からないけど」
ローガンが口を開く。顔を上げて彼を見れば、彼はまっすぐにアンゼリカを見つめていた。
「アンゼリカが僕を愛してくれるなら、きっと僕はとても幸せだろうね」
そう言って笑う。アンゼリカはそれに、咄嗟に答えることが出来なかった。以前なら、ローガンのことならすでに愛していると言えただろうに。ああ、以前なら出来たのに、が多すぎる。これは成長なのか、退化なのか。アンゼリカには分からなかった。
ああ、だけど、それでも。
「……私、ローガンのこと大好きよ」
ローガンはそれを聞いて、嬉しそうに笑った。ありがとう、と答えて、しかしやはり、彼は「僕もだよ」とは言わなかった。
ローガンのことを好きなのは本当の、はずだ。ローガンの料理が美味しくて、ローガンといると安心して、ローガンが悲しそうだと自分も悲しくなる、これはローガンが好きだからではないのだろうか。……少なくとも、嫌いな相手に抱く感情ではないように思う。
ローガンの、優しい笑顔が好き。アンゼリカは心で呟いた。ローガンの綺麗な青い瞳が好き。柔らかい茶髪が好き。ローガンがアンゼリカ、と呼んでくれるその声が好き。ローガンが、好き。大好きなの。だけれど、これが愛なのかは分からないのよ。だって私、ローガンになら殺されても良いと思うの。ローガンの剣でこの胸を貫かれたなら、それでローガンが笑ってくれるなら、それはとっても、とっても。
幸せ、だと。
そこまで考えて、アンゼリカは唐突に、心の中で愕然とした。自分の脳が先程出した言葉に愕然とした。ローガンに、殺されるのが幸せだって? 殺されても良いのと、殺されるのが幸せなのとは、違う。そんなことはアンゼリカにもわかる。
そんな感情は知らない。本の中の人々は皆、死を忌避していた。あの日ローガンに殺された屋敷の人々も、死の間際、恐怖に顔を歪めた。だからアンゼリカは、『死』が恐ろしいものなのだと、そう。
ああ、だけど、私は確かにあの時、死に恐怖を抱いてはいなかったではないか。
そう思って、いや、とすぐさま否定した。あの時は、私は、檻の外を知らなかったから。『普通』人は死をどう思うか、知らなかったから、私はそんな感情を。そう――死に、恐怖どころか、それを目の前の血塗れの王子様が与えてくれるかもしれない事実に、私は。
ああ、そうか。アンゼリカはふと気がついた。気がついてしまった。そうして、その気がついてしまった事実を、ローガンに知られてはいけないと思った。
誤魔化すように、またパンを囓った。パンと一緒に、その感情も飲み込んでしまえればいいのに。そう思った。
ねぇローガン、あなたはこんな私に気付かないで。こんな私を知ってしまったらきっとあなたは私を不気味に思うわ。ねぇだって、あなたが私の外出に気がついて、私を問い詰めたとき、私は震えてしまったの。あの時私が震えたのは恐怖と、それから――
咀嚼したパンが喉を通って、それでも感情は消えなかった。気付かなければ良かったのかもしれない。だけど、気付いてしまったものはもう消しようがなかった。
ただ、明確になったのは、アンゼリカは確かにローガンに愛されたいと願い、そして、ローガンを愛しているということだ。
だけど、前者は兎も角として、後者はローガンに伝えてはいけないと思った。
「愛している」と、それだけならば伝えられるだろうか。だけどその愛の『中身』は伝えてはいけない。絶対にだ。こんな、醜い感情を伝えてはいけない。
ねぇ、ローガン。アンゼリカは心の中で囁いた。
私、私の愛がこんなにも×××××なんて、知りたくなかったわ。
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