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「まあでも、それが野々原さんですからね。こればっかりは、どうにもなりません」
もごもごと口ごもる三佳に軽く笑って、早坂が仕方ないという顔をする。
「とにかく、野々原さんが無事で何よりです。だいぶお疲れのようではありますけど」
「所長……」
「それに、野々原さんがいないと、僕はどうにも困ってしまうんですよ。ハウスクリーニングの仕事も、会社経営の正確さも、もう野々原さん無しでは前のようにはいきません。今回のことは、この時期だけに変わった出来事に遭遇したと思いましょう」
「はい」
ようやく靴紐を緩め終わり、顔を上げた早坂に、三佳は深く頷く。早坂が自分をこんなふうに評価してくれていたことを改めて知り、否応なしにしゃんと背筋が伸びる。
「古い家ですけど、どうぞお上がりください」
「趣があって素敵な家じゃないですか。では、遠慮なくお邪魔させてもらいますよ」
「はい」
そうして二人は、三佳の案内のもと、家族が勢揃いしている居間へ向かう。
「どうもお邪魔しました」
「そんな。重ね重ね、ありがとうございました」
その横を敬礼しながらすれ違っていった駐在さんは、靴を履こうと上がり框に腰を下ろし――ふと何かに気づいて、慌てて三佳たちを呼び止めた。
「どうしたんですか?」
「いえ、玄関先に、あんなものが……。今朝、野々原さんのお宅に伺ったときには見なかったと思ったんですが……私の記憶違いでしょうか」
「え?」
駐在さんの指さす先を見てみると、玄関脇にタヌキの置物が三つ。大中小と綺麗に並んで、なんとなく気恥ずかしそうにしながら、とぼけた顔をしていた。それが揃いも揃って一瞬だけ目を泳がせたように見えたのは――きっと三佳の気のせいではないだろう。
「あ、ああ……! あれは私のお土産です! あんまり可愛かったので、つい買ってしまって。でも、家の中に持って入るのもあれかな~と思って、とりあえず玄関脇に飾ってみたんです。ほら、駐在さんは朝から家の中にいましたし、見覚えがないわけですよ」
「ああ、そういうことですか」
確かにこれは思わず買ってしまうほど可愛らしいですね。そう言い、駐在さんは改めて敬礼すると、庭先に停めてあった自転車に跨り、帰っていった。
その姿が見えなくなってから、三佳は、早坂が来たおかげであれこれ聞かれずに済んでよかった、とほっと胸を撫で下ろす。それから、ふうと一息ついて、
「もう大丈夫ですよ、コロさんたち。聞いていたかもしれませんけど、この人は私が働いているハウスクリーニング会社の所長で、彼自身もオオカミのあやかしなんです」
にっこり。声のボリュームを落としつつ、身を屈めて置物に笑いかけた。
彼らがどうして戻ってきたのかは、わからない。でも、ここにいることだけは確かだ。それに動物同士、話が合うかもしれない。早坂の力添えで、自然に成仏するよりもっと穏やかに旅立てるのであれば、少し寂しいが、それはそれでいいだろう。
とにかく、早坂の前でも置物のふりをしなくてもいいことを伝えたかった。昔話や物語にもあるように、実際に化けたタヌキを見たのは初めての経験ではあったけれど、いくら霊の身であったとしても、あんまり同じ格好をしていると肩も凝るだろう。
『お母ちゃん、でもショチョーさん、あの匂いがするよ?』
『……ほんとに大丈夫なの? ぼくたち、食べられちゃったりしない?』
『三佳さんが大丈夫と言うなら、そうなんでしょうけど……』
するとまた、ヒソヒソと声が聞こえてきた。〝匂い〟といえば、すっかり意気消沈する三佳を必死になって慰めてくれた、あの〝雄々しい獣臭〟のことだろうか。
しかし、それが早坂からするとは、一体どういうことなのだろう。置物からなかなか元に戻らない母子を気にしつつも、三佳は例の匂いについても早坂に説明する。
「ああ。僕の毛を一本、野々原さんに付けておいたんですよ。休み中、何があるかわかりませんからね。もしものときに最低限あなたの力になれるようにという、僕からの御守りです。おかげで山の動物霊たちに怖い目に遭わされずに済みましたでしょう? なにせ一本でもオオカミの毛ですからね。匂いもそうですけど、迂闊には近寄れませんよ」
「い、いつの間に……」
すると早坂は、なんだそんなこと、とでも言いたげに、あっさりと種を明かした。
本当にいつの間に付けられたのだろうか。さすが、あやかし。侮れない。
ということは、マルたちに散々『獣臭い』と言われたのも、霊障だけで実害はなかったのも、すべては早坂のせい、またはおかげだったということだろうか。有難いやら、ちょっぴり迷惑やら。三佳は複雑な心境を抱えながら、涼しい顔で微笑む早坂を見上げた。
「……ん?」
そのときになって、三佳はようやく違和感を覚えた。居間のほうから「所長さーん、三佳ー?」と呼ぶ瑞恵の声を聞き流し、微笑み続ける早坂をほぼ真下から見上げる。
「あの、もしかして、その毛で透視とかしてないですよ、ね? さっき言ってた私の山の中での様子……靴が汚れているのは見たらわかりますけど、動物霊に〝あれだけの数〟って。あの場にいなかった所長に、どうして数までわかったんです?」
おかしな話だ。だって、たった毛の一本だ。その一本の毛で守られていたのはありがたい話だけれど、透視のような機能まで備わっているなら詐欺だと思う。
さらに三佳の違和感探りは続く。
「それに、前々からおかしいと思ってたんですよ。鷹爪夫妻への請求書の件、郵便局に出しに行くときに何かに見られてる感がものすごーくあったんですよね。最初は舎弟とか子分的なあやかしに見張られてるんじゃないかって思ってたんですけど……あれももしかして所長の毛が――なんてこと、あったりします?」
あれは本当に反省している。岩田の件のあと、もう一度きちんと頭も下げ、今も絶賛、会社と所長に尽くすべく三佳なりに日々努力している真っ最中だ。
けれど、そこにも毛が絡んでいるなら、やっていられない気分であることもまた、否めない。だって、一部始終を見られていたのだ。なのに早坂は素知らぬ顔でソファーでうたた寝を決め込んでいたのだ。こんな一人相撲って、あんまりだろう。
「あ、そうだ。岩田の件でもそうですよ。毛で安全が守られるなら、どうしてあのとき私に一本付けてくれなかったんですか。本体がひとりでに動く、あの気持ち悪さといったら……どんなに言葉を並べても説明できる気がしませんよ」
あのときは本当に死ぬと思った。いつもどおり……いや、三佳にとっては遅すぎるくらいだったけれど、早坂の登場で危機一髪、命が助かり、ゲームコンテンツ会社も摘発、須田さんのハンカチも本来持っているべき人のところへ帰った。
でも、やはり腑に落ちない。いくら岩田の本性をおびき出すためだったとはいえ、命を差し出さなければならないなんて、あまりに代償が大きすぎる。だって三佳は生身の人間なのだから。
けれど、あり得ないとは思いたいが、きっとそういうことも普通にあり得るのが〝あやかし〟なのかもしれない。それでも一縷の望みをかけて問題の早坂をじっとりと見つめると、
「もしかしたら、心を砕くことは、そんなに悪いことではないかもしれませんね」
「あ、こら! 上手くまとめようとしないでくださいよっ!」
その早坂はふいーっと目を逸らし、再度かかった瑞恵の声が呼ぶほうへ歩いていってしまった。
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