「ところが」

 すると早坂が、意味ありげに言葉尻を切った。

「いざ更地にする手続きを進めはじめると、誰もいないはずの家の中から物音や声のようなものが聞こえて怖い、という内容の電話が、近所の住民から何件も不動産屋にかかってきたそうなんです。そんなはずはないだろうと思いながら確認に行くと……やっぱり、電話のとおりなんですよね。これじゃあ取り壊し工事もままならないというわけで、僕のところに〝家を掃除してほしい〟という依頼が来たわけなんです。つまり、家に〝憑いているもの〟を一掃する依頼ですね。そうすれば、晴れて更地にできるというわけです」

 ということは、三佳の〝びっくりするくらい憑かれやすい体質〟を利用して、キヨさん宅に憑いているものをおびき出し、オオカミのもののけである早坂が滅するのが、『早坂ハウスクリーニング』に出された本来の依頼、ということになる。

 そこを三佳が、可哀そうだの、まだまだ使えるだのと、ものに肩入れしすぎてしまったせいで、皿が飛んできたり、ポルターガイスト現象が起こったり、本当ならば集まってくるはずのないものまで出てきてしまい、家が霊でわんさかしているというわけだ。

 そこまで理解して、三佳は頭を抱えた。

「なんてこった! これ全部、私のせいじゃないですか!」

「だからさっきからそう言っているじゃないですか。まったく……。どうやら、野々原さんのその体質も一長一短のようですね。もう少し鍛えてはどうです」

「……はい、すみません……」

 何を? とは聞かないことにする。聞いても三佳に実践できることとは限らないかもしれない。第一、早坂はもののけなのだ。そういう系は、ただの人間の三佳には難しい。

 叱られておとなしく床に這いつくばる三佳に一瞥をくれると、

「――さて」

 気持ちを切り替えるように言い、早坂は改めてぐるりと家の中を見回した。

「こんなに大勢で寄ってたかることもないでしょうに、キヨさんは生前、どれだけ〝目に見えないもの〟を大切に崇めてきたんでしょうね。依頼は家の掃除ということですから、一掃しないわけにもいかないんですけど……仕方ありません。どうしてお嫁さんや近所の人を怖がらせたり、皿を飛ばしてきたりしたんですか? わけを聞かせてください」

 そう言って苦笑した。

 早坂には見えているのだろう。三佳の目には見えない、大勢の〝もの〟たちの姿が。

 怖いもの見たさで、三佳も少しだけ見てみたいと思った。靄とは話もできたし目にも見えていたけれど、ほかにはどんなものがいるのか、どんな姿をしているのか、そして、どれだけ大勢のものがここに集っているのか、やっぱり見ておきたい気もするのだ。

 それに早坂も、ああ言ってくれた。

 三佳の熱意に負けたのか、それとも、集まった数の多さに負けたのか。

 三佳はぜひとも、自分の熱意のおかげで心変わりしてくれたんだと思いたい。が、とにかく、あれだけ頑なに霊を消してしまおうとしていた早坂が、ようやく聞く耳を持ってくれたのだ。今はどちらでもいい。三佳も一番、その理由が聞きたかった。

 すると仏壇の扉が開き、中から手のひらサイズの古ぼけた巾着袋が姿を現した。黒い靄がすーっとそれに寄っていき、訴えかけるようにゆらゆらと揺れはじめる。

「……開けてほしいんですか?」

 見かねて三佳が尋ねると、靄がひとつ、大きく揺れた。どうやら肯定の意味のようだ。

 早坂がいる手前、いつ消されてしまうともわからない恐怖ですっかりおとなしくなってしまっていたが、そんな中でも寄っていくくいだから、よっぽど思い入れのあるものなのだろう。三佳は、靄をじっと見つめる早坂を見上げ、行ってもいいですかと訴える。

 早坂が呆れたように肩を竦めたので、三佳は口元にほんのりと笑みを浮かべてようやく立ち上がる。さっきまでの攻撃的な空気はすっかり消え、今はただ、仏壇に向かって歩いていく三佳を固唾を飲んで見守る雰囲気が、そこかしこからするだけだ。

 手に取ると、巾着袋は思いのほか軽く、三佳は多少戸惑った。手のひらにすっぽり収まる大きさなのだから、それもそうだとは思う。けれど、家中のみならず、よそからも霊が集まり早坂を止めようとしていたことに比べて、あんまり小さく軽いので、これを守るために? と、どうしても思ってしまう部分があるのは否定できなかった。

「すみません、じゃあ、失礼して見せていただきますね」

 とはいえ、人によって〝もの〟の価値は違う。靄にとってこれは、何に代えても譲れないものなのだろう。近くに寄ってきた靄にも見えるように、巾着袋の口を開けていく。

「これ……」

 中から出てきたのは、ピンク地に銀の刺繍糸が美しい、安産祈願の御守りだった。わりと古いもののようだが、丁寧に扱われてきたことが一目でわかる。

『ああ、懐かしい……』

 三佳の肩のあたりにいた靄が、そう、嘆息をもらす。

『キヨもなかなか子には恵まれなくてな。やっとできたのが、ここを更地にして売ろうとしている息子だよ。息子を産んだのは四十手前だっただろうか。それまで十何年とキヨに子がほしいと乞われてきたが、叶えてやれるまでに、ずいぶん時間がかかってしまった』

「そうだったんですね……」

『だからキヨは、そこの銀狼が言うように、息子夫婦に子ができなくても、嫁を怒ったりなどしていなかった。息子夫婦が帰省するたびに〝焦らなくていい〟〝自然に任せよう〟と言って嫁に笑いかけてやっていてな。自分もずいぶん遅くに子を産んだものだから、嫁の気持ちが痛いくらいにわかったんだろう。息子夫婦が帰ったあとは、決まってこの御守りに、嫁の心労が少しでも和らいでくれるようにと願っておったわ……』

「はい」

 話を聞きながら、三佳の脳裏には、仏壇に手を合わせるキヨさんの姿が浮かんでいた。

 キヨさんがまだ若かったころの時代なら、なかなか子どもが授からないことは、今よりずっと精神的なプレッシャーが大きかったのではないかと思う。

 女はまだまだ、子を産んで家庭を守ることが重要視されてきた時代だ。今とは違って、お舅さんや、お姑さんと同居することが当たり前だったんだろうとも思う。

 そういう苦労をしてきたからこそかけられる言葉だったのだ。

 キヨさんはただただ、お嫁さんが心も体も健やかであることを願っていた――ところどころ黄ばんだり手垢がついたりしている御守りにそっと目を落とすと、キヨさんのその思いが、三佳の胸の中にもじんわりと染み渡ってくるようだった。

『キヨは、自分に子が授かってからも、この御守りをそれは大事にしてな。おかげさまで元気な息子を授かりました、今日で一歳になりました、二十歳になりました、とうとう結婚するようです、と、節目には必ず感謝の気持ちを込めていた。息子が結婚して三年、四年と経ち、どうやら夫婦で不妊治療に通っているようだと知ると、今度は嫁のことを案じて御守りに願をかけることが増えていった。……キヨにとっては身に覚えがあるどころの話ではないからな。他人事とは、どうしても思えなかったんだろう』

「私も、そう思います」

『――ただな』

 そこで靄は、この先は言いたくない、というように言い淀んだ。もしかして、お嫁さんにはキヨさんがかける言葉はかえって重荷だったのでは? と三佳はすぐに察した。

 言葉は、時として思いがけない方向で相手に伝わってしまうことがある。

 子どもができずに不妊治療に通うほど思い詰めていたお嫁さんからすれば、自然に任せていたらいつまで経っても妊娠できないから治療に通っているのに。焦って何が悪いの、他人事だと思って。という気持ちになったって、おかしくはないと思う。

 お嫁さんは、きっと何人もの妊婦さんや赤ちゃんを連れたお母さん、その旦那さんを見てきたのだろう。街を歩いていて。治療に通っている産婦人科で。たまたま通りかかった公園や、近所にあれば保育園や幼稚園の園庭でキャッキャと声を上げて笑う子どもたちを。

 そのたびに苦しんできたに違いない。どうして私たち夫婦には子どもができないの、どうしてよその家庭はこんなにも恵まれているの、なんでうちには……と。

 そしていつしかお嫁さんは、キヨさんから優しい言葉をかけられるたび、嫁失格だと言われているのと同じだと、言葉を深読みするようになっていったのかもしれない。

 それを裏付けるように、靄が苦しそうに声を絞り出す。

『お前の察したとおりだよ。キヨの思いはねじ曲がって嫁に伝わり、帰省の際には徐々に嫁の姿がなくなっていった。息子の姿も数年に一度、見るか見ないかまで減ってしまってな……。晩年のキヨは、どうして息子夫婦が来なくなったのかもわからないまま痴呆が進んで、間もなくして施設に入れられてしまった。旦那はすでに他界していて、息子夫婦のほうでも、このとおり嫁が渋ってキヨを引き取るのは難しかった。……キヨとはそれっきりだ。家は荒れ、細かなキヨの持ち物も整理されずに残ったままだ』

「そんな……」

 三佳は思わず口元を両手で覆った。あまりに切ない話に、それ以上は言葉も出ない。

「――ですが、あなた方がここにいていい理由にはなりませんよね?」

 すると、今まで黙っていた早坂が唐突に口を開いた。何を言い出すの、と目を瞠って早坂を振り返る三佳に一瞥をくれると、早坂はつまらなさそうな口調で言う。

「キヨさんの痴呆はおそらく、この家に集まる〝もの〟たちと話している姿を目にした近所の人や、一人暮らしのご老人宅を定期的に訪ねる地域の見回り隊などが、そう判断したからじゃありませんか? キヨさんは生前、とても信仰心の厚い方でしたから、仮に見えたり感じたりすることができなくても、自分の周りには〝目に見えないものたち〟がいると信じていたのでしょう。それを周りの人たちはボケていると思い、息子さん夫婦は、介護問題に加えて痴呆症問題も重なったと思って施設で面倒を見てもらうことにしたんですよ。おそらくキヨさんは、息子夫婦の言うとおりにしたと思います。それが一番いいとキヨさん自身も思ったんでしょう。迷惑をかけたくないという一心ですよ」

『キヨの孤独を美談にするな!』

 やれやれ、と手のひらを上に向けて肩を竦める早坂に、靄がたまらずといった様子で全身をざわざわさせた。家中にパンパンッとラップ音も鳴り響く。家具がガタガタ揺れて、まるでこの家が丸ごと、早坂の発言を拒絶しているかのようだった。

「所長、そんなきつい言いかたをしなくても……!」

 三佳も、こればかりは早坂に同意できなかった。

 身内が必ず介護しなければならない、ということはない。でも、早坂の言いかたや態度は、この家でひとり老いていくしかなかったキヨさんや、そんなキヨさんを見つめ続けるしかなかった靄をはじめとした目に見えないものたちに対して、あまりに直接的だ。

 そうするしかなかったのかもしれない。仕方のないことだったのかもしれない。でも、キヨさんがいなくなったあともこうして彼女を偲んで集まる霊たちは、理解はできても気持ちや思いの部分では、いまだに整理が追いつかないのではないか。

 それなのに……。

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