「野々原さんの長所は、〝もの〟に憑く魂――とびっきりいい言い方をすると〝付喪神つくもがみ〟をすんなり受け入れ、それに素直に気持ちを傾けられるところです」

 すると早坂は、諭すような口振りで言った。

「ですが、〝もの〟はいわば、空っぽの受け皿なんです。大切に扱われてきたものには付喪神が憑くというのは古くから言い伝えられてきましたし、現在でも『ものを大切にしましょう』と教えられながら子は育ちます。それなら、僕の出番なんてないんですよ」

 でもね――ピンと人差し指を立て、早坂は言う。

「逆の場合のことを考えたことはありますか? 粗末に扱われてきた〝もの〟や、本来の使用目的から大きく外れた〝もの〟には、それなりのものしか憑かないんです。いい例が、人を呪うためのまじないに使われていたものですね。いわゆる〝いわくつき〟の壺や皿など、バカなコレクターたちが大金をはたいて集めたり周囲の人に自慢したりしますけど、あれはただ、それに憑いている恨みや怨念を膨れ上がらせるだけです。だからこそ、お札を貼ったり厳重に箱に保管しておいているというのに、再びこの世に蘇らせてどうするつもりなんでしょうね。人間の考えることの気が知れませんよ、まったく」

 そして、はぁ、と野暮ったいため息を吐いた。

「おっと、話が逸れました。要するに野々原さんは、びっくりするくらい憑かれやすい体質なんですから、あまり〝もの〟に肩入れしすぎるのはいかがなものかと僕は言いたいんです。それに、悪霊かそうでないかの区別もつかないでしょう? 野々原さんほど僕の仕事に適した逸材はいないんです。だから、生身の人間はおとなしくしていなさい」

 ――ね?

 そう言って、お茶目に小首をかしげた早坂のオッドアイから星が瞬くようなウィンクが飛び出した。仕草はとても可愛らしいが、早坂はいつも最後は決まって〝生身の人間はおとなしく〟と三佳の懇願にも嘆願にも、ひとつも耳を貸してはくれない。

 人間の耳とオオカミの耳と四つもあるのに。……いや、物理的な問題ではないか。

 霊はすべて悪いものとして跡形もなく滅してしまおうとする、その頑ななまでの姿勢や心が、三佳の温情を訴える声をことごとくシャットアウトしてしまうのだ。

「……」

 三佳は、土と砂だらけの床に相変わらず這いつくばったまま、下唇を噛みしめて目を伏せた。〝生身の人間〟と言われるたび、早坂にわざと遠ざけられているような気分になるのは、絶対に三佳の気のせいではないはずだ。

 確かに三佳は、早坂曰く〝びっくりするくらい憑かれやすい体質〟であること以外は普通の人間だ。寝て起きて、食べて働いて、また寝る――誰もがそうして毎日を生きているように、三佳だってそうだ。普段の早坂だって、三佳とそう大差はない。

 やっとの思いで拾ってもらった会社が、どうやら〝普通〟ではなかったようだけれど。なんたって所長が〝もののけ〟だったけれど。そんな会社で一ヵ月も働けば、日常の中で起こる非現実的なことにも、それなりに慣れてくるというものだ。

 ただ、やはり慣れないのは、この世に漂う霊という霊をすべからく滅しようとするときの、早坂のこの冷酷なまでの突き放しかただ。慣れないし、慣れたくはないとも三佳は思う。それを早坂は、三佳の長所であり短所だと、こうしてたびたび警告をしてくるのだけれど。なにも消し去ってしまわなくても、という気持ちも、三佳は捨てられないのだ。

「――さて。お待たせしました。さっそくですが、消えてもらってもよろしいですか?」

 懐に両腕を入れ、気だるげな仕草で首を傾げた早坂が、仏壇と、その後ろに浮かぶ靄にオッドアイを向けた。琥珀色と淡いブルーの瞳は、息を呑むほど美しい。古ぼけた蛍光灯の明かりの下にあるのがもったいないと思えるくらい、場違いに。

 仏壇も靄も、早坂と自分たちとの力の違いが本能的にわかるのだろう。仏壇はガタリとその重い身で後退し、靄もこれでもかというくらい、体を小さくした。

 怯え、恐れおののいているのが三佳にもわかった。

 靄が何の霊であるのかも、仏壇に憑いている霊が何なのかも、三佳にはわからない。けれど、オオカミのもののけである早坂に縮み上がるほど恐れをなしているということは、この二体の霊は早坂よりずいぶん下級のものだろう。ちらりと目を向けられただけで、この有り様なのだから、オオカミというものは本当に強く、そして恐ろしい。

「……え?」

 すると突如、三佳の手にあった皿が早坂のスネめがけて飛んでいった。仏壇に押し潰されそうになる前に手に取った、食器棚に置き去りのままの砂埃を被った一枚だ。当たったら猛烈に痛い。尋常じゃないくらい痛い。たとえオオカミでも、打撃攻撃は痛いはずだ。

 しかし早坂は、ひょいと片足を上げて皿を避けた。手裏剣のような鋭さで飛んでいった皿は、後方のシンク台の下の扉に当たってバリンと砕け、破片がその周りに散る。

 それからも、食器棚に残されていた皿や小鉢や味噌汁の椀、茶碗……あらゆるものが早坂めがけて飛んでいっては、かすりもせずに台所の方々に当たって砕けて散った。中には勇猛果敢な皿もいたもので、旋回して二度、三度と早坂に飛んでいくものもあったが、見事に同士討ちにされ、あっけなく砕けてしまう。ひっきりなしに皿が割れる音が台所に響き、三佳はただただ自分の頭を守りながらじっとしているしかなかった。

 そんな時間が、どれだけ続いただろう。

「――――」

 やがて音が止み、台所に静寂が落ちる。三佳が恐る恐る顔を上げると、

「これはどういう真似ですか? まあ、あなたたちがけしかけたわけではないんでしょうけど、いきなり襲ってくるなんて、あんまりじゃありません?」

 そこに、湖面に波紋を広げるような早坂の声がぽつりと落とされた。

 いつもの物腰柔らかな口調だが、声は妖しげに艶を帯びていた。仏壇がまたガタリと後退し、靄もいっそう、その体を小さくし、三佳もビクリと肩が跳ねる。

 もしかしたら早坂は、これで有無を言わさず滅してしまってもいい、という口実ができて内心、嬉々としているのかもしれない。早坂の話では、二体の霊が皿を先導したわけではないということだが、さっきのあれには早坂に危害を加えようという意思が働いていたのは明らかだ。目には目を、歯には歯を。早坂の考えが透けて見えるようだ。

 空恐ろしさを感じ、三佳はぶるりと身震いする。

 と、ふいにその早坂が三佳を見下ろし、妖艶に微笑んだ。

 ――だから言ったでしょう、あまり〝もの〟に肩入れしすぎてはいけないと。

 そんな微笑みだ。

 三佳は幸い、無傷だ。頭を守りながらじっとしているしかなかった三佳に代わって、ひょっとしたら三佳へ飛んできたぶんも早坂がどうにかしてくれたのかもしれない。でも、霊はすべて悪いものとして話も聞かずに消そうとしたのはそっちが先じゃないかと、三佳は悔しさと歯痒さで下唇をぎゅっと噛みしめながら心の中で思った。

 三佳には、二体の霊を守ろうとして皿が飛んできたように思えてならないのだ。

 だから言ったんですよ、と三佳は思う。

 滅してしまうのはあんまり可哀そうじゃないですか、と。

 何かわけがあるのだ、きっと。二体の霊には、それぞれなりの。その二体を守るように早坂めがけて飛んできた皿たちには、皿たちなりの。それに耳を傾けようとせずに、ただ機械的に消そうとするから、皿たちは必至になって止めようとしたのだと思う。

 それなのに。こんなになってしまって可哀そうに……。

 もし自分に早坂を説得させられるだけの力があったら、この皿たちがこんなにも無残な姿になることはなかったのにと思うと、自分の非力さが悔しくてならない。

「……野々原さん、思っていることが全部顔に出てますよ」

「へっ?」

 その声に顔を上げると、やれやれ、といった様子で早坂が肩を竦めていた。もちろん早坂も無傷だ。漆黒色の着流しやシルクハットにも、埃のひとつさえ付いてはいない。

「このクソ野郎、ってところですか?」

「そこまでは思ってないですよ!」

「ということは、似たようなことは思ったわけですね? まったく。正直な人ですね」

「……あ、しまった墓穴――いやいやっ。雇われの身でクソ野郎とか思うわけないじゃないですか。霊や皿たちにも事情があるのにな、と思っただけで……」

「百年早いです。僕のやることに、いちいち口出ししないでください」

 ごにょごにょと口ごもると、早坂がぴしゃりと言い捨てた。意見するのにそんなにかかったら死んじゃうよ! と喉元まで出かかったが、オッドアイが、心の声も聞こえていますよ、と言いたげにすぅーと細められたので、急いで頭の中を違うことに切り替える。

「で、でもですね、所長……」

 それでも腹の大半では納得しかね、さらに言い募ろうとすると――。

「じ、地震……?」

「……ああ、ほら。野々原さんが変に時間を稼いだおかげで、この家に憑いている霊以外のものも集まってきてしまったじゃないですか。どうしてくれるんです、滅するのにもそれなりの体力が必要なんですから、あまり面倒ごとを起こさないでください」

 ガタガタと家中が軋み声を上げる中、早坂が辟易した顔でそう言った。

「え、じゃあこの地震、霊が起こしているんですか?」

「そうですよ。俗に言う、ポルターガイスト現象ですね。この家はもともと、近々取り壊して更地にして売られる予定だったんです。キヨさんのご家族の方――息子さんのお嫁さんが、いつも掃除に来るそうなんですけど、来ると決まって〝変なこと〟が起こるので、ずいぶん気味悪がってしまって。そこで息子さんは、いっそのこと売ってしまおうと思ったわけですね。更地にすれば、ほかもまっさらになる、と思ったのかもしれません」

「へ、へぇ。そんなことが……。じゃあ、お嫁さんは、さぞかし怖かったでしょうね」

 地震ではなくポルターガイスト現象だという揺れに左右に頭をグラグラさせながら、三佳は相づちを打つ。あのとき、早坂に拾ってもらったからこそ、今の三佳は霊やもののけの存在を全面的に信じられているが、そうでなければ、気味悪がるお嫁さんのほうが正しい。気味が悪いし、とにかく怖い。だって、わけがわからないのだから。

「ええ。今みたいに地震が起きて慌てて外に出てみると、揺れているのはキヨさん宅だけだったりとか、前回来たときはきっちり閉めていたはずの居間と仏間の間にある襖が全開になっていたりだとか、まあ、そんなことがよくあったそうで。お嫁さんは、なかなか子宝に恵まれない負い目もあったんでしょう、死ぬまでに孫の顔が見られなかったことでキヨさんが怒っていると、そう思い込んでしまったようなんです」

「それは……なんというか……」

 相づちに困り、三佳はそれ以上、言葉が続かなかった。キヨさんのことをよく知らない身では、なんとも言えないが、どちらにも多分に同情する部分があるように思う。

 とりわけ子ども、孫に関してはナイーブな問題でもある。それに三佳にとっては、まだまだ先の話、遠い未来の話だ。申し訳ないが、想像が及ぶのはここまでだった。

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