5話「白い部屋のプリンセス」

 僕は三年前まで、鏡もエーレンベルクという名前のない、ただのテオバルドだった。ソフィアはそんな僕をテオって呼んでくれた。


 真っ白な世界の中で本や玩具が散乱して、テープレコーダーから流れる音楽に自分の好きな言葉を乗せた。本でしか見たことがない海、絵本で見た兎、果物の林檎。

 僕はその世界ではとても自由だった。欲しい物があれば言葉にすれば良かった。そしたら皆が僕に贈ってくれた。魔法のような世界。

 外は怖い物に溢れていると何度も映像を見せられた。白黒の戦争光景や砂まみれの破壊された街、焼け落ちた森や火山灰に埋もれた山。


 色んな怖い物があるから、苦しんでいる人がたくさんいる。僕の魔法はそんな苦しんでいる人を助ける奇跡の贈り物だと教えられた。

 僕が真っ白な世界で生きている限り、本の中にある青い海や楽しそうに笑う人々をいつか取り戻せる。だから決して外には出ていけない。

 幼い頃から周りの大人達はそう教えてくれた。全員白い服を着ていて、未来と世界のために働いている立派な人なんだ。ソフィアもその一員。


 僕の魔法は傷を癒したり、回復を早めたり、痛覚を鈍らせて長い手術に耐えるようにしたりと、色んなことが可能で、時には永遠の旅路に送ることもできるんだって言われた。

 全部は理解できなかったけど、魔法で小人さんを出せばなんとなくわかる。赤い小人さんは肌の赤味を抑えて膨らみを消してくれる。でも大量に使っては駄目、とか。

 七人の小人はどんな姿にも変わる。動物にも、液体にも、粉末にも。大人達は小人さんの形状を変え、布や瓶の中に吸収させる。


 他の物質を介してしまえば、小人さん達は僕の手から離れる。自由に動くことはできないけど、効果は残るらしい。

 僕は時々小人さん達の色を混ぜて遊んだり、飴玉にして食べたことがある。そうすると体が動かなくなるけど、大人達は僕にもっと優しくしてくれて構ってくれる。

 長い間大人に会えない時はそうやって気を逸らせばいいと僕は知った。でもソフィアが来てからは止められたし、必要がなくなった。


 六年前、僕の目の色が片方変わった時にソフィアは現れた。優しくて大きくて温かい、今まで会った大人達の中で一番僕の傍にいてくれた。

 僕が熱を出して倒れた直後にソフィアはやってきて、いつも一緒にいてくれた。僕が知らない童謡や、ソフィアが自作した歌も教えてくれた。

 ソフィア・マルガレータ。お姫様みたいな名前で、いつかは王子様が連れ去ってしまうのではないかと僕は怖くなる時があった。それくらい素晴らしい女性だった。


 でもそのことを話せば、ソフィアは苦笑していた。王子様はとうの昔に死んでしまって、お姫様は一人ぼっちが寂しくて僕のところに来たのだと。

 本当は二人の間に子供ができるはずだったけど、流れて消えてしまったと言っていた。成長していれば僕と友達になれたのに、と涙を浮かべていたのを今でも覚えている。

 僕が子供はどこから来るの、と尋ねればソフィアは目を丸くしていた。大人になって、好きな人ができればわかるよと珍しく誤魔化されてしまったけど。


 三年前、僕が十八歳だとソフィアは教えてくれた。そして兎のリュックと特別なプレゼントとしてソフィアが作った歌を貰った。

 真っ白な世界は昔よりも玩具や本が増えていて、ぬいぐるみやボードゲームも散乱していた。一応、人が出入りする場所の扉周囲はなにもなかったけど。

 プレゼントを貰った三か月後、最後のプレゼントだとソフィアは僕の手を引っ張って扉から白い世界の外に出る。怖い物に溢れている世界へ。


 途中まで早足で歩いていたけど、いきなり細長い道が真っ赤になって警報みたいな音が響いた。戦争映画で聞いた音だから、戦争が始まるのかと思った。

 ソフィアは僕の手を掴んで離さないまま走り出した。暗くて真っ黒な道を一人で進みなさいと言われて、僕は首を横に振りたかった。

 でもソフィアが真面目な顔をしていたから、兎のリュックを抱いて渋々頷いた。絶対に振り向かず、道の先で出会った人についていきなさいと言われた。


 僕は言いつけ通り一人でその道を歩き、途中から走り出した。どこまでも暗くて怖かったから、早く誰かに会いたいと思って進んだ。

 道は途中から上に昇る形式となっていて、梯子を初めて使った。途中で壁にぶつかったから、手で押せば光と風が僕の前に現れた。


 星空。本や映像でしか見たことがなかったものが、天高く広がっていた。柔らかい草は冷たい土から生えていて、思わず手に取って眺める。

 もしかして僕の魔法で外の世界は本の通り美しい物になったのかもしれない。ソフィアはそれを教えようと、僕をここに連れてきたのかも。

 振り向いて伝えようとして、棘が胸に刺さったみたいな違和感を覚えた。なぜかどこにもソフィアがいないという、確信に似たなにか。


 僕はソフィアの言うことを守って、また歩いた。そしたら二人の男女が僕の顔を見て驚いていた。椚と梢と名乗った二人は、家族のところに連れていくと言う。

 家族。昔、大人達に欲しいと言ったら、用意されたことがある。でも母親と名乗る人も父親と名乗る人も面白くなくて、結局返してしまった物だ。

 そんな物のところに向かうくらいならソフィアの元に帰りたかったけど、言いつけ通り仕方なくついていった。初めて乗る車は、気持ち良くて途中寝てしまった。




 連れてこられた場所には僕にそっくりの男の子、少し年上の目立たない兄という人と、お父さんと名乗る人がいた。お母さんは、と聞いたら写真立てを持ってこられた。

 黒髪の美しい女性だけど、細身で笑顔が薄い人だった。似ていると言われたら似てるかもしれないけど、よくわからなかった。

 僕そっくりの男の子は双子の弟だと言われた。でも僕はよくわからなくて、気持ち悪くなって、熱を出して倒れてしまった。


 その後は検査の日々。知らない人がたくさん僕の診断書を作っては、難しい顔をしていて気持ち悪かった。苛立って小人さんを出せば、誰もが逃げ出した。

 お父さんと名乗る人も僕と話そうとしたけど、その度に涙浮かべるから好きじゃない。兄と名乗る人は僕を見て怯えた目をするから好きじゃない。

 僕の弟と名乗る男の子は、難しい顔をしてたけど、なんとなく言いたいことがわかるから、少しだけ好き。でも言っていることと感じることが逆だから、よくわからない。


 梢は僕の好きにしてくれるから好き。椚も梢とよく遊んでて楽しそうだし、明るく話しかけてくるから嫌いじゃない。だから二人が傍にいるのは好き。

 でも検査は嫌い。家族も弟以外嫌い。お母さんは地面の下にいて、空から見守っているとか言われて、怖いから嫌いだし全くわからない。

 外の世界に出れたのに、部屋から出ていけないと言われてつまらなかった。ソフィアから貰った歌と兎リュックだけが、僕を少しだけ慰めてくれた。


 夜、こっそり部屋を抜け出して他の部屋を見れば、お父さんと名乗る人は電話で大声を出して怒鳴っている。もう二度と渡さない、とか、テオは道具じゃない、とか。

 他の電話でも椚や梢、兄と名乗る人が苦しそうに怒鳴っていて、怖かった。すると弟が現れて、いつも他の部屋に誘ってくれる。ピアノがある弟の部屋が窮屈な家の中でも一番好き。

 弟はとても演奏が上手だった。初めて聞く音の波が心地よくて好き。氷みたいに煌めいて、色んな顔を写し出すような正直な音楽だった。


 僕が音に合わせて歌うと、弟は少しだけ嬉しそうにする。いつもは難しい顔をして、怒った様子なのに、心の中で泣いている弟。

 どうしてかと尋ねれば、少しだけ怒鳴った後によくわからない話をした。僕達は生まれた時から強い魔法を持っていて、魔法管理政府が保護を申し出たこと。

 お父さん?とお母さん?は突っぱねたけど、片方でも渡さないと、二人共強制的に保護すると。だから片方だけを渡した、とか。


 でも僕の魔法は世界のためになって、だから今の世界があるんでしょう、と言った。弟は顔を俯かせて、肯定も否定もしなかった。

 お母さん?は子供を手放したことで精神的に病んで、死んでしまったんだって。どんな薬も効かない心の病のせいで、いなくなったらしい。

 その後に匿名の人から連絡で、僕を取り戻しに来たんだって。多分、ソフィアだろうな、と思ったけど、どうしてという疑問が勝った。


 僕はずっとソフィアと一緒でもよかった。この家も家族も、よくわからないから、ずっと寂しい。もっと他の物が欲しい。

 外に出てからずっと変だ。僕と皆は食べる量が違うし、僕は汗が出ない。片目の色も違うし、日焼けなんて知らない。よくわからない、気持ち悪い。

 何度も倒れるたびに検査を受けて、診断書を見て苦い顔をされて、限界だった。ここは嫌だって駄々をこねて、梢と弟に泣きついた。


 そしたら椚と梢の監視下で、絶対に魔法を暴走をさせないという条件でなら出て行ってもいいと言われた。僕は特に考えず、頷いた。

 どうせなら世界中を旅したいし、色んな歌を知りたい。だから弟にピアノの弾き方を簡単に教えてもらって、一本指で演奏する方法を覚えた。

 お兄ちゃん?という人からは持ち歩くためのピアノを貰ったので、少しだけ好きになった。でもお父さん?はまだ嫌い。


 よくわからないし、お母さん?という人を思い出しては泣くし、夜は電話で誰かに怒鳴っている。でも旅費を出してくれるらしいから、口には出せない。

 椚と梢と一緒に色んな場所に行った。でも思ったより綺麗な世界ではなかった。海が汚れている場所もあったし、人の戦いで壊れた遺跡もあった。

 物を貰うのにはお金が必要で、お店によっては値段が全然違う。優しそうな人についていこうとすれば、梢と椚に怒られてしまう。


 埃が酷い場所では咳き込んでしまうし、暑い場所では汗がかけなくて倒れそうになる。寒い場所では風邪をひいて、やっぱり倒れてしまう。

 美味しい物をたくさん食べたくても、すぐにお腹一杯になる。友達が欲しくても、梢や椚が邪魔してくる。どこ行っても楽しくない。ソフィアがくれた歌も、誰も聞いてくれない。

 僕が歌えば人は集まるけど、それだけ。声をかけてくれる人もいたけど、どう答えればいいかわからないし、椚や梢が代わりに対応してしまう。


 飽きてきた僕に弟が母親?の故郷である日本に行ったらどうだと言われた。食事量は小さく、四季という気候の変化で涼しいや暖かい経験ができると。

 試しに日本に行ったら面白かった。色んな人がドイツの人より小さくて、それに合わせて物も小さい。神社や観光名所の秋葉原も変わってて、新しかった。

 その様子を見て椚と梢が珍しく長く滞在してみようと言ってくれた。そして冬から今までずっと観光しつつ、ストリートライブで色んな歌を歌った。


 日本人はドイツ語の歌詞がわからなくても反応してくれる。ソフィアがくれた歌は日本語だったらしく、小さな女の子に兎さんの歌と言われた。

 冬は少し寒かったけど、ドイツほどじゃなかった。春は暖かくて、お花見で桜を見た時は桃色の空で楽しかった。夏は夕焼けが長く見れてちょっと得した気分。

 椚が楽しそうに販売用CDを作ったり、副業でホスト始めたり、そのたびに梢といつもの遊びをしたり、少しだけ楽しかった。


 でもやっぱり友達はできない。話しかけてくれる人は多かったけど、全部梢や椚が対応してしまう。でもサイタは二人が遊んでいる隙に、話しかけてくれた。

 CDを買いに来たと言われたけど、それは椚の管轄だからわからない。でもサイタは諦めずに目の前で一枚の紙を封筒に仕立て上げた。すごく面白かった。

 折り紙、というのは日本に来て初めて知ったけど、どうやって折ったのかわからないほど繊細で可愛い。僕はその折り方を知りたくて、CD片手に離れたサイタを追った。


 そしたら鼻の骨が折れたとかなんとか女の子と話していて、興味があったから尋ねた。女の子は逃げちゃったけど、サイタは逃げなかった。

 梢と椚の邪魔が入らなかったし、大辛のカレールーを見つけてもっと興味が湧いた。いつも食事は健康を第一に考えて、と言われて薄味のが多かったから。

 サイタは優しかった。大辛のカレーを美味しく食べる方法を教えてくれて、困ったらすぐに助けてくれる。ソフィアに少し似ている気がした。


 クルリが遊んでいたゲームも初めて見る物で面白かった。日本では液晶画面を駆使したゲーム技術が発展しているのは本当だったんだ。

 ララは少しだけ僕を観察しているような目をしていたけど、あんなに細いのに一杯食べる姿が面白かった。女の子なのに、男の子みたいなカッコイイ容姿も良かった。

 三人といると楽しかった。家族とか、魔法とか、なにも気にせずに話せた。サイタは右の手の平に魚型の青い痣があったから、僕と同じ固有魔法所有者みたい。


 椚が僕を連れ戻しに来た時も気分良く帰れた。もう一回会ってみたいな、と思って椚の目を盗んで歩いていたらサイタ達を見つけた。

 よくわからないけど、魔法管理政府の内部告発で梢と椚が忙しいらしくて、簡単にホテルを抜け出せた。炎天下は辛かったけど、サイタに会えたらどうでもよくなった。

 鼻骨の女の子と、カノンという女の子にも会えた。魔法を使った時、カノンは僕が嫌いな視線を向けていたから、少し怖かったけど……悪い子じゃないみたい。


 公園の水道で頭から水を被ったのは初めてだった。行儀が悪いと梢が冷えたタオルとかを常備していたから、新鮮だった。

 サイタは僕の好物を作ってくれた。なぜか隣に座れば作ってくれると言っていたから、ララに頼んで隣に座らせてもらった。大好きなクリームシチューを頼んだ。

 ソフィアが作るシチューとはまた違った匂いだったけど、美味しかった。もっと食べたいのに、すぐにお腹一杯になってしまった。


 そしたらテレビで魔法管理政府ドイツ支部の名前が流れた。日本語を読むのはあまり得意じゃないけど、クルリが呟いたのを聞けたから。

 ソフィアに会いたくなった。でも変な違和感が三年ぶりに復活した。なんでだろうと思っていたら、椚が怖い顔をしてサイタの家に来た。

 いきなりドイツに帰るとか、わからない。せっかくサイタと友達になれたのに、あんな家や検査がある場所に帰りたくない。


 嫌がったら頬を叩かれて、勝手に涙がでてきた。どうして叩くのかわからない。気持ち悪い、嫌だ、帰りたくない。

 気付いたら小人さんが出ていた。多分僕を守ろうとしてくれたのかな。でももう一度頬を叩かれて、消えてしまった。

 椚がとても慌てている。どうしよう、僕約束破ってしまった。魔法を暴走させない限りは旅に出ても良いという話だから、帰らなきゃ。


 でも帰りたくない。本当はもっと、もっと、サイタ達と遊びたかった。







 暗い夜道を椚に連れられて歩く。三年前を思い出す。ソフィアと別れた直後、同じように歩いた。

 あの時は兎リュックが……あ、どうしよう。サイタの家に忘れちゃった。あれは大事な物なのに。ソフィアがくれたプレセントなのに。

 なんで椚はこんな人気のない道を選ぶのかわからないけど、戻らなくちゃいけない。ソフィアのリュックがないと、僕は落ち着かない。


 それにもう一度サイタと会えるかも。そしたら助けを求めてみれば、ドイツに帰らなくても済むかも。

 うん、サイタならきっと助けてくれる。だって優しいもん。


「椚、リュック。ソフィアのリュックが……」

「後で配達サービスを使って届けてもらいます。今は逃げるべきなんです!」


 椚が振り返らないまま、僕の腕を痛いくらい握りしめる。細い路地が三年前を思い出して怖くなる。一人で走った道、ソフィアと別れた日。

 猫も通らないような暗い路地の向こう側ではネオンが輝いている。車の光、家の灯り、それらが眩しすぎて星の光は消えてしまってる。

 携帯電話を片手に椚はあみだくじのように路地を突き進む。僕はそれについていく、少しだけ広い裏路地に入ったら知ってる人達がいた。


「あ、アンタ達は……」


 椚は明らかに警戒していたけど、僕は見知った顔だったから思わず嬉しくなった。夏だから相手は汗だくで立っている。


「やっと探し当てた」


 三人は少しずつ近づいてくる。だけど椚は少しずつさがって、僕の体にぶつかってしまう。椚の背中も汗だくで、ホスト用のスーツが濡れている。

 夜でもやっぱり暑いんだ。最近体が赤くなると熱いなとは思うけど、皆が言うような気温の変化がよくわからなくなってきた。

 椚の携帯電話に着信が入ったのか、低い音と振動で揺れている。でも椚は出られないみたい。どうしたんだろう。


「テオ。ソフィアに会いたいだろう?こっちに来なさい」


 ソフィア。何度も焦がれた名前が僕の頬を緩ませる。会いたい、抱きしめてほしい、一緒に歌ってほしい。

 前に出ようとする僕を椚の背中が邪魔する。どうして、彼らは魔法管理政府ドイツ支部の人達で、世界平和のために動いている人なのに。

 大好きなソフィアと同じで、世界を綺麗にしようとしている人達なのに、どうして椚は焦っているの。よくわからない。


 黒スーツを着た三人の内、二人が静かに歩いてくる。椚がもっとさがろうとしている。どうして、どうして逃げようとするの。

 さっきから椚は変だ。サイタ達とも引き離すし、彼らからも逃げようとする。ソフィアのリュックは手元にないし、ソフィアにも会えない。

 僕が椚に問いかけようとした時、椚がスーツの内ポケットに手を伸ばした。変な金属音が聞こえて、その次には黒スーツの一人が椚に飛びかかってきていた。


 右腕を捻り上げられて、地面に叩き伏せられた椚。僕が混乱している間に、もう一人が暴れる椚の頭を押さえつけている。

 椚は格闘技を学んでいるらしいけど、複数が相手じゃ動けなくなると思う。どうしてこうなっているのかわからない、気持ち悪い。

 残った黒スーツの一人が僕に近づいてくる。手には赤い林檎がある。あまりにも赤くて、暗い路地にいるのに鮮血のように輝いている。


「ね、ねぇ。どうして椚を抑えるの?椚はなにも悪いことしてないよ?僕もなにもしていない」

「ああ、わかっているよテオ。私達は君に条件を受け入れてもらおうと思ってね」


 そう言って僕に赤い林檎を差し出してきた。手に取れば夏だというのに、石のように冷たくて、わずかに重い。まるで宝石みたい。

 これをどうすればいいのかわからない。食べればソフィアに会えるのかな。それとも握り潰すのかな。後者だったら無理だと思う。腕力ないから。

 優しそうに微笑む黒スーツの人。政府の人。世界を救う人。なのに、怖い。なんでだろう、昔ならこんなこと思わなかったのに。


「その林檎を食べてごらん。そしたらソフィアに会わせてあげよう」


 椚が一層暴れる音がした。でも口を塞がれているのかよくわからないし、僕の意識はそっちに向かなかった。

 ソフィアに会える。それは僕が一番欲しかった物。誰よりも、なによりも、この世で一番大切な気持ちで、僕の願い。

 一口。一口食べてみよう。宝石みたいに綺麗だし、きっと美味しい林檎なんだ。それだけでソフィアに会えるのならば僕は──もうなにもいらない。





 ひっかかる。喉に、熱い血みたいな苦みが広がって気持ち悪い。吐き出したいのに、吐き出し方がわからなくなってる。

 椚がなにか叫んでる。わからないよ、怖いよ、助けて、ソフィア、ソフィア、会いたい、ソフィア、今すぐ来て、ソフィア。

 膝が折れて、立っていられない。喉を両手で押さえつけるけど、引っ掛かる物は取れそうにない。それよりもソフィア、ソフィアに会いたい。


 下を向く僕の目の前に一枚の紙とテープレコーダー。レコーダーは既に再生しているのか、ざらつく音が耳に届く。

 紙の方は死亡診断書とドイツ語で書かれている。一緒に一枚の写真が貼ってあって、僕はそこに写っているのがソフィアだとすぐわかった。

 体が蜂の巣状になって、血で溢れていて、顔は半分も残ってないけど、ソフィアだ。美しい金髪が、ソフィアの物で、血に濡れているけど、わかるよ。


 わかるけど、わかりたくない。


 なんで、わからない。ソフィア、どうして、砂嵐みたいな音が脳まで届く、ソフィア、死んだ、よくわからない。

 引っ掛かる、熱い、でも汗は出なくて、体は氷みたいに冷たくなっていくみたいで、目だけが沸騰しているみたいで、目の前が真っ赤で。

 林檎が視界に広がっている気がして、気持ち悪い、ソフィア、助けて、小人さん、わからない、なにか聞こえる、サイタ、の声じゃない。


 ソフィアの声だ。砂嵐の中でなにか呟いてる。椚が叫んでるけど、それよりもソフィアの声が先に耳に届く。

 覚えのある優しい声じゃないけど、ソフィアの声だ。色んな歌を教えてくれて、自作の歌も奏でた素敵なソフィアの声。


『……あの……子は…………死ぬべきなの』


 ソフィア?


『……可哀想な……悪魔……の子……テオ……』


 僕は白雪姫のお話が嫌い。継母に恨まれて、お姫様は殺されちゃう。僕はそれが怖くて、泣いたことがある。

 もしもソフィアに同じことをされたら、僕はきっと死ぬよりも悲しくなってしまう。だから今日はきっと人生で一番最悪の日だ。


『嫌いだったわ……』


 そんな言葉は欲しくなかった。

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