第5話「覚悟を決めた」

 厩舎の藁束に子犬が潜り込む。ざかざかと中で動き回っていたが、大きな手がもふもふの体を掴み取る。

 あっという間に引き上げられた子犬は藁まみれで、口からはみ出た小さな舌の上にも藁が張り付いていた。

 

「大人しくしろ、しつけの途中だからよ」

 

 手で藁を払い除け、子犬を木材の上に載せる。真面目に子犬と向かい合うオウガを眺め、クリスは微笑ましい気持ちになった。

 植物の世話も甲斐甲斐しく、庭にある花壇の冬備えを施し、木鉢に植えている「獅子の純情レオンハート」という薔薇も室内で面倒を見ているほどだ。

 厩舎で子犬のしつけを行いながら、厩舎の補修用の木材で犬小屋も作っている。相当こだわりあるのか、固定付き滑車をつけて移動できるようにしていた。

 

「オウガ殿はお世話好きなんですね」

「生物を飼うってのは責任が伴うだろうがよ」

「ええ。存じております」

 

 愛馬であるシェーネフラウの鬣をブラシで梳き、クリスは穏やかに頷く。

 生物の世話に関しては幼い頃から触れ合っているためか、子犬を飼う話題に関してもクリスが一番喜んだくらいだ。

 そして拒否を示したレオに関しては、藁束を積み重ねた山の上に寝転んでいた。

 

「深い雪の中でも、ここは暖かいな」


 微睡みながらも、薄目で厩舎の天井を見上げている。金色の瞳には覇気が消えており、どこか消沈している様子だ。

 元気がないレオの顔の顔に影がかかる。クリスが心配そうに顔を覗き込んでいた。不満そうなシェーネフラウの嘶きが耳に届く。

 

「レオ殿、王子の意識は如何でしょうか?」

「反応なしだ」

 

 深い溜め息を吐き、レオは起き上がる。服についた藁を雑に払い、つまらなさそうに欠伸をする。

 暇というわけではないが、為すすべがない。かつては太陽の聖獣として崇め奉られ、不可能なしと言われた威光も遠い過去。

 歯痒い思いを抱えたレオは、ただひたすら後悔していた。打開策がほしいのに、相手が拒否していては対応できない。

 

「我の謝罪など、値千金だというのに……何故聞いてくれぬ!」

「ぶっちゃけ自分を殺そうとした相手の弁明を受け入れたいと思うのかよ?」

「王族相手ですので、本来であれば即処刑ですね!」

 

 残念ながらミカ側である従者二人は容赦なかった。特にクリスなどは明るく言いのけるので、レオの心に鋭い一撃となる。

 

「いいか、犬。あんな押し付けがましい男にはなるなよ」

「酷いな!? というか、名前! 性別!」

 

 オウガの言葉に対し律儀にツッコミを入れていくが、慣れていないせいか息が上がってしまう。

 藁からブラシを作っていたクリスは、仲が良いことだと微笑ましい目で眺めていた。

 

「仕方ないだろ。ミカが戻ってこないと名前が決められないんだよ。こいつが自分を犬だと思い込む前に、早くなんとかしろよ」

「それができていれば苦労はない!」

 

 着々と小屋を完成に近づけていくオウガの背中へ、レオは必死に訴える。だが効果はない。結果も出ない。

 一人で部屋へ戻ろうかとも考えたが、積もった雪の道を眺める。足取りが重くなるのは必須。寒いのが苦手なレオは、藁山に座り続けることを選んだ。

 

「そうだ、クリス。何故ミカの意識の様子を尋ねた?」

 

 馬体を藁ブラシで擦るクリスは、手を止めずに返事をする。

 

「夢とは別世界と聞きました。であれば意識の内側も同じと思った次第です」

「ふむ……で?」

「王子の意識世界ならば、素晴らしいものでしょう!!」

 

 期待で目を輝かせたクリスが振り向いてきた。ブラッシングの手は止めず、レオの言葉を待つ。

 しかしレオは考えあぐね、口ごもる。またもやシェーネフラウの不満そうな嘶きが小さく響いた。

 

「シェーネフラウが拗ねているぞ。しっかり相手してやれ」

「承知しました。すまないな、シェーネフラ……ん?」

「レオ、お前は動物の言葉がわかるのか?」

 

 今度こそはクリスの手が止まった。シェーネフラウが彼女の髪の毛を食み、小さく引っ張る。だがクリスの頭が少し傾いた程度だ。

 百合色の髪が唾液塗れになるのも構わず、クリスは呆気に取られた。そして蒼眼に少しずつ未知に対する好奇心が溢れ出る。

 

「レオ殿! ご説明を! やはり元聖獣であるが故の特性なのですか!?」

「大袈裟な。言語は音声の組み合わせだ。人間の発声とは異なるため法則が掴みづらいだけで、動物は種類ごとに適切な言語を使っているんだ」

「また頭が痛くなる内容かよ」

「港町に複数言語を使う者がいたな? それと同じだ」

 

 なんでもないことのように言ってのけるレオだが、動物ごとに発声が異なる上に、地域差というものがある。

 ヤーがこの場にいれば「精霊言語の発展と信仰による認知」を絡めて詳しく話してくれたのだが、追い込みにより研究所に引きこもっている状態だ。

 そのため二人は詳細を尋ねなかった。ただ好奇心の赴くまま、クリスが詰め寄る。

 

「ではレオ殿! シェーネフラウに連結術について聞いてください!」

「どういうことだ?」

「王子が気にかけてくれたのですが、シェーネフラウは優秀な牝馬です。私はこれ以上の愛馬を見つけるのは難しいと常々考えております」

 

 ブラシを強く握りしめ、冷静に、それでいて熱く語る。

 前のめりな体勢のせいでレオの視界にはクリスの整った顔立ちしか映らない。

 白い肌に桃色の唇。輝く蒼眼は澄んでいて、額に落ちる前髪は白百合色。ヤーと比べれば穏やかな貴婦人になりそうな外見だが、性格が勇ましすぎる。

 

「故にシェーネフラウの同意を得られたならば、連結術リ・ンクを試そうという話を以前からしておりました」

「そう……なのか?」

「王子から話を聞きませんでしたか?」

 

 会話の流れとしては自然だったが、レオの心境としては大きな衝撃を伴う発言であった。

 気づかれないように落ち込むが、明らかに雰囲気が変化したのをオウガは察知する。

 

「まあミカが忘れてたんだろうよ。とりあえず聞いてみろよ」

「そうだな。まあ人間に育てられた動物の場合、大まかに理解しているだろう」

 

 ゆったりと起き上がったレオが馬の前に立つ。

 美しい白い毛並みに、整った顔立ち。馬基準でも魅力的らしく、他の馬房から求愛の嘶きが響き渡っていた。

 

「ということらしいが、どうだ?」

「人間の言語で通じるのかよ」

「人間と共に生活する動物ならば。ただし我は馬の言語は発せないし、馬も人間の言語は無理だ」

 

 喉の辺りを指差し、レオはさも当たり前のように語る。

 しかし耳だけはシェーネフラウの言葉を聞き取っており、小さく頷きながら記憶に照らし合わせて通訳する。

 

「シェーネフラウは『うち、マジ姐さんに地の果てまでついて行く勢いっす。お望みとあらばどんな命令にも従う所存っす』と」

 

 かぷり、とレオの頭がはまれた。

 臼歯が額のあたりを甘噛みし、首を振るえばレオの体が左右に揺れる。

 普段ならば止めるはずのオウガとクリスは、思わぬ通訳に反応が遅れてしまう。

 

「いや、その、あれだ。我の通訳方法は二十年前ので、少々時代遅れなところがあるらしくてな、すまん」

「び、びっくりしました。シェーネフラウがそんなにラフな口調とは……」

「俺もクリスみたいな高貴っぽいのを想像してたからよ」

「改めて『我が主人の望みとあらば地の果てまでお供させていただきたく』だ」

 

 満足したのか、シェーネフラウはレオの頭を吐き出す。

 涎まみれになったせいか、金髪が勢いを失っている。ぺっしょりと濡れたせいで、レオ自身も意気消沈している。

 

「しかしレオ殿のおかげで夢の一つであったシェーネフラウとお話ができました! ありがとうございます!」

「その調子で犬の通訳をしてくれよ」

「そやつは小さすぎてまだよくわからん。赤子の言葉は人間でも通じないだろう」

 

 オウガが頭を撫でる子犬を見つめ、レオは深々と息を吐く。

 それだけで鼻をつく馬臭さに辟易した。どんなに美しい牝馬でも、獣臭さというのは簡単には消せないのである。

 

「我は一度涎を拭き、研究所へと向かう。二人はどうする?」

「私はシェーネフラウの世話が残っていますので」

「だったら俺が付き添うか。犬はミミィとリリィにでも預ける」

 

 子犬を脇に抱え上げ、オウガはレオと共に城の東側へと歩き出す。白い吐息が背後に流れていき、ゆっくりと空気に溶けていく。

 時間の流れさえも緩やかになったように、空の色は重い灰色。ふわふわと落ちる雪が積もっていき、周囲を埋めていく。

 足元の雪をかき分けて進む中、レオが不意に足を止めた。からからと回る音の方へ視線を向ける。

 

「城の中に水車?」

 

 水路を伝って水が流れ、木製の歯車を回していく。それが堀へと通じ、城内に経路を作っていた。

 樽に入っている水も凍り付いているというのに、生活用水のお湯も混じっているおかげがわずかに湯気が立っている。

 脱穀用や製粉、製糸の用途ならば理解できるが、城内の水車はいささか趣を異なっていた。

 

「ああ。初代国王とやらが偏屈で、作らせたってヤーが説明してたぞ。城内七不思議の一つだとか、ミミィが楽しそうに話していたよ」

「そんな怪談話があったのか」

「怪談というより、財宝話だったぞ。なんでも初代国王の秘密部屋のヒントだとよ」

 

 初代国王。何度か単語は聞いているが、レオにはあまり馴染みがなかった。

 ユルザック王国の初期は精霊信仰はあったものの、今ほどの熱烈さはなかった。

 どちらかと云えば小競り合いが多く、聖獣が訪ねても「取り込み中だ」と跳ね除けられることも。

 

 しかしそれよりも――。

 

「水が回る光景、何処かで……」

 

 呟いた直後。

 

「ぶえっくしぃ!!」

 

 自らのくしゃみで思い出はまたもや忘却の彼方へ飛んでいった。

 

 

 

 精霊研究所は多忙を極めていた。精霊術師で歩いている者はなく、止まっている者は座っているか、倒れているかだ。

 白い通路にさえ資料の山が築かれ、城内から出張した司書が回収の説得で大声を出すほどだ。

 喧騒と剣呑。四方八方から刺々しい気配と緊張。報告会は目前。周囲全てが敵と思えるような雰囲気だ。

 

「魔素はこの報告会をもって瘴気と呼称を統一。魔素はもう少し詳細がわかり次第、使用していく方針よ」

 

 発表用の原稿を片手に、ヤーは悠然としていた。いや、そう見えた。

 足は貧乏揺すりで床を鳴らし、目元は色濃いクマで彩られている。濃厚な疲労の気配とは反対に、碧眼には鮮烈な生々しい光が宿っている。

 

「詳細とは?」

「素では精霊と同じ。じゃあ何段階から変貌するのか。精霊への新しいアプローチが必要になってきたの。特殊な顕微鏡作成もね」

「顕微鏡?」

「視力では捉えられない細かいのを見るの。望遠鏡とは正反対みたいなものよ。ミカの才能を秘めた目を、万人でも共有する道具」

 

 疑問に対して淀みなく答えていく。ただし手だけは止めず、紙の裏さえも墨で埋めていく。

 レオの知識が補充されていく片側で、整合するための記憶が蘇っていく。時代が変わっていることを痛感すると同時に、人の世から離れていたと味わう。

 親身になった相手の顔を思い出そうとした矢先、水が回る音が脳裏に響いた。

 

「そういう意味では道具作成への発想が必要ね。あのハリエットという研究者、部下候補にしたいわ」

「そういえばヤーには部下はいないのかよ?」

 

 横で黙って話を聞いていたオウガだが、ふとよぎった疑問を素直に問いかける。

 天才精霊術師。国の中央に集められた精霊術師の中で。十代にしてそう呼ばれる少女。

 少なくとも実力は折り紙付きだ。だからこそ解せない。

 

「アタシはまだ研究テーマを決めていないのよ」

「どういうことだ?」

「精霊術師はテーマごとにグループを形成し、教授及び主任を筆頭に行動するの」

 

 別の資料を裏返し、ヤーは三角形を描く。図形の中に線を引き、上から『教授及び主任』と追記し、次に『精霊術師』と記し、一番下に『研究生』と書く。

 三角形に矢印で『研究テーマによる内部図』と捕捉し、簡潔な説明図をオウガへと差し出す。

 

「所属必須ではないけど、部下とか人手が欲しいなら研究テーマを決める必要があるの」

「なんか階級図みたいで気にくわねぇ」

「王族嫌いだものね、アンタ。でも組織図はこういうものよ。全部が横並びなんてありえない」

 

 ヤーの言葉にレオが静かに頷く。聖獣も妖精の上位にあたり、その下に精霊のような構図が自然と出来上がっている。

 偉いとかではなく、力や存在感など、総合すると格付けが行われる。こればかりはどうしようもない問題なのだ。

 

「あの馬鹿野郎おにいちゃんでさえ、一応はテーマを決めてるの」

「どんなのだ?」

「確か『陣形性による精霊術の発展性と汎用性の両立』だったかしら。あえて大雑把なテーマにして、幅広くやってんのよ」

「そのせいで中途半端な精霊術ができるのだろう」

 

 容赦なくカロンの研究テーマをずばっと斬る。しかしその発言と似た内容を、既に父親から食らっていることをレオは知らない。

 

「だからカロンは部下を持ってんのよ。まあササメさんの息子という影響力もでかいけど」

「ササメさん?」

「研究所の所長で、アタシの養父よ。優秀な精霊術師であり、研究家。全ての研究テーマを管理し、把握しているわよ」

「すげぇ奴っていうのはわかった」

 

 肩書きが長い男の説明に対し、オウガは手短に済まそうと簡潔にまとめる。

 ヤーもそれ以上は語らず、別の話へと切り替えていく。

 

「アタシは『聖獣と妖精、精霊の関連付けから推測できる考察』でも研究テーマにしようと思ったけど、現状を鑑みると『魔人から始まる瘴気や魔物への探究と対抗策』になりそうなのよ」

「む、難しい内容だな」

 

 テーマ名の長さにもだが、内容の難しさにレオの口元が引きつった。

 精霊術としての根幹、精霊。そこから派生する生命体である妖精や聖獣の研究。王道が故に、既存論文は数多い。

 研究家が目を見開くほどの新発見など、容易には出てこない。それを扱おうと考えるのは、よほどの覚悟がないと必ず途中で心が折れる。

 

 しかし新規発見されたばかりの題材を調べようというのは、既存研究を参考にできない。

 自らの足と頭脳、ひらめき。全てを利用し、後世に残すためにまとめなくてはいけない。それを困難と呼ぶには、あまりにも過酷だ。

 

「……顧問精霊術師になるためだもの」

 

 小さく呟かれた名称は、レオにとって懐かしいものだった。

 幼かった二代目国王の悲劇の後、三代目国王が王座に腰を据えた時期。王の姿からほぼ遠い平凡な男の横に、その女は立っていた。

 名家の出身ではなく、都市部で育った経歴もない。ただ純粋に自然と語らい、精霊を視つめ、穏やかに微笑む。

 

 初代顧問精霊術師のユリア・フェイト。

 

 かつて太陽の聖獣として全盛期を誇っていたレオに対し、まるで友人のように話しかけてきたのだ。

 気の抜けるような笑顔はどこかミカを連想させ、話し方はクリスに似ていた。だが叡智はヤーよりも卓越し、時に見せる強さはオウガに匹敵した。

 レオの感想は「日向でうたた寝するのが似合う変人」である。三代目国王は人材に恵まれた縁多き人物だったが、そういった変人奇人との関わりも深かった。

 

「そういえば記述揺れが気になって調べたのだけど、魂魄ってわかる?」

 

 思い出したようにヤーが資料の山を崩しながら一冊の本を取り出す。紙が天井近くを舞ってもお構いなしだ。

 本自体は新しいが、書かれている題字は古い。何度も刷新され、研究用として重宝されてきたのがわかる。

 

「魂に関する生命への環状機構――作者がユリアだと?」

「初代顧問精霊術師が晩年に残した研究よ。この魂という単語なんだけど、よく見ると魂ではなく魂魄こんぱくとなっているのよ」

 

 白い指先で頁をめくり、あらかじめ赤い墨で線を引いていた単語を指す。

 些細な違いではあるものの、確かに魂とは違う表記がなされていた。しかし意味としては通じるものであり、集中していないと気づかない程度だ。

 

「道具に魂が宿ることにより、そこから生ずる妖精の仕組みは知ってるでしょう?」

「ああ。人間は製作物に情熱を込める。その際に己の魂も注ぐという」

「でも魂全てが奪われるわけじゃない。あくまで一部。じゃあその一部というのは魂の中でも相当するのはなにか――という話よ」

 

 何度も読んだ部分には栞を挟んでいたため、すぐに青い線を引いた箇所へと辿り着く。

 それは初代顧問精霊術師の些細な疑問。当たり前のような現象に、ふとした好奇心が疼いた。その結果として一冊の本を作った。

 

たましいにはこんはくという二つの要素が絡み合っている。これは蓁国の思想なんだけど、魂は天に、魄は地に帰る。ここまではいい?」

「ああ……気になるところはあるが、進めてくれ」

「まあ儒学では神仏教の輪廻転生を否定するための面も内包してるからややこしいけど、どうやら魂は精神で魄は肉体に影響を与えるらしいの」

「……うむ」

 

 さすがにレオの相槌が鈍った。聖獣として生まれた時から精霊術が扱えるのは普通、ある程度の知識はあれど深く考えたことはない。

 人間のように不明に対する知識欲には到底及ばない。また東西に点在する学問の認識違いとなればお手上げ状態だ。

 既にオウガは紙だらけの床に寝転がり、生欠伸を零しながら様子を見守っていた。

 

「例えばアトミスやホアルゥみたいな妖精が人間の形をしているのって、どうもはくの影響らしいのよ。聖獣も同じね。ではこの二つの違いは?」

「えー、こんということか? もしかして聖獣と妖精の違いは、こんの強さ――精神に由来するのか」

「初代顧問精霊術師はそう考えたみたいね。アタシも現状異論はないわ。じゃあどうして人間には魂魄の影響が少ないと思う?」

「肉体だな。既に器が決まっている。だが精霊は魂に集まる。その時に器の形を決められる自由さがあるわけだ」

 

 ヤーの目が輝きだす。打てば返ってくる。その応答が楽しくてたまらないといった表情だ。

 オウガが目蓋を閉じて半分睡眠状態なのもお構いなしだ。

 道具に関する妖精の発生に関する論文や、道具に聖獣が宿るのかを疑問視した研究の資料も取り出す。

 

「現顧問精霊術師も同じ疑問を持っているらしくてね、去年に似た論文を出しているのよ! どうやらハリエットの上司にあたる教授も前報告にて今年の発表は道具に宿る魂によって、道具の長持ちに影響するのかということをね!」

「研究報告会か。その……研究を盗まれるということはないのか?」

 

 勢いに押されかけたレオが、床に散らばる紙片を眺めながら尋ねる。


「あるわよ」

 

 平然と裏切りが横行していると、ヤーはあっさりと認めた。

 

「アタシも何度かやられたわ。数年前から精霊言語で暗号文作成にして秘匿しているわよ。だから前報告と違う内容を発表した奴は半分が盗人よ」

 

 深々と溜め息を吐き、ヤーは散らばった資料の一つをレオへと差し出す。

 そこに書かれていたのは精霊言語ではあったが、実際の文脈とは異なる組み合わせで形成されており、すぐに読み解くことはできなかった。

 

「問題は研究生の研究を盗む教授とかいるのよね。これにはササメさんが潔癖症なのも相まって、毎年炙り出すために諜報員を使っているらしいわ」

「恐ろしい話だな。しかし興味深い。いっそのこと研究報告会に出席したいが……」

「できるわよ」

 

 適当に紙片を集めてまとめ始めたヤーは、さも当たり前のように告げる。

 

「王族用の傍聴席があるのよ。まあほぼ毎年空席だけどね」

 

 国王の継承が決まる頃に、顧問精霊術師の選定をするための特等席。

 現国王が健在な状況において、その席にはあまり意味がない。

 また国王によっては何人も顧問を抱える者もいるが、一人も選ばない王も存在する。

 

「王位継承権は無関係だから、ミカの地位でも座れるはずよ。ただ悪目立ちは確定ね」

「ミカの意識が戻れば意見が聞けるのだが……」

 

 心を閉ざすとは言い得て妙だった。ミカの意識が十歳になった直後、激しい拒絶をされた。

 そのせいでレオは眠りについても、暗い場所で置き去りにされている気分だった。一匹の獅子が入れるものの、狭い箱に封じ込められたような気持ち悪さ。

 レオだけではどうにもならない場面が、王城の生活では多すぎる。最近ではレオの雰囲気に圧倒された使用人などが、羨望の眼差しさえ向けてくるのだ。

 

「……意識は魂魄のこんに由来すると思うわ。精神に影響が出るというのならば。無理矢理はよくないと思うわよ」

「そうだな。しかしこのままでは埒があかない。どうすれば……」

 

 頭を抱えて悩むレオを前に、ヤーは視線を少しだけ自分の手へ向ける。

 両手がある。二つを掴むための部位。しかし気持ち――心は一つしかない。

 二つを掴んでいるせいで、心が張り裂けそうになっている。それは地に足がつかない気分だ。

 

「ねえ。今日の夜、少し時間を頂戴」

 

 少女にとって、研究発表よりも緊張する一言だった。

 

 

 

 あと少し。完成が見えてきた。

 ハリエットは疲れで朦朧とする視界の中、完成間近の原稿に微笑む。

 埋め尽くされた文字に、簡易図形。理論の構築や、根拠となる資料の準備も整っている。

 

 不眠不休も限界。羽を休めるため、食堂へと向かうことを決めた。

 研究室の鍵をかけ、ふらふらと歩き出す。窓がないせいで、天井の精霊による光だけが白い廊下を照らしてくれる。

 昼か夜の判別も怪しくなってきたが、まだかろうじて日付感覚は残っている。しかし頭が揺れて、上下を見失った矢先だ。

 

「おっと。大丈夫?」

 

 背中を誰かが支えてくれた。ズレた眼鏡の位置を直し、目を細めて確かめる。

 軽薄そうな茶髪に、明るい青の瞳。ハリエットが最も苦手とする男――ラルクが顔を覗き込んでいた。

 わずかに生まれた意識の空白。しかし思考が必死に現状を訴えてくる。化粧もろくにしていない、水浴びも忘れた女研究員だと。

 

「ご、ごめんなさい!」

 

 恥ずかしさのあまり、猛烈な勢いで逃げ出した。

 お礼を言うのも忘れ、気付いた時には食堂のテーブルに突っ伏していた。食堂のおばちゃんが親切に届けてくれた昼ごはんにも食指が動かない。

 やってしまった。弱みを見せてしまった。穴があったら入りたいし、今からでも雪をかき分けて埋まってしまおうか。頭を冷やすには充分だ、くらい落ち込んだ矢先である。

 

「ハリエットくん、お疲れ様」

 

 穏やかな声だった。彼女にとっては恥じらいよりも先に嬉しさが滲み出る相手。

 同じ研究テーマの教授――バロ・オイデンだ。老紳士として常日頃から身嗜みを整えている彼も、研究詰めで少しだけ毛髪が乱れていた。

 白髪を指先直し、黒い瞳でハリエットを映す。見つめられているとわかった彼女は、すぐさま姿勢を正して、自らも手櫛で毛髪をまとめる。

 

「教授こそ。今年は難しい内容に挑まれるようですが、革新的な内容に期待が高まります」

「それなんだが……少し変える予定なんだ。やはり資料集めに難航してね。来年には発表できるようにするよ」

「そうなんですか。けれど既に来年を見越しているとは、さすがです」

 

 ハリエットからすれば、今年の研究だけでも危うい。それなのにバロは研究を諦めず、次へと繋げている。

 才能があるとはこういうことなのだろう。羨ましいが、妬む理由にはならない。ただ憧れと尊敬が大きくなり、目標へと変わっていく。

 食事をしながら前報告からの他の研究テーマについて語り合い、和やかな時間を過ごす。

 

 腹も心も満たされて、軽やかな足取りで研究室へと帰る途中。

 またもやラルクと出会ってしまう。ただし今度は彼が急いでいる様子で、何度も周囲を見回している。

 その慌てた姿に不審感を覚えつつも、恐々と声をかける。

 

「あの……先程はすいませんでした」

「えっ!? あ、ハリエットさん!?」

 

 彼女の姿を認めた途端、驚きが二倍になったかのように大声を出したラルク。

 大袈裟だと思いながらも、ハリエットはなるべく化粧をしていない顔を俯かせる。視線は合わせない。

 

「倒れそうなところを助けていただき、ありがとうございます。お互い、研究報告会に向けて頑張りましょう」

「あ、えっと……そう、だね」

 

 歯切れの悪い返事をしながら、ラルクは少しずつハリエットから離れようと後退る。

 彼女としてもそれ以上の会話を必要ではなく、自らの研究室へと歩き出す。背後でラルクが走り出したことにも気付かない。

 そうして一分もしない内に、異変を察知した。

 

 ドアが開いている。

 

 嫌な予感に誘われて、恐る恐る研究室へと踏み込む。

 そして――。

 

「嘘、でしょ」

 

 彼女の集大成は、綺麗に消え去っていた。

 

 

 

 雪が降る夜。指先まで凍りそうな冷たい空気が城を包む。

 しかし王城の東側へと歩を進める少女の顔は、熱で真っ赤になっている。もしかしたら湯気が出るかもしれない。

 頭の中まで沸騰しているのではないかという混乱と、迫りくる緊張。心臓が口から飛び出してもおかしくない様子だ。

 

「ヤーか。待っていたぞ」

 

 しかし待ち合わせ相手は悠然としており、部屋の前とはいえ無防備だった。

 扉裏ではクリスやオウガが気を張り詰めていると思うが、第五王子という身分には相応しくない姿勢だ。

 二人きりで話がしたい。そう告げたのはヤー自身だが、それでも王族ということを忘れすぎではないかと、少しだけ頭が冷えた。

 

「資料をまとめるのに手間取ったのよ。で、何処へ……」

「ここで話すのは駄目なのか?」

 

 うっかり手が出そうになった。拳を強く握りしめ、ヤーは怒りをゆっくりと静めていく。

 壁越しに会話を聞かれたくない。それがたとえオウガやクリスであってもだ。もちろんカロンは論外であり、辛うじてハクタ――とも思ったが、やはり全員却下である。

 

「駄目よ。大事な話だもの。庭は雪が降ってるし……どうしましょう」

「ではこちらへ。アトミスが教えてくれた場所がある」

 

 そう言ってレオは普通に歩き出してしまう。堂々とした姿で先へ進むものだから、一瞬だけ把握が遅れた。

 慌ててその背中に付き従う。外見は十五歳の少年。集まる精霊は尋常ではないが、それ以上に圧倒する雰囲気が違う。

 外廊下を歩けば凍えた風が頬を撫でるが、音は消えていた。無音の世界で、白い粉雪が降っていた。

 

「よし、ここだ」

 

 外廊下の壁。等間隔に柱が並び、その隙間を埋めるように煉瓦が積まれている。赤い煉瓦の数を数え、薄い白の柱へと指を触れる。

 レオの爪先が隠されていた蓋を捉え、開ければ小さな吊り紐が出てきた。それを引っ張ると、壁が音もなく動き出し、左右に割れた。

 隠し扉。しかし部屋の内装は来客用に整えられており、暖炉にも炎が灯っている。少なくとも周知されている場所だ。向かい側に正規の扉が閉じられているのが見える。

 

「ここは緊急の用で国賓が来た場合に使用される部屋だ。防音性も高く、滅多に人が近寄らない。だが常に準備されているらしい」

「普通は勝手に利用したら駄目よね?」

「だろうな。だが隠れて会話するには好都合だ。荒らすわけでもない。この隠し扉を使えば、いつでも脱出できる」

 

 レオは楽しそうにしているが、どう見ても暗殺用の隠し扉だ。

 その証拠に壁が割れた時に、音どころが振動すらなかった。部屋の内部にいる者に気づかれないための仕掛けである。

 絶対に初代国王の仕業だろう。だが今は少しだけ感謝し、レオと一緒に部屋へと入る。壁は痕跡を残さずに元の形に戻った。

 

 重厚な赤と茶色の部屋だ。石造りの部屋ではあるが、柱や天井は木組みで暖かさをもたらし、煉瓦の壁に備え付けの暖炉では煌々と炎が燃え盛っている。

 赤い絨毯は柔らかく、触れれば手の甲近くまで埋まってしまう。ベッドも整えられているが、そこへ座ってしまえば侵入がバレてしまう。

 部屋の角、棚の影になる場所に二人で隠れる。絨毯のおかげで体が冷えることはなく、薪が火で弾ける音が心地いい。

 

「それで話とは?」

 

 肩が密着するほどの距離。二の腕も、太腿さえも。服越しとはいえ触れ合っている。それだけでヤーの心臓は破裂しそうだ。

 けれど決めたのだ。言葉も、心も。伝えなくては始まらない。

 

「アタシ――レオが好き」

 

 空白。

 金色の瞳に宿る光が、動揺するように大きく揺らめいた。

 

「でもそれって知的好奇心から来る好意なの」

 

 膝を抱え、そこへ顎を埋める少女。わずかに赤く染まった頬と、輝く碧眼から目が離せない。

 上手く事態を飲み込めないレオに対し、ヤーは一気に攻勢を仕掛ける。

 

「そして――ミカが好き」

 

 かつての太陽の聖獣は、混乱から言葉が出なくなった。

 

「でも複雑なの。その感情を分類したいのに、色んな要素が絡み合ってて、単語はそれが的確なのに……素直に認められない」

 

 渋い表情を浮かべ、ヤーは唇に指を当てる。煮え切らない想いが続けて飛び出しそうで、抑えるのに必死だ。

 最初は意味不明ないけすかない王子だった。才能があるとわかって、前世が聖獣である「獣憑き」と判明したら印象は変化した。けれどそれだけでは説明がつかない。

 放って置けない。彼を一番理解できる可能性は自分が持っている。頼りない。ふやけた笑顔は意外と好きだ。

 

 意識が砕けた後、一日千秋の想いで待っている。

 ――話したい、と。

 

「レオと喋るのは楽しいわ。新しい知識と見解、ひらめきが溢れるもの」

 

 一日中語ってみたい相手だ。それこそ疑問全てをぶつけるなら、一週間でも足りないくらいだ。現状ならばそれが可能である。

 しかし不思議とミカを求めている。意識はどうなっているのか。無事に戻るのか。明日には笑いかけてくれるのかも。

 

「けどそれは……」

「代替がいるな」

 

 少しだけ先回りしたレオの言葉に、ヤーは顔を上げた。穏やかな表情を浮かべた少年は、少女が求めている相手ではない。

 

「我の代わりは他の聖獣でも担える。もしかしたら我より知識を持った者が、いつか現れるかもしれない」

「……」

「だがミカは違うのだろう?」

 

 そんなに単純でいいのだろうか。他に表現できる言葉はないのか。

 何度探しても見つからなくて、暗闇の中で光に手を伸ばし続けている。けれど確実に存在しているとわかっているから、小さく頷いた。

 

「ミカに会いたいか?」

 

 喉が詰まったから、首肯で返す。

 するとレオは決意を滲ませた瞳で、ヤーを見つめる。

 

「ならば思い出そう」

「なにを?」

「――ミカミカミについて」

 

 強く握りしめた拳の上に、少女の手が置かれた。

 そしてヤー自身も確固たる意志を秘めた瞳で、レオの顔を写す。

 

「二人とも無事じゃないと許さないんだから」

「承知した。それではもう夜も遅い。今日はクリスと一緒の部屋で眠るといい」

 

 壁の仕掛けを動かし、冷たい外廊下へと出る。

 雲が千切れ、わずかに月が顔を出していた。庭に積もる雪は月光を反射し、幻想的な煌めきを宿している。

 二人で肩を並べて歩いていく。その光景を見下ろす黒い影があることも知らずに。

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