第8話「魔人」

 ミカミカミ。

 最初にこの単語を聞いた者は疑問を抱く。

 一体どんな意味があるのかと。好奇心を掻き立てられた者は調べ始める。


 しかし幾ら探しても答えは出てこない。正確には無数の答えが並べられるが、なにが正しいのか判明しないのだ。

 時には神の御上とも、神の身髪、神のみを噛み砕く存在の名前など荒唐無稽な答えが目の前に溢れ出てくる。

 調べ始めた者は次第に自分が本当の答えを見つける者になるのだと、さらに深みにはまっていく。


 人生をかけて、命をかけて、己の全てをかけて。突き進んでいく内に一つの結末に辿り着く。

 誰もが本当の答えに届く前に死んでしまう、答えとは逆に結末は誰もが同じ道だった。

 ヘタ村の傍にある森の中心部にひっそりと佇む石碑の文言を残した女もそうだった。


 女はミカミカミを神の御上と信じ、それが楽園の名前だと突き止めるために、一人の従者を連れて旅だった名家のお嬢様だ。

 好奇心旺盛で、従者はいつも女に振り回された。それでも彼女が笑うならと苦笑交じりで付き添った。

 時には嵐に立ち向かい、小型船で遭難しかけ、盗賊に襲われ、金貨一枚だけで裏カジノに挑んだ。


 二人の旅路を記すだけで一つの長編物語が出来上がってしまうだろう。しかし結末は長編には似合わない静かで悲惨なもの。

 女は従者に言葉だけを残して泉に身を投じて死んでしまった。齢四十という体にミカミカミを追い求めるほどの体力がなかった。

 従者は石板に血と共に刃で字を刻んだ。血は長い年月の間に雨で洗い流され、残ったのは歪な文字。


 それすらも年月には勝てずに欠けては掠れ、半分も読めなくなってしまった。

 ヘタ村の者は、村が出来上がる前から存在し続ける石板を恐れ、こんな昔話を子供達によく言い聞かせた。


 決して森の奥には入っていけないよ。泉の底から石板を守る従者が現れては、聞いてはいけない呪文を呟いてくる、と。



 同時にこんな昔話も聞かされる。



 優しい従者は死のうとした主人の後を追って、泉に飛び込んだ。そこで生まれ変わるような運命に出会ったのだと。





 ヤーは柔らかい布団の上で目を覚ます。建物が揺れていると錯覚しそうなほどの雨は轟音を体の奥まで届けてくる。

 起き上がれば周囲の床には村中の人、主に女性達が毛布に包まって眠っていた。部屋にはいくつかベットがあったが、ヤーが横になっているベット以外は数人がかりで寝るほどだ。

 昼か夜かの判別もできないほど雨雲は黒く、一向に晴れる様子はない。雨に混じるように水の精霊が地面に染み込むのがヤーには視えた。


 跳ね起きて床で寝ている女性達を蹴らないように扉へ向かうヤー。時に毛布を踏んでしまい、転びそうになるが構っていられなかった。

 扉を開けて階下を見れば、食堂では炊き出しの準備を宿屋の女主人を筆頭に女性達が動き回っている。合羽を着て外から戻ってきた男達は温かいスープを飲んで落ち着きながらも、現状を苦悩した顔で相談し合っている。


 芳しくない状況だと判断したヤーはハクタの姿を探す。しかし姿は見当たらず、むしろ食堂でパンを焼いているマリに見つかってしまう。

 そしてマリだけでなく合羽を乾かしている村人の男達も気付いたらしく、気さくに声をかけてくる。


「ヤーさん、もう大丈夫ですか?」

「おー、嬢ちゃん目が覚めたべ! んだら、今のうちにご飯もらうとよかっぺ。じゃないと、このあと数日は食べられんかもしれん」

「下手したら村人総出で隣村に避難しなければいけんかもな。雨が止まん」


 ユルザック王国の東の端に位置するヘタ村。王国内でも田舎と称される村であるが故、道路は舗装されていない上に隣村とは馬車で半日ほどの時間をかけて移動しなければいけない。

 こんな大雨が続くようではさらに倍、村人総出となれば倍、条件が増えれば増えるだけ移動の時間はかかってしまう。

 だからって決断までに時間を引き延ばしていれば、馬の消耗や食糧問題などが浮き上がり、それこそ八方塞がりになってしまう。それがわかっているため、村人達は深刻な顔で村長と話し合っている。


 ヤーが聞いた範囲だと、村で一番体力のある若者と馬を直近の隣村に走らせ、受け入れ要請の可否を待っているところらしい。しかし表情を見て、あまり期待できないと悟る。

 田舎だからこそ無駄な施設はない。特にヘタ村の周囲は観光地ではないし、若者よりも老人の数が多いのが普通だ。宿屋も村一つに一軒だけとなると、近くの村も同じようなものだろう。

 ヤーはとりあえずどれくらい寝ていたかの確認と、村の現状や大雨がどれくらい降り続けているか知るために、警戒しながらもマリに話しかける。


 マリも忙しそうにしながら、少し申し訳なさそうな表情で質問に答えていく。おそらく曇天の貴公子にいいように扱われていたと気付いたのかもしれない、とヤーは感じる。


「ヤーさん、一日ほど眠り続けていたんです。そして雨は勢力を強めながら止まないんです。昨日、彼がミカさんをさらってから」

「い、ちにち……大失態だわ。で、ハクタは?」

「ハクタさんは村の人の手伝いを……でも、もしかしたらミカさん探しに行ったのかも。ミカさんって第五王子ですよね?」

「あー、あの過保護ならこんな雨の中でも……マリ、なんでミカのこと第五王子って……」


 途中まで納得しかけ、最後のミカの正体を的確に当てたマリにヤーは思わず焦る。村人にはミカが王子と伝えていないし、ヤーもミカを王子とは扱っていなかった。

 しかしそこまで考えて気付く。確かに王子として扱っていなかったが、怒りや苛立ちをぶつける際に何度もミカのあだ名、人形王子、を使っていた。使用するたびにハクタに窘められていたのも一度や二度ではなかった。

 そしてマリはヘタ村の住人ではない。王族との繋がりもある貴族カルディナ家の息女である。動きを止めたヤーに対し、マリはやはりと少し複雑な表情をする。


「お風呂の時、ヤーさんが人形王子って言ってたのがずっと気になってて……ミカの二文字が入る王子は第五王子のミカルダ・レオナス・ユルザック様ですよね?」

「ふ、フルネームまで。そんなにあいつは有名なの?」

「彼、というよりは彼の母親が有名です。母親の性であるレオナス、これは西の大国で騎士関係に強い貴族の屋号で、確か現国王に嫁いだ御息女はレオナス家一の出世頭と言われる女傑だったはずです」


 新聞の説明文を読むようにマリは淀みなく話していく。西の大国、それはユルザック王国と長い間険悪と同盟を繰り返した因縁深い国である。

 十年前の「国殺し」が流行った際に戦争寸前まで関係が悪化したが、それ以前はレオナス家の息女が国王に嫁ぎ、子供を出産した功績で平和な時代が築き上げられていた。


 戦争が起こらなかったのは病に冒される前にレオナスの息女が西の大国に嘆願書を出していた。また本家の主に戦争によって政治が荒れる懸念と、広がりつつある病に対して西の大国も被害が及ぶかもしれないので対策と協力をユルザック王国に申請を促していた。借りを作った方が得策だと判断したからである。


 しかし嘆願書と進言の後に息女は病に冒され、一人息子を残して他界。それ以来は一向に険悪な関係を続けているが、戦争に至らないのは辛うじてレオナス家息女が残したユルザック王族に名を連ねる者、ミカルダ・レオナス・ユルザックが第五王子として存命しているからだ。

 西の大国側としては王位継承権を持たない王子だがレオナス家の血をひくため、ユルザック王国に政治的な介入の鍵となるかもしれないと睨んでいる。ユルザック王国としてもいつ戦争が始まるかわからない状態のなかでミカという存在が歯止めの小石として機能していることを理解している。

 お互いにミカを挟んで睨み合う、そんな険悪な平和が築かれているのを、本人であるミカは知らない。実際、本人はそれどころではない。


 西の貴族カルディナ家は大国に攻められた際に一番に被害にあうため、お互いの国政について敏感である。もちろんカルディナ家のマリエル・カルディナも教育係から新聞をよく読んで理解するように教えを受け、第五王子である微妙な位置のミカについても詳しかったのである。

 話を聞けば聞くほど、事情を知れば知るほど珍妙なミカにヤーは苦い顔をする。


 珍しい獣憑き、それも天の二大精霊である太陽の聖獣レオンハルト・サニーの生まれ変わり。王位継承権を持たないが第五王子という身分。内部まで精霊を視通す才能。そして西の大国で幅を利かせる大貴族レオナス家の血をひく子供。


 それが今はどこの誰ともわからない化け物にさらわれ、消息不明。もしこれで最悪命が奪われる事態になったら、精霊学問としても、国としても、あらゆる面で大損害を引き起こす。

 ミカを境に様々な問題がせめぎ合っていたことにようやくヤーは気付く。少しだけ敵の狙いが見えた気がして、思わずマリの顔を凝視する。

 流れる血の半分が西の大国である第五王子、そしてユルザック王国の西でも高名な貴族カルディナ家の娘。この二人が揃ったことは偶然かもしれないが、マリがヘタ村に来たのは偶然ではなくある化け物の策である。



 もしミカを殺して、その罪をマリになすりつけたら。西の貴族が罪に問われ、西の大国への歯止めが弱くなる。



 しかしそんなことをして一体曇天の貴公子になんの利益が生まれるのか。計画性があるようで統一性のない推測だけが行き交う。頭のいい自分ならわかるはずだと必死にヤーは考える。

 頭を抱えて悩んでいるところに、合羽の甲斐もなく全身雨で濡らしたハクタが宿屋に入ってくる。顔は冷えで白から青に変化しつつあり、入り口近くの壁に背を預けて座り込むほどである。

 あまりの憔悴に女性数人が温かいスープや乾いたタオルを持っていく。半分は親切心と、半分は水も滴るいい男への保護欲が湧いた結果である。


 ヤーは大股で近づいてどうだったと尋ねるが、弱々しい否定の動作が返ってくるだけだ。濡れた髪を掻きあげて、ハクタはもう一度外に出ようとする。

 しかし周囲から無茶するなと引き止められる。こんな異常事態の中で無理して倒れた方が迷惑なのだ。村にやって来た客人とはいえ、特別扱いはできない。

 なにより雨が降り続けてただでさえ布が乾かないのに、これ以上の無駄なタオルの消費を抑えたいのだ。


「ったく、過保護はこれだから。アタシの精霊術なら濡れずに済むってこと視野に入れなさいよ、馬鹿」

「……すまない」


 覇気のない謝罪にヤーは溜め息をつく。ハクタの表情は冷静そうに見えるが、内心は大いに慌てているのだろう。

 周囲に目が届かず、無鉄砲を繰り返そうとしている。動いていないと落ち着かないのか、今も歩き回ってはパンを焼いていた女性とぶつかっている始末だ。

 だがミカを殺すならヤーを気絶させ、マリがハクタの首を絞めている時が好機だ。とそこまで思い立って違和感に気付く。


 マリを操ることができたのなら、ヤーとハクタは曇天の貴公子が足止めし、人形のように動かないミカを絞め殺せばいい。

 その方が手っ取り早くマリにミカ殺害の罪を擦り付けられる。しかし曇天の貴公子はミカを生きたまま連れ去った。

 人形のように動かないミカをさらった目的とは。人質として国王を脅迫でもするつもりなのだろうか。


 それならば姿を隠したままの方がいい。しかしわざと蛙から変化して姿を見せた。

 こちらを挑発するように、あからさまに。むしろハクタに見せつけているようにも感じる。

 そもそもの話、人間がどうやって蛙から変化する。そんなのは精霊術でもない。精霊術で外見は誤魔化せても実体の体重や体積は変えられない。


 精霊術ではない。しかし精霊術に似ている。魔素、瘴気を思い出してヤーは男の周囲にまとわりついていた物の正体を口に出す。


「魔素を精霊の代わりに操る、魔術!? ならあいつは人間と呼称するのではなく魔人と呼ぶべきなの!?」


 あり得ない仮説がヤーの頭の中で駆け巡る。魔術や魔人など聞いたことも見たこともない。なのに納得している思考がある。

 精霊術は周囲に溢れる精霊を使って風を強く吹かせたり、水を集めたりする程度。しかし魔術は狂っているように感じる。

 蛙から人の姿に変化したことや、特定の精霊を広範囲に閉じ込めた異質さ。今の大雨も魔術の一つのように思える。


 精霊術ではここまでの大雨を降らすなどできない。ヤーは先程の自分の感覚を思い出す。

 魔術は狂っている。もしかしてマリが操られたのは人体の命令指揮系統を狂わせたのだろうか。

 大雨は天候を狂わせ、実体を狂わせ、結界の意味を狂わせ、全てが狂う術。


 それならば魔素を操るということにも、少しだけ意味ができてくる。ミカが魔素は精霊や人に害があり、聖獣の意識を狂わせると言った。

 精霊を凝縮しすぎて狂ったエネルギー、それが魔素の正体。そんな物をまとわりつかせている男が正気なのだろうか。

 もしかして計画だと思っていたのは、狂わせられた結果か。勝手な思い込みで計画だと相手を信用していたのではないだろうか。


 男の高笑いが聞こえるようで、ヤーは若干苛つく。しかし思考を乱すわけにはいかない。

 なぜなら狂っているとはいえ、どこかにきっかけがあったはず。そもそも男はどうして狂った。

 仮定の呼称であるが魔人になった理由は。とりあえず村人にとっかかりはないかとヤーは尋ね回る。


 すると童話のような主人と従者が泉で起きた話を聞かされた。それは子供が森に向かわないように呼びかけるための教訓話でもある。

 最初はハズレかとも思ったが、聞いている内にヤーはおかしいことに気付く。泉と森の様子が比例していない。

 昔の森はヤー達が立ち入った日ほどの湿気や植物の茂りはない。なのに泉の様子だけが一定のまま変わっていない。


 ヤー達が入った時、森は結界によって土の精霊が閉じ込められていた。だから土は栄養豊富な泥になり、植物は勢いを増していた。

 それなのに泉は綺麗なまま芝生も揃えられていたかのように美しかった。泥に汚れることも、無作法に伸びてもいなかった。

 あの時は特に気にしていなかったが、森の状況を考えればおかしい。それはつまり泉の周囲の環境が狂っているという事実。


 泉の従者の話も気になる。生まれ変わるような運命に出会った。それは言い変えれば運命が狂ったのではないか。

 主人の後を追うつもりが、死ねなかったのではないか。ならばきっかけは泉の中にあるはず。

 同時に曇天の貴公子が昔話の従者のように思う。すると気になるのは石板に書かれたミカミカミという単語。読み上げた際に過剰反応を示したミカ。


 もしその時の光景を見られていたとしたら、ミカを連れ去ったことも意味があるのではないか。


 いまだマリを連れてきた理由はわからない。だがミカをさらった意味とおかしいと思う場所の見当がついた。

 向かって真実を確かめる。そのためには雨を防ぐ精霊術の継続と比例する体力の確保。腹の虫が元気良く鳴り始める。

 ヤーは宿屋の女主人に頼んで多めにスープとパンを貰う。代わりに必ずこの雨をやませると豪語する。


 雨が魔術によって狂わされた結果なら、術を行使している相手を止めれば終わるはず。

 村総出の移動や麦畑の案件も解決する。あわよくば新しい研究課題として魔術を公に発表できる実例になる。

 大人の男性よりも多い量を胃袋に収めていくヤーに、村の男性達は思わず見入ってしまうが、腰が引けていた。





 ヤーは大雨が視界を遮る外に立ち、豊富な水の精霊が空中に流れているところから、必要な分の精霊を指先に集めてエネルギーにする。

 青い光の固まりとなった精霊をインク代わりに文字を描く。書き終わればヤーとハクタの体は見えない膜で水を弾いていた。

 いつもより調子が良いとヤーが感じるのは、このヘタ村が水の精霊信仰が盛んなためと、意図的に曇天の貴公子が土の精霊を森の中に閉じ込めて均衡を崩したからだろう。


 マリや他の村人達がついていこうと視線を送っているが、足手纏いとヤーは一刀両断した。

 相手は人間ではない可能性が大きい上に、マリを操ったことを鑑みれば、人が多ければ駒を増やすようなものだ。

 実態を何一つ掴めない敵から少数精鋭でミカを助け出し、大雨を止ませる。それがヤーとハクタの目的だ。


 ハクタは出かける前に何故か宿屋に常設している酒樽から一杯分のビールを瓶詰に注ぎ込み、ポケットに入れる。

 まさか飲酒する気なのかとヤーが疑うような目を向けるが、ハクタは首を横に振って否定する。むしろ厳しい視線を瓶詰に送り、舌打ちしそうな苛立ちを見せている。

 見送る村人達に酒樽を飲んではいけないとハクタが言い残し、二人は大雨に打たれても勢い一つ殺さない森の中へと駆け出した。


 大雨のせいで土は泥どころが浅い沼のような状態で、二人の足を絡めとろうとする。

 激しい雨粒の散弾は体に当たれば冷たい痛みをもたらすだろう。大粒な上に太陽が隠れているため気温が上がらないのだ。

 しかし見えない膜が二人を泥や雨から守り、晴れている時と変わらない速度で走ることができる。


 ハクタがどういう仕組みかと聞けば、水の薄い膜を作り、ぶつかった物全て洗い流すようにしていると簡潔に説明する。

 ただし膜の強度は強くない。打撃や斬撃などは防げず、小石の投擲さえ通り抜けてしまう。

 代わりに膜内部の水分も膜の一部に変換するので、濡れはしない。またヤーの意識がある限り何度も再生することが可能だ。


 精霊術に詳しくないハクタは頷く動作も放棄した。理解する前にやらねばいけない大事があるからだ。

 ヤーも真剣な顔で獣道しかないような森を走り続ける。目指すは石板と泉がある森の中央部。

 昼か夜かもわからないほどの空の下、木々が影を落とす森の中でも二人は失速しない。


 走りながらヤーは次々と精霊術を使っていく。暗闇でも目の精度を上げる光の精霊術。

 目は光を捉えて色の判別や物体の認識をしている。つまり物体は光を反射するということだ。

 半径数mの物体へと光の精霊をぶつけて、認識を強める。そうやって一時的に暗闇の中でも走れるようにしている。


 ヤーは光の精霊術を使いながら少しおかしいことに気付く。光の精霊がなにかに強く惹かれるように流れている。

 特に金と銀の光、太陽と月の精霊が川の水が海へと向かうように、淀みなくヤー達が目指す方向へ進んでいた。

 ハクタは視る才能がないため気付いていないが、才能に溢れたヤーはそれを視て確信を強めていく。


 精霊は強い魂に惹かれていく。砂鉄が磁石に集まるように自然な現象として。


 森の中央部、芝生が綺麗に刈り揃えられ、静かな泉が佇む場所。そこは不自然なほど、雨の被害を受けていない。

 むしろ雨粒が避けるように、そこだけ降っていない。泉の傍にはミカと銀髪の青年が水一滴も濡れていない姿で立っている。

 ハクタは今まで見せたことのない形相で曇天の貴公子を睨み、ヤーは周囲に視線を巡らせる。


 前は感じなかった異質さが泉を中心に増大しているのだ。息苦しさも覚え、精霊達の光の明滅がおかしい様子も視えた。

 ハクタは視えないが、場の空気や雰囲気が変化しているのを肌で感じていた。だがそれよりも優先したいことがあった。

 今も人形のように動かないミカの傍で、曇天の貴公子は両手を空に掲げて歌うように告げる。


「お嬢様、このフロッグが今日こそ……貴方に捧げよう」


 ヤーとハクタを観客に演技の仕草を繰り返す曇天の貴公子、名前はフロッグ。

 付き合いきれないと言わんばかりにハクタはヤーになにも伝えないまま、動き出す。

 剣の柄を両手で強く握りしめ、横に斬ろうと刃先を向ける。


 それを想定していたフロッグは蛙の目を爛々と輝かせ、ミカを前面に移動させて盾にする。

 だがハクタが狙ったのはフロッグではなく、その手前の空間である。振り抜いた剣は誰も傷つけないまま、勢いも殺さずに体ごと一回転する。

 回転して振り向いた矢先でハクタは懐にしまっていた瓶詰をフロッグの顔に向けて投げつける。


 少しだけ目を丸くしたフロッグだが、特に気にかけた様子もなく口から長い舌を出して瓶詰を受け止める。

 蛙が虫を呑み込むが如く瓶詰を一口で飲み下す。細い喉が瓶の形に歪んだが、すぐに胃袋へと消えていく。

 唇を一舐めしてフロッグは愉快な様子で、剣を構えたまま動かないハクタに話しかける。


「気付いたのですか? ビールに仕掛けた眠り薬に」

「ああ。いくら酒を大量に飲んだからって、俺がミカの行動に反応しないまま眠り呆けるなんてことはあり得ない」


 その言葉を聞いて初めてヤーはハクタがビールを持ってきた理由を知った。相手の策を看破したと、動揺させるための作戦だ。

 思い出せば村人達とハクタが大酒を飲んだ日、いくら飲み過ぎだからと言って全員が眠りに落ちていた。一人の例外もなく、全員である。

 特にハクタは仕事に支障が出ないように制限していたが、ヘタ村名産のビールを毎夜摂取していた。そして朝まで起きなかった。


 ミカが部屋から抜けたことに気付かないまま朝まで寝ているのである。護衛として選ばれた身としては失態だ。

 それがずっと気になっていたハクタは、ヤーとミカが口にしなかった物で、自分だけが口にいれた食事に何かあると睨んでいたのだ。

 フロッグの策を暴いたハクタだが、それでも油断はできなかった。どうしてそんな策を仕込んでおきながら、行動がなかったのか。


「俺を深い眠りに落とす……というには無差別な上に、確定的ではない。なにより眠らせた割には、なにも手出ししなかったのがひっかかる」

「アタシも聞きたいことが一杯あるわ。アンタは一体何者? 魔素を操る……魔術と呼称させてもらうけど、それはどこで? この泉の昔話に出てくる従者がアンタなの? ミカやマリに何の用なのよ!?」


 フロッグは二人の疑問に応えないまま笑顔で、盾にしていたミカの背中を突き飛ばす。

 人形のように立っていたミカは受け身も取らずに倒れていく。それを受け止めようとハクタが慌てて手を伸ばした。

 甲斐甲斐しい護衛の姿、その顔に向けて水で作った鋭い切っ先のレイピアを突き刺そうとするフロッグ。


 ハクタが反応する前に、ミカが人形とは思えない動きでハクタを押し飛ばす。レイピアの切っ先がずれ、ミカの顔左側を襲った。


 ヤーは動けないまま一連の流れを見ていた。全くフロッグが何を考えて行動しているのかわからないのだ。

 ハクタを殺そうとしていたように見えるが、それなら機会は以前にも多くあった。ミカに対しても連れ去った割には扱いが雑である。

 今もミカの背中を掴んで自分の元へ引き寄せ、顔の傷を確認している。左目の瞼上から目の下に続く薄い一本傷が作られ、そこから血は流れている。だが目に傷はないらしく、瞼を開けて強い光を湛えた金の目をフロッグに向けているミカ。


 ハクタは先程よりも殺気を強め、フロッグを今にも斬り殺しそうな目で睨む。しかしミカに意識が向いているのか、集中力は逆に弱まっている。

 ヤーは精霊術を使ってミカを取り戻そうと考えるが、適切な精霊術が一つも思いつかない。その上フロッグには一回精霊術を暴走させられて、失敗した前例がある。

 思考を深めるほど、相手の正体を一つでも突き止めたいと焦りが生じ始める。せめてミカがフロッグに対して抵抗できれば良かったが、動き一つ見せない。


 おそらく前世の意識である太陽の聖獣レオンハルト・サニー、レオが暴れているのだろうとヤーは推測する。それを止めようとミカが意識を強めると反比例して体の動きは弱くなる。

 そこまで思い出して一つの違和感に気付く。もしレオが意識で暴れているのなら、ミカは先程ハクタを押し飛ばすことなどできない。

 だが実際はハクタが反応するよりも前に俊敏に動き、傷を負ったもののハクタを救った。ならば自分の体を自由に行動させるミカの意識があるはずなのだ。人形のように停止したままなのはおかしい。


「ミカ……アンタ、まさか」

「ヤー、泉の底に強い水の瘴気が溜まっている!! フロッグはそれを浴びて体が変質した、昔話に出てくる従者だ!」


 先程のヤーの疑問に答えるミカ。まさか力強い声がミカから放たれるとは思っていなかったフロッグは、今度こそ顔を顰める。

 その隙をついてハクタはフロッグに接近し、ミカを掴む手とは反対の手に剣を突き刺す。斬るのが目的の剣だが、水の剣は切断できないが故の判断だ。

 突き刺さった傷口から零れた血は、煮詰められて酸化したかのように黒い濁りとして溢れ出る。


 フロッグから流れ出る血に驚いたハクタだが、躊躇わずに剣を抜き、次は足の甲を突き刺す。フロッグの喉から蛙が潰れたような絶叫が迸る。

 ミカは隙を見て背中を掴んでいた手を振り払い、距離をとる。機敏な動きはレオが意識下で暴れているようには見えなかった。

 ただし左目から流れ出る血のせいで片目しか使えず、上手に距離感が取れずに危うい動きを見せている。


「ぐっ、が、げごぉっ! に、人形王子がなぜ……」

「その名でミカを呼ぶな、蛙野郎!!!!」


 激昂した声と共にハクタは足の甲を突き刺していた剣を、体の線を辿るように斬り上げていく。

 力と技術による強引な両断。かなり怒っていたのかとヤーはハクタを眺めつつも、ミカの元へ駆け寄る。

 芝の上に尻をつけた状態で座り込んでいるミカは、左手で血が出ている傷口をこすっている。精霊術で治すからとヤーはその腕を握って動きを止める。


「ミカ、アンタどうやって動けるように? レオはどうしたのよ」

「レオはショックを受けすぎて、意識がない。だからフロッグが一人語りしているのをずっと聞いて覚えたんだ」

「アンタは説明が本当に下手ね。全くわからないわよ」


 話しながらヤーは体内の水分を促進して傷口をふさぐ精霊術を使う。幸い傷口は浅く、すぐに血が止まる。このままなにもなければ塞がって見えなくなる傷だ。

 背後から聞こえてきた肉を切断する音と血が噴き出す音を聞きながら、ヤーは振り向きたくないと思う。

 血生臭い臭いと共にハクタが駆け寄ってくる。ミカの様子を安心して確認するため、フロッグの体を縦に斬り、腹部のところで剣を抜いて再度横薙ぎにした。心臓を裂いた手応えは柄を通じて手の平に響いた。


 大量の血を浴びたハクタはミカよりも酷い有様で、泉の周囲だけ雨が避けるように降ってこないので洗い流すこともできない。

 泉で簡単に洗おうとした矢先にミカがハクタを止める。その目は真剣で、ハクタは意志を持った言葉に笑みを見せる。


「なんにせよミカが無事なら、俺は安心だ」

「過保護はこれだから。それにしても泉が何だって?」

「ああ、そうそう。この泉は村ができる前から水の精霊が集まりやすい窪みで、周囲に森が生い茂るほどなんだ。だけど集中しすぎて瘴気に転換したみたい」


 泉の底を眺めるミカが一見変哲のない水中を指差す。ハクタはどこにでもある泉のように見えた。

 ヤーは目を凝らして水を視る。すると確かに精霊の光とは似て非なる鈍い光を確認した。

 ミカは内部まで視ることができるため、さらに詳しく視えている。水面はまだ軽い程度に収まっているが、泉の底は明滅を繰り返す光が渦巻いて強大な闇を作り上げている。


 水底よりも下の土の中、そこになにがあるかをミカは知っている。教えてくれた相手が、二人、いるのだ。

 二人の話を総合すれば、ここを楽園と間違えたのは豊富な水資源と土壌が存在し、そのために植物が育ちやすい土地だからだ。

 だが発見した頃には泉の質が変化していた。正確に言えば水の精霊が凝縮しすぎて瘴気になり、植物は育てるものの生き物が住めない環境を作り上げていた。


 だから森には生物がいなかった。それに気付いた昔話の女は、どうにか対策を施せないかと確認しようとして泉の中に飛び込んだ。

 それを従者が勘違いして身を投じたと思い、後を追う。そして二人は泉の底で瘴気に触れてしまった。人体にも悪影響で、環境一つ変えてしまう魔素に。

 昔話は伝わる内に女が絶望して身を投じたと変換され、さらに従者の話も捻じ曲がっていった。ミカは泉の上を眺める。ハクタだけでなくヤーにも視えない存在がそこにいる。


「二人共気付いているかもしれないけど、俺たまに変なところ見てるだろう」

「ん? ああ、そうだな。あれって精霊を視てるんじゃないのか?」

「それだったらアタシも気付く……って、待って。アンタは内部まで視る才能はあっても、壁の向こう側を見ることはできないわよね!? てことはたまに変な方向を見ているのは……」


 ヤーはあることを思い出す。ハクタがミカを連れて階段を上がっていた際、ミカは急に壁の方を眺めて動きを止めたのだ。

 あの時は壁向こうの森を見据える、正確には森の精霊や瘴気を視ているのだと思っていた。だが森は壁の向こう側で、もしミカが視える範囲は壁の内部までだ。

 森の様子を見ることなどできない。ならばどうして壁の方を向いたのか。壁になにもないなら、ミカにしか視えない何かがそこにあったと判断するべきだ。


 その正体に見当がついたヤーはわずかに顔を青ざめる。思い返せばミカは母親の体の内部で暴れる精霊の動きが視えていた。

 しかし人間の体の内部を視る才能だとすると、服の下の裸体や臓器を見られずとも、魂の様子は眺められる。

 できればヤーにとっては信じたくない話なのだが、導き出された答えからおそるおそる声に出す。


「魂……死霊とか幽霊も視える才能も持っている!?」


 ヤーの答えにハクタは呆けるしかなかった。精霊や妖精の存在から魂は認知されている物だが、視えるというのは極少数である。

 それゆえに信憑性もなく、大体は嘘吐き扱いされる才能である。証明しようにも検知方法や立証方法が確立されていない不安定な存在だ。

 ただ人間や聖獣、妖精が持っているというのが公の見解で、幽霊や死霊などは真夏の童話扱いに近いものだ。


 ミカは苦笑いしながら、素直に頷く。精霊を視る才能とは違って、異質な才能なのだ。

 本当はヘタ村に来た時から今も傍にいるのが視えているのだが、二人は気付いていないようなので言えなかったのだ。

 正確には宿屋に着いた際に視えていた魂。目元や微笑みがマリに似ているとミカが感じる、生前の姿を保ったままの幽霊。


「しっんじられないっ!! てか信じたくない!! 精霊学上で成り立つ魂と、幽霊や死霊は別物なのよ!!」

「え? 意外とヤー苦手なのか。困った、なぁ」

「誰に話しかけてんの!? ちょ、意味深に泉の上眺めてんじゃないわよ!! 雨もやまないし、さいあ……く?」


 混乱気味に叫んでいたヤーは、思わず口に出した言葉に自分自身で疑問を抱く。雨が、降り続けている。

 もし大雨をフロッグが雨を魔術で狂わせて降らしているものなら、死亡が確定した時点で晴れていなければいけない。

 ハクタの全身にこびりついた血の量と肉を切断する音からして、通常の人間では生きているはずがない。だがフロッグは狂っている。


 ヤーは急いで体を動かしてフロッグの死体があるべき芝生の上を見た。そこには血の痕跡すら残っていない。

 ハクタもヤーの様子に気付いて振り向く。心臓を切断した上に上半身と下半身に斬った体が動くはずないと、経験上知っていたから背を向けていた。

 水に飛び込む音がしたと見れば、赤黒く濁った泉の水面を揺らがす丸い波紋。何かが落ちた時に生じる気泡も弾けている。




 そしてミカがいた場所には誰もいない。ただ黒く煮詰めたような血が引き摺った跡が代わりに残っていた。

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