第7話「曇天の貴公子」

 ヤーはヘタ村の広大な森周辺を歩いていた。適当な木を見つけては地面を掘り返すが何も見つからない。

 それを眺めているハクタの背中には眠るように瞼を閉じているミカ。わずかにうなされているようで、静かな呼吸なのだか間隔が短い。


 先程の老人の話が終わった直後に人形のように動かなくなったと思ったら倒れたのだ。二人には原因はわからなかったが、今は少しでも早くヘタ村の事件を解決したい一心から、問題の小瓶を探していた。


 ミカの話では森に結界が張られており、それによって意図的に精霊のバランスが崩されているという。

 小瓶を壊せばすぐに効果は出ずとも、今のような土が乾いたままという状態を打破できるだろう。


 ヤーは魔素、瘴気とも言う物、について、さらには精霊術以外での結界の仕組みや、老人が口に出した「ミカミカミ」について調べたくて、少しでも早く王都に帰りたかった。

 ハクタは背中で眠り続けているミカの様子を心配し、獣憑きとして前世の聖獣の意識があるのを知ったことにより、友人のフィル王子に相談して対策をしたいと考えていた。

 二人は共に王都への帰還を望んだが、そのためには事件を解決しなくてはいけない。だが小瓶破壊が一向に進まない。


 等間隔で小瓶が埋められているわけでもなく、地面の傍にある木に特徴が見つかるでもない。


 ヤーはミカと違って地中の精霊までは視えない。だからどうしても手当たり次第に掘るしか方法がなかった。

 精霊を視ることすらできないハクタからすれば、何も手伝えない。ただ唇を強く噛んで耐えるのみだ。

 秋も迫る時期だというのに、夏の日差しが二人を追い詰めるように容赦なく照らしていく。森だけが潤沢な湿度で緑を鮮やかに染め上げていた。


「精霊術で調べることは?」

「できたらとっくにしているわよ! でも魔素を見つける方法どころが、魔素すら知らなかったのよ!? 悔しいけどミカが発見できたのは内部まで視る才能があるからよ」

「しかし凝縮した高濃度の精霊とも言ってなかったか?」

「ええ。煮詰めすぎて変質した異物みたいになっている。土中を探そうにも土の精霊が減少しすぎて術が使えないのよ」


 ヤーは口惜しいように歯噛みする。意図的とミカは言っていたが、どこまで手の平で踊らされているのか見当もつかなかった。

 精霊術は精霊の力を借りることが前提だ。だから使う術に必要な精霊が少ない場合、使えない例も多い。

 しかし土の精霊が減少したのも相手の策だとすると、この結界は二つ以上の意味を備えているはずだ。


 一つ目は精霊のバランスを崩す。おそらく土の精霊を結界内の森に閉じ込めて、村の方は水の精霊を爆発的に増やしている。

 二つ目は土の精霊を森の中に封じ込め、村で土の精霊術を使わせないようにしている。

 それ以上の策略も隠れているかもしれないが、ヤーは情報が足りないと余計な時間を取ってまで考えを深めようとは思わなかった。


「こうなったら森に入って閉じ込められた土の精霊を使用するわ」

「何で最初からそうしなかったんだ?」

「結界の仕組みがわからないから、結果は五分ね。でも前に遮音精霊術ができたところを考えると、術は可能だと思うのだけど」

「だけど?」

「そんな間抜けをこの敵は見逃すかどうか。結構危ない橋になると思うわよ」


 ハクタの背中で眠り続けるミカをヤーはその瞳に映す。ヤーの細腕ではミカは抱えられない。

 だからって現状のハクタでは十分な動きや戦闘がほぼ不可能だ。下手すれば三人とも一網打尽という結果になるかもしれない。

 敵はどこにいるかわからない。宿屋もマリが謎の人物と繋がりを持っていることにより、安全は保障されていない。


 護衛役はハクタ一人。二手に分かれたら片方しか守れなくなる。だからといって三人一緒では存分に動けない。

 せめてミカが目を覚まして人形のようにとはいえ、動くことが可能になれば少しはマシなのだが、目覚める気配はいまだない。

 ヘタ村に来てまだ数日、信頼できる人物などいない。知り合いなど言うまでもなく、むしろ不審人物が出没している。


 ハクタは眉間に皺を刻むが、すぐに強い意志を宿した瞳でヤーに告げる。


「二人共俺が守る。絶対に」

「できるの?」

「やると決めた」


 真剣な表情と声にヤーは渋々と頷く。ハクタの本気を受け取って、了承したのだ。

 無茶な話だと思うが、それでも目の前にいる青年は宣誓のように厳粛な気配を見せるのだ。

 ミカは彼の背中で安心したように寝ている。その信頼をヤーは信じてみたくなったのだ。




 湿度と灼けるような日差しで汗が止まらず、泥濘に足が取られるたびに息が上がる。

 木陰ですら熱を持った水中に浸っている気分なほど、森の中はヘタ村と違う世界を見せていた。

 ヤーは周囲の精霊を視て、適切な場所で精霊術を使うために知らず知らず森の奥深く、中央へと向かう。


 ハクタは少しでも気配を感じようと注意していたが、相変わらず森は生き物の気配一つない。

 こんな生い茂った森の中なら蚊や羽虫程度は飛んでいるものなのに、それすらも視界に入らない。

 神聖な場所に無断で立ち入った感覚を味わい、ハクタは用心深くヤーについて行く。


 森の奥深く、開けた場所には小さな泉が水面を陽光によって輝かせていた。

 その泉の傍らには苔むした石板が、上半分を欠けさせながらも彫り込まれた文字を現存させている。

 不思議と泉の傍では息苦しいほどの湿度も、足を取るほど濡れた土もなかった。適切な温度と湿度、草の絨毯が人の手も借りずに綺麗に育っていた。


 ヤーはこの場所なら均等に森全体に影響を与える精霊術が使えると判断した。

 途中で拾った木の棒を使って、文字が円を描くように並べていく。多少大掛かりな術なので時間がかかる。

 その間にハクタはミカを背負いながらも石板に近づく。彫り込まれている文字はハクタがわずかに読める古代文法を用いた文章だった。


 必死に文法の使い方を思い出しつつ、ハクタは石板の文字を読んでいく。



「この、地にて……泉見つけ、たもう。しかし、見つからず、み……ミカミカミ?」



 ハクタが老人から聞いたのと同じ単語に反応するかのように、ミカは勢いよく跳ね起きる。

 そして石板から離れるようにハクタの背中を張り手で突き飛ばし、地面に転がる。

 驚いたハクタはミカを見るが、その目は人形のように生気がなく、いつもより金の瞳が濁っているように見えた。


「ちょっと! 人が作業している横で暴れるんじゃないわよ、人形王子!」

「ヤー。だからその名前は……」

「はいはいわかったわよ。それより石板をもっと読んで。どうせ今のミカじゃそんなに動けないでしょうし」


 ハクタはミカの手を握り、逃げないように捕まえておく。

 石板を近付くのを嫌がるようにミカは足を踏ん張っていたが、力は弱く、騎士として鍛えられたハクタからすれば気付かない程度の踏ん張りだ。

 そして石板の続きを読んでいく。上半分が欠けているため、多少読み取れない部分はあった。


「わ、たしは……諦めた。神の、御上、と勘違い……楽園、の……単語ではなかった」

「ミカミカミ……御上みかみかみと捉えて求めたということかしら?」

「これ、以上は……全て……死ん、だ……伝説と噂、本当……駄目だ。この先は欠けている」

「なんか物騒な話ね。よし、これで……」


 精霊術に必要な命令文を図形にして工程を複雑化させたことにより、通常の術よりも大きな所業ができるようになった術式。

 ヤーはさっそくそれを起動させるため、周囲に存在する大量の土の精霊を術式で集めていく。

 地面に描かれた魔方陣のような術式は淡い黄色の光を発し、蜘蛛の糸を広げるように森全体に広がるように光は移動した。


 地面を走る光は森の結界を維持する小瓶に向かい、発見と同時に地中で破壊する。

 魔素は地面の中で拡散し、凝縮された術式の土の精霊は光を濁していく。

 ミカは少しだけ生気を取り戻した目で、息苦しそうに叫ぶ。


「ヤー!! 違う!!」

「な、なによ!?」

「魔素を地中に広げたら、土の精霊が影響を受けて狂う!! レオが情緒不安定になるように、魔素は精霊に悪影響なんだ!」


 ヤーは思い出す。ミカは小瓶を掘り出して、手の中で破壊していたのを。

 そして魔素について説明した際も、確かにミカは魔素は高濃度の精霊に近いもので、人間にも悪影響だと。

 また聖獣のレオがミカの内部にて気を失うほどの影響を受け、情緒不安定になるということも。


 焦りすぎて失敗したと気付いた時には遅かった。結界を構成する全ての小瓶は精霊術で一斉に破壊してしまった。

 数はおよそ十二個。少ない数ではない。そして詰め込まれていた魔素は地中に広がった。


 地面を波打ち、地割れを引き起こすような揺れがヤー達を襲った。




 足が崩れて立てなくなるほどの揺れは分単位で続いた。

 ハクタは膝立ちのままヤーとミカの様子を気にかける。ミカは地面の上に倒れている。

 尻餅をついたヤーは今起きたことが受け入れられずに放心している。地震など一年に一回あるかないかだ。


 ユルザック王国では滅多に地震は起こらない。たとえ小瓶の水が揺れる程度でも家の中から人が飛び出すほど慣れていない。

 しかし今しがた起きた地震は棚が倒れてもおかしくないほどの縦揺れで、さすがのハクタも動揺していた。


 これ以上揺れがないのを確認してから、地面に寝ているミカの体を持ち上げて背負い始める。また気絶したようで規則的な呼吸を続けている。

 そして片手をヤーに伸ばして立ち上がらせようとしたが、ヤーは顔を青く染めていた。この一ヶ月の間で見せたことのない自信を失った表情を浮かべている。

 年相応の少女が抱く不安そうな表情は、ハクタにそういえばまだ十五だったかと再認識させるには充分だった。


 震える手でハクタの手を掴んだヤーは座り込んだままだ。恐怖で足に上手く力が入らないのだ。

 視線は足元にある精霊術を使うために書いた術式に向いており、役目を終えたそれはただ地面に描かれた文字に等しい。


「あた、しの……せい?」


 怒られることを怯えるような様子で、だけれどどこか責めてほしそうな目でハクタに尋ねるヤー。

 力が入っていないので背中からずれ落ちそうになるミカを片手で抱え直しながら、ハクタは掴んだヤーの手を一度離す。

 そして荒々しく濃い茶色の髪を掻きまわすように撫でる。いきなりの子ども扱いにヤーは顔を真っ赤に上気させて手を振り払う。


「ば、馬鹿にするなー!!」

「それだけの元気があれば大丈夫だ。失敗くらい誰だってやる。気にすんな」

「……ありがと」

「どういたしまして。それじゃあ村の様子見に行くぞ。ミカも不安定のようだしな」


 冷静な態度でハクタはヤーがついてくることを確認しつつ、森を抜けようと歩を進める。

 その際に後ろから小さく蛙の声が聞こえて、振り向いたがどこにも生き物はいない。気配すらもだ。

 聞き間違えかと思い、あまりヤーを不安にさせても可哀想なので告げずに進み始める。それが最年長の自分にできる最善だと考えたからだ。


 そうやって一人抱え込むことが間違いだとハクタは気付きもしなかった。



 森を抜けてヘタ村に着いた時、村人達は怯えた表情で戸惑っていた。だが不思議とある一か所に集まっていた。

 まるでそこが避難場所とでも言わんばかりに、宿屋の女主人やマリ、農夫達も鍬や手拭いを持ったまま集合していた。

 マリは森から出てきたハクタ達を見て手を振りながら遠くまで響くような明るい声をかけてきた。


「お客さーん、大丈夫でしたかー?」

「あんりゃあ、お前さん方森の中にいたんかい? 神様の怒りに触れちまったか?」

「じーさん、んな古い話を持ちだすんじゃねぇべさ。大体この村さ守ってんのは水霊様だべ?」

「んだんだ。今回もここが無事なのはおら達が祠にお供え物をしたからだぁ」


 村人達はそう言って村で信仰している水の精霊の祠がある方向へ両手を揃えて、二回お辞儀する。

 ヤーは水霊様とはまた古い呼び方を、と田舎の慣習を守る文化に感心していた。精霊の霊を取って属性の一文字を付け加える、昔に用いた精霊の呼称である。

 土の精霊なら土霊、火の精霊なら火霊といったように省略して民衆にも使いやすくした俗称ともいう。しかし今は学問の普及によりあまり耳にしない。


 村人達が集まっていた場所は森の傍、ミカが小瓶を壊した一定距離の場所である。そこだけは何事もなかったように穏やかである。

 そこを境に森の外側になるほど木が倒れていたり、枝が落ちていたりなど散々たる状態であった。

 これにより先程の地震はやはり土の精霊が魔素によって狂ったことがわかり、ヤーは村人達の視線から逃れるようにハクタの背中に隠れる。


 ハクタの背中では相変わらずミカが瞼を閉じて眠り続けている。力なく垂れ下がった腕はハクタが体のずれを直すたびに揺れている。

 その腕をブランコ代わりに手の指にくっついている蛙が一匹、ヤーの視界に入る。そしてあり得ない物が視えてしまう。

 ヤーは叩き潰す勢いでミカの手から蛙を振り払うための手刀をかぶり振る。その前に蛙はミカの手から離れて村人達が集まっている方へ飛び跳ねる。


 村人達が蛙を見つけた瞬間、それは溶け広がるように形を変えて人間の姿を現す。

 銀髪の美しい青年は白い手袋をはめた右手でマリの左手を取り、手の甲に恭しく口づけを。

 マリは顔を真っ赤にしてしまい、女主人は若い者同士の恋事情かと興奮し、村の中でも青年と呼べる男数人がいきなり現れた不審者に敵意の視線を送る。


「どどどどどどど、曇天の貴公子様!?」


 上手く回らない口をなんとか動かしてマリは美しい青年のことを曇天の貴公子と呼ぶ。

 その名前はマリがかけおちとして名家カルディナを飛び出す原因となった、怪しい人物のものだ。

 ヤーは金切り声にも構わずに、マリに向かって大声で注意を呼びかける。


「離れて!! そいつは人間でも妖精でもない、化け物よ!!」


 視える才能を持つヤーは蛙や青年の姿の時でも、周囲を漂う魔素に警戒を抱く。

 そしてマリに口づけをした瞬間、青年の周囲に存在していた魔素が活発的に動き出し、マリの体内に吸収されたのを視認した。




「え?」




 マリは自分が行った動きに動揺した。操り糸で無理矢理動かされているような錯覚。

 細い白魚のような指は村に来て宿屋の手伝いをし始めてけら少し荒れたが、それでも同年代の少女に比べたら繊細で美しい手だった。

 その手でミカを背負っているハクタの首を絞めていた。両手をぎこちなく動かしながらも、親指は正確に気道の上を押さえつけている。


 ハクタは目を見開いて息を詰まらせる。抵抗しようとしたが、両手を使ってミカを背負っているため、体を揺らしてもがくしかない。

 宿屋の女主人はパニックになった村人の中でも少し冷静だったらしく、まだ若い男達にマリの指を解いてと金切り声を上げる。

 マリ自身も涙目で助けてという視線を村人に向ける。三人の男がそれぞれ、左腕、右腕、首を絞めている指、という分担でハクタからマリを引き離そうと試みる。


 しかし少女の細腕からは予想もつかない力が働いているのか、男三人がかりでもびくともしない。

 ハクタは舌打ちしつつ、顔を息苦しさで歪めた。そしてヤーに視線を送る。背中にいるミカを守れ、と。

 すぐに視線の意味を理解したヤーはハクタの背中からミカを降ろそうと近付く。しかし彼女が到着する前に白い手袋が横からミカを抱き上げた。


 両手は自由になったものの、明らかにヤーではない気配がミカに触れたのを感じ、異質な気配に向かってきつい眦を向ける。

 曇天の貴公子と呼ばれていた青年が優雅な仕草でミカを担いでいた。まるで荷袋を肩に背負うような担ぎ方だ。

 それでも下劣さは感じない姿勢だった。ヤーはそれが逆に恐ろしかった。


「て、めぇ、ぐっ……」

「え、え、えええ!? なななんで!? なんで腕が勝手に!? は、ハクタさん、ど、どうしよう」

「ぬぐぐぐっ、こりゃあとんでもない力だべ。爺さん達も手伝ってくんろ!!」


 ハクタとマリを中心に村人が集まっていくのとは反対に、ミカを抱えた曇天の貴公子は離れていく。

 その進路を遮るようにヤーは立ち塞ぐ。得体のしれない人の形をした化け物が目の前にいる、ヤーにはそう視えた。

 青年の周囲を取り巻く魔素は淀んだ光をもって、羽虫のような、霞のような、不定の動きで漂う。


 光がミカに触れるたびに、ミカの手足や体は震えるが起きる気配はない。

 おそらく内部で聖獣のレオが情緒不安定になって暴れており、ミカが必死にそれを抑え込んでいるのだろう。

 そのため人形のように身動き一つできなくなる。ヤーは人形王子というあだ名の本当の意味を知り、どうすればいいのか考えてしまう。


 魂の中に二つの意識。主導権をお互いに奪い合っているような状態。

 もしも魂に干渉できる精霊術があればと思うが、それは禁忌でもあり、干渉してどうするかという目的が不明瞭なままではただの愚行だ。

 あとはミカかレオの片方が意識を消失、つまり無、になれば。争う必要はない。


 だがその思考に辿り着いた時、ヤーは選択を迫られる。ミカかレオか。

 精霊術師としては獣憑きの中でも太陽の聖獣であるレオの方が研究対象として興味がある。

 しかし今を生きているのはミカだ。五年も人形のように動けなくなっても、それでも足掻いてきた少年。


 宿屋の食堂でわずかに見せた笑顔は、どちらの笑顔だったのだろうか。

 ヤーは頭ではなく心臓の辺りが痛む錯覚を無視して、気を取り直す。どちらにしろ、まずはミカを取り戻さなくてはいけない。

 人差し指の先に青色の光、水の精霊を凝縮させ、空中に文字を描いていく。精霊術に必要な命令式。


 その命令文を、ヤーが使える唯一の攻撃手段を、曇天の貴公子は片手で握り潰す。


 空中に描かれた文字は胡散霧消して空気の中に溶けるように光を消していく。

 ヤーにはさらに細かく視えており、曇天の貴公子が周囲に漂う魔素を使って凝縮された精霊に干渉、不安定になった水の精霊は乱れて消えた。

 しかもただ消失したわけではない。途中まで描かれた命令式をかき乱した影響で半ば実行してしまい、空中に発生して弾けた水滴がヤーの小さな体を吹っ飛ばした。


 ハクタには文字が霧散した直後にヤーが抵抗もできずに飛ばされ、木の幹に体をぶつけたようにしか見えなかった。

 多くの村人もハクタと同じようにしか理解できず、宿屋の女主人はわずかに視えた精霊の異様な動きに首を傾げた。

 もう躊躇えないハクタは剣でマリの腕を斬ろうとした。しかし涙目で怯えている少女の顔を見て、腕が動かなくなる。


 ハクタは剣を多数ある流派を束ね、習得した老人に教わった。老人がハクタに教えたのは、背中で守る剣。

 基本の型として、剣の柄を両手で握り頭上高く振り上げる、上段構え。相手に脇腹や心臓をさらけ出す姿だが、遠心力と重力を持って鉄の刃を振り下ろす、攻撃的な剣だ。

 守るべき相手を背中に、敵を真正面に、自分の体を盾に、迷わず一瞬で相手を屠ることを前提にした剣だ。


 老人には他にも弟子がいて、ハクタと同い年の男が学んだのは確実に相手を無力化させる剣。

 心臓や頭を狙うのではなく、足首や手首といった動きの支点となる部分を切り落とすのを目的とした剣で、相手よりも素早く動く前提が必要だ。

 ハクタの剣術は力であり、その男の剣は速だった。老人はそうやって相手に相応しい剣を教えていた。


 そして老人はハクタに忠告していた。ハクタの剣術は迷いなく振り下ろす剣であり、迷っても止められない。

 だから決して刃を向ける相手を間違ってはいけない。間違えた途端、二度と剣を握れなくなると脅すほどだ。


 ハクタはその教えを胸に剣術を磨いた。だからこそ鞘から剣を抜かずに思い留まる。

 しかしそれは曇天の貴公子が村人達の視界から消えるには充分な時間で、ハクタは護衛として大きな失態を犯してしまった。

 黒い雲から雨が降り始め、村人達を濡らしていく。その頃にようやくマリは糸が切れたようにハクタの首から手を離すことができ、地面の上に座り込んでしまう。


 守るべきミカは素性の知れない男に連れ去られ、ハクタは悔しさで歯を強く食いしばり、唇の端から血を垂らした。

 それもすぐに激しい雨に流されてしまい、消えていく。村人達はとりあえず宿屋を避難所として集まろうということになり、ヤーも村人達の助けによって運ばれていく。

 ヘタ村の今後を暗示するような空模様は、ハクタの心中に重くのしかかった。





 レオ、俺さ、よくわからないけれど……寂しいの?

 死んだことが辛いとか、生前後悔を残したままとか、そうじゃないんだろう。

 だってもしそうなら今でも吼え続ける理由がないからさ。


 それに意識の中でレオの姿が見えるようになったけれどさ、一度も顔を見た覚えがないと思ったんだ。目だけは少しだけ覗けたけど。

 金色の太陽みたいな体、勇ましい獅子の姿。顔はいつもその毛皮と腕で隠しているからさ。

 なのに声だけは強く響いて、俺の意識は削られていく気がするんだ。多分、このままいけば俺は消えると思う。


 五年耐えてきたけれど、もう限界かもしれない。でもレオ、俺は知りたいんだ。

 レオの顔とか、本心とか、なんでもいい。教えて、俺にもっとレオのことをさ。

 せめて俺が消える前に、レオが一人ぼっちにならないようにさ。


 ――この思いもレオの咆哮に消されてしまうけれど、届いてほしいと願うんだ。





 森の中にある大樹の洞にミカの体を安置させ、濡れた髪を掻きあげる曇天の貴公子。

 人形のように動かないのは好都合であり、彼はほくそ笑む。そして意味はないと知りつつ、自己紹介をする。


「私はフロッグと申します、人形王子様」


 ヤーがそう呼んでいたのを聞き、嫌味も込めてフロッグと名乗った青年は笑顔で告げた。


「用件は手短な方がお好みでしょう。私の目的は一つ、ミカミカミについてです」


 ミカの肩が大きく震えるが、すぐに元の動かない状態に戻る。

 金色の瞳が光を宿さないまま急速に濁っていく。今にも暴れ出しそうな危うさが宿っていた。

 内部ではレオの意識が激しく揺らぎ、それに負けないようにミカは意識を保つ。


 またこの単語かとミカはここ最近何度も耳にした単語を怪しむ。

 意味があるようには聞こえない単純な文字の羅列に、レオは何故か動揺する。

 それに抵抗すればするほど体は動かなくなる。本当は今でも走り出してハクタ達がいる場所に向かいたいのに。


「私は知っているんですよ、王子……いえ、太陽の聖獣レオンハルト・サニー様」


 男は蛙のように目を色々な方向に動かして、興奮した様子でミカに迫る。

 頬を紅潮させた上に息も荒く、気持ち悪さで顔を顰めたくなるほどの表情。

 美しかった顔を歪ませて、まるで蛙が舌を伸ばして虫を捕食しそうな顔つきは、人間とは思えなかった。




「貴方が月の聖獣であるヴォルフ・ユエリャン様と共にミカミカミを追い求め、死んだことを!!!」




 レオの咆哮が止む。


 心臓を刺されて氷漬けされたように、隠していた顔を上げて固まってしまう。

 絶望の底で涙も枯れ果てたような、痛ましくて締め付けられる表情が、ミカが初めて見たレオの顔だ。

 寂しいのではなく、悲しいのではなく、辛かったのではなく、レオンハルト・サニーはただ絶望していたのだ。


 ようやくミカはそのことに気付けた。同時になにもできないと悟る。

 寂しかったら傍にいてやれる、悲しかったら分かち合う、辛かったら支えてやる、ただし絶望は自らが乗り越えるしかない。

 ミカはあまりにも無力だった。たった十五年、しかも約五年は人形のようにしか生きられなかった。


 千年以上を生きた聖獣の絶望に、ミカすらも押し潰されそうになった。

 だけれどミカは大地を踏みしめる獣のように両手と両足を使って立ち上がる。

 レオは絶望のあまり意識をそぎ落とすような咆哮を止めている。危機かもしれないが、同時に好機でもある。


 なんのためにハクタがその身を挺して人形のような自分を守ってくれたのだろうか。

 なんのために兄であるフィル王子が自分を守るように手を尽くしたのか。

 なんのためにヤーが自分を獣憑きであると教えてくれたのだろうか。


 少なくとも、意識の戦いで絶望して消えることではない。


 フロッグは気付かない。濁っていたはずのミカの目に光が戻りつつある事実を。

 激しい雨音に聞き惚れて、ようやく目的が叶うと浮かれているため、フロッグの視界にミカは入らない。

 レオの目の色は暁のように赤い橙色、しかしミカの目は髪と同じように天上で輝く太陽の如き黄金色。


 人形王子であったミカの目は、黄金色の輝きを意思と比例するように強めていった。

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